幕の参【死人の剣】
幕の参【死人の剣】
無数の星が瞬く雨上がりの山間部に、
りりりるぅ
と涼やかな虫の音が響き渡る。
街道脇の茂みは闇に溶け込み、樹々の隙間から射し込む幾筋もの月光だけが、綾の行く手を疎らに照らしていた。
「こんな暗い路をよく歩けるな。」
明かりも持たず早足で歩きながら、綾が呟く。
まるで独り言に見えるのは、前を歩く半蔵の旅衣の藍染めが、闇に溶け込むせいか。
初夏とは言え、肌寒さが残る夜の山道を、半蔵が急ぎ、綾が追う。
街道茶屋を出て既に数刻、この関係が続いていた。
綾自身は身体を休めつつ深夜を待って茶屋を出、夜明け前の薄明かりの中、探りを入れて仕掛けるつもりだった。
ところが、半蔵が握り飯を抱えて月明かりの街道へと出たのだ。
無論、行き先は賊の拠点となっている神社に違いない。
夜襲をかけたとして、暗闇の中で如何にするつもりかと聞く綾に、
「綾さんは来ない方が良い。話は聞いたろう。」と、相も変わらず諭す様に言った。
化け物。
何時からかは知らぬ、と前置きしながらも、茶屋の店主は「この近辺に『白い影』を見る様になった」と言う。
幾つもの白い大小の影が、夜の木々の狭間に蠢く事があると。
近隣には先の神社があり、その境内にある鎮守の森へ祭神が天下ったのでは、と噂する者も居た。
しかし昨今は荒廃が進み、近付く者も無く寂れるばかりで、そのためもあってか、賊の根城になっている。
故に「祭神とは思えぬ」とは、他所の神職の見方だ。
茶屋の店主から一通り話を聞き終えると、平素ぼやけた顔の半蔵の表情が険しくなった事に、綾は気付いたか。
この後、独り夜の街道へ出た半蔵を綾が追い、
そして今、
月光を浴びて浮かび上がる神社の鳥居が、綾達の眼前に姿を現している。
りりりるぅ。
虫の音は殊更に、
高く大きく響き渡っていた。
煌々(こうこう)と
月の光に白く照らされる鳥居は、闇を形作る森林を背景に、浮かび上がる様に佇む。
鳥居の奥は、上へと続く階段を暗闇に飲み込み、その先を窺う者の視線を拒んでいるかの様にも見えた。
何を祀っているのか。
鳥居の脇には、社の名を記していただろう石柱が崩れ、文字らしき彫り込みもその痕跡を残すのみ。
周囲は雑草に覆われ、世話する者のない事を暗示していた。
元来、八百万の神を祀る(多神教である)神社は、形あるものばかりを祀っている訳では無い。
祭祀の対象は信仰や畏怖の源。
時代背景によって違いはあるものの、自然現象、地形に始まり、祖霊に神霊や自然物、異国伝来の神や政治的有力者の神格化にまで及ぶ。
故に、その時々において神を招き入れる場や依代を持つのみで、社殿や本尊を持たぬ神社も多くある。
拝殿があったとしても、祈りを捧げる対象は拝殿の先、境内の中央付近に広がる森などの、場や依代となる。
そして、
そこへの入口となる鳥居は、俗界と神域を隔てる『門』としての意味を持っている。
山に囲まれた神社の鳥居を、半蔵と綾、二つの影が静かに通る。
ひんやりとした冷気が、綾の頬を撫でた。
山肌の湿った空気が、階段から鳥居へと流れているらしい。
背筋を冷たい汗が伝う。
妹の安否を想う気持ちの高まりとは裏腹に、全身を緊張が支配していた。
山の霊気にあてられたか。
鳥居を入って十数歩、風を受けた樹々の葉のざわつきばかりが気になる。
綾の足が止まった。
何故かは判らない。
判らないが綾の直感は、強い警告を発している。
全身に鳥肌が立つのが判る。
五感が研ぎ澄まされ、周りの様子が把握出来るにつれ、それはより顕著になった。
空気が、
纏わり付く様に重く感じる。
綾の異変を悟ったか、先を行く半蔵が振り返った。
「此処から先はぁ、俺が様子を見てくる。綾さんはぁ、鳥居を出て少し待っていてくれ。」
