紅いキャンドル
出かけた先で偶然入った清潔で明るい店に、そのボロボロな新聞紙は似つかわしくなかった。日に焼けている上に、あちこち千切れて中のものが覗いていた。
開けてみると奇妙なものが入っていた。いや、物自体はごく普通だ。真紅のロウのキャンドル。よくいうアロマキャンドルではないかと思う。問題はそれを収める黒い容器だ。何だってこんな商品を置いているのだろう。
なんとも不気味な悪魔が、米粒に絵を描くような細かさで描いてあるのだ。細工の精巧さと地の黒が悪魔の醜悪さを引き立てていた。おちょこほどの大きさしかないのだから、まったく大したものではあるが……。
ちょうど店員が通りかかったので、私は訊いてみることにした。
「おい、何だってこんなものを置いているんだ?古新聞にまで包んで」
呼び止められた店員は、私が指したものを見て顔色を変えた。そして、真っ青な顔のまま首を振った。
「お客様、これにはどうぞお手を触れずにおいてください。売るためのものではないのです」
「じゃあ、何でここに置くんだ?」
「それは……いろいろとありまして……」
口ごもるのを見てひどく興味をそそられた。それに、手に入らないとなればこの気味が悪くとも素晴らしい細工が惜しくなる。
「これをくれ。抗議は聞かないぞ。こんな所に置いておくのが悪いのだから」
店員はなおも渋ったが、私はとうとう言いくるめてしまった。
時計を見るともう約束の時間だった。私は急いで店を出た。
暗い部屋に電気もつけず、ソファーに横たわる。疲れで体が深々と沈んだ。かといってそんな場所で眠れば風邪をひくのは目に見えている。
数分休んだ後、ぐったりとした体を起こした。ふと、昼間買ったキャンドルのことを思い出す。あまりに忙しかったのですっかり忘れていた。
机に置いて火を点ける。アロマキャンドルならば多少はこの疲れも癒されるだろうか。
その見込みは当たっていた。香りは上手い具合に私の好みに合っていて、きつすぎず、薄すぎず、なんともちょうどいい香り具合で……。私は眠ると意識すらせずに、夢の中に引きずり込まれていた。
初めは鮮やかな夢だった。
でもそのうち、色がひとつ抜け、ふたつ抜け……そうして風景から抜けていった色は、私の目の前をグルグル渦巻いた。
全部が抜け切るとそれは渦巻きながらしぼんでいき、最終的には跡形もなく消えてしまった。
残ったのは無彩色のみのモノクロオム。水墨画のような風合いもなく、淡々とした。
私はそこに、ポツンと立っているばかりだ。
寝覚めも悪く、うっすら汗をかいていた。恐ろしい夢を見たものだと思いながら、特に何ともなしに机に目をやったとき、一瞬で血の気が引いた。
机の上には紅い宝石のついた指輪があった。通常はプラチナや銀で作る輪の部分の色は黒い。あのキャンドルを思わせる配色だ。だが、問題はそんなことじゃなかった。
色が、なかった。その宝石以外、色を持った物体がなかった。いや、昨日まではちゃんと色があった。確かにあった。私は頭がおかしくなりそうだった。どうしてこんなことになったのだろう?夢の続き……そうとしか思えない。
気付くと外に飛び出していた。無彩色の中でも、まだ夜明け程度の時間であるとわかった。
わかりにくいながらも町は薄暗く、頭上に太陽らしき光はなかった。そして、どこを見回しても色はないままだった。息が荒くなるにつれ、ひどく濃い絶望が心を占めていった。怖くて怖くて、立ち止まると震えそうなくらいだった。
ただの光でしかない太陽をモノクロの世界で見つけた瞬間、私は唐突に理解した。これは夢じゃない。理由はわからないが、私の目には色が映らなくなっている。この世の何よりもいとおしんできた色彩が、一晩にして失われてしまったのだ。
意気消沈して家に戻ると、いつの間に入り込んだのやら、見覚えのない少女がソファーに腰掛けていた。いつもなら不審がって怒鳴りつけていたのだろうが、今は苛立たしい気持ちは欠片も起こらなかった。
「あーあ、そんなにがっかりした顔してると死んじゃうよ? あ、死んだら、うちにちょうだいね」
何を言っているのか見当もつかないが……。受け答えする気力もなく、私は寝室へ下がろうとした。
「待って待って! 指輪、はめないとダメだって!」
「指輪……?」
言われて机に視線を落とす。さっき見た真紅の宝石の指輪はまだそこにあった。
他の色すべてを失ったのに……なぜこれだけは色があるんだ?
