これまでとこれから
トンネルを抜けると、そこは雪国……というわけもなく。すぐ右にカーブしているため、正面からは雄大な海が存在感たっぷりにからは視界に飛び込んでくる。先ほどまでと同じ相模湾の海だが、そこに接する海岸線は、日本でも有名な海岸の一つ、由比ガ浜だ。こちらも同じように、何件も海の家が建設中のようで、あちこちに建設資材や足場が組まれているのが見える。
「ああ、由比ガ浜もやっぱり同じですね。海の家の建設ラッシュのようです」
今日は休日のため、作業はまず行われないのだろう、建設途中のバラックがほとんどで、景観としては最悪の部類だと思う。
「そうね。で、夏になったら海水浴客でいっぱいで、海の家は大繁盛すると。そして、貴女はテラスのある海の家で、コーラ飲んでいるの。もちろん、水着よ」
「あえて反応しなかったのに、しつこいですね。最初に私の免許証見せたでしょう? 水着で海を楽しむような年齢じゃありませんよ」
子供のころ、両親がまだ健在だった時期は、よく海に遊びに行っていた。が、大人になってからは仕事中心で、海に遊びにいくことが無かった。若い時分に彼女でもいれば違ったのかもしれないが、今となっては海に行っても何を遊んだらいいのかもはやわからない。
「そう? 残念ね。とってもかわいいと思うのだけど。落ち着いた雰囲気の貴女には、ビキニよりもフリルのついたワンピースが似合いそう」
「落ち着いた雰囲気と、フリルというのが結びつかないのですが」
「お人形さんみたい、ってことよ」
「……すみません、まったく理解できません。ああ、正面の坂を抜けると、左手に稲村ケ崎の公園が見えるはずです。」
くだらない会話だな、と思いつつ。気づいたら由比ガ浜を抜けて、正面に稲村ケ崎の岬が見える位置まで到達していた。岬の丘陵の上り坂を超えるとすぐに下り坂になっていて、先行する彼女の姿が坂を超えて沈み始めた。
「ん、駐輪場はあるの?」
「ないので、エンジンを切って公園の入り口に停めましょう」
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「ああ、なんか見覚えがある景色。テレビか雑誌か、見たことあるかも」
「両方だと思いますよ。鎌倉の観光特集だと、まず外せない場所ですし」
公園は由比ガ浜と七里ガ浜のちょうど中間にあり、間を挟むように小さな岬が突出している箇所にある。私たちは公園にある小高い丘のベンチに腰掛けて、正面に朝焼けに染まる七里ガ浜と江ノ島を見ていた。
「綺麗ね」
何が、とは言わなくてもわかる。稲村ケ崎といえば逆光の夕焼けに映る江の島の写真が有名だが、順光で薄いコントラストの中浮かび上がる海岸線と江ノ島もまた、青を基調とした穏やかな朝を見事に表現している。七里ガ浜には青い海から白い潮となって浜に押し寄せる波の動きもまた美しいと思える。
「寒い時期になれば富士山も一緒に見えますよ」
気温が上がると空気中の塵が増えて、富士山が見えにくくなる。春から秋にかけては、稲村ケ崎からは富士山が見えない日が多い。逆に、気温が下がり空気の透明度が上がると、富士山の姿がはっきりと見えるようになる。秋から早春にかけては、七里ガ浜・江ノ島・富士山の3点の景観が揃うため、写真スポットとしてこの公園に多くの観光客が集まる。
「なら、今年の冬に、また来ようかしら」
「今の時間ぐらいの早朝でしたら、人もまばらでしょうから、おすすめしますよ。ただ、とても寒いので、厚着をしてきてくださいね」
「そうね、今の貴女みたいに、ジャージだけだったら風邪を引くでしょうね」
そういいながら、私を見下ろしながら、クスリと小さく笑う、私の右隣りに座っている彼女。女性に対して、私が、ではなく、相手に見下ろされるというのは、なんだか不思議な気分だ。
「いくらなんでも、その時は上着を着ますよ」
「あら、一緒に来てくれるんだ?」
