三崎にて
鼻先に潮の匂いを感じる。海が近い。
視界にも、道路の先に海が見える。
三崎に到着したようだ。
目的地は、三崎朝市。毎週日曜日の午前5時から、新鮮な魚介類や地域の野菜等を一般向けに販売している中規模の朝市だ。
現在、午前4時半。開始時刻にはまだ早いが、だいたいいつも時間前にお店が開いて商売を始めている。私もこの朝市によくマグロやアジの開き等を買いに来ていたが、時間通り5時に来ても本当にいい部分はすでに売り切れていることがある。
やはり今日も、すでに朝市は始まっているようだ。あたりには既に買い物袋にどっさりと食材を買い込んだ常連らしき客の姿がちらほらと見える。
臨時の駐車場の横の”いつもの場所”にバイクを停めに行く。既に何台かバイクが留まっているのが見える。
ちょうど着いたばかりだろうか、400ccぐらいの中型バイクの横にライダースーツの女性の姿がみえる。私は、邪魔にならないように、少し離れた左側の位置に愛車を停める。
やっと着いた、と気を抜いたのが悪かった。いつもと同じ感覚で左足を地面に降ろし――地面が想定より遠かったため、愛車の重量と自重を支えることができなかった。
「小型」と免許には書いてあるが、125ccスクーターの重量は100kgを超える。一度横に倒れ始めたら、成人男性ですら支えるのは難しい。よしんば、今の非力で小さな少女の姿ではとても支えきれない。声を上げることもできないまま、愛車の重量がのしかかる。態勢を整えられないまま、私の左脚を地面とサンドイッチにするように、愛車が左側に横倒しになってしまった。
「い、ちち……」
やってしまった、と思いながら、状況を確認するため、自分の身体を見てみる。ハンドルを持ったまま倒れてしまったが、変にねじってはいないようだ。折れてもいない。
腕を痛めてしまっていたら一巻の終わりだ。自分ではもうバイクを起こすことができなくなる。脚は、先に降ろした左足が少し痛む。左脚が愛車に挟まれている。右脚は……無事だ。ただ、シートに跨ったまま倒れたから、思いっきり開脚してしまった。今はまだ痛くないが、あとで股関節が痛むかもしれない。
とりあえず、まずは脱出しよう。倒れるときに金属音はしなかったから、車体にはそんなにダメージはないはずだ。ここで旅を終わりにしたくはない。
「ちょっと、キミ、大丈夫!?」
左脚を抜こうと車体を持ち上げようとしたとき、すぐ近くから女性の声が聞こえてきた。
そういえば、すぐ近くにライダースーツの女性がいた記憶がある。彼女だろうか。すぐに視界に女性の姿が映る。大学生ぐらいだろうか?
「大丈夫です。ご心配かけてすみません。すぐ、戻しますから」
そういいながら、車体を持ち上げようとする。
……持ち上がらない。ほんの少しも、持ち上がらない。
少しでも車体が浮けば、左足を抜くことができるのに。
「全然大丈夫じゃないじゃない。痛くない? 今、こっちから持ち上げてあげるから、それで脚を抜ける?」
女性は私の愛車のハンドルと後部に手をかけると、ぐっと力をかけて持ち上げようとした。少しだけだが、車体が浮いた。私は急いで左脚を抜くと、そのまま立ち上がる。
……うん、左足は痛いけど、立てないほどじゃないね。
両手両腕、痛くない。
よし、と思いながら、そういえばヘルメットをつけたままだったと思い出し、留め具を外してヘルメットを脱ぐ。
「すみません、助かりました。ご迷惑を――」
女性に向かい謝意を述べようとしたが
「ケガはない? ちょっと、お礼なんていう前に身体を見せなさい!」
女性は腰に両手を当てて私をにらみつけると、手を取ってすぐ横の空きスペースへと引っ張る。
せめてバイクからキーを抜いておきたかったが、有無をいわせぬようだ。
「そこに座って。左脚を見せて」
縁石に座らせれて、左脚を彼女に向ける。
私が以前持っていたライダースーツはサイズが合わなくて着れなかったので、今日はジャージを着てきている。彼女の手によって左脚のジャージがめくられるが、痣はできていないようだ。
病院でリハビリ時に着ていたジャージだ。リハビリで転ぶことを考えて、厚手になっていたため、思っていたよりダメージは大きくないのかもしれない。それを見て安心したのか、女性から小さくため息が漏れる。
そして、女性に見つめられていた、ということに気づいてしまった。
はっきりいって男性時代だって、ほとんど女性との付き合いはなかった。女性にこうやってじっと見つめられることなんて初めてだ。なんだか、恥ずかしくなってしまう。顔が赤いかもしれない。
「あ、あの。ケガはないみたいです。心配してくれてありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げる。今度はお礼を言うことができた。
頭を上げると、女性は右手で顔を覆っている。なにか、まずいことでもしたのだろうか?
