女神は、神の娘を招かない
人の王がいます都は、白亜に輝く。
白土の煉瓦や大理石、それが足りねば白の塗料と、変質的なまでに白をもって構成された建築物の群れは、感嘆するよりも、いっそ馬鹿馬鹿しく見える。
それは、荒々しくも生命の煌めきが溢れる彼女の領域とは真逆、精緻な箱庭の空漠を、思い浮かべずにいられないせいなのか。
祭日に相応しい、天神の祝福を受けたかのような蒼穹に、ぽつりと、穿つように影が浮かぶ。
吹きさらしの風に、自慢の黒髪をなびかせ、彼女はお綺麗でつまらない景色を見下ろす。
もし、王都の人間が空を飛んでいたら、彼女の有様に目を剥いたことだろう。
波打つ黒髪は、星を散らしたように艶めき、夜闇よりもなお深い黒瞳は、極上の宝石さえ足元に及ばぬ輝きを放つ。
円らな瞳はどこかあどけなくも、ぽってりとした唇や豊満な肢体は、少女と言って差し支えない年頃の彼女に、女の色香を纏わせていた。
そして、何より彼女を彼女たらしめているのが、その小麦色の肌に刻まれた極彩色の刺青と、布地よりも縫い付けられた金属片の主張が激しい衣装。
王都の人間には、場末の娼婦の方がまだ慎まし気と認識される装束は、彼女の双丘と腰回り以外の曲線を、惜しげもなく晒している。
また、主に銀細工で作られた金属片は、彼女の民からの献上品であり、彼女が身動きする度に、その存在を騒々しく周囲に伝えるのであった。
ただ、いかに奔放な風体であろうとも、彼女の身に一片の穢れもないことは、跨っている乗騎が証明している。
真っ直ぐ鋭い一本角を有した白馬は、乙女以外に背を許さない事でその名が知れ渡る一角獣。
優美な姿とは裏腹に勇猛な獣は、天空であろうと戦場であろうと、彼女が望むままに駆けてゆく。
彼女が腰に帯びた双剣は、壮麗なだけの鈍らではない。
彼女も、彼女の乗騎も、虚空に佇む姿には、魅入られずにはいられない何かがある。
けれどその何かは、彼女等にそぐわぬ白の都に在っては、異形に成り代わる光輝だ。
ある種の滑稽さを自覚している彼女は、やや鼻に皺を寄せて眼下の人の群れを眺め続ける。
好きなものではない。
嫉妬など、湧き上がろうにもない。
ただ、観察が必要だと判断したから、年に一度の祭りを謳歌する都の様子に目を向けているだけだ。
花弁を散らして、歌い、踊り。
この日のために用意された料理を食らい、酒を飲み干す。
祭り特有の非日常の中で、人々は、存分に生きる歓びに浸る。
きっと、無数の人間達が浮かべる表情に、彼女は満足するべきなのだろう。
それが、彼女の民が作り上げた光景であったのであれば、彼女も素直に喜べるのだから。
だが、奇妙な不快感が彼女から離れないのは、歓喜の花の肥しとなった過去が、どうしても脳裏に焼き付いているせいだ。
損なわれた大海の青を、未だに惜しまずにはいられないせいだ。
致命的である瑕疵が無ければ、彼女とて手にする事に苦労したと分かっていても、彼の疵を疵として彼女が気に入っていても、それとこれとは別なのである。
ふっと、円らな黒瞳が、太陽とは真逆の方向へと向けられた。
自覚は無くとも待ち焦がれていたものの到来に、紅をひかずとも鮮やかな唇が、彼女の意識の外で弧を描く。
きちんと彼女を追いかけてきたことに対する充足は、傲岸な性情である彼女の知覚範囲から外れていた。
軽く頸筋を叩いてやれば、駆けるのが楽しみで仕方がないとばかりに、彼女の乗騎が嘶きを上げる。
一角獣が自慢の角を差し向けたのは、王都の中心。
彼女の座所に比べれば、あまりにも卑小でなんとも詫びしい、人の王の塒だ。
◆◆◆
王都の北、神峰ペレ・ネレの女神は放埓だ。
多くの神々が天界へと去っていったこの世界における、異端の女神。
北方の蛮族から選んだ巫を憑坐に、現人神として君臨し続ける、永遠の少女神。
