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青春スクエア ~東夜嗄の片思い~ 小学生編6

あの出来事から、数日が経った。

学校が終われば嗄はすぐさま帰宅し、スイミングスクールのリュックを手にしてスイミングへ直行する。

学校が終わってすぐスイミングへ向かっても時間が余ってしまう。

それでも嗄は構わずにスイミングへ向かった。

寧ろ足早に。

嗄にはスイミングへ早く向かう為の理由があったのだ。

何故ならば、早目にスイミングへ行くと右京と少しでも長く話せるからだ。

先日の出来事以来、以前よりも右京との距離が近付いた。

以前よりも右京と話せるようになったのだ。

と言っても、話せる時間は限られている。

スイミングの授業が始まる前くらいしか話す事は出来なかった。

授業が終わってしまえば右京はすぐに帰ってしまうからだ。

少しでも長く、右京と話がしたい。

なので嗄は学校が終わればすぐさま走ってスイミングへ向かうのだ。

嗄の運動音痴はスイミングに通い始めて以来、少しずつでも改善された。

走っても転ぶ事もなくなり。

ドッジボールでは眼前に迫ったボールをなんとか避けられる程度までなった。

スイミングを始める前と比べればかなり運動神経は良くなった。

やはりスイミングを始めて良かったと思う。

このままスイミングが上手くなればきっと両親は自分を見てくれる。

兄達と同じように、褒めてくれる。

嗄はそう信じていた。

やがてスイミングスクールへ着き、フロア内へと足を踏み入れる。

視線を巡らせてみると休憩所のテーブル前に腰掛けているのが見えた。

右京の姿を見つけた嗄は錦織が傍に控えている右京の元へと一目散に駆け出した。

「うきょーくん! にしきおりさん!」

「お坊っちゃま、東夜様がお見えになりました」

「そんなこと、いわれなくてもわかってる」

右京が腰を下ろしているテーブル前の椅子まで来ると、錦織は洗練された動作で嗄が背負っていたリュックを預かってくれる。

更には椅子を引いて座るようにと促してくれた。

右京と向き合うようにして椅子に座り、嗄は嬉しそうに口を開く。

「ねぇ。うきょーくんっていつもぼくよりさきにきてるけど、どうして?」

「おまえとちがってクルマできてるからな!」

「じゃあ、うきょーくんがいってるがっこーってどこにあるの?」

「ここよりちょっとはなれたとこだ」

「へぇ。ちゃっとはなれたとこなんだー。じゃあ、おうちはどこなの?」

「ここよりもっともぉ~っとはなれたとこだ」

「そんなにとおいんだ……。ねぇ、こんどうきょーくんのおうちにおそびにいってもいい?」

「もちろんだ――」

「いけませんよ、お坊っちゃま」

右京の声を遮るようにして錦織の声が掛かる。

右京は隣に控える錦織を酷く睨め付けるが、それを錦織はさらりと受け流す。

嗄も釣られて錦織の方を見つめる。

「学校が終わられた後に複数の稽古、帰宅されてからは勉強とスケジュールが綺麗に埋まって居ります。それにお坊っちゃま、お坊っちゃまには遊ばれている時間は御座いません」

「すこしくらいならいいだろ?」

「良くありません」

「一日くらいけいこをやすんでもおれさまならもんだいない!」

「お坊っちゃまが良くても、旦那様からの言い付けで御座います」

「おれさまがよければそれでいいんだ!」

「そうですか。では、こうしましょう。稽古を一日休んで東夜様と遊ぶ代わり、一週間はずっとお坊っちゃまが大嫌いな食材のみでのフルコースと言うのは」

「はぁ!?」

「ピーマンのステーキに、にんじんのスープ。グリンピースのライスにナスとゴーヤのサラダ……。これを一週間、毎日三食ずつ――」

「ぜったいにいやだ!!」

「では、どう為されますか?」

「…………べ、べつにあそばなくてもいい! ここにくればあえるんだからな!」

右京は腕を組み、強がってそう言うが……。

ほんの少し悲しげな表情をして見せた。

刹那、右京の横でシャッター音が聞こえた。

何故このタイミングでシャッター音が?

