夜も明けて
三崎朝市会場の奥にある休憩所にはベンチやテーブルが設置してあり、買い物を終えた客や食事目当ての客などがマグロ丼やマグロそばなどを購入し、ベンチに座って食事をしている。味はどれも素晴らしいようで、皆が美味しい美味しいと声を上げながら食べている姿が見える。
そんな中、同じようにベンチに座ってマグロ丼を食べている私の表情といえば、苦悶の表情を浮かべ、目尻には涙まで滲んできているという、とても見せてはいけないような状態となっていた。その原因といえば、目の前にあるマグロ丼にあることは間違いはない。いや、もっと原因を突き詰めると、調子に乗って大好物の山葵を漬けマグロに塗りたくってしまった私が全て悪いのだ。
「ぐむぅ……。どうして、こんなことに」
性別が変わるまで、山葵は大好物だった。刺身や寿司を食べるとき、山葵は醤油に溶かさず、そのまま刺身につけて香と刺激を楽しむのが何よりも好きだった。
今回もいつもの調子で、一口も食べる前から、付属の山葵をつけてしまっていた。それも、すべての量を入れて、混ぜて、という次第だ。当然、一口食べると、強い山葵の爽やかな香りと――強烈で突き抜けるような刺激が口から頭の先まで襲い掛かってきた。いや、刺激が来るのはわかりきっていたのだ。その刺激が、予想以上に強烈すぎて、思わずむせ返ってしまう程に。
「あーおいしかった。ごちそうさまぁ」
悲しい目で丼を見つめている私の横では、彼女が既にマグロ丼を平らげて、空になった容器をゴミ箱に捨てにいくのが見えた。対する私は、なんとかワサビを削ぎ落しながら食べているので、半分近く残っている。
「無理せずに残しちゃいなさいよ。一口食べる度にその表情見せられると、なんだかいじめっ子になった気分になっちゃうじゃない」
「もったいないですよ。それに、最初にむせた時にお茶をくれた人が、いじめっ子に見えるわけないじゃないですか」
「渡してから時間が経てばおなじことよ。それに、そのお茶だってもう空でしょう?」
そうなのだ。お茶でなんとか強い刺激をごまかしながら食べてきたのだが、350mlのお茶の缶は既に空となっていた。正直、お茶無しで残り半分を食べるのはきつい。
「それに、もしかして、もうお腹いっぱいなんじゃないかしら? 明らかに食べる速度が落ちてきたもの」
「……よくわかりますね。お茶を先に飲み切っちゃったからだと思うのですが、満腹感が襲ってきています」
「っていうか、普通にその身体で朝からその丼って、なかなか食べきれないと思う。……私はまだ食べられるわよ? 捨てるのは、せっかく値引いてくれたお店の人にも悪いし。貴女がよければですけど」
「……むぅ。大変申し訳ないですが、よろしいですか?」
自分の食べ残しを、妙齢の女性に押し付けるなんてどうかしてると思う。が、言われた通りもう満腹だし、かといって残りを捨てるのも店の人に申し訳ない。休憩所と店舗が近くて、捨てるところが丸見えになってしまう理由もある。
彼女は、苦笑いのような、仕方のないような表情を見せながら、私の手から丼を受け取る。
「あら、本当に山葵を全部いれてしまったのね。……ん、確かにちょっと刺激的な味かも。でも、これはこれで美味しい」
私の山葵まみれの漬けマグロを一口食た彼女は、余裕そうにその後もぱくぱくと食べていく。その姿に私は内心衝撃を受けていた。それは、私の食べ残しを躊躇なく口にしていたことが一つ。もう一つは、私が死ぬ思いで食べていた物を、彼女は余裕で食べていたことだ。
食べ始める前、彼女は「山葵はあまり得意じゃない」と言って、ほとんど山葵を付けずに食べていたのを私は見ていた。それなのに、山葵が好物の私はノックアウトされ、彼女は余裕でクリアだ。
……そういえば、倒れてからずっと、病院では病院食だった。しばらく薄味が続いていたから、味覚が薄味に慣れてしまい、刺激物に弱くなってしまったのだろうか。もしかしたら、芥子やタバスコにも弱くなったかもしれない。しばらく修行する必要がありそうだ。
そんな調子で私が打ちのめされつつも将来の修行計画を考えいたら、彼女は私の残りも食べきったようで、空になった容器をゴミ箱に捨てていた。
「ふう。さすがに私もお腹いっぱい。ちょっと休むから、お盆を返してきてもらっていい?」
「はい」
上に何ものっていないため、可愛らしい絵柄がよく見えるようになった盆を手に取り、店舗に返却しにいく。私が山葵に苦戦しているところ見られていたのか、返却の際におじさんにからかわれつつ、山葵の量について注意を受けてしまった。
――本来ならあの程度の山葵、余裕なのだが。くやしい。
「おかえり。顔赤いわね。何か言われた?」
「……いえ。」
「まぁいいわ。何考えているのか、なんとなく想像つくし。それより、今日はこれからどうする予定だったの? マグロ丼だけ食べて、家に帰るつもりではないのでしょう?」
空は白み始めているが、まだ7時にもなっていない。バイク屋が開店するのはまだ先だ。
「朝市にはマグロ丼だけ食べに来たつもりでしたよ。そのあとは、国道134号線を北上して、湘南海岸沿いを走ろうかと考えていました。稲村ケ崎まで行って、朝日に映える江ノ島を一緒に楽しむのが計画でした」
「いいわね。日曜日だし、今の時間なら道も空いてるでしょうね。朝日を楽しむにはもう遅すぎるでしょうけど、気持ちよく走れそう。あ、でも、稲村ケ崎って場所、私知らない」
