幕の四【黒曜の剣】
幕の四【黒曜の剣】
樹々のざわめきはこれまでに無く大きく、
流れる雲は風に形を変え、
月と雲と樹々との影が光陰の河を作る。
千々に乱れ散る木の葉は、二人と『それ』を等しく抱いた。
鳥居を潜った直後から襲った悪寒は、今、荒縄となって綾を締め付けていた。
眼前の、
人の理解を越えた『それ』は、
もはや生きる者としての体裁を保ってはいない。
にも関わらず、鷲掴まれた首が声を発しようとしている奇異は、あやの思考を激流となって押し流した。
そして『それ』は、
言の葉を紡ぎ始める。
はっきりと
「死人の剣振るいし小娘よ。」
人ならざるものの声で
「この無情なる常世を如何に思う。」
現世に有り得べからぬ死者の問い掛けには、答えるべきか否か。
しかし、抵抗の意思すら顕せず、綾の口が動き始める。死者に何を答えようというのか、それが声に変わる刹那、
どすん
突如、綾の腰を誰かが押した。
左から。
腰砕け気味に倒れた時、半蔵は綾からはかなり後方にいた。
手が届く筈も無い。
そも綾の周りには誰もいない。
何があったのか訳も分からず、しかし起たねば危険だと本能が囁く。
膝に力を入れる。
図らずも綾は、自らの硬直が解けていることに気付く。
直後、
ごぉう
強い風が吹き付ける。
その時、小さく、しかしはっきりと
「来たな」
と半蔵が短く呟く。
瞬間、綾の背筋に冷たいものが走った。
何がと振り返る綾の見た半蔵の周囲が、いつの間にか靄の様に白く澱んでいる。
いや、綾自身の周りまでも。
風は強く、
雲の影は石畳を遮り行く。
その中を、白い澱みはゆるゆると地を這い、集まり、そして。
もぞり
境内の至る所で白い靄が何かを象り始める。
堪らず綾は半蔵の方を見る。
半蔵の手は、肩から提げた直刀を握り締めている。
その視線の見回す先、釣られて追う綾のその視界には、今や無数の白い人影が蠢き始めていた。
それは、
ゆるゆると緩慢に、
まとまり無く動きながら、しかし一斉に影は立ち上がった。
その姿は、人の形を見せていながら、もはや違う事なく、綾を襲っている悪寒の元凶と解った。
綾の全身、五感の全てが、何か本能的な嫌悪に震える。
「ひゅぅ」
何かを言いかけた綾の言葉が、上擦って形を成さない。
「さて、今更ぁ帰れとはぁ言えんし、綾さんにゃあ、ちぃと辛抱して貰おう。」
半蔵の茫洋とした言葉が、この場と不釣り合いに綾の耳に響く。
途端、綾の眼が半蔵へ向けてかっと見開かれる。
寝ぼけているのかと言った体で、眼光に怒りが見て取れる。
しかし、それすら気にせぬ風に、
まるで白い影が象られるのを待っていたかのように、
ぎし
ごりん
軋む様な音と共に、半蔵の右腕が背中の直刀を引き抜き始めた。
綾の怒りが怪訝の表情に変わる。
出会った折より歪さを感じていた直刀だが、もはや鞘払いのそれとは思えぬ、削る様な異音。がりごりと音をたてて抜き放たれた刀身は、錆び付いた分厚い鉄板と形容すべき代物だった。
刃の有無すら判らぬ、いや、元より付いてはいまい。
錆びたのは雨のせいか。
刀鍛冶を名乗る男が、一体何を持ち歩いているのか。
綾は、口を開けたまま、引き攣った表情で絶句した。
いまだ全身に巻き付く様な悪寒を感じながら、綾は茫然と立ち尽くす。
刀身こそ六尺近い威容を湛えるが、それは赤黒い錆を浮かせたただの分厚い鉄の板にしか見えない。
もはや半蔵は宛に出来ぬ。
大太刀を受け止めた左腕は、痛みよりも嫌な冷たさすら感じる。
得体の知れぬ化生の者共に対し、今、何が出来るのか。
悪寒と焦燥に駆られる中、半蔵のその声は届いた。
「こたえろ」
何に答えるのか。
半蔵が地に鉄板を突き立てて言った言葉は誰に向けて放ったのか。
しかし、そのまま数瞬。
問いを投げ掛けるでも無く、ただ錆びた鉄の板を見つめる。
半蔵は自身を刀鍛冶だと言った。
確かに、鎚を振るうだろう両腕の力感は並外れたものを感じる。
試し斬りをするにも些少なりとも剣の心得が必要だろう。
しかしそうとしても、綾から見れば刀鍛冶以上の期待を持つには至らぬ。
また綾自身も、多対一の剣は知らぬ。
戦場に立った事も無い。
開けた境内で化生の者に囲まれ、左腕は利かぬ。
残されたものは、父道斎に仕込まれた己の剣。
詰まるところ、それが答えなのかも知れぬ。
その思いに至ると、僅かに打刀を握る手に力が戻った。
顔を上げ、ゆらゆらと幽鬼の如く迫り来る化生の群れを睨みつけた時、