不思議に思いつつ、シャッター音が聞こえた方へと視線を向けてみると――

「ああっ、お坊っちゃまの愁いを帯びたその表情も素敵で御座います……! これでまた一つ、私のコレクションが増えました……」

そう言うのは真っ赤なデジカメを手にし、恍惚とした表情の錦織。

写真を勝手に撮られていた事に気付き、茫然とする右京に対し更に連続でシャッターを切る錦織。

数秒後、我に返った右京が錦織に怒鳴り付ける。

「にしきおりぃ!! いますぐそのしゃしんをけせぇぇぇ!!!!」

「全力でお断り致します。これもお坊っちゃまの大切な、大切な成長記録で御座います。それとお坊っちゃま。帰宅されてから私が見繕ったゴスロリ服を着てもう一度、今の表情をお願いします」

「しんでもいやだ!」

「三分でも良いので、お願いしますお坊っちゃま!」

土下座でもしそうな勢いで主に頼む執事服の男。

イケメンだと言うのに、そんな事をする錦織の姿を目にした周囲の女性陣が……。

いや、フロア内に居た全員が右京達へと一斉に視線を向ける。

執事である立場の人間が、主に対して必死に懇願している奇妙な光景。

それも、ゴスロリ服だ。

――右京と親しくなって知った事が一つある――

それはいつも傍に仕えている、右京の執事である錦織の事だ。

錦織は常に右京の傍に控えており、執事としての仕事を全うしている。

更には容姿も端麗な為、錦織に好意を抱いている女性も多い。

スイミングに通っている子供を迎えに行くと言う名目で錦織を一目見ようとする主婦達も居るくらいだ。

だが、先日錦織は執事らしからぬ行動を取った。

主である右京に対して拳骨を食らわせたのだ。

叱る時はちゃんと叱る事が出来る執事。

周囲がそう思い始めた矢先、錦織は素顔を晒してしまったのだ。

錦織の素顔、それは右京を異常な程に溺愛している変態だった。

見学席から常備しているのであろうそのデジカメを構え、プールサイドに居る右京を息を荒くさせながら激写する変態。

挙句の果てには鼻血まで流し始め、右京が帰る頃には鼻栓を鼻に詰めていた事もある。

いつも通りの無表情に鼻栓をしていつもと変わらず右京の傍を歩く錦織を嗄は見た事がある。

それだけなら未だしも、錦織の趣味は右京を男の娘にする事だ。

ナースにメイドに巫女、酷い時にはスクール水着まで着せたがる真の変態。

どうやら最近はゴスロリ服に嵌っているようだ。

万能執事のようで欠点のある執事、錦織一輝二十六歳。ショタ好き(右京限定)の腐男子。

完全なる残念なイケメンだ。

けれど、なんとなくその気持ちもわかるような気がする。

美しい漆黒の髪に色白な肌。

綺麗なエメラルドグリーンの瞳。

確かにゴスロリ系の服を着せると、人形のように美しい事だろう。

そういう意味では良いセンスを持っている。

と言っても右京は普段着でも若干ゴスロリ調の子供スーツを身に纏っている。

ゴスロリ服が似合うがどうかは一目瞭然だ。

ズボンを半ズボンにさせている辺り、錦織の趣味だろう。

右京は見る限りにハーフだ。

恐らくは母親似なのだろう。

態度こそは悪いが、黙っていれば本当に人形のようだ。

そんな右京と仲良くなれて良かったと嗄は本当に思う。

嗄がスイミングに通うのは週に二回、水曜日と土曜日に通っている。

水曜日と土曜日、どちらも右京と一緒だ。

土曜日のスイミングは午前中に終わるのだが、そんなある日の事だった。

「なぁ、しょみんってどんなあそびをするんだ?」

不意に右京がそう尋ねて来たのだ。

突然の質問に一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。

スイミングの授業が終わった後、着替える為に更衣室で着替えていた時の事だ。

このスイミングスクールではフロアから通路を抜けると更衣室があり、更衣室の先にロッカールームがある。

そしてロッカールームの先にプールサイドがあるという構造だ。

嗄は着替える手を再開しながら質問に答える。

「ん~っとねぇ……。めんこあそびにベーゴマとか、なりきりごっことかかなぁ? がっこーだったらドッジボールとかもするよ?」

嗄がそう答えると右京はきょとんとした表情をしていた。

どうしてそんな表情をするのかがわからず、嗄は首を傾げる。

すると右京は再び尋ねて来る。

「それって、たのしいのか?」

「うん。すっごくたのしいよ?」

「それって、どんなものなんだ?」

興味津々と言った様子で右京は聞いて来る。

その様子を目にして、もしかしてと思い。

嗄は右京に聞き返してみた。

「もしかして、しらないの?」

嗄がそう聞き返した瞬間、右京の色白い肌が赤く染まった。

