幕の伍【十和】
黒曜の剣(弐拾伍)
幕の伍【十和】
踏み出した綾の背を押すのは、風だけか。
三間の間合いを一足で踏み込み、化生の振り下ろす刃を鎬で滑り受ける。
その勢いのまま、すれ違い様に化生の上腕を一閃すると、綾は行く手を塞ぐ次の化生を視界に捉えた。
やや下方から横薙に繰り出される化生の太刀筋に、低い姿勢から突き気味に切先を潜り込ませ跳ね上げる。
振り抜き際に化生の首筋を捉えつつ腕の下を擦り抜けた時、死角から眼前に化生が踏み出した。
「退けっ」
引き寄せた柄を喉笛に打ち込みながら、反動で身体を独楽の様に回し後ろへ抜ける。
風にも乗った綾の体捌きは、瞬く間に綾を前へ運んだ。
行く手をを塞ぐ化生の者は残り二体。
綾の眼が朱い目を捉える。
刹那
綾の袖口が何かに引かれた。
慌てて腰を落とし反転する綾の眼前に、喉笛を潰した化生の腕があった。
打刀を小さく旋回させ切り払った綾の表情に、動揺が浮かぶ。
斬られ、打たれ、にも関わらず何事も無かったの如く向かい来る化生の群。
その動揺が、綾の足を数瞬の間止めさせた。
わずかな空白は、綾の抜け出る道筋を奪い去っていた。
全ての方向から、化生の者達は何の躊躇も無く綾の間合いに踏み込んで来た。
一刀を捌いて躱すも、別の剣が綾を襲う。
かろうじて肩越しに受け流しつつ回転し、体を入れ換える。
それは、好機と言えた。
体を入れ換えた化生はたたらを踏み、背を向けているのだ。
他の化生への壁にもなる。
一刀を見舞う余裕がある。
流れる様な動きで打刀を振りかぶった時、再び何かが、綾の羽織りの裾を引いた。
「…っ!?」
打ち下ろすはずの一刀を、そのまま溜めて旋回する。
がきん
振り向いた瞬間、綾の打刀が正面から化生の太刀を受け止めた。
偶然だった。
無論、捌きも間に合わず、強烈な一撃に綾の体軸が流される。
迂闊。
自分を囲んだ化生の者は一握りに過ぎない。
囲みの外からも襲い来るのだ。
一人に集中は出来ぬ。
父上や兄上達も、この様な戦場で戦ったのだろうか。
綾の脳裏に、戦に散った三人の顔が浮かんだ。
身体を捻り、両脚を踏ん張る。
平衡を取り戻すと同時、周囲に意識を向けた。
動いた事が功を奏したのか、囲みは緩くなっている。
「六っ」
自分に言い聞かせた。
一瞥した限りだが、間違いはあるまい。
半蔵の剣の異能が、無数の化生をここまで減らしたのだ。
残りは恐らく半蔵の方だろう。
抜けられるのか、此処を。
策を思案する間も無く、近寄る化生に切り込む。
動くより他は無いのだ。
繰り出される太刀筋を刀身で逸らし、擦れ違い様に斬り付けるが、怯む様子が無い。
「ええい!!」
いらつきを口にした綾の袖が、三度引かれた。
慌ててそちらを見る。
同時、化生の横薙ぎが綾を襲った。
「ふっ」
腰を落として下から跳ね上げる。
更に引かれる。
後ろへ。
ぎんっ
刀身を盾に、身体を投げ出し気味に避けた。
「なんだ!?」
何かがいる。
見えはしないが、小さく綾の袖を、裾を引く感覚があるのだ。
見えない。
その中で、
綾の袖を引き回すそれには、覚えがあった。
綾の膝が震えた。
鳥居は、
神域への門ではなかったか。
境内は、人と神霊の行き交う場。
また、袖が引かれた。
振り向けば、襲い来る化生の剣。
それを捌きながら、綾の記憶は甦る。
「十和っ」
それは、
叫びにも近いそれは、
捜し求めた妹の名であった。
「鬼さぁんこちらっ、手ぇの鳴ぁる方へっ」
