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幕の弐【天賦の剣】

幕の弐【天賦の剣】





雨。



しとしとと降る。


霧雨に近い。


山の天候は変わりやすく雨雲は厚みがあるが、時折、雲間を縫って明るく陽が射す。新緑にとっては心地良い雨だろう。

綾には迷惑だが。


旅先の急な雨を予想していない訳では無かったが、事情が事情だけに、傘などの余計な物を持ち歩きはしていない。

気持ちは綾を()かしたが、濡れて行くのも、後々の事を考えると良い判断ではない。


山間部の街道に民家は見当たらず、この近辺では茶屋が一軒。

休息と食事も兼ねて、暖簾を潜った所で固まった。


団子をくわえたまま茶を(すす)る、しかめっ面の半蔵がそこにいた。



雨。


しとしとと降る。


半蔵の前には綾が座っている。

ばつが悪そうに小さくなってぎこちなく茶を啜る半蔵の顔を、綾が睨みつけながら握り飯を食べている。

綾は何も聞かない。

雨の中、此処で飯を食っていると言う事は、目的は同じく雨宿り。逃げる事も暫くはすまい。

ならば、と意地の悪い事を考えた綾が、先程からずうっとこうしているのだった。



あの日、半蔵から情報を聞き出せぬまま逃げられた綾は、逃げた方向と周辺への聞き込みから、賊の向かう先に目星を付けた。

それを辿ってみれば案の定、道中いたる所で、賊と半蔵の足跡(そくせき)が見つけられた。

特に半蔵は、度々道中の茶屋へ立ち寄っており、その出で立ちからも追うのは易かった。


考えてみれば、幅広の長刀一本以外には、目立つ手荷物を持ってはいなかったのだ。旅をする格好では無い。茶屋への寄り道も至極当然。いずれ追い付く道理。そこへこの雨である。

袋の鼠。

小さくなってしょんぼりな半蔵に、ぴったりな言葉だ。


結局、

追加の『焼き岩魚』を味わい尽くすまで、綾は一言も発しなかった。



しょんぼりな半蔵の言い分は徹頭徹尾「無茶をするな。」「俺がやる。」「勘弁してくれぃ。」の繰り返しであった。態度は控え目だが、何を言われても変わらぬから、綾も取り付く島が無い。

そして、

山間(やまあい)を濡らす雨音も消え、小鳥のさえずりが聞こえ始めた頃、話し合いに(らち)が明かないと判断した綾が「尋常に勝負だ!」と立ち上がる。


暖簾を跳ね上げ茶屋から出ていく綾に、小鳥達の驚く様は映っているのだろうか。

表情は既に、怒り心頭を現していた。





綾の父の代、権力の継承問題に端を発した二人の『帝』の出現は、世の混乱を招くと同時に、武家社会の欲望を励起した。

武家本来の『働き』が、利益と権力を呼び込む世。

混乱と戦乱。

北と南に別れ争う二つの権力。


そうした中、武力によって富と名声を積み上げる武家にあって、綾の一族である藤乃守家は異端と言える途を辿った。

武家の本懐、武芸者としての誉れも高かった父であったが、ある思想と、それを基に構築した一種の兵法が他家の嘲笑を呼んだのだ。


乱れる世にあって、正に凄惨を極めるのは力振るえぬ者である。武力と暴力の濁流に翻弄され、望まぬ末路へと押し流される。

無論、身分によらず乱世を好機と捉え、自ら剣を手に進むならば、ある意味それも本望だろう。

しかし、巻き込まれた者は無念の想いに沈みゆくのみ。


そうした乱世を嘆いた綾の父は、自らの剣の才と想いを以って、一巻の兵法書を記した。


『葉身籐華の護臨書』

(ようしんとうかのごりんしょ)