照れ隠しのように右京は腕を組み、威張って言い放つ。

「おれさまはそんなしょみんくさいあそびはしないんだ! ただおとうさまからしょみんのことをしるようにいわれてるからきいただけだ!」

「じゃあ、しらないんだね」

「うっ……うるさい! いいからおしえろっ!」

「うん、いいよ」

相変わらずの上から目線だが、右京が興味を示している事に気付いて嗄も右京が言う〝しょみんのあそび〟を教えてあげた。

今すぐにでも出来る遊びと言えばなりきりごっこなのだが……。

右京は生粋のお坊っちゃま。

嗄が見ているような戦隊ものの番組やアニメは見ない為、なりきりごっこは出来ない。

それでも右京は執拗に〝しょみんのくらし〟等について聞いて来た。

幼いながらも嗄は自分と右京は違うとわかっていた。

なので右京が聞いて来る事には何でも答えてあげた。

出来る限り、答えられる事は全て。

けれど、嗄は具体的にはわかっていなかった。

――自分と右京の本当の違いを――

しばらくの間更衣室で右京と話し合っていた為、もう更衣室には誰も居なかった。

いつもは更衣室まで錦織が入って来る事はないのだが。

流石にいつまで経っても出て来ないので心配になったのだろう。

更衣室へ錦織が訪れた。

「お坊っちゃま、早くしなければ次の稽古が――」

更衣室の出入り口から顔を出した錦織が、着替えている右京の姿を目にして瞬時に石のように固まってしまった。

かと思いきや、何処からか常備しているデジカメを取り出したかと思うと。

鼻息を荒くしながら全力でシャッターを切って叫ぶ。

「ああっお坊っちゃまっ!! その乳首のチラリズム……堪りません! クラッと来てしまします……っ!」

連続でシャッターを切られる中、嗄は右京へと目を向けてみる。

着替えの途中で話し込んでしまった為、右京も着替えの途中。

ズボンは履いているものの、ホックを留めていない為ブリーフがチラリと見えている。

錦織が射止められてしまったのは恐らくYシャツに腕は通しているもののボタンは留めていない為、綺麗で美しい肌が露出している所だろう。

話に夢中になりつつ着替えを進めた為、肌着を着る事を忘れていたようで脱ごうとしていた所、今の現状だ。

Yシャツの隙間から右京の可愛らしい乳首がチラチラと顔を見せる。

眼前で変態を発揮する錦織を目にして右京は顔を真っ赤にすると。

ゴーグルの入ったゴーグルケースを錦織へと投げ付けて言い放つ。

「キモチワルイ! このヘンタイがっ!!」

「ぐふぅっ!」

右京の投げ付けたゴーグルケースは見事に変態錦織の顔面へ直撃した。

だが、変態には全く効果がない。

ゴーグルケースが当たったせいか、それとも興奮から来るものかわからない鼻血を流しながら尚シャッターを切る錦織。

変態を構うよりも先に着替えた方が早いと判断し、右京と嗄はすぐに着替えを済ませた。

着替えた後も少しの間、錦織は変態モード炸裂だった為。

右京が錦織に屈むように命じた。

素直に従った錦織に対し、右京は――

手にしていたスイミングスクールのリュックを大きく振りかぶり、思いっきり錦織の顔を殴り付けた。

リュックで殴った後、右京は手にしていたリュックを錦織に突き出して一言。

「いいかげんにもどれ」

「――失礼致しました」

洗練された動作で一礼すると錦織は何処からかウェットティッシュを取り出して鼻血を拭い、鼻栓を鼻に素早く詰めた。

見っとも無く鼻栓をしているのにも構わず、まるで何事もなかったかのようにいつも通りの無表情で右京のリュックを手にする。

――本当に黙ってさえいれば、万能な執事だと言うのに――

本当に残念な男、錦織一輝だ。

右京はフロアへと歩き出したが、すぐに歩みを止めて嗄の方を振り返って一言告げた。

「つぎあうとき、そのしょみんのおもちゃをもってこい。あそんでやらないこともない」

ほんの少し頬を赤く染めて嗄を人差し指で指差し、右京はそう言った。

言うだけ言うと右京は鼻栓を鼻に詰めた錦織を連れてフロアへと歩いて行った。

右京が去った後、嗄は少し微笑む。

素直に遊んでみたいとは言わない右京。

それはプライドが高いからなのかはわからなかったが。

右京にも嗄達が遊んでいる遊びを好きになってもらいたいと思った。




水曜日、嗄は学校が終わると猛ダッシュで帰宅した。

スイミングのリュックを手にして家を飛び出そうとした時。

先日した右京との約束を思い出した。

もう少しで忘れてしまう所だった。

玄関まで来ていたが、子供部屋へと引き返して学校で使っているめんことは呼び難い代物と兄達と一緒に遊んでいたベイブレードとベーゴマをリュックの中へ入れて再び玄関へ向かった。