平然と言う半蔵の口調は、いつにも増して静かだ。
「待て半蔵、何か、変だ。」
階段から半蔵を見上げる綾の声は、心なしか微かに上擦る。
蒼く暗く夜空を背に、半蔵の影は黒く、漆黒の木の葉が細波の様に周りを綾取る。
「妹さんとはぁ、仲が良かったのかい。」
突然の半蔵の質問は、綾の気を紛らわす為か。
しかし、逆光気味で半蔵の顔は見えない。
「当たり前だ」
声を押し殺してはいるが、綾は強く言い放った。
「今となっては唯一人の肉親だ。絶対に助け出す!」
その想いに支えられ、綾は此処まで来たのだ。
恐怖も後退もありはしない。
半蔵は何故か少し間を置くと
「そうか」と一言、階段を上り出す。
今のは、自分に対する返事だろうか。
綾は訝しげに片眉を上げるが、半蔵の茫洋とした反応はいつものことだ。
今は前へ進むのみ。
全身を襲う嫌な寒気はあるが、そうも言っていられない。
半蔵の落ち着いた様子を見れば、この悪寒も、自身の気の迷いかも知れぬ。
そう思うと、少しばかりではあったが、綾の足は軽くなっていた。
警戒しつつ階段を上った先は、石畳を敷いた小路を中心に大きく開けており、月光が明るく照らしていた。
そこには人影も社殿も無く、奥には祭壇なのか、崩れかけたお堂らしき影が見えるが、樹木に囲われ闇が深い。
手前には締め縄の残骸らしきものが散らばっている。
良く見れば、焚火の跡が幾つもあるが、火の気は残っていない。
風を受けて樹々のざわめきだけが響く。
「誰もいないのか。」
綾がぽそりと呟く。
人が寝起きするには何も無さ過ぎる。
とすれば、賊共はこの先の禁足地か。
しかし、見るからに荒れ果てた境内には獅子狛犬すら配されていない。となればこの神社の禁足地は、いわゆる鎮守の森や依り代などで、寝起き出来る社殿などあろう筈も無いと思われた。
御神体としての本尊を持ち、神は常に此処に在るものとされ始めたのは大陸文化の影響による。
社殿や獅子狛犬が配される様になったのもその頃からである。
そう考えれば、この神社の様子からは、確かに相応の古さが漂う。
『獅子狛犬』とは、
神獣や神使と呼ばれる空想上の存在であり、守護を担い悪気を払う魔除けの像とされる。
寺社の境内や鳥居、社殿内などに左右一対で配され、向かって左に一本の角を持ち口を結んだ吽形の狛犬、右に角が無く口を開いた阿形の獅子が、来訪者を見据える様に座す。
阿形は音の『あ』で物事の始まりを、吽形は音の『うん』で物事の終わりを示す。
ここから、阿吽とは天地万物の始と終を顕すとされ、同時にその形相からも、阿形は表に発する怒りを、吽形は内に秘めた怒りをそれぞれ顕すとされる。
これらの意味が、寺社に獅子狛犬を守護獣として配する所以となる。
綾が苦々しげに唇を噛む。一足遅かったやも知れぬと思うと残念でならないが、今は残された手掛かりを探すより他は無い。
相変わらずの嫌な寒気が続く中で、綾が月光の届かぬ森へと目を凝らした時、変化は起こった。
ごそり
暗闇の中で何かが蠢いた。
既に半蔵は剣に手を掛け、威嚇するかの様に構えている。
いつの間に気付いていたのか。
「出て来たらぁどうだ。」
半蔵は抑揚無くそう言うと、半歩踏み出す。
蠢く影は隆起し、樹々の隙間から射す月光が、その影に質感を与える。
「そう慌てるな。」
ずい、と木立の陰から月下に歩み出したのは髭面の大男。
野太い声音は、まさに男の体格をも顕していた。
身の丈こそ半蔵には及ばなかったが、その身幅が綾の三倍を超えている。
巨漢。
しかし、その一言のみで片付けるには、男の四肢は太過ぎた。
足の太さなど、丸太と言っても過言では無い。
腰帯には、六尺超えの大太刀を、引きずる様に佩いている。