気紛れで、至高神の言葉にも耳を貸さなかった女神は、だから人の言葉も一顧だにせず、奔放で残酷だ。
見事な黒髪を翻し、少女の姿の女神は、長机の上にどかりと腰を下ろした。
どこでも変わらず晒されたままの素足は、彼女の無頓着さを反映して、土埃に汚れている。
蛮族の女神らしく、神聖さが欠片もない衣装や、未開の民当然の振る舞いには、神への崇敬など奉られるべくもない。
椅子に座っての使用が前提である長机の脚は、腰掛けた彼女の足先が床に届かないくらいには高かった。
「アイシャ」
溜息交じりに低い声が口にした呼称は、今の彼女の名前で、――彼女が今憑坐にしている巫に贈られた名だ。
所在なくぶらつかせた彼女の足を、節くれ立った手が柔らかく持ち上げる。
彼女の民には作り出せない、目の細かな薄手の布が、足の汚れを丁寧に拭っていく。
汚れを落とす感覚は心地良いのだが、なんとなく手元が寂しい気がして、彼女は、足元に跪いた頭から流れる金色の髪を、鷲掴みした。
同じ色でも、黄金よりよほど手触りの良い髪は、彼女が弄びやすいよう、飾り紐を用いて綺麗な三つ編みにされている。
髪の持ち主も慣れたもので、彼女が自分の髪を手慰みに使おうとも、汚れを拭う手が止まることはない。
「――あの」
困惑しきった、若い女――彼女の巫と同年代の娘の声が、彼女の耳に滑り込む。
「そんなことは、いけないと思います」
聞き覚えのない娘の声が紡ぎだす言葉の連なりが、己への諫言であると、彼女は認識していなかった。
彼女は女神。
人が道端の虫の言葉を聞かぬように、人に非ざるものが、興味もない人の言葉に耳を傾ける道理はない。
そも、巫によって現世に留まり、肉の身体での制限が掛かれども、勘違いした人の王の軍勢を、彼女が蹴散らすのに支障はないのだ。
それでも、自分を奉じるわけでもない人の王の塒を彼女が訪うのは、ただ必要があると判断してのことだ。
彼女の座所に、いちいちいちいち、わらわらわらわら雪崩れ込まれては、ひたすらに面倒なのである。
人間は、分からせてやったことすら、すぐに忘れる生き物だ。
流石に、神の力が薄れつつあるこの世界に、巫なしで彼女が留まり続けることは叶わない。
巫は、彼女の民からしか選抜できぬ以上、いたずらに彼女の民を減らす恐れがある選択をとるのは、得策ではなかった。
――だからといって、人の王なぞと慣れ合う気など、彼女には皆無だ。
娘の声を右から左と聞き流していた彼女の足元から、金色の髪の持ち主が立ち上がる。
金髪の青年の腰元で、彼女の持ち物とは異なる幅広の長剣が、鮮やかな飾り紐と共に重たげに揺れていた。
王都の人間に多い色彩である、金髪碧眼の青年が身に纏う衣装は、彼女の民のもの。
織り目も縫製も、王都の美意識には当てはまらないが、山脈地帯に求められる機能と、彼女の民が培ってきた刺繍の華やかさを兼ね備えた代物だ。
「ロウ」
彼女の座所からは望めない、大海の青が見たくなり、彼女は金色の三つ編みを引っ張った。
彼女の手の動きにひかれ、男らしく精悍な面が、彼女の顔に寄せられる。
ロウと呼んだ青年の顔を覆う眼帯が邪魔で、彼女は黒いだけのそれを引き千切る様にして取り払った。
周囲の人間達の息をのむ音は、彼女の意識に入ってこない。
――右目を潰し、頬骨にまで食い込んだ傷跡。
左目が無事なだけに凄惨さを増す殺意の痕跡を、彼女は無遠慮に撫でまわす。
綺麗に残った左目の青と同じく、潰れた右目の残骸も彼女は気に入っていたが、やはり惜しいものは惜しい。
たぶん、残った左目だけよりも、双眸で揃った青を覗き込む方が、もっと気分が良かっただろう。
「――あなたもっ!!」
焦れた様に、彼女にガン無視されていた声が叫んだ。
幼い義憤と、思い通りにならない癇癪が混じった、むやみに耳の奥に刺さってくる怒鳴り声。
「奴隷みたいに扱われて、悔しくはないのっ?!