家から飛び出して、リュックを揺らしながら走る。

右京はこのめんこ等を目にしてどんな反応をするだろうか。

右京の反応を想像しながらスイミングスクールへと向かう。

嗄の家から小学校は道路を一つ挟んだ所にある為、走って行けばすぐに着いてしまう。

小学校のプレハブ校舎がある方に、小さな小道がある。

その小道を抜けて、右手側にある坂を駆け上がればすぐにスイミングスクールに着いた。

スイミングスクールのフロア内に入り、右京の特等席となった席へ向かいながら声を掛ける。

「うきょーくん! もってきたよー!」

嗄が声を掛ければ右京は嬉しそうな表情をして見せた。

しかし、すぐに威張るようにして腕を組むと告げる。

「さっさとしょみんのおもちゃとやらをみせろ」

「うん!」

無邪気に嗄は答え、リュックから牛乳瓶の蓋で作っためんことベーゴマを取り出してテーブルの上へと広げた。

じゃらじゃらと音を立ててテーブルの上に右京の言う〝しょみんのおもちゃ〟が広がり、右手でベーゴマを摘まんで右京が物珍しげに眺める。

ベーゴマを眺めた後は、手作りのめんこを手に取って眺めた。

本当に初めて目にするようで、右京の瞳はキラキラと輝いていた。

横で必死にシャッターを切る錦織にツッコミを入れる事も忘れて。

いや、下手をしたら錦織が眼中にないのかもしれないが。

「それで!? これはどうやってあそぶんだ!?」

キラキラと瞳を輝かせて、右京は尋ねて来る。

その姿を目にして嗄も思わず嬉しくなり、笑顔で答える。

「ベーゴマはね、こうやってあそぶんだよ」

ベーゴマに紐を巻き付けていき、巻き終わると一気に紐を引いてベーゴマをタイルの床に放つ。

床の上で静かに回り続けるベーゴマを目にして右京が「おぉっ!」と声を上げた。

もう一つベーゴマに紐を巻き付けて、再び床へと放つ。

二つのベーゴマがぶつかり合い、キンッと金属音を立てて互いにぶつかり合う。

それを目にした右京が椅子から下りて飛び跳ねながら言って来る。

「おれもやってみたい!」

「うん、いいよ!」

右京にベーゴマを渡してみると、意外とすぐに回せるようになって少し驚いた。

嗄がベーゴマを回せるようになったのは一ヶ月近く回し続けてようやく回せるようになったからだろうか。

右京の放ったベーゴマは上手く回り、嗄の放ったベーゴマを弾き飛ばしてしまった。

初めてのベーゴマにテンションを上げた右京は嬉しそうに笑って錦織に言う。

「やった! にしきおり! いまのみたか!?」

「ええ、ちゃんと写真にも収めました」

そう答える錦織はどう考えてもベーゴマではなく、右京を写真に収めたようにしか見えない。

実際に錦織は常に右京へデジカメを向けていた。

ベーゴマで楽しんでいる右京の横から嗄が気付かれないようにそっと、ベイブレードをランチャーに取り付け、ワインダ―を引いて床へとベイブレードを放つ。

床へ放った瞬間、右京の放ったベーゴマを弾き飛ばして嗄の勝ちとなった。

ベーゴマよりもデザインが格好良く、威力も強いベイブレード。

右京がベイブレードに喰い付かないわけがない。

「なんだいまのは!?」

「えへへ……。これはおにぃちゃんたちのなんだけど、もってきちゃった」

嗄はおもちゃすら与えられていなかった。

このベーゴマでさえ、桂から貰ったものなのだ。

だが、兄達と遊ぶ時はベイブレードを使う事が出来た。

一人で居る時に遊んでいる姿を椛に見られた時は物凄く怒られたが。

右京は完全にベイブレードに興味を持ち、嗄に言って来る。

「おれにもやらせてくれ!」

「いいよ!」

ベイブレードはベーゴマとは違い、パーツの組み合わせ次第で攻撃型になったり防御型になったりする。

兄達は攻撃こそ最大の防御派だったので、最強のパーツばかりを持っていた。