「えっと、あの……?」
不安げに、女性に声をかける。彼女は覆っていた手をはなすと、私をじっと見つめて、問いかけてきた。
「ねぇ、あなた。免許、本当に持っているの?」
その声を聴いた瞬間、さぁっと血の気が引いていくのがわかった。
恐らく、彼女は私のことを小学生か中学生ぐらいにしか見えていないのだろう。低身長の女性という可能性もあるだろうが、先ほどの立ちゴケがまずかった。明らかに乗りなれていないような倒れ方をしたし、バイクを持ち上げて脚を抜くことすらできなかった。
傍から見たら、免許も取ってない少女が勝手にバイクに乗っているように見えてもおかしくはない。
どうする。どう答える――?
免許証は持っている。有効期限も今日までだ。法的にはなんの問題もない。
ただ、その免許証を見せたところで、信じてもらえるとは思えない。親の免許を勝手に持ってきたと思われるのがオチだ。そのまま警察に通報されると面倒なことになる。事情説明が済むまで、警察署で保護なんてことになりかねない。
では、免許はないと言うか。それこそすぐに警察に通報だろう。結果は同じだ。
つまり――答えようがない。
「黙っているってことは、免許を持っていないってことね。見たところ小学生かしら? こんな夜中に女の子がこんなこと、いくらなんでも、危険すぎるわ。警察に――」
「待ってください!免許は持っています!」
彼女が携帯電話を取り出そうとするのを見て、思わず答えてしまった。
しまった、という表情をしていると思う。本当に、しまった。どうしよう。
「持っているのなら、見せてごらんなさい。ほら、はやく!」
「……」
もう、見せないわけにはいかないだろう。せめて、事情を説明して、信じてくれることを祈るばかりだ。
私は、ジャージのポケットにあるカードホルダーを取り出す。
「これ、免許証です。……あなたは信じてくれないと思いますが。これは正真正銘、私の免許証です」
カードホルダーから免許証を抜き取り、女性に手渡す。
免許証を受け取り、じっと見つめる女性。その肩が少し震えている。
「ふざけないで! これが貴女の免許証ですって!? とても信じられない!」
そうだろう、私だって信じられない。
彼女の怒りはもっともだ。せっかく助けたのに、嘘までつかれていると思われている。
だが、私は、今、私であることを証明する手段を持っていない。発病に伴い発行される予定の障碍者手帳がその証明になるはずだった。だが、その手帳が発行されるのも、免許が切れる明日である。今はまだ手元にない。
だから、もう、どうしようもない。
「ごめんなさい。ごめんなさい。でも、本当なんです。それが、私の本当の免許証なんです」
一気に悲しみが襲ってきた。それは、信じてもらえないこと、自分の身体のこと、これまでとこれから。
すべての悲しみと不安が私を塗りつぶしていく。
気づいたら、私は涙を零していた。
「……はぁ。なにか、事情はあるようね。はっきりいって貴女、こんな夜中にバイクを盗んでこんなところまで来るような悪い子には見えないもの。……ああもう。女の子の涙に弱いのよね、私」
泣きじゃくる私の姿を見て、女性は深くため息をつく。先ほどまでの強い追及の姿勢は今はもう見えない。
「ここだと人の目があるわ。話は聞いてあげるから。……ああ、原付はこのままじゃいけないから、立てておくわ。ほら、キーはちゃんと持ってなさい」
持ち上げることができない私に代わり、横倒しの状態の愛車を女性がよいしょ、と掛け声と共に立て直す。そのままスタンドを立てて固定すると、キーを抜いて私に手渡すと、手をとって私を駐車場の裏へと連れていく。
「こっち。駐車場の裏なら、他の人から見えないから。ここで話を聞いてあげる」
「……信じてくれるんですか?」
「うーん、ともかく、話を聞かせて? いい子だから。」
二人で、縁石の上に並んで座る。
ともかく、話してみよう。なんとなく、信じてもらえるような気がしてきた。
この時、自分が子ども扱いされていることにも、私は気にしていなかった。