綾の持つ刀の鞘にある『藤の華』は、これと関連する。


綾の父は言う。

「戦乱の中に置かれた女子供は、濁流に落ちる木の葉の如くあり。流れに身を任せる他に無く、尊厳を護る術も無し。」

なればこそ、と言を継ぐ。

「たとえ濁流に落ちようとも、藤の蔓の如くに地に根を張るならば、逆らえぬまでも乗る流れを選べるやも知れぬ。」


念いを馳せるは、

操剣に長けていなくとも、膂力に自信が無くとも、自らの尊厳を護り、襲い来る者にせめてもの一矢を報いる剣。

戦う為の剣では無く、

生き残る為の剣では無く、

ただ己の尊厳を護る、力無き者の為の剣。


しかし、剛気さ豪胆さが価値を持ち、剛力無双が誉れとされる社会において、その思想は、完全に相反する唾棄すべきものだった。

他家の者等は、藤乃守当主の唱えた兵法をこう呼ぶ。

『死人の剣』

自害剣である、と。


こうして、藤乃守家は徐々に他家から敬遠され、衰退の途を辿る事になる。





茶屋の建つ山間の街道は、茶屋の主人がそうしたのか、店の前が少し開けて良く手入れがされている。

雨上がりの湿った道も、茶屋の周辺だけは粗目の川砂や砂利が撒かれており、歩き心地が至極(しごく)良い。


腰帯から抜いた打刀を構える綾の前方、だんご印の暖簾を潜った半蔵が、力無くため息をつく。

鞘払いしていないとは言え、当たれば十分痛い。その上、綾は怒り心頭、今や遅しと待ち構えているからかなわない。

試しに一つ二つ言い訳をしてみるが、逆に頬を引き攣らせて「構えろ!」と言われる始末。

半蔵の心境、推して知るべしである。



半ば諦め顔の半蔵が天を仰いだ時、

小鳥達が雲間からの陽射しに喜びを歌ったその時、

雨上がりの爽やかな空気が、どろりと一変した。





綾の視界の端に人影が現れるのとほぼ同時、半蔵が怪訝そうな表情で綾の後方を見渡す。


山の斜面から、岩影から、藪を切り払い現れた人影は、茶屋を取り囲む様に七人。

着物を着流した者から、鎧武者崩れ、農民らしき姿の者までが、各々手に得物を携えている。

統一感の無い恰好に、太刀や槍、鎖鎌を持つ者さえいるが、ある特徴が、全員が同じ一党であると告げていた。

それが、薄汚れた肌と、黒く(まだら)に血痕の残る着衣。そして、顔に浮かぶにやけた笑みである。


半蔵の顔に渋い表情が浮かぶ。

対して綾は、切れのある動きで鞘を払い腰帯に戻すと、切っ先を上にして打刀を肩に担ぐ。

その男勝りな立ち居振る舞いに「おぉ!?」と幾人かの男等が歓声を上げる中、綾の視線が一人を捉える。


着物を着流した野太刀の男。

綾からは最も離れた位置にいるが、用心深く辺りに気を配り、顎先で指示を出している。よく見れば、着物の袖に隠されてはいるが、その腕の太さは尋常ではない。二の腕など、細身の綾の脚ほどもあるだろう。


「物騒なことだな?」

綾が口を開く。

お前ぇさん程じゃねぇよと笑う男共を、無視して続ける。


「囲むと言う事は」

刀の柄を握る綾の手に、力が篭る。

「"そう"受け取って良いのだな!」



己の置かれた状況に、

「ううむ」と渋い表情で半蔵が唸る。はたと気付いて今ほど潜った暖簾の方を見ると、店の看板娘が恐る恐る外の様子を(うかが)っている。半蔵はそれを手で制すると、賊らしき者共から店への入口を塞ぐ様に立った。