嗄は右京に最強のカスタマイズを施したベイブレードを渡し、右京と同時に床へベイブレードを放つ。

流石兄達が使っていたベイブレードだ。

ぶつかった瞬間に嗄のベイブレードは弾き飛ばされてしまった。

ベイブレードの後にめんこもして遊んだが、やはり右京はベイブレードが気に入った様子だった。

スイミングが始まるまでずっとフロアでベイブレードをして遊び、スイミングが終わった後でもまだ右京は遊びたそうにしていた。

そんな右京の姿を目にして嗄はベイブレードを右京へと差し出した。

右京が不思議そうに首を傾げると、嗄は笑顔で告げる。

「これ、かしたげる!」

「え……?」

「はじめてあそぶんでしょ? だったらかしてあげる!」

嗄にそう言われ、右京は一瞬困ったように錦織の方へ視線を向ける。

錦織は優しく微笑んで「物を借りるのでしたら大切に扱い、ちゃんと返すのですよ」と答えた。

錦織の言葉を耳にした右京は差し出されたベイブレードを受け取り、少し照れてからそっぽを向いて告げる。

「カンちがいするなよ。おまえがそういうからしかたなくかりてやるんだ。しかたなくだからなっ!」

色白な頬をほんのり赤くさせてそう言う右京を、嗄はちゃんと理解していた。

素直ではなく、天の邪鬼な右京。

顔を赤くさせてそっぽを向きながら言う時はいつも〝嬉しい時〟なのだと。

嗄はわかっていたから笑みを浮かべるばかりだった。

「かえすのはこんどあったときでいいからね」

「そのときにはあきているだろうけどな」

そう返しはするが、小さな声で「ありがとうな」と告げると右京は錦織を連れてスイミングスクールから出て行ってしまった。

右京の背中に向けて手を振った後、不意に寂しさが少しだけ嗄を襲った。

よく、あのベイブレードで兄達と遊んでいた。

いつも嗄ばかりが負けて涙目になっていると、兄達は必ず最後には手を抜いて勝たせてくれた。

兄達の事を思い出して寂しい気持ちになってしまう。

嗄は頭を左右に振り、考える事をやめた。

スイミングを頑張っていれば兄達も家に帰って来るかもしれない。

嗄はそう信じて必死に前へと進んで行った。

努力を続け、級も7級から6級へ上がった。

小学校一年生で既に小学校四年生程のレベルにまで上がって行った。

嗄のスイミングの級が上がった頃だった。

再び右京が尋ねて来たのだ。

「なぁ、しょみんのあそびってほかになにをするんだ?」

「ほかはねぇ~……テレビゲームとか?」

「……げぇむ? なんだ、それは?」

「いろんなゲームができるんだよ」

「それもやってみたいな! よし、こんどもってこい!」

「ムリだよ。テレビがないとできないもん」

「そうなのか……」

嗄がそう答えると右京が肩をがっくりと落とす。

肩を落とす右京を目にして少しだけ疑問に思う。

大金持ちのお坊っちゃまである右京ならば、嗄達が持っているようなゲームよりももっと良いものを持っているのではないだろうか。

それこそ、嗄の知らないようなゲーム機等を。

嗄はそう思い、右京に尋ねてみる。

「うきょーくんこそ、いっぱいゲームとかもってるんじゃないの? おかねもちなんでしょ?」

「もってない。マンガというものもみたことがない。よむのはいつもしょうせつばっかりだし、けいこにべんきょうばっか……。もう、いやだ。おまえみたいなせいかつしたい」

右京は小さくそう呟き、着替えていく。

何処か悲しげな表情をする右京を目にして少しだけ思った。

椛に縛られていた頃の自分と今の右京は、同じなのではないかと。

嗄のように何かをしたら酷く怒られるわけではないだろうが……。

したい事をしたくても出来ない気持ちは、嗄が一番わかっている。

右京の気持ちは、痛い程にわかる。

何も出来ず、ただ従うだけ。

自分に出来る事はただそれだけだった。

もしかして、右京もそうなのだろうか?