「それ、はめてるといいことあるよ。絶対ホント。信じてつけてて」
「いいことって……もう少し具体的にないのか」
少女は怖気立つような笑みを浮かべて、舌の先で唇を撫でた。悪魔のようだ、と思った。
「あと三日以内に女の人に会うよ。その人はあなたにとって誰よりも美しい。なんたって色があるからね。それがいいこと」
「女? それだけなのか? もう二度と元通りにはならないのか?」
「それは無理。だってあなたが選んだんじゃない。
あっ、それと注意しといてあげよう。指輪は、一度つけたら何があっても抜いちゃダメだよ。覚えておかないと大変なことになるから。じゃ、頑張ってね」
色のない世界。もう、元には戻らない。
どうしようもない痛みに朦朧としながら、私は指輪を掴んだ。顔を上げると、すでに少女はいなくなっていた。
溜め息もつけないほどうちのめされていたが、やがて指輪を掴んで左手の中指にはめた。宝石は小指の爪ほどもある立派なもので、私には似合わなかった。
私の経営する画廊は、それまで宝石箱にも等しい価値を持つ場所だった。嘘つきばかりが生きる人間社会で、色だけは嘘をつかない。絵が売られていく度に寂しく、仕入れる度に感動させられる、私にとって画廊は特別な場所だったのだ。
それなのに……もう今はどの絵も自らの美しさを囁いてはこない。かつての美しさを知っているから仕事を続けていられるものの、正直なところあまりの不幸に何も手につかなかった。日々の習慣が私の体を動かしてくれただけだった。
二日が経った夕方のことだった。一人の女が展覧会をやるための場所を借りたいと言ってきた。その女は私の目を引いた。身に着けているものや所持品、何よりその人自体に色があったのだ。あの少女が言っていた人物に違いない。だからといっても、到底元の幸せには遠い。
「ではこちらの書類に必要事項を書いてください」
「はい」
名前は河野 達樹……これは彼女の雇い人だろう。その他彼女を知る手がかりは書類からは得られなかった。だが、河野という男のことを私は知っていた。割合頻繁に絵を買い付けに行く店の店主だ。
「はい、これで結構です。河野君の依頼だったんですね。よろしく言っておいてください」
「あら、店主をご存知だったのですか。
失礼しました。私は新しく入った者ですが、どうぞこれからよろしくお願いします」
狙ったわけではないが上手い具合に名刺を交換できて、内心の焦りが落ち着いた。彼女の名前は、遠藤 葵。河野の店に行けば、また会えるだろう。
数日後、絵を買い付けに行った。あの遠藤という女性に会えるかはともかく、毎週一回の絵の買い付けはかつての私の楽しみだったのだ。習慣的に行ったに過ぎない。
「やあ、どうも。何か入りましたか?」
河野を見つけて声をかけると、彼は私を見てにっこりと笑った。商売用というよりは、気持ちのこもった笑顔だ。
「いらっしゃいませ。展覧会の話はいきましたよね?それに新人のを出そうと思っているんですが、僕の見たところ、なかなか有望ですよ。まだ若いですし。その人が描いたのがあります」
「ならば、ぜひ」
気乗りはしなかったが、薦められて見ないのも変なものだし、色のわからなくなったことが他人に知れたら職を失ってしまう。仕方がないので、いつもの自分の行動をなぞることにした。
絵を置いた部屋に一人で入ると、扉を閉めた。基本的に絵を見る時は音がないほうが好きなのだ。河野もそれを知っているから、好きなようにさせてくれる。
話題の絵はすぐに見つかった。
声も出なかった。色が見えたらと、この数日で一番切実に思った。
目に映らなくとも、そうとわかるほど鮮やかな絵だった。日々に色を与えていく朝日ではなく、徐々に色をひとつにまとめてゆく夕陽が描かれており、そのために鮮やかさはひどく印象的だった。画面の手前は黒い。たぶんそこからは夜が始まっている。題は『夕焼けの日』。
隣にももう一枚あった。草原の絵。強い風が吹くのを感じさせる。右の隅は白っぽくなっている。こちらの題は『空の草原』。どんな色をしているのか、非常に気になった。構図自体は単純なだけに。
私はどうして生きているのだろうかと、溜め息をつきながら情けなく考えた。これから先、幾度となくこんなことを繰り返すのは耐え難い。とはいえ、それが私の仕事なのだ。
うちひしがれて絶望に浸っていると、開くはずのない扉が開いた。いや、鍵をかけていたわけじゃない。だが、この店で私がここにいる間に扉を開ける人間はいないのだ。
いぶかしみながらも、感情を引っ込めて無表情を作った。開けたのは例の新入社員だった。