紅葉の庭に、数人の童子らが散らばって手を打つ。
目隠しでそれを追う鬼役は、生成り(きなり)の着物姿の綾だ。
ひと回り年長と分かるその姿から慮る(おもんぱかる:考える)なら、領内の童子らの子守りなのだろう。
声を頼りに追い回すが、良いようにあしらわれている。
きゃっきゃと奇声を上げて逃げ回る童子らの一人が、こそーりと綾の後ろへ回り込めば、他の童子らが意を汲んだ様に綾の前で手を叩いた。
どすん
と腰を押され、「あっ」と叫んでよたよたとする綾を、見ていた童子らの笑い声が包む。
「このっ」
と言いながら振り向き様に追いかけるが捕まらない。
そのうち一人が綾の袖を引っ張り始めた。
「こっちこっち」
けらけらと笑いながら綾を引っ張ってゆく。
引け腰でよたつく綾が、慌てた様に声を上げた。
「こらっ、馬鹿、やめなさい十和。とぉわぁっ。」
夜闇に包まれた月明かりの境内を、風に巻かれた木の葉が舞う。
一瞬の追憶に捕われた綾の頬を、木の葉混じりの強風が打った。
ばさばさと乱れた髪が、綾を現世へ呼び戻す。
どすん
綾の腰が突き押された。
そこに、化生の剣が空を切る。
「十和っ!」
咄嗟に妹の名が口をつく。
あの時もそうなのか。
あの時、
人外の者となった顎髭の巨漢に問われた時、忘我の綾を引き戻したのは。
また、
綾に知らせる様に袖が引かれる。
誘われるままに、身体を投げ出すように、化生の剣を躱す。
斬られるわけにはいかない。
まだ、何もしていないのだ。
「ええぃっ」
体勢を立て直しつつすぐに振り返るが、やはり綾の眼には何も映らない。
ただ、何故かそこに、十和が居ると言う確信だけがある。
「くそぅ」
綾の眼光に強さが戻る。
しかし苛立ちが、綾の剣に力みを呼び込んでいた。
受け流したはずの背後からの一撃に、衝撃で腕が痺れる。
「くそぅ、くそっ」
その力みは徐々に、しかし確実に綾の体捌きを狂わせ始めた。
化生の者共の剣は、何一つの躊躇も無く四方から襲い来る。
旋回しつつ擦り抜ける綾の残影に、紅の飛沫が混じるのは何度目か。
そして、風さえもが綾の動きを狂わせる。。
突風が綾の肩を押し、疲労が膝を砕く。
まるで慌てたかの様に袖が引かれた。
「くっ」
体勢を崩し、地を転がりながらも辛うじて大きく間合いを得たのは、十和の加護か。
「主ゃあっ」
怒気を籠めた綾の声が響き、打刀の切先を朱い目に向ける。
「己が身で戦えっ。化け蛇ごとき、一対一ならば負けはしないっ!」
怒りからくる本心か、あるいは苦肉の挑発か。
綾の睨みつけた先、それが、それこそが朱い目の本体なのだろう。
今や、白く蠢く蛇体が鎮守の杜に大きく横たわっていた。
古来より、蛇を神格化して祀る習慣は、土地や国を問わず数多見受けられる。
その多くは『死と誕生』、あるいは『豊饒』の神とされ、中でも白蛇は特に尊ばれた。
それが今、祟り神として綾達の前に顕現したのは、寂れ、廃れるまま捨て置かれた怒りからか。
朱い目は、憤怒の光を宿したまま、ただ綾を睨み据える。
「一対一ならばっ」
綾の声が、低く震える。
「主らなぞにっ!」
怒りと口惜しさが、言葉を掻き消した時、
「信じても、良いのかぃ」
綾の真後ろから、突如かけられた声。
驚き振り向く綾の眼に映ったのは、息荒く全身に手傷を負った半蔵の立ち姿だった。
血に塗れた姿を愕然と見つめる綾が、半蔵の言葉を硬直のままに聞く。
「十和と言うのか。この黒曜の剣にも動じぬわけだ。よほど姉が気にかかるらしい。」