だから嗄達の遊びを知りたくても知れなかった。

一度で良いから遊んでみたかったが、今まで遊べなかった。

そうなのでは、ないだろうか……?

「あーあ、こんどけいこをぜんぶサボろうかな」

「え、そんなことしちゃってもいいの?」

「へいきにきまってるだろ。おれさまをだれだとおもってる。やなぎはらうきょうだぞ!」

「――おこられないの?」

「おこられ――ないこともない……。おにみたいなにしきおりがいるからな……」

どうやら右京にも怖いものはあるようだ。

錦織とはあのように仲良くも見えるが、恐らくは右京が一番に恐れているのは錦織だ。

拳骨をされる前のあの反応を見れば一目瞭然だ。

「でもいやなんだ。まいにちまいにちおんなじことばっか! それもやすみなく……。おれさまだってやすみたい!」

「おやすみできないの?」

「できるんだったらやすみたいだなんていうか」

「そっかぁ……」

嗄も着替える手を再開して少し考えてみる。

逃げ出したいという、その気持ちもわからなくもない。

兄達が居ない時、椛と一緒に居るのが息苦しかった。

なのでいつも兄達を待つ為、通学路にある公園で遊んでいた。

きっと、椛から逃げていたのだろう。

兄達が居れば守ってもらえた。

けれど兄達が居なければ――

嗄の生活は全てが止まってしまった。

兄達が居なくなって初めてわかった。

嗄にとって兄達の存在は必要不可欠だったのだと。

今ではなんとか成り立っているが、やはり以前とは何処か違う。

何かが違う。

自分は兄達によって支えられていた。

その兄達が今、傍には居てくれない。

「…………」

ついこの間までは手の届く場所に居てくれたのに。

今はとても遠くに感じられてしまう。

兄達は、嗄の手が届かないような場所に行ってしまった。

どんなに手を伸ばしても、届かないような場所に。

「じゃあまたな」

右京の声が耳に届き、ふと我に返る。

いつの間にか右京は着替えを済ませており、リュックを手にしてフロアへと向かって歩き出していた。

無意識に嗄は右京へと手を伸ばすが、その手は右京に届かない。

空を掴んだ手を強く握り締め、嗄は再び着替え始めた。

右京とはまた逢える。

兄達のように、何処かへ行ってしまう事はない。

安心すれば良い事なのに。

胸には冷たいものが宿ってしまう。

嗄はその日、寂しさを振り払う事は出来なかった。

それから数日が経った頃の事だった。

スイミングのない金曜日。

学校が終わり、嗄はランドセルを背に帰宅していた。

今日は夜から柊が出るバラエティ番組がある。

更には椿の出ているドラマも放送される。

夕方の六時には見たいアニメも始まる。

帰ったらすぐに宿題を終わらせ、テレビを見る為の時間を作ろう。

これからの計画を立て終えた頃に家へと着き、嗄は玄関の扉を勢い良く開け放つ。

「ただいまー!」

靴を脱ぎ捨て、リビングへ向かおうとした時。

玄関に一足だけ見知らぬ靴が綺麗に並べられていた。

大人の靴ではなく、嗄程のサイズの靴。

それも高級そうな靴。

もしやとは思うが、右京が来ているのならば錦織の靴もあるはずだ。

しかし、靴は一足だけ。

それも見る限りに高級品の靴。

「…………」

まさか、そんな事はないだろう。

いや、もしかするかもしれない。

玄関で高級そうな靴を見つめながら一人で自問自答を繰り返していると、リビングから楠が顔を出して告げた。

「嗄ちゃん、お友達が来てるわよ。お坊っちゃまみたいな子が」

お坊っちゃま……。

間違いない、右京だ。

嗄は慌てて靴を脱ぎ捨て、リビングへ足を踏み入れて居間の方へ視線を向けると――

四人掛けのソファーの真ん中にちょこんと腰掛け、麦茶の注がれたグラスを物珍しげに眺める右京の姿がそこにはあった。

傍には錦織の姿はやはりない。

ランドセルを背から下ろす事も忘れ、嗄は右京の元へと駆け寄って尋ねる。

「どうしたのうきょーくん!? きょうはにしきおりさんはいないの?」

「いない」

「どうして?」

「………………にげてきた」

「え……?」

「スイミングスクールにわすれものしたといってここにきた」

「え、じゃあおけいことかはどうしたの?」

「そんなの、ぜんぶサボった!」

「えぇ~!?」