半蔵の言を信じるなら素性は鍛冶師だ。しかしその長身と幅広の長刀を前にすると、いかな無頼であれ、否が応でも警戒せざるを得ない。


知ってか知らずか、半蔵が直刀に手を掛け、柄頭をぐいと引き下げる。半蔵の背で垂直にぶら下がり、視界から隠されていた長刀は、見ろとばかりに背から斜めに姿を現した。


ざざざ

と半蔵を囲んだ幾人かが、腰を落として一歩後退る。その顔からは、にやけた笑みが吹き飛んでいる。


視界の端に半蔵の姿を映し、前へ出ようとしていた綾も「ほう」と呟く。


長身だが痩せ身の半蔵の、直刀の柄を掴むその腕。着物がはだけた鍛冶師を名乗る男の腕は、野太刀の男と同質の力感を孕んでいた。



一方、

明らかに華奢な体格と判る綾に対し、三人が椰瑜(やゆ)を浴びせながらも慎重に囲みを作り始める。

腑抜けた笑みを放ちながらも、抜目なく足場を選ぶ一党の動きは、場数を踏んできた証なのかも知れぬと綾に思わせた。

しかし、それを知って尚、綾がゆうらりと前へ歩み出す。

向かう先には、野太刀の男が怪訝そうに綾を眺めている。やろうとしている事は解るが、と言う顔付きだ。



半蔵の表情が一層険しさを増す。

茶屋の入口を守る半蔵は、迂闊に動けない。

半蔵からやや離れた位置に立つ綾の背の動きから察するならば、綾の更に先、一団の最奥に構える一党の頭を潰す積もりだろう。

半蔵自身、綾の踏み込みの速さは理解している。意表を突けば囲みの三人も抜けるかも知れない。しかし、遠間からの一刀は、守りに徹するならばどうとでもなる。現に半蔵は以前に一度躱している。

一刀で決着が付かねば四対一。いや、それ以前に野太刀の男との体格差は埋めようが無い。

綾の膂力では男の一撃すら、まともには止められまい。


しかめっ面の半蔵の脳裏には、遠間から飛び込む綾の姿が思い起こされているのか、苦渋の色が濃くなっていた。






囲みの三人を引き付け、一息に野太刀の男に斬りかかろうと綾が鬼気を孕む。

が、場数を踏んでいるだろう一党の幾人かがその考えに辿り着くのに、差ほどの時は要らなかった。


「こいつぁまた、物騒な娘さんだ。」

長身の男がのそりと、綾の前を塞ぐ様に立つ。

男共の顔に、微かな嘲りの表情が浮かぶ。

「頭の出番は、もうちぃっと先でさぁな」

綾の右側面を固めた鎖鎌の男が、半蔵をちらと見遣りながら続いた。

半蔵はと言えば、じりじりと間を詰められてはいるものの、動きは無い。迂闊に動いて茶屋の者たちを人質に取られなどするのは避けたい。どうにも足止めを喰らっている格好だ。