「いらっしゃいませ」
ここに人がいるとは思わなかったのだろう。軽い驚きを浮かべながら言う。私は渋い顔をして見せた。
「商品を見せてもらっている間は、誰にも入られたくないのだけれど、店主にそうは聞かなかったか?」
「申し訳ございません。なにぶんまだ不慣れなものですので、ご容赦ください」
深く頭を下げる様子を黙って見ながら、私が身につけている気味の悪い指輪と、こんな女に色があるくらいなら、何にも換えられないこの絵達に色があればいいのにと、内心嘆息した。
「次からは気をつけてくれ」
素っ気なく言い放ったが、こたえた様子はなかった。
「はい、申し訳ございませんでした。……ところで、お気に召したものはございますか?」
打たれ強さが腹立たしくもあったが、怒るのも馬鹿らしいので心の底に収め、平然と答えた。
「このふたつは特にいいね。いただくとしよう」
「こちらですね」
彼女が『夕焼けの日』に触れたとき、私は思わずアッと声を上げた。不思議そうな顔を向けられるのも気にならなかった。
この世で唯一肌色を保った手が額縁に触れると、紙に水が染みていくかのように色が復活していった。額縁だけでなく、絵のほうにまで……。
ついさっき切実に望んだことが、こうもあっさり叶うとは。これは……この人がいれば、すべてを取り戻せる。失くしたものを取り返せる。
「遠藤さん、今度私の店に来ませんか。少し訊いてみたいこともあるし、あなたにとっても今後の勉強になると思いますよ」
「お招きいただけるなんて。ありがとうございます。こちらからも、先日お願いさせていただいた展覧会について、何かと伺いたい点がありますので、助かります」
遠藤は、子供のような無邪気な笑みを少しばかり混ぜてそう言った。額縁に『売約済み』のシールをつけると、会釈して出て行った。私は眩しいほどに鮮やかな絵の前で、しばらくぼうっとしていた。
それから遠藤が来るまでが、非常に待ち遠しかった。いつ来るか、常に待ち構えていた。そうせずにはいられなかったのだ。
三日後の昼頃、通りに色が歩いているのを見つけた。待ち人だとわかって、浮かれたくなるのを必死に抑えた。遠藤は真っ直ぐにこっちへやってきた。
「こんにちは。お言葉に甘えて参りました。ご注文いただいた絵のほうは届きましたか?」
「ああ、昨日来たよ。まだ飾ってはいないけどね」
仕事場の中を一歩踏み出した。冷たいモノクロオムが暖かい色に満ち溢れるのだと思うと、幸せで気が狂いそうなくらいだった。なんだかんだと言って、私は色があることの有難味に慣れてしまっていたのだと痛感する。
「絵の配置を変えるつもりなんだけど、遠藤さんにやってみてもらおうかと思ってね。
量こそ多いけど、その分勉強になるだろう。届いたばかりのあのふたつの絵も頼むよ」
遠藤は驚いた様子で振り返った。まさかそんなことをやらされるとは、と目が言っている。私だって普通なら言いはしない。すべての絵に触れさせる理由が他に思いつかなかっただけなのだ。
「わかりました。やらせていただきます」
答えたときには何か考え始めているようだった。頭はいいのだろう。バカは考え始めるのも遅いものだから。
それからしばらく、私を頼りもせずに一人で遠藤は絵を並べ替えていった。一言も発しなかったのに、その配置は私の好みとひどく似ていた。私が並べ替えても同じ配置にするだろう。センスはある。この女性に必要なのは、あとはそれを生かす場だ。河野が展覧会を任せたのも、そのあたりを見抜いたからに違いない。
「いかがでしょうか?」
「うん。文句のつけようもない」
ほとんど反射的に言っていた。本気で言葉どおりに思っていたのだ。難癖をつけてもしょうがない。
遠藤はにっこりすると、ふと私の手に視線を落とした。
「素敵な指輪をはめていらっしゃるんですね。どなたかの贈り物ですか?」
悪魔の所業の証拠を、どなたかの贈り物とは皮肉に過ぎる。
苦笑になりそうなのをこらえたから、妙な表情になったかもしれない。
「まぁ、そんなところかな。宝石に興味があるの?」
「はい。将来的には、いずれ自分でデザインしてみたいとも思うんですが……なかなか機会がないですね」
宝石の話の後はまた指輪に話題は戻った。散々褒めそやしていたから、ある程度の価値はあるものなのかもしれない。カットの仕方が美しいだとか言っていた。私にはどうも、絵以外のことはわからないが。
欲しいものさえ手に入れば、遠藤は用済みだった。私はまた今までの生活を続けるつもりでいた。