ざわり
と一斉に化生の群が揺らいだ。
瞬間、綾の全身が総毛立つ。
何かが、
冷たい何かが、
びとり
と綾の足首を握ったのだ。
ぎょっとした表情で自らの足元を見るが、何も見当たらぬ。
しかしその感触は、確かに綾の脚を掴み、地の底へと引き始めていた。
慌てた綾が、振り払うかの如く跳び退く。
それが、
まるで合図であったかの様に、化生の群が悶え始めた。
幾つかが跪き、地に引き込まれる様に崩れ落ちる。
「なかなかに厳しいな」
半蔵だ。
まるで独り言の様に聞こえる。
そこへ再び、人ならざる者の声が、嘲笑が響く。
「かかっ、以前の様に人なればこそ怖れもあろう。しかして、吾子らは黄泉より返した者達よ。童ごときに何ぞ成せるや。」
それは
その言葉通りとるならば
綾の脚を掴んだ冷たい何者かは、
半蔵が何かを仕掛けた証と言う事になる。
半蔵が顔を上げた。
「致し方なかろうなぁ」
言うと視線を綾の方へ向ける。
「やや分が悪い。お前さんにゃあすまん事をするなぁ。どうか凌いでくれよ。」
お前さんとは、綾に向けた言葉か。
これまで半蔵は綾をそのまま名前で呼んできた。
にも関わらず、綾をお前と呼んだ半蔵の右眼が、いつの間にか開いている。
その眼は、初めて出会った賊の野営地で、綾が不思議そうに見つめた事を気にしたのか、以来閉じたままだった。
それが今、再び綾の左側を見つめる様に開かれている。
いや、半蔵の視線は左右共に綾から外れている気がする。
凌いでくれとは誰にかけた言葉か。
堪らず綾が問うた。
「それは、私に言っているのか」と。
それには答えず、半蔵はにたりと笑むと、分厚い鉄板としか見えぬ自身の長刀に向かい合う。
鍔元を捻る様な動きと同時、
がきん
と何かが外れる音。
外れたのは、
地に突き立てた鉄板。
それが二つに割れた。
半蔵が柄を引き上げる。
昏い何かが、
悲しげな声を上げる。
虚ろな何者かが、
喜びの声を上げた。
「聞こえるか、俺の声が。」
何に問うのか、半蔵の視線は持ち上げ行く柄に注がれる。
その割れた分厚い鉄板の中から現れたのは、
黒き刀身。
いびつに波打つ奇剣。
「何だ、それは」
綾が問う。
そして
半蔵は答える。
「黒曜の剣」
それは、
剣と言うには奇異過ぎた。
刀身は黒く、しかし微かに透けて見える。
まるで、黒い薄氷を細く長く、しかし大雑把に取り上げた様に、美しく儚げに姿を現した。
二枚貝様に波打つ波状紋が、月光を受けて妖しく輝く。
黄泉より返った者達の、悲哀と歓喜の入り混じった囁く様な声が境内を、半蔵を包む。
何が死者の魂を揺さぶるのか。
もはや
人ならざる者となった顎髭の巨漢さえもが、穢れた目を見開き凝視していた。
黒曜石という石がある。
産地は限定され、火山地帯の水辺でのみ見つかる岩石の一種だ。
脆く割れやすいが、その断面は波打ち、光を受けて艶やかに輝く。
硝子質を示す鋭利な欠片は、金属製品が容易に加工される様になるまでの時代、木製品の加工や弓矢の鏃の材料などに、突出した性能を持っていた。
その生成過程は特殊で、火山活動により流れ出た溶岩が、海などの水辺に達する事が条件となる。
この時、大量の冷水による急激な冷却によって凝固した溶岩の一部には、『結晶構造』が構築されず、硝子質を示す岩石が現れる。
これを【黒曜石】と呼ぶ。
それは結晶構造を持たず、固体でありながら『水』と同様に流体の特性を保つ石。
人の認識には、色も形も手触りも、半透明の黒い石。
しかしもし千年が、一万年が一瞬であるならば、緩やかに形を失い、流れ落ちる石を見る事ができるだろう。
黒曜石、
それは言わば、時を越える永遠の流体。
そして
魂は
変わること無き永遠の安らぎを求め焦がれる。
綾が再び問うた。
「剣だと、それが…」
触れれば割れそうな刀身に月光を纏わり付かせ、陶器を割った様な鋭さを感じさせる。
「黒曜石を割り砕いて形作った。つまり、石剣だ。」
半蔵がさらりと宣った言葉の意味が、どれほど異端か。
武器の素材としては現在、玉鋼が最高峰と言われる。
和刀は玉鋼から作られ、しなり、粘り強く、衝撃に強い。
対して石を割り削る石剣など、遥か太古の思想だった。
材質さえ選べば、木剣の方がまだ強いのだ。
そのうえ黒曜石は脆く割れやすい。
それを刀になど、剣として振るえば一刀すら保ちはすまい。
いくら鋭くとも、役には立たぬはずの奇剣。