一党は御し易そうな綾から先に片付ける構えを見せている。間違いなく、多対一の戦いに手慣れていると言って良い。


しかし当の綾は、前を塞がれたにも拘わらず、躊躇無く真直ぐに歩んで行く。

「ん?、お?、お?」

無用心に間を詰める綾に、男が面白いとばかりに声を上げると、それに応えるかの様に綾が言い放った。

「臭い!退()け!」


「!!!」


挑発。

如何にこの場を切り抜けるかと悩んでいた半蔵が耳を疑うより早く、狂気を宿した男の剣が綾の肩口を襲う。


うあと短く声を上げる半蔵。

長身の男の剣に応じた綾の剣が、僅かに遅れたのを見てとったのだ。


遅い。


太刀筋は交差せず、ほぼ同方向に重なった。長身の男の下からの右逆袈裟斬りに対し、僅かに遅れた左逆袈裟で応じたのだ。


擦れる様な金属音が響き、肉片と同時に綾の頭髪が弾ける様に散った。

一拍おいて大量の血飛沫(しぶき)が舞う。


「ぬぅう!」と唸る半蔵の腕に力が漲る。

にが虫を噛み潰した表情を浮かべ、綾の方へ踏み出そうとする半蔵が、そのまま固まった。


身体をくねらせ、仰向けに倒れたのは長身の男。

割れた額が血を噴き出している。


互いの剣がぶつかった衝撃で、男の剣は外へ弾かれ、逆に綾の剣は相手の額を捉えたのだ。

飛び散った肉片は、男のものだった。

交差法で男の剣を受けたのならばともかく、太刀筋が平行気味に重なって尚、剣同士が接触したのは、運が良かったと言う他は無い。

もし接触していなければ、遅れをとった綾の剣が相手を捉える以前に、最悪の決着を見ていたはずだ。


「馬鹿がっ!!」

頭と呼ばれた野太刀の男が小さく毒づき、顎先で他の者等へ合図を送る。

半蔵を足止めしていた一人が、綾の背後へ回り込み、綾と野太刀の男の間には、側面から別の男が潜り込んで来た。


「てて、てめ、よょくも、おーお…」

興奮しているのか、上手く話せないらしいが、構えはしっかりしている。

手にした打刀も良く手入れがされており、侮れる相手では無いと判る。

綾の動きを制する為か、切先を向け威嚇するが、当の綾は歩みを止めようとはしない。

そればかりか再び、

下衆(げす)に用は無い、退け!」


またも挑発。


賊に対する綾の怒りは、事情を聞いている半蔵には十分理解出来る。しかし、挑発は相手が先手を取るきっかけを与える事になる。今、囲まれた状態から抜け出すには、相手の動きを制して不意を突き、綾が先手を取る必要があるはずだった。


