第135話
数日間、ヤヨイさんから逃げるような生活が続いたけど、全体的には穏やかな日だったと思う。
ねぼすけなクーを指でとんとんと叩いて起こしてやると、肩に乗せる。
最近餌が変わったせいで、クーはぐっすり眠るようになった。
餌屋さんが言うには、体力強化の餌を与えるとやけに元気になって、
その分眠りが深くなることがあるらしいから、あんまり心配はしていない。
朝のこんなやりとりも日常となりつつあった。
「ラン。支度できたの?」
「うん。今日はオオノの家に行こうと思う」
「そうね、そろそろいいと思うわ」
マイカちゃんの隣に立つと、首にかけたゴーグルをぐいっと引き寄せられて
かなり強引に唇を重ねられた。
するのはいいんだけど、もうちょっと優しくして欲しいなぁ……。
「じゃ、行くわよ」
私達は宿を出ると、辺りを警戒しながら歩く。
今日ばかりはヤヨイさんに遭遇するわけにはいかないからね。
道すがら、私はささやかな要望をマイカちゃんに伝えることにした。
「あのさ」
「何かしら」
「キス、するのはいいんだけど、ぐいってしなくてもよくない?」
「ランの背が高いのが悪いのよ」
「そうかなぁ……」
「っていうか、強引にされるのが嫌なら自分からすればいいじゃない」
「朝からそういうことする気分になれないから私は別にしたくないよ」
「……」
「いった!!」
マイカちゃんに思い切り足を踏まれて絶叫してしまった。
周囲から奇異の目で見られながら慌てて自分の口を押さえる。
オオノ達の家はこの辺だ。
きょろきょろと辺りを見渡していると、水瓶をかかえて家に入ろうとしてる
オオノを見つけることができた。
「オオノ!」
「おぉ、来たか。入ってくれ」
そうして家に招かれると、中にはマトの姿がなかった。いや、いた。
ベッドの上で布団に包まってこちらに背を向けていた。
私達が来たことに気付くと、顔だけこちらに向けて、「よう」とだけ言って
また壁の方を向いてしまった。
マトにしては随分と無愛想だけど、オオノが気にしている様子はない。
椅子に座るよう促される。
オオノは私達を座らせてから、テーブルを挟んだ向かいに腰掛けた。
「この間は色々と悪かったな」
「いいよ。それより体調はどう?」
「落ち着いたよ、もう仕事に復帰してもいいくらいに回復してる。食欲もあるし」
「性欲もな」
「はい?」
「なんでもない」
マトはそっぽ向いたままベッドに潜った。
なんか意味深に感じるからよくないよ、そういうの。
「ごめん、昨日ちょっと意地悪したからマトのやつ機嫌悪いんだ」
「そ、そうなんだ」
「いじわるって何をしたの?」
「マイカちゃん、ちょっと静かにしようね」
「どうしてよ。いじわるはいけないわよ」
「えぇと……」
「マイカちゃん、オオノも困ってるしマトも真っ赤になってるだろうからやめようね」
私は強引に話題を逸らして、オオノが言っていたルーズランドに関する
重要な情報とやらを聞き出すことにした。
だってこのままだとマトが茹で上がって死んじゃうかもだし。
「俺はルーズランドの出身なんだ」
「……そうなんだ」
「あんまり驚いていなさそうだな」
「ここに来るまでに色々考えてたからね。重要な情報を外の人間が知ってるとも考えにくかったし」
「それもそうか。俺があそこから出た理由については割愛するけど、赤の柱の麓に
ルーズランド唯一の集落がある。そこに安全に入る為には合言葉が必要になるんだ」
「そうだったんだ……」
「基本的によそ者を嫌う土地だからな。こことは大違いさ。で、その合言葉なんだけど」
「うん」
「何かを聞かれたらぺって言え。それでいい」
「……え?」
聞き間違いかな。いま、ぺって聞こえた気がするんだけど。
ぺって、あのぺ?
いやどのぺだよ。私はぺについて何も知らないよ。
「ぺって言った?」
「あぁ。ぺ、だ」
「オオノ、あんまりふざけてるとまた鳩尾殴るわよ」
「俺はふざけてないぞ!?」
オオノは本を落として、咄嗟にお腹を抑えた。
よっぽど痛かったんだろうな、この間の一撃。
「まぁいいや。それでルーズランドの集落に入れてもらえるんだね?」
「あぁ。ただ、あんまりいいものを持っていかない方がいいぞ」
「いいものって、金目のものとか?」
「そんなものに興味がある奴はいねぇよ。金目のものよりも便利なものだな。
まぁ、ちゃんと合言葉を言えればそのリスクも少ないだろうけど」
彼は意味深にそう言うと、少し暗い顔をした。
もしかすると、昔を思い出しているのかもしれない。
少し引っかかる言い方だったけど、それを指摘したのは私ではなくマイカちゃんだった。
「合言葉を言えればリスクがないってどういうことよ。まるで、合言葉が無くても
集落に入ることはできるみたいじゃない」
「その通りだ。合言葉なんて無くても入れる。合言葉はあくまで、誰の紹介で
集落を訪ねたかを証明するものにしかならないんだ。
まともに答えられないような縁もゆかりも無い人間は手酷い歓迎を受けるってこと」
「……聞いてはいたけど、本当に物騒なところなんだね」
「当たり前だろ。それでも行くのか?」
「もちろん、行かないって選択肢は無いよ」
オオノは私を試すように問い掛けたけど、これに関してはこっちも譲るつもりはない。
睨み合うように視線を交錯させていると、少し間を置いてから、
根負けしたようにオオノが笑った。
笑った顔、初めて見たな。
その笑みはどこまでも中性的で、否が応でもヤヨイさんを連想させた。