――王子様だったのでしょうっ!!」
関心がなかった囀りのせいで、大海の青が凍り付き、彼女はむっとした。
それから、彼女のお気に入りが、彼女以外に向けられたから、更に面白くなくなる。
ようやく彼女が視界にいれた娘は、記憶を浚っても、やっぱり覚えがない。
黒目黒髪は、彼女に――彼女の巫に似ていなくもないが、象牙色の肌は、彼女の民との血の違いを証している。
人の王と同等の仕立ての衣装を――ドレス、といったか――を身に着けているのは、おかしい、と判断するべきか。
彼女に、人の衣服を判別することの必要性は乏しかったが、観察を続ければ、なんとなくでも基準が形成されてくる。
人の支配層から外れた人種が、支配層のための衣装を纏うことに、違和感を覚える程度には。
「なにものだ?」
彼女がロウと名付けた青年が、低く唸る。
かつては、王となるべき少年だった。
けれども今は、捨てられたところを彼女が拾った、彼女のものだ。
――神の娘に惑いて、大いに国を乱す。
この世界を去った、いけ好かない神の予言とやらで、彼女が気に入った大海の青は、人の国の不要物と堕した。
生きることすら恥と断じた人の王の手で、大海の青を損なわせたのは、彼女にしては珍しく悔やまれた過去だ。
だがしかし、過去は過去。
ロウは、すでに彼女の所有物である。
ロウが王の子であった事実は、無意味と化して久しい。
冬山の冷気が生温く感じるロウの誰何に、娘はぎゅっと眉を寄せた。
「女神さまが、私をこの世界に招いたのでしょう?」
「はぁ?」
予想外にも程がある娘の戯言に、彼女の口からやや間の抜けた声が漏れた。
大海の青が無言で問うてくるが、知らないものは知らない。
知らない娘を招く必要性など、彼女にはない。
「――我が?
お前を?
どこから??」
呆れ返った彼女の物言いに、娘は愕然とする。
都合の悪い事を彼女のせいにしたがる辺りは、人の王とそっくりだ。
少し前にあった――人間はとっくに代替わりしている――事の繰り返しに、彼女はうんざりして、腰掛けていた長机から飛び降りる。
「お待ちくださいっ!」
今頃になって声を出した人の王に、彼女は顔だけを向けた。
「我は、そこの娘を招きなどしない。
――人のことは、人で決めよ」
そのまま帰ろうと、彼女はロウの髪をひき、――言い忘れがあったと、振り返る。
自らの言葉が巻き起こす波紋に、彼女が関心を寄せることはない。
もはや世界にただ一柱、最後の現人神は、気紛れで残酷だ。
「アイシャが十八になれば、巫は代替わりだ。
アイシャの身体でこの場に来るのは、これが最後だろう」
無垢な少女の顔で、女を振り撒きながら、女神は笑う。
王都の北、神峰ペレ・ネレの女神は、巫をもって現世に留まる。
女神の憑坐たりえるのは、彼女の民である蛮族の中でも、素養を持った、男を知らない成長期の少女に限られた。
幼過ぎても、女として成熟しても、女神の力に耐えられず、男と契って身の内に不純物が紛れれば、神の器として破綻をきたす。
だから彼女は、――かつては奔放で数え切れない恋に身をささげた愛と波乱の女神は、人と在ろうとする限り、永遠の処女神だ。
◆◆◆
「――お前たちにその気がないのなら、我が次の巫を用意するしかなかろうよ」
真円の月の光を浴びて、彼女は、一角獣の背から彼女の民たちを見下ろす。
代替わりしたばかりの稚い顔は、すでに彼女になっていた。
今の彼女の、まだ小さな唇が、三日月を真似る。
変わらず煌めく黒瞳に浮かぶのは、愚か者への嘲笑ではなく、馬鹿な仔犬を愛でる微苦笑だ。
「……なぜ、あの余所者が、貴女様の巫の父となる栄誉を……?」
喘ぐように問うてくる若頭の言葉に、彼女は首を傾げる。
そもそも、巫の素養は、巫からその子に受け継がれることが多い。
けれど、アイシャの前の巫が孕まぬよう、あれやこれやと薬を盛っていた者たちの一人が、この若頭だ。
慣例から、彼女が使い終わった巫を、部族の上層部で共有する事に不快感はないし、可愛い彼女の民に、薬を盛る程やりたくない事を強いるのも、あまり気が進まない。
しかしながら、自分がなりたくなかった巫の父親を栄誉と表現する、若頭の感性を、彼女は理解できなかった。
当然、代替わりを終え、ただの空の器となった巫を下賜されたロウに対し、アイシャを共有するはずだった男たちからの嫉妬が荒れ狂ったことも。
――付け足すなら、決して手に入らない彼らの女神の代用として、使用済みの巫が狂おしいほど求められることすら、彼女の想像の埒外だ。
刹那の愛欲と、それに伴う波乱を神性とする女神は、ただ抗い難い魅了と不破の種子を振り撒くだけ。