「こ、ぉお」

言葉とは裏腹に、男の剣を振りかぶる所作は速かった。

上段からの切り下ろしが、意外な程の速さで綾を襲う。綾も同じ切り下ろしで応じているが、僅かに遅れている。

太刀筋は重なり、鋼の打ち合う擦過音が小さく響いた。


そして直後、半蔵が目を背ける。


どさり、と


綾の足元に、打刀を掴んだままの腕が転がった。


「ひゃは」と

男の奇声が上がる。

唸る半蔵だが、自身を牽制する槍と、茶屋の中を窺う小男に阻まれ、前に出る機を見出だせ無い。


しかし綾の後ろ姿に変化は無く、再び前へ進み始める。


と同時、今まさによろけてへたり込む男の剣は、歓声を上げたかに思えた男の剣は、利き腕ごと本来あるべき場所から消えていた。

遅れたかに見えた綾の剣が、男の腕を先に捉えた事になるのか。

奇妙な違和感が半蔵の足を止めた。


「けえぇぇえぃ!」

一瞬遅れ、気合いと共に綾の背後から鎧の男が斬りかかる。

初めから、仲間と綾が斬り結ぶ隙を突くつもりだったのだろう。あてこそ外れたが、飛び込みに躊躇が無い。太刀の振りも小さく、綾の襟元を突く様に打ち込む。


振り向き様、三度(みたび)、遅れて応じた綾の太刀筋が賊のそれとほぼ平行に重なる。

鋼の擦過音が響き、ごりりと鈍い切断音が入り混じると、悲鳴を上げて鎧の男が転がり倒れた。

そして、しばし悶えた後に、ぴくりとも動かなくなる。



事此処に至り、初めて、場の全員がその異常さを理解した。

偶然も三度は続かない。

綾の剣が遅れた事も、

太刀筋が重なった事も、

鋼の擦過音も。

綾の素性を幾らか聞いている半蔵でさえ、眼前で起きた事の次第を理解し切れない様子が伺える。


解ることは一つ、

全て一刀。


綾は避けも、受けの仕種さえもしていない。紛う事無く、三刀で三人を、その斬り込みごと討ち払ってみせたのだ。

凍りついた様に動かぬ賊共の表情には、動揺と焦燥が張り付いていた。





綾が父から手解きを承け始めて数年を経た頃、剣の操法の基礎はほぼ出来上がり、仕合えば、兄達との体格や膂力の差を感じさせぬ程の練達をみせていた。

しかし、成長期を経た兄達に混ざり、交互に懸かり手と受け手を入れ代わる『打ち込み稽古』を行うと、その体格と膂力の差はあまりにも明確に顕れた。

受け手に回った綾が、兄達の打ち込みを止め切れないのだ。

受けた打ち込みの勢いを殺し切れず、自らの木刀が身体を打つ。その状態が常に続き、生傷が絶えない。

こうなると、兄達も本気では打ち込めない。

父は困惑した。

今のままでは、双方共に稽古に為らぬ。

無論この先、綾が戦に出る事は無い。とは言えこのところの時勢を鑑みれば何事も起こらぬと誰が言えようか。仮にしても剣を握れば、受けに回らざるを得ない事態は有り得る。

体格差を埋める膂力は、女である綾には望めない。つまり、兄達と同じ操剣を学んでいては、綾はいずれ豪剣の前に散る事になる。


父は渋る綾を兄達から離し、膂力の差を補完する稽古を始めた。父自らが相手として立ち合い、打ち込みを如何に(さば)くかのみに傾注(けいちゅう)させたのだ。

この事が、綾の剣に一つの変化をもたらした。


それは初め、剣の操法の一つである円の動きに顕れた。

直線的に振り切って切り返すより、力の方向を変えて弧を描く方が、より速く力も必要としない。

刀身の負担も、一点に集中する直線的な打ち払いより、擦る様に流せば軽くなる。

父との稽古の中で、それを実感した綾の操剣が、円の動きをより小さく鋭くしていった頃、父が綾に問うた。

「重いか」と。





「重いか」


綾の父、藤乃守道斎と言えば、近隣に於いては剣豪としての誉れも高い。

「五尺太刀を片手で振るい、両手(もろて)となれば生竹三本を撫で斬る」とされた。

ところがその道斎が、自身の娘に木刀を構えさせ、「鬼も()くやに(鬼の様に)打ちのめす」との噂が広まった。

屋敷の周りは土塀や植木で囲ってあるが、風通しの為の隙間など幾らでもある。

綾の打ち倒される姿を見たのだろう。

女子(おなご)に剣を持たせるなど、まず無い世の中だ。

そのうえ、剣の稽古は通常『形稽古』を指す。ゆえに娘に胴丸(どうまる:防具の一種)を着せて捌きのみをさせたとなれば、誰もまともな稽古などとは思い至らぬ。

故に、道斎が娘を打ち据えると見えるは必然。

家の者の困惑を尻目に、道斎は「捨て置け」と言い放った。



この稽古を始めた当初と比べ、明らかに強い打ち込みを綾が捌く様になり、時折、道斎は本気で打ち込んで様子を見ていた。

「幾分危険か」と思える太刀筋も、受けた刀身を滑らせるようにして流す様は、剣士としての自身の血を沸き立たせる。

「重いか」の一言には、「更に強く打ち込んでも良いか」の念いをも込めていた。


「父上の剣も、"先っぽ"を剣の手元で受ければ苦になりません。」

綾の飾らぬ答えっぷりに、道斎は思わず苦笑した。

「ふむ、そうか。

しかし、先っぽとは…。せめて、もう少し慎ましやかな言葉遣いをしてくれると嬉しいが…」

剣ばかり振らせ過ぎたかと肩を落とした道斎に、顔を赤らめて「父上に似たのだ」と弁解する綾との会話は、後の変化の兆候を含んでいた。


それが明確になったのは、道斎が打突に複雑な連携と鋭さを加えた時だった。

そのことごとくを綾が捌ききる。


「ほう、今のが見えたのか。」

感心を通り越し、呆れた声を上げた道斎に綾が答えた。

「見えませぬ」と。


意外な返答に道斎が変な顔をしたからか、綾が笑いながら言う。

「父上の剣は速過ぎて見えませぬが、手元の動きは見えまする。打つ直前の引き、手首の反し、振りの向きや速さ、それに足捌きを(かんが)みれば、自ずと太刀筋は見えて参ります。」


