『飛行機雲の絵』を見に行った私
美術館に『飛行機雲の絵』を見にいった。
それはA4サイズの小さなキャンバス三枚に描かれた、連作だった。
一つ目は、真っ青な空にまだ飛行機が飛んでいる絵。
白い機体が、左から右上の方に向かって飛んでいる。
おしりからは白く「まっすぐ」にたなびく雲。
おしりのすぐ後ろにはなにもなく、まだ雲は生まれていない。そこから少し離れた場所から飛行機雲が生まれ、どんどん後方に置き去りにされていく。
雲が生み出される絵。
雲がまだ生まれたばかりの絵だった。
二つ目は、機体がいなくなった飛行機雲だけの絵。
まだ「まっすぐ」を維持している。
上空はきっと風が強く吹いていることだろう。それでも、それはまだ「まっすぐ」なままだった。
それ以外の雲は周りになく、青い空だけがその飛行機雲を取り囲んでいる。
飛行機雲は孤独だった。
それでも「まっすぐ」を維持していた。
飛行機の飛んで行った先を見据えて、広い空の只中に留まって。
まだ大丈夫だ。まだ「まっすぐ」でいられる。
そんな健気な、若い雲の絵だった。
三つ目は飛行機雲が分解しはじめた絵。
まだかろうじて「まっすぐ」を保っている。
でもそれは、ほとんど空の青と同化してしまっていた。
どんどん端から空に解けていく。
飛行機雲という概念が崩壊していく。
それはすでに、他の雲となんら変わらぬ薄ぼんやりとしたものになっていた。
風が雲を空に還していく。
雲を殺していく。そんな「死」を連想させる絵だった。
私はこれを何度も見た。
一つ目、二つ目、三つ目の順で。
あるいは三つ目、二つ目、一つ目の順で。
それぞれ五分以上かけて見たりもした。
そして最終的に、これはたんなる飛行機雲ではなく、人間の現在・過去・未来を表しているものだとわかった。
作者にその意図があったかはわからない。
でも、私はこの雲に自分を重ねた。
飛行機が、あるいは母親だったかもしれない。
そして雲は、その母親に生み出され、置いて行かれ、しばらく一人で頑張ってみたものの、やはり社会に殺されてしまった――のかもしれない。それは私の一生に似ていた。
この空は、きっと何度も飛行機が行き来しているのだろう。
そのたびにこれらの雲は生み出され、かき消されていく。
無数の見えない死体。
そんな恐ろしいものがたくさん散らばっているかのようだった。
いったいこれは誰が描いたのだろうか……。
ふとそう思って作品の下を見ると、なんと私の名前があった。
そうだ。
この絵は、私が亡くなる直前に描いたものだった。
急に記憶がはっきりしてくる。
今だけは現実に留まっていられる。
私はきっと、明日もこの絵を見にくるのだろう。
きっと何度も見にくる。
ということは……もしかしたら私は昨日もこれを見に来ていたのかもしれない。
どこから?
ここへ来たというのか。
どこへ?
これから帰るというのだろう。
そもそも昨日以前の記憶は、この風にかき消された雲のようにきれいになくなっている。
今も自分が生きているのか死んでいるのかあやふやだ。
私はその場から動けず、しばらくこれらの絵を見つめつづけた。
きっとこれが今の私の存在意義なのだ。
私はこの三枚のうちどれに当たるだろう。
きっと、どれでもない。
三枚で一つの連作だ。そのすべてが私であり、私でないのだ。
その時、急に飛行機の轟音がして何も考えられなくなった。
それは私をかき消して、無に還していった。
完