その剣を構え、半蔵が呼び掛ける。
「こたえろ!」
何がこたえるのか。
瞬間、
綾の目に映ったのは、蒼く白く光を纏う黒曜の剣。
否。
光ではない。
もしも綾に霊感があれば、その時、黒曜の剣から蒼白く輝く霊気が噴き出すのを感じただろう。
こたえろとは、つまり"応えろ"か。
その霊気に打たれ、再び化生の群が揺らいだ。
途端、小さな叫びと共に、倒れ、崩れ、地に還る。
そこには、あの白い澱みが残され、
そして
喜びか悲しみか
何かを求める様に
半蔵に、黒曜の剣に這い寄る。
その姿は
地を這う化生の魂は
白く長く弱々しい
小さな蛇を思わせた。
「おお、何処へ行く、吾子(あこ:我が子)らや。」
巨漢の腕に鷲掴まれた首が、悲鳴にも似た声を上げた。
しかし、その声も聞こえぬのか、半蔵の傍らまで寄ると、一体、また一体と黒曜の剣に溶け込む様に消えて行く。
雲間からの月光が境内を照らした時、化生の群は数える程に減じていた。
突如、人ならざるものの憤怒の感情が二人を打つ。
「顕現したか。」
半蔵が唸る。
綾が見たのは、宙空に浮く朱い目。
荒御霊と化した異形の姿であった。
それは初め、人のささやかな知恵だったのかも知れない。
古来、天然自然の成り立ちは理解に難く、豊かな恵みと、天変地異や疫病の両極端な事象に翻弄された。
理不尽な痛みを受けざるを得ない人々は、そこに何かしらの理由を欲する。
もし理由があるのならば、それを満たす事で事象をより自らに益するように向かわせる事も出来ようからだ。
その理由を、何者かの意思、つまり自然現象を神霊による『恩恵と祟り』と捉える事で、事象に因果を見出だそうとした。
畏敬を抱く対象は日の神や水の神に始まり、風や山、木や石など森羅万象にまで神霊を見出だすに至る。
これら神霊は、その本質に和魂と荒魂と呼ばれる、正に大自然の形容同然の激しく異なる二面性を持つと考えられた。
和魂とは、雨など自然の恵みや加護に連なる神霊の穏和な側面を指す。
荒魂は真逆に、祟りや天災を引き起こす荒々しい怒りの側面であり、これを荒神として、同一の神霊にも関わらずその激しい変容から別名で呼ぶことすらもある。
朱い目が
吹き付ける様な怒気を籠めて夜闇に浮かぶ。
人の背丈をも超えた高さに浮かぶそれは、白く朧な輪郭を見せ始めていた。
と同時に、残された化生の者達が、呼応する様に綾達に向かい動き始める。
その手には、土に汚れ、或いは錆びた得物を、生前そうであった様に握り絞めていた。
「綾さんにゃあ悪いことをするが、勢力拮抗と言った次第だ。何とか切り抜けてくれよ。」
半蔵の言葉を受けて、辛うじて状況を飲み込むに至った綾の打刀がゆっくりと持ち上がる。
剣には自信がある。
一対一ならば誰にも遅れはとらぬ。
なればこそ、開けた境内で多数に囲まれた状況は、綾自身の剣質を殺すに等しい。
如何にするかを突き詰めれば、それは自ら動いて一対一の状態に持ち込む他は無い。
相手の機先を封じ、倒せずとも怯ませればその間隙を縫って前へ抜ける事も出来よう。
目指すは朱い目。
姿を現した異形。
もはや斬れるか否かはどうでも良い。
ただ、せめて屋敷の者達の、妹の無念を乗せた一刀を入れなければ気が済まぬ。
その想いが、綾の足を前へと踏み出させた。
依然、左腕は利かぬ。
力を籠めた剣は振るえぬ。
ならば、小さく正確に。
速さは踏み込みで補う。
それは、
それこそが自身の剣の本質であると綾は気付いているのか。
意を決すると、化生の者達を巻く様に風上へ走る。
その視線の先、かの異形を風下に捉えると、綾が踵を返した。
踏み締めた玉砂利が弾ける。
追い風が、綾の旅衣を帆の如く膨らませ、更なる速さを与えた。
動き出した綾を見届けると、半蔵は化生の者達を迎え討つように黒曜の剣を寝かせ、横薙ぎの構えを見せる。
刀身は白く朧に煙っている。
「さて、今往生させてやる。」
迫り来る化生の者達に向かい、半蔵が間合いを詰める。
保って一刀の薄氷の如き剣に何を願うのか。
振りかぶる化生の者に半蔵が応じる。
正面から十字に切り結ぶかに見えた瞬間、黒曜の剣を青白い霊気が覆った。
かしゅん
軽い衝突音と共に、化生の者の刀身が半ばより先を失い、半蔵の剣は横薙ぎに振り切られる。
更に弧を描きつつ、上段へと昇る黒曜石の薄い刃に月光が跳ねる。
そのまま十文字に斬り下ろす半蔵の太刀筋は、澱む事なく目的を達していた。