ところが、遠藤は邪魔にならないくらいのペースで訪ねてきては、なんやかやと仕事について訊きたがった。これからのことを考えると、無碍にできないところがつらい。挙句の果てに、河野には私が口説いたんじゃないかと疑われる始末だ。でも、絵に色を入れられるのは遠藤だけなのだから、ただただ耐えるほかないのだ。
しかし気に入られているのは私ではなく、私が身につけている指輪ではないだろうかと思うことが多々ある。どうにも様子がおかしいのだ。
女性というのは光り物が好きだと聞いたことがある。だが、私の指輪に対する遠藤の執着といったらなかった。会えば必ず一度は指輪の話が出た。時々話の途中なのに、うっとりと指輪を見つめていることもあった。なんだかゾッとした。
展覧会の前日、とうとう遠藤はこんなことを言い出した。
「もしよろしかったら、その左手にはめていらっしゃる指輪、一日だけお借りできませんか?」
「借りてどうするの?」
訊くと彼女は、自我を失ったようなぼんやりとした笑みを浮かべた。
「じっくり見てみたいんです。大丈夫です、盗んだりしませんから」
指輪をはずすと大変なことに……。少女の言葉が脳裏をかすめないわけでもなかったが、今目前にある気味の悪さのほうが先に立った。
「いいよ。次会った時に返してくれれば」
相変わらず薄気味悪い笑顔の遠藤の前で、左手の中指に収まる指輪をはずそうとした。何度か痛いくらいの力で引っ張った。
……取れない。
「無理ですか?」
怖気が増した。このままで済ませたら、指ごと持っていかれそうな気がした。色を失くしたのとは違う、殺気をも感じる恐怖だった。
「明日、何とかはずして持ってくるよ。こっちにいる間は忙しいからなかなか暇がないけど、家に帰っていろいろ試したらきっと取れるだろう」
漫然とした、それでいて恐ろしい笑みが私に向けられた。
「はい。明日ですね。……約束ですよ」
さっそく家に帰ってから指輪をいじってみた。
石鹸やら酢やらを使ってみたがはずれない。三十分ほど格闘したが、どうにもならなかった。諦めと恐怖がせめぎあう中で、私は途方にくれてしまった。
「それ、どうしてもはずしたい?」
耳元で声がして飛び上がった。真横に、あの少女が立っていた。
「ああ」
「前にあたしが言ったこと、覚えてる?」
「ああ、覚えている」
即答すると、少女はわざとらしく不思議な顔をしてみせた。
「なのに、外したいんだ?」
「大変なことが起こると言ったが、なんだ? 何が起きるんだ?」
「教えられないよ。自分で選んで。指輪をはずしたい?」
未知の恐怖は確かにある。でも明日になって渡せなかったら、遠藤は指を切断するだろう、という確信に近い恐怖があった。もしかしたら、殺して奪い取るのかもしれない。リスクがあまりにも高すぎる。だったら、まだこちらのほうが助かる可能性はありそうに思える。
「外せるんなら、外してくれ」
少女は一瞬、凄惨な笑顔になった。選択肢など始めからなかったと気付いたのは、その瞬間だった。
「はいはい、外しましょう。あなたの魂、あなたの器から」
止める間もなく、少女はあっさりと私の指から指輪を引き抜いた。視界が真っ暗になる。僅かに残された色である、指輪の宝石の真紅まで、拭い去られて見えなくなって――――
「選んだのはあなただよ? このキャンドルも、あの女の人を道具扱いしかしなかったのも、あたしの手で殺されることも。
せめて優しくしてあげてたら、あの人は悪魔の宝石の誘惑に陥ることもなくて、それなりにハッピーエンドだったのに。
女の子には優しくしなきゃ。地獄に逝ったら常識なんだから。覚えときなさい」
机の上にあるのは、醜悪な悪魔の描かれた真っ黒な器に、血のように紅いロウの入ったキャンドル。たった今火を消したばかりなのか、微かな煙と残り香が漂っている。
それらは名残惜しげに空間に留まっていたが、数秒後にどちらも感じ取れなくなった。
~完~
ねむねむ……奈々月です。
最初に書いたのは中学生くらいだったか……ちょっと忘れてしまいましたが、古い小説を引っ張り出して改稿してみました。
若干のホラー、なんでしょうかね……? あまり恐ろしい表現はいれていないつもりですが、怖かったらすみません。
基本ファンタジーと恋愛ものしか書けない作家なので、怖くないと信じてます(苦笑)
ホラー書ける人ってすごいと思うんです。あの臨場感、あれがなかったら怖くないわけですし。どんなジャンルでも大事ですけれど、臨場感って大事ですね。
それでは、おやすみなさいませ……。