「以前は不覚を取ったが、今宵はそうはいかぬぞ、童。」
そう言うと大太刀に手を掛け、汚れた鞘を払った。現れた刀身は、手入れをしていないのか鈍く曇っている。
以前に取った不覚とは、綾が半蔵と初めて出会った野営地での事か。童とは半蔵のことか。
しかしあの時は、争った形跡は見当たらなかった。
「お前が首領か!?」
強い口調で、綾が大きく一歩前へ出る。
「答えろ!藤乃森を襲ったのはお前かっ!?」
返答を待たず続けた。
藤の華を描いた黒塗りの鞘が震えている。
抑え込んだ怒りが、握り絞めた柄を介して刀身に伝わっているのだ。
しかし。
「分かるか童、今や子籠りは終わった。覚悟を決めよ!」
さして歳も離れぬと見える半蔵を『童』と呼び、問い掛けた綾の姿なぞ露ほども気にせぬ。
更に『子籠り』とは懐妊を意味するが、それが終わったとは意味が解らぬ。
この髭男はまともに返答もせず、何を言っているのか。
綾の眉間が嫌悪に引き攣り、ついに怒りが溢れ出た。
「主ゃぁあっ」
境内に綾の怒声が烈しく響き、慌てた半蔵が綾を制した時、ようやく髭面の巨漢が綾に目を留める。
「ほぅ、あの小娘の縁の者か。確か、自害が得意な一族だったな。」
ぼぉりぼりと顎を掻き、髭の巨漢はにまりと笑む。
綾の顔色が変わった。
やはり、この男が屋敷を襲ったのだ。
葉身藤華の剣も、妹も知っている。
皮肉にも、その事実が綾に若干の冷静さを取り戻させた。
周辺の気配を探り始める綾の耳に、周囲の音が戻ってくる。
気付けば、既に虫の音は消えていた。
一迅の風が、
後頭部で束ねた綾の黒髪を揺らし、月下に艶やかな光沢を走らせた。
つい先ほど、怒りに任せて叫んだ顔はそこには無く、怒りを押さえ込んだ吽形の瞳が今はあった。
「主がさらった娘は、今、何処にいる!?」
妹の所在を確かめなくてはならない。
かろうじて冷静さを取り戻し、唸る様に発する綾の問い掛けは、人影の見えぬ境内に虚しく響く。
髭面の巨漢が「かか」と嘲笑った。
「だから小娘だと言うのだ。この状況を、お前の眼はどう映す。」
ぎりり、と綾の歯軋りの音が、半蔵の耳にまで届く。
人影の見えぬ境内。
それが意味するところは何か。
あえて考えぬ様にしていた現実を突き付けられた。
全身に震えが走る。
綾の怒りが頂点に達しようとした時、それまで脇で傍観していた半蔵が口を開いた。
「綾さんにゃあ気の毒だが、この男の言う通り、捜し人はぁ見つかるまい。」
見つかるまいとは、やはりそういう事か。
綾の怒りに再び火が灯る。
「此処から先はぁ、俺にやらぅんごぅっ」
何やら言いかけた半蔵が、突如、呻き声を上げてしゃがみ込む。
綾が握りしめた打刀の柄頭が、半蔵の脇腹にめり込んでいた。
「邪魔だ、半蔵。」
声が掠れている。
「かかっ、儂を前に仲間割れか。度胸だけは一人前よな小娘。いや待て、うむ、自害剣なら歓迎するぞ。暇潰しに付き合ってやろう。」
言うなり、大きく一歩踏み出し、抜き身の大太刀を右水平へ構える。
腰を落とし、剣を低く大きく後ろへ引く。
それは正に、在りし日の父、道斎が綾に指し示した剣。
諸手横薙ぎの構え。
あの日、
道斎は言った。
「この世には、お前の剣質では越えられぬ剣がある。」
その一つ。
それが今、眼前に立つ顎髭の巨漢によって、再現されていた。
大重量の大太刀。
それを繰る剛腕を以って、全てを薙ぎ払う戦場の剣。
構えに入る前ならば、前日の野太刀の男に対した様に、受けに回らせて押し斬る戦法もあった。
意表を突き、時代の概念に倣わぬ操法を以って、敵を翻弄する。
それが、『死人の剣』と嘲弄される『葉身籐華の護臨書』を遺した道斎が、綾に、綾だけに教え仕込んだ『生き残る為の剣』だった。
