朝市と身体と
駐車場から約100メートル程の距離にある、朝市会場へと向かう、彼女と私。向かいから、両手に沢山の魚介類や野菜が入ったビニール袋を持った客が増えてくる。ビニール袋をもった客は、皆こちら側へ歩いていく。良い買い物だったのか、にこにこと笑顔ですれ違い、後方の駐車場へと歩いてゆく。
開場から一時間近く経過している。常連客は皆5時前には到着して買い物を済ませ、既に帰宅モードか、漁場関係者向けの食堂に向かっている時間帯だ。よって、会場に向かっているのは今は私たちの他にはほとんど見えない。流れる川を遡る淡水魚のような気分になってくる。道が広いから狭苦しさは感じないが。
「あら、今日は牡蠣が売っていたのね。ほら、あのお客さん、二皿も買ってる」
彼女の声にちらりと顔を向けると、殻付きの牡蠣が詰まった緑色のカゴを持った男性の姿が見える。牡蠣自体の大きさも十分だ。
「牡蠣、好きなんですか?」
「うん。焼き牡蠣なんか最高ね! 日本酒もあればなおいいわ!」
彼女が牡蠣小屋でじゅうじゅう焼きながら日本酒を飲んでいる姿を想像する。嗚呼、とても似合っていると思う。私も食べたい。
「貴女は? 牡蠣は?」
「大好きですよ。下戸なのでお酒と一緒ではないですが。あのバイクでキャンプ場まで行って、炭火で焼いたこともあります。おいしかったですよ」
「それは、一人で?」
「ソロキャンパーも多いので、気になりませんよ。まぁ、シーズン中は避けてましたけどね。一人なら食べ放題です」
「ふぅん?」
不思議そうな視線で、私を見つめてくる。なんだろう?
「貴女が一人、テントのそばで炭火に網で、牡蠣を焼いて食べているところを想像しちゃった。それも夜、ランタンの明かりの下で」
「残念ですが、今の姿になる前のことなので」
「そうよね。残念だわ。危ないけど、神秘的って思っちゃった」
そうだろうか? 怪しさ満載の気がするだけだが。
「うん。貴女も残念って思ったことが、ちょっとうれしいかも?」
「……?」
「ほら、会場ついたわ。まだ混んでるわね。マグロ丼のお店は奥だから、人混みを突っ切るしかなさそう」
言われた通り、まだ朝市会場には活気が残っている。数件の小屋のような屋台の列には、アジの開きや貝、野菜等が皿に乗っかっているのが見える。空の皿がちらほら見えるので、やはり出遅れているようだ。
目の前にある三浦大根の値段は、一本200円から値引かれて100円になっていた。格安である。持って帰っても食べきれないし、バイクに積むとバランスを崩すだけなので私は買わないが、見ている間にもどんどん売れていく。今にも売り切れそうだ。
「ほら、行くわよ。絶対に手を離さないでね」
ぎゅ、と彼女に少し強めに手を握られると、先導するように屋台列の間を進んでいく。
「そんなに心配しなくても、場所は私も知っていますから。はぐれても合流できますよ」
「貴女ね、まだわかってないのね。いいから、手を離しちゃダメ」
ここまで子ども扱いされるとは思わなかった。心の中では、少し不満を持ちながら、手を引かれて進んでいく。
――が、彼女の心配が正しかったことにすぐに気づくことになった。
「痛、わ、ひぇっ」
以前の自分でなら、簡単に通り抜けられたはずだった。それなのに、彼女に先導されているにもかかわらず、うまく通り抜けられない。
別に彼女が私と歩調を合わせていないからではない。むしろ、ときどき私に振り向いて、ペースを調整しようとしてくれている。それなのに、私は前にいる客に何度も触れそうになる。また、こちらに向かってくる客も、私と何度も触れそうになるし、実際に何度も軽く接触した。
結局、たった50メートル程度の移動なのに、人混みを抜けるのにひどく体力を消耗した気がする。屋台列を抜け、食事用の広場にたどり着いたころには、息も絶え絶えになっていた。
「さっきの自信はなんだったのかしらね。お説教したいところだけど、先にごはん食べましょう」
「……はい。おなか、すきました」
目当てのマグロ丼のお店は目の前だ。青色のペンキで塗装された小さな小屋で、店の前に会計を担当するおじちゃん、店の中には丼を作るおばちゃんがいる。甘辛い特製のしょうゆダレにしっかりと付け込まれたマグロの塊がゴロゴロ入っているマグロ丼は朝市の中でも人気の商品の一つで、わざわざ県外から食べにくる客もいるようだ。一杯700円とマグロ丼としては値段も手ごろだ。
お腹のすき具合も限界だ。早く買いに行きたいところだが、彼女を見ると、何か考えている様子が見えた。
「どうしました? 買いに行きましょう。せっかくなので、奢りますよ。私のほうが年上ですから」
「いや、それは……どう考えても、絵面が悪いっていうかマズすぎるわ。でも、そうね……お金は渡すから、私の分も買ってきてくれない? 私、そこのベンチで待ってるから」
そういうと、財布を取り出し、きっちり小銭で700円を私に渡す。ニィ、となんだか気味の悪い笑みを浮かべながら。
「な、なんです? 何か企んでますか?」
流石に私も狼狽する。これまでの人生の経験からいうと、女性のあのような表情を向けられた時は、だいたい悪いことを考えているときか、からかわれているときだ。
だが、彼女は一言、ナイショ、と答えるだけで、そのまま奥の休憩所のベンチへ向かって行ってしまった。といっても、せいぜいが10メートルぐらいの距離だ。私から彼女が座った位置が見えるし、彼女からも私が見えるだろう。
――つまり、これから何かが私に起こり、彼女はそれを観察するつもりなのだ。
「『はじめてのおつかい』でも見ているつもりなのかな。冗談じゃない」
独り言ちて、TV番組のようなハプニングなんてそうそう起きませんよ、なんて考えながら、マグロ丼の店舗へ向かう。丁度、客が購入したところのようだ。赤い発泡スチロールの器に盛られたマグロ丼が、小さなお盆にのせられて、店の前のおじちゃんから客に渡されていた。
(あの盆、なんで子供向けのかわいいやつなんだろう。昔から不思議なんだよな)
丼の乗ったお盆は、明らかに子供用で、ぞうとかきりんとか、動物の絵がクレヨンタッチで描かれている。初めて買いに来たときは面食らったものだ。おそらく、丼一杯、二杯を乗せるのに丁度いい大きさなのだろう。通路や休憩所だって広くない。あの大きさより大きかったら、持ちながら移動するのに苦労したかもしれない。
――今の身体だったら、あのサイズじゃないと持ち運びにくいな。
そう思いながら、店舗の前のおじちゃんに向かい声をかける。先ほどの客を見送っていたのか、私に対して後ろを向いていた。
「すみません、マグロ丼、まだありますか?」
「うん? あ、あぁ」
こちらに振り向く店舗のおじちゃん。一瞬、探すように視線をぐるりと一周させるが、すぐに私を見つけたようだ。しゃがんで、私と視線の高さを合わせてくれる。
「まだ売ってるよ。けどね、お嬢ちゃん、ひとりでここまで来たのかい?」
その眼からは、気さくな商売人というよりは……何かを探るような、不穏な視線を感じた。