確かに、相手の挙動から次手を予見する事は武道の基本であり、剣は腕の延長と言える。

つまり、切先の動きは速く千変万化だが、それを生み出す手元の動きは、充分に見て取れる。

しかし、そこから読み取れる予測を確信に変えるのは、道斎ですら難しい。

綾の返答に驚かされると同時に、不安もよぎる。

真剣は抜けば命のやりとりとなり、読み違えればどうなるかは自明の理。

己が心の恐怖との闘いと言っても良い。

そうした思いにとらわれた時、綾が続けた。

「太刀筋が見えれば、後はその筋に我が剣の芯を乗せ、円の動きを以って迎えれば、相手の切先は外へと弧を描いて曲がります。その弧の中に己が身体を入れて行けば、そうそう斬られるものではありません。」


合点(がてん)がいった。

兄達の打ち込みに幾度も傷を負い、道斎の剣に身体を打ったのは数え切れない。

綾が稽古で倒れる度に、道斎は危険を説いて来た。

綾は恐れを知らぬのではない。

この護法の稽古の末に、己が剣質の先を垣間見たのだろう。

女であるが故に辿り着く剣。

剛力に頼らぬ剣。

綾の成長を目のあたりにした道斎の脳裏に、今の世の悲惨が浮かんだ。

力無くば倒れる世。

いずれこの地も、戦と言う名の濁流に呑まれるやも知れぬ。

その時、綾は生き残れるのか。


「道は造らねば為らぬ。」

知らず、

道斎は独り、つぶやいていた。





もとより綾の剣才は、二人の兄を越えていた。

膂力と体格で大きな差を付けられて尚、兄達と互角以上に仕合っていたのだ。

そこに加え、膂力に頼らぬ剣捌きを身につけた今、綾の相手が務まるのは、父道斎のみとなっていた。


「むぅ」


綾との稽古の中で、奇妙な感覚に道斎は捕われた。

道斎の正面斬り下ろしに対して、時折、綾の太刀筋が重なる。

道斎の木刀を打ち払う訳ではなく、正面斬り下ろしに対して、同じ正面斬り下ろしが(かす)る様に重なるのだ。

何が起こったか。


道斎の太刀筋は綾の体幹を()れ、綾の太刀筋は道斎の体幹を捉える。


無論、太刀筋が重なり接触すれば、そのような事も起こる。

初めはそうした認識だった。

ところが、日を追うに連れてそれが多くなり、いずれも逸れるのは道斎の太刀筋となると話は変わる。


偶然では無い。


考えてみれば、綾は極めて正確に相手の動きを読む。

それは、太刀筋が重なるのは読み違えでは無い事を意味する。


「これは、どうしたことか。」

その事に気付き、驚きを隠せない道斎が綾に聞いた。


(しのぎ)を使っておりまする。」



和刀の多くは、刀身の側面に『(しのぎ)』と呼ばれる構造を持つ。

これは『鎬造り』と呼ばれ、刃の断面が雫形になっており、刃と(むね)の中間部が一段膨らんだ形状をしている。

相手の剣を捌くにおいて、刃先同士が斬り結べば、刄こぼれですぐに使い物にならなくなってしまう。『鎬』はそれを防ぐ構造として役立っており、相手の剣を打ち払い捌く役割をする。