「……まぁ、電車を乗り継げば、来れなくもありません。この公園は、江ノ電の駅も近いですし」
私の愛車は、今日この後売却される。そうすると、一般道を利用した移動力が激減することとなる。関東地方に住んでいる限り公共交通路が整備されているため、そこまで移動に困ることは少ないだろうが、路線の乗り継ぎや駅から離れた場所へのアクセスには苦戦することになるだろう。
「ねぇ、本当に売っちゃうの?」
「さきほど、貴女も言っていたじゃないですか。きちんと乗れていないと。こんな身体じゃ、とてもじゃないですが乗り続ける自信はないですよ。維持費もかかりますし」
「そうね。でも、今まではバイクがある生活があたりまえで、バイクで移動できることを前提に活動していたんじゃない? 行きたいところに、行けなくなったりするんじゃないかしら。三崎の朝市とか」
三崎の朝市は早朝5時に開始し、7時にはほとんど終了している。最寄りの鉄道駅からも離れている上に、朝5時なんてバスは走っていない。自動車かバイクがなければ、とてもじゃないが行くことは不可能だろう。
「覚悟の上ですよ。しょうがないじゃないですか。こんな身体では、車の運転だって、バイクの運転だってできません。早朝一人で出かけたら怒られるし通報されそうになるし、まったく散々です。戸籍上の年齢と見た目がつりあっていないって、こんなにも不便になるとは思ってもみませんでした」
だから、売るしかないのです。そう吐き出しながら、彼女を見上げる。そして、悲しそうな表情で私を見つめていることに気づいた。
「ああ、すみません。私の身体と経緯に対して感傷的になってしまっただけで、女性を蔑視したつもりではないんです。お気に障ったのでしたら申し訳……」
「違うわ。そうじゃない」
彼女は首をゆっくりと左右に振る。そして、一度立ち上がると、私の正面に向かい合い、そしてしゃがみこんで、私と目線を合わせる。じっと、こちらを、私の目を、見据えている。
「仕方のない、どうしようもない、あきらめの境地よね。今日、貴女と出会ってから、貴女はずっとそんな諦めた表情してる。もちろん、性別が変わって、子供のような姿になって。生活は激変するでしょうし、きっと周囲の人間の対応も変わったでしょう。だから、やるせない気持ちになるでしょうし、納得できない、理解できない」
「……」
「だからって、貴女のこれからはどうなるの? ずっと、前の身体がよかった、前の生活がよかったと言い続けて、自分自身に不満をぶつけながら生き続けるの?」
彼女の眼差しは、どこか悲しそうな、それでいて厳しく追及するような、そんな目で私を捉えて続けている。私は彼女の言葉に対し、まだ、何も言い返せない。
「私は、そんな貴女を見るのが辛い。今までできていたことが出来なくても、貴女は生きているの。これから、その身体で生活しなくてはいけないの。だからこそ――」
「でも、今さら女性として生きていくなんてこと、できませんよ。戸籍だけはしょうがないので変えることにしましたが、生き方を変えるなんて」
そう、私だって、入院中に何度もそれは考えた。医者からははっきりと、男性に戻ることはないと伝えられている。カウンセラーからも、女性として生活を変えることを勧められた。だが、だからといって、私が女性として生きていけるとは思えない。精神的に私はれっきとした男性で、女性に興味があるし、趣味嗜好も一般的な男性とそう変わらないと考えている。
「たとえば、スカートなどの女性用衣服を着用するとか、そういったものは無理ですね。女装している気分にしかなりませんし。精神的に耐えられません」
「服なんて、中性的な服でもいいし、ズボンスタイルの女性だって多いわ。そんなのは問題じゃないの」
「……わかりません。貴女は、何を私に求めようとしているのですか?」
彼女は一度、深く呼吸する。そして両手を私の両肩に置いて、しっかりと私の目を見続ける。