「鎌倉と江ノ島の間ぐらいの場所で、公園があります。江ノ島と七里ガ浜がよく見えるので、デートスポットになっているようですよ」
「あら、じゃあツーリングデートってわけね」
「保護者じゃなかったんですか?」
「そういうノリでもいいじゃない」
結局、『保護者』に押し切られる形で、一緒に稲村ケ崎へと向かうことになった。少し休憩した後、彼女が買う予定だった干物を朝市で購入し、駐輪場へと向かう。その頃にはほとんど朝市も店仕舞という雰囲気で、買い物客もまばら、駐車場や駐輪場からどんどん出庫していくのが見える。
駐輪場には、既に私と彼女の二輪車以外の姿は無かった。彼女の単車のナンバーには東松山と書いてある。埼玉県からわざわざこの朝市まで来たのか、高速を使っても2時間以上はかかるはずだが。
彼女の単車のナンバープレートをじっと見て考え込んでいたのが見えたのか、彼女が苦笑いしながら声をかける。
「昨日から神奈川県内のホテルに泊まってるの。ここまで1時間もかかってないわ。高速道路も使ったし」
「ああ、それならよかった。へとへとの状態で付き合ってもらうことになるのかと」
「一応安全運転を心がけてるから、無理な運転はしないことにしてるの」
二輪の運転は体力を消耗する。特に、大型になればなるほど、体全体と体重を使って車体をコントロールすることになる。大型バイクでツーリングするだけでダイエットに繋がると聞いたこともある。無理に付き合わせて、彼女に迷惑をかけていないのならばよかった。
私は愛車のシートポケットを開けて、ヘルメットを取り出す。風防は顔の正面を覆うが、口元にフレームがない、ジェットタイプのヘルメットだ。今の身体では少しぶかぶかに感じるが、ベルトをしっかりと顎元で絞めればきちんと固定される。
「あら、そのヘルメットについているのは、無線受信器? スマホと接続できる?」
「はい、ナビとか、通話ができるようになってます」
私のヘルメットの左側面には、無線受信ユニットが外付けされていて、スマホ音声をヘルメット内のスピーカーに出力できるようになっている。スマホのナビ音声を走行中に聞けるようにしている。スピーカーにはマイクも接続されているので、走行しながら通話をすることも可能だ。
「私も同じようなシステム、つけてるの。スマホは通話し放題のプランだから、おしゃべりしながら行きましょうか。貴女が声で誘導してくれるなら、私が先行できるし」
「それは構いませんが、安全運転を心がけてるのではなかったのですか? 通話しながら運転するのは、一般的には安全ではないように思えます」
「おしゃべりしながらなら、眠気が襲ってくることはないもの。そのほうが安全だと思うのだけど?」
それなら一眠りしてからのほうがいいのでは、と思ったが、岬のこんなへき地で軽く眠れるような休憩所なんてあるわけない。
「……わかりました。これ、私の電話番号です。非通知でいいですよ」
「ええっと。あ、うん」
スマホを取り出し、私の電話番号を彼女に提示する。なぜか彼女は眼をぱちくりとさせて、一瞬の間を置いてから、自分のスマホを操作し始める。ややあって、私のスマホにコール。画面には電話番号がはっきりと表示されていた。
「はぐれて連絡とれなくなったら困るからね。電話番号教えておくわ。何かあったら電話してね」
そう言うと、彼女はフルフェイスのヘルメットを装着する。黒色のフルフェイス。それに黒色のライダースーツ。体のラインがよく出ていて。――その姿がとてもカッコイイと思えた。
「チェック、チェック。私の声が聞こえる?」
ヘルメットの内側、私の耳元から、彼女の声が聞こえてくる。
「チェック。聞こえます。ノイズも問題なしです」
「よかった。じゃあ、エンジンかけるわね」
彼女は単車に跨ると、キーをひねってエンジンを駆動させる。ブブブ、と重い音と振動が響いてくる。私も愛車に跨ると、キーを差し込んでブレーキを握りながら、始動スイッチを押す。パパパ、と比較すると軽めのエンジン音がして、心地よい振動が私の下半身を通じて伝わってくるのがわかる。
アイドリング状態で5分、エンジンが温まるまで待つ。ヘッドライトの明るさはもう目立たないぐらい、辺りは明るくなってきていた。
「そろそろ交通量も増えてくるころかしら。私の後ろを走ってね。交差点を曲がる前に教えてくれればいいから」
「134号をまっすぐ行くだけですから、まず迷うことはないはずですよ。私としては、車体の性能差で置いて行かれそうなのが心配です」
そう言った瞬間、くすり、と小さな笑い声が耳元のスピーカーから聞こえてくる。嗚呼、自分でも今のは失言だったのがわかる。
「フフ、大丈夫。ちゃんとミラーで貴女を確認しながら走ってあげるから。そんなかわいいこと言うと、置き去りにしてみたくなっちゃうけどね」
「……保護者なんでしょう? 変なイタズラはもう結構ですよ」
はぁ、とため息が聞こえてくる。さらに小さな声で、「ぜんぜんわかってない」とも聞こえてきた。
「……まぁいいわ。そろそろ行きましょう。」
彼女の右手がアクセルを捻るのが見え、彼女の単車が加速音を発しながらゆっくりと駐輪場を後にしていく。私もアクセルを捻って発進し、彼女の車体の後ろに位置する。
――こうして、私たちが出会った三崎を後にし、私と愛車の最後の旅は、彼女と共に行くこととなった。
まだもう少し続きます。
まだ短編の範囲内ですよね……?