父の困惑を見て取ったのか、綾が言を継ぐ。

「父上の太刀筋を見極めてから、拍子を遅らせ、鎬を打ち掠らせる様に相打てば、自然、手元に近い位置で父上の打ち込みを受けまする。」


道斎は言葉を失った。


剣に限らず長物を構えれば、手元は強固に固定されるが、先端に行くに従い力の影響を受け易くなる。

父道斎との稽古で、綾の剣捌きはこれを基本としてきた。

つまり、膂力に劣る綾の太刀筋とは言え、固定された手元側で、道斎の剣の先端側を()り打ったならば、結果は明白。


しかし、そのような道理がどうであれ、狙って成り立つものなのか。


斜めに打ち払うならば、自身の太刀筋も逸れるが、決して難しくは無い。

ところが『擦り打つ』となると、太刀筋をまさに重ねるが如くに打ち合わせなくては為らぬ。

更に、擦り打てたとしても、懸かりが早過ぎれば逆に斬られ、遅過ぎても同様。

僅かな拍子の違いが総てを奪うのだ。


もし仮に、

綾の言葉通りに成せるのならば、それは正真正銘、攻防一体の太刀筋となる。

試さずにはいられない。

道斎は、綾を相手に幾度も試みた。

息を合わせ、綾の太刀筋に自らの太刀筋を重ねる。

そうして、

「ふぅう」と深く息をついた道斎の、出した結論は。

「戦では使えぬ。なにより、我等には使えぬ。」


道斎の言う「我等」とは、綾を除く者達総てを指していた。






時代は、

剛気さ豪胆さが価値を持ち、剛力無双が誉れとされる世。

武力と戦乱の世。


その世に在って『剣豪』と称される道斎の剣と、今や綾の身に宿った剣は、この時既に本質が違ってきていた。

時代の剣は豪胆の字の如く、勇猛果敢に討ち伏せる多対一の戦場の剣。

それに対し綾の剣は、幾つもの素養を内包してこそ(あらわ)れる一対一の剣。

剣豪と名高い道斎が、来ると判っている斬り下ろしにさえ、三度に一度成せるか否か。

極度の集中力と繊細な剣捌きに加え、強靭な『攻め』の意思を必要としながら、尚『護』の姿勢を示す剣。

剛力頼みの単純な明快さは、もはや何処にも無かった。


なればこそ、

戦では使えぬと道斎は説く。

馬上より『野太刀』『大太刀』を振り回し、下りては多数を相手に立ち回るのだ。

一人に集中出来る機など、戦には存在しない。

迂闊に守勢に回れば、取り囲まれて討ち果たされるのみ。


しかしもし、と道斎は続けた。

「この先、お前が取り囲まれる事あらば、一人づつおびき出して仕留めよ。今のお前が勝てぬ者など、そうは居らぬ。」

そう言うと、道斎は強い視線を綾に向けた。

「それをして尚、この世には、お前の剣質では越えられぬ剣がある。」

その一つ、

と道斎の低い声音が綾に届く。

腰を落とし、

足を広げ、

剣を低く大きく真横へ構える。

諸手横薙ぎの構え。

大重量の大太刀と剛腕を以って、全てを薙ぎ払う戦場の剣。

綾の表情に緊張が走る。


「生き延びる為の筋道は、この父が指し示そう。」


強い決意と共に、道斎の想いは形を成し始める。

葉身藤華の護臨書へと繋がる、綾の操剣として。





雲間から

初夏の陽が射す雨上がりの街道茶屋は、冷たげな空気に覆われていた。

茶屋を襲った賊は七人。

手慣れた動きで茶屋を囲ったその七人が、長い黒髪を風に揺らす華奢な女剣士に、わずか三刀で三人を失っていた。

動揺が賊を捉え、風の音だけが流れた。


「面白れぇじゃねぇか」

ふんと鼻で笑いながら、頭と呼ばれた男は片眉を吊り上げ、腰に帯びた野太刀を抜き放った。

それは、身幅(刀身の幅)も広く、重量感があり、何より長い。

刃渡り四尺は超えようか。

綾が手にする打刀(うちがたな)も長めだが、男の野太刀と較ぶれば、一尺(約30.3㎝)程短く身幅も狭い。

その上、男の腕の尋常ならぬ太さは、綾の脚程もある。


凍りついた様に固まっていた一党の男共が、野太刀の男の言葉を機に、ようやく呪縛を解かれた。

微かな安堵感すら漂うのは、恐らく男の力量を示しているのだろう。