半蔵が以前に感じた綾の熟練度に似合わぬ違和感『間合いに対する迂闊さ』も、それを成す為の一手と言って良い。
しかし、今。
「さぁさあ、得意の自害剣にて首を差し出せぃ。」
笑みをこぼしながら待ち構える六尺超えの大太刀に対し、綾の打刀は余りにも短い。
唯一つ活路を見出だすならば、横薙ぎを跳び越えて打ち込む手も無くはない。
但し、
相手が予測していなければ。
しかして。
「それとも、お前は別の猿芸でも見せてくれるのか。」
猿芸とは、綾が跳ぶ可能性を予測し、揶揄したものか。
顎髭の巨漢は釘を刺したのだ。
奇策は通用せぬ、と。
静かに、
綾は藤の華を描いた打刀の鞘を払った。
表情は凛として、顎髭の巨漢を見据え続ける。
「我が剣を、何と蔑もうと構わぬ。だが、父上を、死した我が家の者達を、愚弄はさせぬ!」
そう言うと綾は、中段やや左半身に構え、刀身をほぼ水平に寝かせる。
これはいつもの、自然体を旨とする綾の右構えではない。
生き残る為に、父道斎に仕込まれた綾の剣ではない。
道斎が、綾の剣質に着想し、乱れる世を憂いて遺した兵法書。
名を『葉身藤華の護臨書』
力無き者が、己が尊厳を護る為だけに振るう剣。
自害剣、死人の剣と蔑まれた奇異なる剣。
今、その構えを以って綾が叫ぶ。
「真っ向勝負っ!葉身藤華の剣、主のその身に刻み付けよっ!」
綾に脇腹を強く打たれて蹲る半蔵だったが、その苦痛を堪えて綾を制止するまでに至らぬ理由が二つあった。
一つは、これまでに見せた綾の力量。
構えを変え、死人の剣と言われる操剣を行うと分かって尚、勝てるのではないかと思わせる剣才。
二つ目は、一族郎党の仇を討つと言う綾の強い願い。
刀鍛冶と言う、武家との繋がりを強く持つ職にあるが故の判断が、半蔵を見に回らせていた。
ざりり、
と境内の玉砂利を踏み締め、間合いを詰める綾に対し、顎髭の巨漢は微動だにしない。
唯一つ変化するのは、見事に膨れ上がり、偉容とも形容出来るその四肢。
綾の動きに合わせて拍子を取る様に、強靭な筋肉がひくひくと脈動する。
明らかに、綾の打ち込みに即応する為の用意であり、経験豊富な手練と分かる。
「どうした、小娘!吠えるだけの野良犬か!?」
顎髭の巨漢は「かか」と嘲ると、綾の仕掛けを促す。
「六ッ胴[顕国叢原]、遠慮手加減無用の業物!さあっ!!」
来い、とばかりに顎髭の巨漢がにじり寄る。
六ッ胴とは、刀剣の切れ味を示す尺度として使われる。
『胴』はそのまま人間の胴体を指し、試し斬りの一刀にて何体の死体を切り進んだかを意味する。
つまるところ、重ねた死体を六つまで、一刀で切り裂いたと言う事だ。
千年を越える和国の長い歴史上、文献では七ッ胴までが記述として確認出来る。
顕国叢原と呼ばれた大太刀は、見た目こそ汚れくすんではいたが、その刀身は刃こぼれ一つ見せてはいなかった。
風が木葉をゆらし、流れる雲が月光を遮った。
刹那、
過ぎ行く雲の影をなぞる様に、
しかし躊躇無く、綾が走る。
切先を相手に向けた構えは、突き以外にはもはや無い。
得物の長さを補う為の選択か。
一瞬遅れ、
「ぅんむ」の唸りが綾に届く。
顎髭の巨漢が、大太刀に両断の意思を籠めたのだ。
雲の影に紛れた綾の仕掛けに、即座に応ずる力量は、剛腕の見立てに違わぬと言えた。
大重量の大太刀で綾の一刀ごと巻き込み、諸手で薙ぎ払えば、突きも受けも大差は無い。
対して、懐の深い遠間の敵に届く突きだが、もし外せば後は無く、先に当たったとしても勢いづいた大太刀が止まる訳では無い。
その選択は、良くて相打ちを狙うに等しいと言えた。
にも関わらず、綾の踏み込みは迷い無く、しかし何の変哲も無いまま鋭さだけをを増す。