「私は、貴女に、自覚してほしいだけ。今の姿を。魅力的な貴女を。」
今の私の姿を自覚する、それはどういうことだろうか。私はすでに、今の私の状況は把握しているつもりだ。この身体ではできないことが多い。だからこそ、まだ職場に退院の連絡をしていないし、バイクを売却することにしたのだ。これは先ほども伝えているはず。
むむ、と眉をひそめ、考え込んでいると、彼女が一度大きくため息をつくのが目に入った。
「たぶん、貴女は自覚しているつもりなんでしょうけど、違うの。貴女ができなくなったことを自覚するんじゃなくて、貴女が今でも多くのことは実現できるし、新しくその体でできることが増えたことを認識してほしい」
「できること……?」
「例えば、一緒に夏の海で遊ぶとか」
「水着でですか? 嫌ですよ。からかわれるのはもう十分です」
ぎゅぅ、と肩が痛む。彼女が首を横にふりながら、私の肩をより強く掴んでいる。
「ああ、もう。いい? 貴女はかわいいの。とってもかわいいの! からかうとかじゃなくて、みんな貴女の姿が魅力的だから、貴女のことが気になって声をかけることになるって、断言できるわ。……私だって、貴女の姿を最初見たとき、貴女の姿が魅力的だったから、声をかけたのよ」
「……は?」
「倒れたのが貴女じゃなかったら、きっと声をかけなかったでしょうね。だからね。貴女はこれから、女の子としてちゃんと生きてほしい。年齢なんて関係ない。貴女はとても魅力的よ」
彼女の言葉に、私は目を点にさせて、思考が追い付かないでいる。いや、もはや停止かもしれない。彼女が私に伝える意味が、脳で理解することができない。
「ええと、私が、かわいい? ……魅力的、とは?」
「見た目とか、性格とか、いろいろあるけど。少なくとも、今日だけの関係で終わらせたくないって思える程度には。貴女とは、友達でいたいわ」
「それは、その。ありがとうございます。……男性の時でしたら、そんな言葉はいただけなかったのでしょうね」
実際それはとても残念だと思う。こんな綺麗な女性の友人なんて、これまで存在したことがない。せいぜいが、職場の同僚ぐらいだが、職場での付き合い以上になったことはない。まぁ、自分自身、仕事優先で、女性関係を特に意識したことがないのも理由だろう。自分の容姿にそれほど自身は持っていなかったのもある。
「男だった頃の自分をい全て忘れなさい、とまでは言わないわ。でも、新しい自分を初めてもいいじゃない。女の子として生活だって、きっと悪いものじゃないわ。……そうね、私も、協力できると思う」
彼女の目は真剣だ。きっと、本気で私のことを心配して、想ってくれているのだろう。それはわかる。だからといって、私が女性として生きる? 本当にそんなことが可能なのだろうか。入院中、病院から女児用の下着を出された時は徹底的に拒否したぐらいだ。無意識レベルで拒否感が走るので、自分が女性として生きることがどういうことか、しっかりと考えたことはなかった。
「……やっぱり、無理ですよ。女性らしく生きる自分が全く想像できません。衣服とか、言葉遣いとか、生活の違いとか。知らないこと、わからないことばかりです」
「少しずつ変わっていくのでいいと思うの。今までがあるでしょうから、突然変われって言ったって無理があるわ」
少しずつ、でも変わることができるのだろうか。何もわからない、知らない世界に、自分が足を踏み出す。そのこと自体に、まだ忌避感は残る。ただ、私の両親により生まれた以前の身体が無かったこととになりそうで、怖い。
「変わるって、怖いことよね。はじめの一歩をなかなか踏み出せないでしょう。でもね、よく聞いて」
そう言うと、一呼吸置いて。
「今日の貴女の行動の方が、よっぽど怖いわ。今の貴女は、まず危険だってことを自覚することから始めるの」
今週中の完結は難しくなりました……