転がった種に水をやり、花を咲かせるのは、人の方なのだから。
傲岸な女神は、理解できない事を理解しないままに、彼女が分かったつもりになったことだけに答えをくれてやった。
「綺麗だろう。
あの髪色も、瞳の色も。
気に入った色を身に纏えるなら、気分が良いものだ。
黒も悪くないが、他の色も試してみるのも一興だろう?」
彼女にしてみれば、その程度でしかない。
巫は、結局のところ使い捨てで、彼女の民から献上される衣装と大差ない。
それでも、どうせなら、気に入った色が入っていたら、きっと気分が良いと思っただけ。
人と交わる事の無い女神の御言葉に、若頭は咄嗟に目を伏せる。
彼らの女神は、気紛れで残酷だ。
人の心を無遠慮にかき回すくせに、本当に欲するものを与えてはくれない。
若頭の表情を見て、彼女はしばらく前の事を思い出す。
我が身の破滅と、己の血族への裏切りと知って、なおも彼女を求めた男がいた。
「ああ、お前、我と交わりたいのか?」
ぎょっとした男たちに構わず、彼女は笑う。
幼い顔に、濃厚な色香をけぶらせて。
薄い唇に触れる細い指先すら、どうしようもなく女のものだ。
「となると、まいった、マアサの次が足りなくなる。
イイナ、ネネリで、三年持てばましだからな――」
彼女は、心底困っていた。
何せ、若頭の望みを叶えてやるのはやぶさかでないが、そうすると、若頭ごと今の身体が使えなくなる。
そして、巫の用意がないのは、本当だ。
ここ数代ほど、彼女が使った巫が子を残さず、現時点で使用期限である十八まで使い続けられる巫は、今のマアサぐらいしかいなかった。
使用期間の短さに目を瞑れば、他に巫の候補はいなくもないが、それでは、巫の素養を持つ者が絶えかねない。
ぶつぶつと独り言を呟きながら考え込んでいた彼女は、拳が肉を打つ音に顔を上げた。
見れば、手ひどく殴られたらしい若頭が地面に倒れ込み、他の男たちは彼女に向かって平伏している。
「……御赦し、ください……」
絞り出す謝罪の声は、彼女の民の中でも長老格の男のものだった。
目の前の光景の意味が分からず、彼女は反対側に首を傾ける。
「……すべては、頭の足りぬ獣の無駄吠え、どうか、平にご容赦を……」
彼らの女神は、気紛れで残酷だ。
それでも、神峰ペレ・ネレ周辺に住まう民を守り続けてきたのは、現人神の力と意思だ。
他の神々がこの世界から残らず去ってなお、その神性を削ぎながら、次々と巫を変えながら、たった一柱、人と寄り添うことを選んだ女神。
彼女から与えられる愛に満足できず、波乱を巻き起こすのは、いつだって人の方。
そして彼女は、よく分からないながらも、己の民の謝意をくみ取り、鷹揚に頷いた。
遥か昔に神と人との断裂を思い知り、けれど、彼女は人が愛しいままであったから。
◆◆◆
「いいの?」
聞き慣れた声には、もう以前のような力はない。
傲然たる女神の煌めきは、娘の双眸から消え去った。
「私は、女神じゃない」
「知っているよ、アイシャ」
娘の囁きに、青年は苦笑しながら頷いた。
閨に差し込む月光が、女神から下賜された娘の肢体を浮かび上がらせる。
その小麦色の肌を彩るものは、何もない。
娘のふっくらとした頬を、武骨な手が包み込んだ。
「――君は、ただの娘に産まれ直しただけだ。
だから、これからは一緒に生きよう。
女神のままでは出来なかったことを、共にしていこう」
節くれ立った指が、艶やかな黒髪を撫で、かさついた唇から、互いの吐息が重なる。
そう。
全部、女神とはできなかったこと。
神と人は、ひととき寄り添えても、ずっと一緒にはいられない。
女神が――巫であった娘が愛した、大海の青が柔らかく微笑む。
「共に笑って、泣いて、怒って、支え合って、血を繋げて、育てて――生きることも、老いることも、死ぬことも、全て二人で知っていこう」
夫となった青年の、祈りの様な、誓いの様な台詞に、娘はひどく泣きたくなった。
女神だった娘は、人に産まれ直した。
そうしてこれから女になり、自分の望みを叶えていく。
彼女の女神は、放埓だ。
ほんの少し前、彼女は女神で、女神は彼女だった。
……だから、かつての彼女の望みは、女神の望み。
女神が招いた覚えの無い、娘の姿が彼女の脳裏を過る。
折り重なった偶然をすり抜け、この世界に迷い込んだ、哀れな娘。
女神に招かれなかった、ただの娘。
だって、女神が招いたのは、娘ではなく――。
自覚がないままに、恋い焦がれた男の腕の中で、使われ終えた巫は、静かに瞼を閉じる。
二人で分かち合うこの熱を、彼女から去った女神は知らない。
この先も、知ることなどないのだろう。
――選んでも選ばれない女神の孤独に、女神の代用品の指先は届かない。