正真正銘、後先いとわぬ真っ向からの踏み込み突き。
訪れる交差の一瞬、
綾の切先は首筋に向かい、
「ひゅっ」
「ぉおりゃ!!」
綾の息吹と巨漢の咆哮が重なった。
ぎしゃん
鋼鉄が削れ潰れる激突音に、
綾の苦鳴が微かに混じる。
薙ぎ払われ、弾かれた様に綾の身体は、血飛沫を撒いて真横へ吹き飛ばされていた。
「ば…」
あまりの愚直な突進に、馬鹿と言おうとしたまま絶句する半蔵の目の前で、藪を形作る低潅木を薙ぎ倒し、がさがさと綾の身体が転がった。
顎髭の巨漢の大太刀を肩口へ受けて、くの字に折れ曲がりながら薙ぎ払われた綾を見れば、真っ二つにならなかったのがむしろ不思議とさえ言える。
そればかりか、直後によろめきながらも上体を起こす綾の姿とは。
月の薄明かりを浴びて、ふらつきながら立つ綾の左袖は斬り裂かれ、垂れ下がる左腕の肩口には朱の線が走っているのが判る。
意外なのは、剛腕による大太刀の渾身の一刀を受けて済む程度の傷では到底無い事だった。
「不惑の剣、思い知ったか!」
未だ息苦しそうに、綾が声をあげる。
その視線の先に仁王立つのは顎髭の巨漢。
ずるり
とずれる。
引き攣った表情を見せながら、
ずるりと、
肩の上をその太い首が滑り落ちていった。
あの交差の一瞬、
葉身藤華の護臨書を体現するべく振るわれた綾の太刀筋は、顎髭の巨漢を直接狙わず、首の左側の空隙へと深く滑り込んでいた。
敵の太刀筋を遮る様に、
刃を水平に敵の首側へ寝かせ、
敵の刃が綾を刀身ごと斬り払うのを待つ。
ただそれだけの剣。
斬り払われる大太刀が綾の打刀の切先を押し、顎髭の巨漢自らの首をも斬り付ける。
剛腕による必殺の一刀が、因果の刃となり振るった者へと襲い掛かる。
それは、
力も技量も関係無く、悪意から己が尊厳を守る為、躊躇無く踏み込む決意のみで振るわれる剣。
自害剣と蔑まれた葉身藤華の護臨書を、綾は生きたまま体現せしめたのだった。
樹々に囲まれた神社の境内は、月光と雲の影が綺を作り、その中を綾が半蔵へと近付く。
「よくもまぁ無事で…」
そう呆れた様に呟く半蔵だったが、だらりと垂れ下がる綾の左腕を見れば、無事な訳では無いと判る。
しかし、両断されても不思議ではなかった事を思えば、無事の内に入るだろう。
「これでも、相応の備えはしていたんだが。」
月光の下に綾の姿が露になり、半蔵の呟きに応える様に話し掛ける。
斬り付けられた傷口を見つめながら、綾は半蔵に向け、肩から腕にかけてを覆っている黒い網目模様を見せた。
それは小振りの金属環を繋ぎ合わせた羽織りの様な造りをした防具。
綾は自身の打刀と、この金属環を盾として、刀身と腕、そして肩全体を使って大太刀の斬撃を分散緩和させた。
にも関わらず、顎髭の巨漢は刃筋を通し、金属環で編んだ羽織りを半ばまで斬り裂いたのだ。
衝撃で吹き飛んだ事が、綾が華奢な体格で軽量であった事が、生き延びた要因である事を暗示していた。
いや、
案外綾は、それも一切合切承知していたのやも知れぬ。
そう半蔵に思わせるには充分な立ち回りだった。
ぱきん
木の枝が折れた。
虫の音は未だ戻らない。
ざざ
と樹々の葉が鳴る。
風は強く、雲が流れ行く。
「ご」
何かが唸った。
怪訝な音に綾が顔を上げる。
「ごごもり、ば、、」
何かが
「、ぉわぁた。ぷぶぁっ」
深い水底から息を継ぐ様に
「こたえや゛」
話し始める。
異変の認識に、綾が弾かれた様に振り返り、半蔵の顔に緊張が走る。
その眼に映るのは、
同じく綾の眼に映ったのは、
落ちた首を鷲掴んだ、顎髭の巨漢の躯。
首は、ゆうらりと二人に向き直ると、ぎょろりと綾を睨む。
その眼は、
死人の眼は、黄濁した穢れ(けがれ)を湛えていた。