半蔵はそう呟くと、綾の右肩衣を掴んで引き付けた。
「応えろ!」
半蔵がそう発した瞬間、綾の身体が風に巻かれて浮き上がる。
驚きを声にする間も無く、半蔵は綾を引き上げたまま、大きく後方へと跳び退った。
長く、
まだ落ちぬのかと思える程に長く、その滑空は続いた。
迫り来ていた化生の者共の追撃を躱し、大きく間合いを離したそれは、その跳躍は、半蔵と出会ったあの野営地にて、綾の一刀を躱したそれと同じ現象だった。
「使え」
珠砂利を弾き飛ばし、着地した半蔵の発した言葉は、短い一言だった。
眼前に突き出されたのは、黒曜石の剣。
刀身は透ける程に薄く、とてもまともに振るえる様には見えぬ奇剣。
綾の動揺が伝わったのか、
「持てば解る」
とそれだけ告げて、半蔵は綾に剣を渡す。
柄に手を掛けた時、何かが囁くような音が聞こえた。
途端、痛めた左腕に熱を感じる。
半蔵の右眼は、綾の左側を見つめる。
その視線に誘われ、顔を向けた綾の眼に入ったのは、忘れもしない十和の姿だった。
薄く白く朧げな、しかし綾の左腕にしっかりと寄り添う様に、十和の小さな手が綾を支える。
今まで合わなかった焦点が、黒曜の剣を持った事で合ったと考えるべきか。
そのまま後ろを振り返れば、化生の者共にもうっすらと白く、妖気とも霊気ともとれるものが取り巻く。
半蔵には、最初からこれが見えていたのだろう。
思い返せば、それらしい言動はあったのだ。
十和の事も、分かっていたような口ぶりであった。
今ならば得心がゆく。
街道茶屋で、あれほどまでに綾の案内を拒んだ訳すらも。
「後は分かろう、呼び掛けるのみ。」
そう告げて更に後退する半蔵を尻目に、綾がそれを口にする。
静かに、しかしはっきりと、願いをを込めて。
「応えろ」
半透明の刀身が、震える様に見えた。
轟っ、
と耳鳴りに襲われた瞬間、綾の周りを、
否、
境内全てを覆うように白く霧が煙る。
大地から、そして黒曜の剣からも噴き上がる濃密な霧。
遠目から見る者があれば、山の一画を突然の濃霧が覆う様を目にしたかも知れない。
その霧か、或いは何かが、吹き荒れる強風さえも遮るのか、大気の流れは緩やかに変わった。
遠くから、半蔵の声が届く。
「そいつぁ、黒曜石から削りだし、霊泉にて清めた剣だ。魅入られた魂が呼び掛けに応える。そいつらが、綾さんに進めと言ってるのさ。」
その言葉も終わらぬ内に、驚きに硬直した綾を、大量の水滴が取り巻いた。
霧が、綾の周囲だけが水滴に変わったのだ。
ざぁっ
とばかりに水滴が大地へ落ちる。
直後、そこに現れたのは霧の空洞。
綾の前方、視線の先には、一体の化生の者が所在なげに立ち竦むのみ。
一対一ならば、と願ったのは誰だったか。
再び、綾の袖が引かれた。
促す様に、しかし不安げに。
綾の唇が、十和に向けて微かに動いた。
何かを伝えたのか、朧げな十和の手が離れる。
「参るっ」
強く発した言葉は、霧の先に待ち構える者に届いただろうか。
今、一息に走り込む綾の行く手を塞ぐは、剣を振りかぶる化生の者。
薄氷の如き刀身は、耐えられるのか。
化生の太刀筋を逸らす様に、綾の切先が放たれた刹那、黒曜石の刀身を青白く霊気が覆った。
まるで刀身を支える様に。
見開かれた綾の瞳に映るそれは、儚げな無数の手の様でもあった。
現世の理に照らせば、
耐えられるはずもない黒曜石の刀身を支えるのは、無情の最期を遂げた死者の手か。
綾の太刀筋を狂わす事なく、化生の者の剣を小枝の如くに斬り払う。