警戒したのか、綾の歩みが止まった。

ちらり、

と牽制の視線を周りに送る。

賊の男共は、頭と呼ぶ男を信頼しているのか動きは無い。

対して、抜き身の野太刀はそのままに、男はじわりと前へ進み始めていた。

その間合い、およそ三間。

もう数歩近付けば、互いに構えに入るだろうと思える間合い。


刹那。


一瞬腰を落とし、綾が地を蹴った。

山間(やまあい)の街道に驚きが走る。

先手を取るためか、あまりにも遠間からの仕掛け。

唖然とその背を見守る半蔵の瞳は、満面の笑みを湛える野太刀の男を映していた。





半蔵は、自身が綾と斬り結ぶならば、如何にするかを自問した。

いくら踏み込みが速くとも、三間(約546㎝/一間は六尺で約182㎝)あれば受けるも躱すも(かた)くは無い。

となれば、間違いなく受け止める。


半蔵の思案は当たった。

低く踏み込んだ綾の初太刀を、同じく低い姿勢から野太刀が突き上げ気味に受け止める。

ぎょりり

と刃の削り合う音が響く。


華奢な体格と女子(おなご)の膂力。

一度刃を合わせてしまえば、弾き飛ばしてたたらを踏ますも、捕まえて腕力で組み伏せるも自在となる。


なるのだが、


組み止められたかに見えた綾の背が、踏み込みの勢いそのままに、前のめりに倒れ込む。

「かっ、があぁぁあぁぁっ」


野太刀の男の叫喚(きょうかん)が、事の結末を伝えていた。




完全に戦意を喪失し、蒼白な面持ちの賊共を捕らえると、半蔵は綾の様子を伺った。

今は店先の長椅子で、茶屋の主人や店の看板娘が、返り血を浴びた綾の世話をしている。


野太刀の男が何故、綾の突進を止められなかったか。

その答えは、綾の右腕に巻かれた肘当てに隠されていた。

綾は初太刀を放った瞬間、右手を柄から離し、左手一本での打ち込みに変えた。

そして止められた刀の棟に、踏み込みの勢いごと自重と右肘を乗せ、倒れ込む様に肩を入れたのだった。


刃を合わせ、互いが両腕で勢いを吸収したならば止められていただろう。

しかし、いかな剛力とて、刀に女子一人飛び乗られては支えられる訳が無い。

綾の打刀が男の肩に食い込んだ時、肉体の反射が痛みを緩和しようと筋肉を弛緩させ、綾の一刀は、その本懐を遂げて地に突き刺さった。



茶屋の店主の好意で、返り血を浴びた旅装束を着替えた綾が、捕えた賊の残党に尋問を始めたのは、陽も傾きかけた頃だった。


「あ、あ、あんたがあの藤乃守の!?」

賊の男共は揃って顔色を変えた。

「う、噂の死人の剣とは、全然違うじゃねぇか!?」

父の遺した剣への蔑称に、綾の表情が一層厳しくなる。

案の定、この一党は綾の屋敷を襲った賊の配下にあった。

ところが、今は(たもと)を分かったと言う。


「お、俺達もこんな稼業をやっちゃいるが、あ、あいつらぁ女子供に年寄りまで、見境無しだ。狂ってやがる。」

と口を揃えた。

微かな良心を口にして同情を買おうとしたのだろうか。

しかし、綾の表情には冷笑すら浮かばない。

その空気を感じたのか、一人が背を小さく丸めつつもぼそぼそと呟きだした。

「街道沿いを山二つ越えた所に、寂れたお(やしろ)がある。今もきっと…」

「お、俺ぁ案内は御免だ。あんな化け物の巣にゃ、い、行きたかねぇ。」

綾の問いに一人が答えた途端、突如他の二人に動揺が走る。


「化け物?」

流石の綾も、怪訝な顔を隠せない。

意見を求める様に振り返った綾の視線の先、少し離れた木陰で見守っていた半蔵が、いつしか立ち上がっていた。

半蔵は綾の視線に気付かず、ただぼんやりと、夕日に染まり始めた初夏の山を眺める。

その山が、街道の向かう先にある事を、半蔵は意識しているのだろうか。




程なく訪れるであろう夜の気配が、虫の音を緩やかに奏でつつあった。





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