易々と相手を突き抜けた黒曜石の切先を止めたのは、大きく眼を見開いた綾自身であった。
振り向けば、崩れ逝く化生の者から白く小さな蛇体が滲み出している。
それはすぐに、空を舞い、黒曜の剣へと吸い寄せられる様に消えていった。
霧の空洞は、綾を誘うように先へと延びていく。
意を決し、綾は短い呼気を残して走り出す。
冷たく頬を打つのは、霧か水滴か。
今や前を塞ぐ者は誰もいない。
そして、
霧の空洞が急激に開けた。
「ようやく」
眼光鋭く睨みつける先には、ちろちろと燃える様な朱い光。
もはや実体とさえ思える程に顕現した白い蛇体は、濡れたような艶を見せながら、ゆっくりと蠢いていた。
自然、剣を握る手に力が入る。
片腕で何処まで行けるのか。
片腕、否。
気付けば綾は、両手で剣を構えていた。
時折走る痛みは、むしろ回復の証か。
力こそさほど入らぬが、支える分に支障はきたさぬ。
「斬るっ」
言い聞かせる様に、強く発した言葉は言魂足り得るか。
蹴り上がった玉砂利が、綾の踏み込みの勢いを物語る。
その時、応える様にそれは唸った。
「戯れ言を」
朱い目が燃える様に揺らぎ、とぐろを巻く様に、蛇体が横薙ぎに綾を襲う。
「えぇいっ」
怒りも半ばに吐き捨てると、眼前の木の幹を蹴って跳び上がる。
思うより身体が軽い。
綾の肩程の高さもある蛇体を躱し、風に支えられる様にふわりと着地する。
綾の目にははっきりとは見えないが、恐らくこれも、剣に依る者達の加護なのだろう。
見れば綾の周囲には、今も薄く青白い靄が纏わり付く。
「ならば、力を貸せ」
何者にか呼び掛ける様に言うと、再び地を蹴り飛び上がった。
高く振り上げた切先が、朱い目の喉元を襲う。
朱い眼光が、迎え撃つかの様に揺らめいた。
ごぅ
強烈な風、いや、霊気か。
その得体の知れぬ圧力が、綾と剣とを押し返す。
短い悲鳴が綾の口から漏れた時、声が響いた。
「応えろ」
ごぉう
巻く様な風が、落ちる綾を支えた。
膝をつく綾の振り返った先には、霧の空洞を抜けて来た半蔵の姿があった。
そして今、風は半蔵の方から吹き付けた。
剣を持たぬ半蔵の方から。
「手を貸すぞ。俺の縁者も連れて行けっ」
途端、半蔵の右目が青白く光る。
溢れ出るのは人の影か。
それが綾の周りを取り巻く。
「その目…」
驚く綾の言葉を遮り、半蔵の声が響く。
「跳べっ」
はっと前を向けば、朱く巨大な蛇の口が眼前で開かれていた。
一息に、音も無く襲い掛かる。
刹那、綾は言われたまま跳び上がっていた。
見下ろせば綾の真下を、蛇体がうねりながら半蔵を目指す。
「畏れを知らぬか、人の子よ」
水底から響く様な昏い声が、怒りを含み、頭の中で木霊する。
威圧か霊力か、綾の内に畏怖が沸き上がり、しかし同時に、自らの屋敷での惨状が綾の脳裏を過ぎる。
十和の手が、綾を支えた。
「応えろっ」
絞り出す様に吠えたその声が、偶然か必然か半蔵のそれと重なる。
落下の勢いはそのままに、振り下ろした刀身を今、多くの白く儚い手が支えていた。
そして、
黒曜の剣と共に、
蛇体の中に綾が沈む。
刹那、
轟っ
と大気が震えた。
暴風か、或いは霊気なのか、霧の空洞が吹き散らされる。
それは、朱い目の叫びにも聞こえた。
強風を受け閉じていた瞼を開けると、
境内の石畳が綾の目に入った。
突き刺さった刀身で躯を支え顔を上げると、綾の黒髪を揺らして清涼な風が吹き抜けて行く。
立ち上がり見上げれば、
霧晴れた空が、朝陽に白みつつあった。