つまり、こういう事だろうか。

錦織にスイミングスクールまで連れて来てもらい、隙を突いて錦織から逃れて来たと。

そして嗄の家までやって来たと。

それも習い事を全て投げ出して来てまで。

先日、習い事をするのは嫌だと本音を零していたが……。

そんなにも嫌だったのだろうか。

「でも、どうしてぼくのおうちをしってたの?」

確か、住所までは教えていないはずだ。

なのにそれにも関わらず、右京は嗄の家へとやって来た。

どうしてなのだろうか。

「きのうにしきおりにしらべてもらったからな」

――お坊っちゃまならば何でも出来るのだろうか?――

嗄は少しだけそう思った。

それから楠の方へと視線を向ける。

楠も困ったような表情をしていた。

「それでだ。おれさまがここにきたのにはりゆうがある!」

「え、けいこがいやできたんじゃないの?」

「それもあるが……しょみんのあそび、テレビゲームとやらをやってみたい! あと、マンガというやつもよんでみたいぞ!」

右京が瞳を輝かせて言った正にその時。

玄関の呼び鈴が押され、ピンポーンという音が響き渡った。

チャイムが耳に届いた瞬間、右京の身体が少し飛び上がったような気がした。

右京は瞬時に窓からは死角になっている場所へ身を潜め、小声で告げる。

「にしきおりだったらおれはいないといってくれ!」

そんな右京の姿を目にして、嗄と楠はお互いに顔を見合わせる。

顔を見合わせ、それから玄関へ視線を向ける。

とりあえず、訪問者の方へ行った方が良いだろう。

嗄は背にしていたランドセルを下ろし、楠と共に玄関へ向かった。

楠が返事をしつつ玄関の扉を開け放つと。

そこにはやはり錦織の姿があった。

錦織は楠に対して洗練された動作で優雅に一礼すると、安心したように表情を綻ばせた。

「――その靴はお坊っちゃまのものですね。やはり此処に居られましたか」

玄関に並べられた右京の靴を目にした錦織がそう告げた。

錦織は全てわかっている。

流石は右京の専属執事だ。

それでも嗄は右京に頼まれたように右京の事を庇う。

「うきょーくんなんていないよ!」

「東夜様、恐らくはお坊っちゃまからそう言われるようにと頼まれたのでしょう。ですが、私にはわかります」

「うっ……」

「昨夜、お坊っちゃまから東夜様の住所を調べるようにと言われまして。もしやとは思いましたが……。どうやら私の想像通りのようですね」

「でもこのくつはうきょーくんのじゃないよ! おにぃちゃんのだもんっ!」

「――東夜様、残念ながらその嘘は通じませんよ。そこにある靴は私がお坊っちゃまの為に見立てて特注したもの。謂わば、世界にたった一つだけの靴です。ですから、その靴を召される方はお坊っちゃましか居られません。それと、毎日この私が靴磨きを行っているので見間違えるはずがありません」

「うぅ……」

「それから、お坊っちゃまは柳原財閥の御曹司で御座います。誘拐された時の事等も配慮して、お坊っちゃまのその靴にはGPSが取り付けられて居ります。ですから、言い逃れは出来ませんよ東夜様」

全て理屈で返す錦織に幼い嗄が敵うはずもない。

どうやらここまでのようだ。

しかし、右京も苦しかったから逃げて来た。

右京は言っていた。

嗄のような生活をしてみたいと。

右京はただ純粋にそう思っているはずだ。

嗄と同じ生活を、少しでもしてみたい。

右京にはそれすらも許されないのだろうか。

「……ねぇ、にしきおりさん」

「なんでしょうか、東夜様」

「うきょーくんにもおやすみをあげて?」

嗄がそう告げると、錦織は驚いた表情をしてみせた。

先日、右京は言っていた。

休みが欲しいと。

毎日毎日、同じ事の繰り返しで息が詰まると。

幼い嗄なりに考えて思い付いた、右京を庇う方法だった。

「がっこうだってスイミングだって、おやすみのひがあるんだよ? なのに、うきょーくんにはないの? そんなの、うきょーくんがかわいそうだよ」

「……東夜様……」

錦織は静かに嗄を見つめて来る。

嗄もまた、真っ直ぐに錦織を見据える。

しばらくの間、互いに互いを見つめ合い――

やがて錦織が溜め息を零した。

そして錦織は苦笑気味に笑って告げた。

「……負けました。良いでしょう。今日の所は一度、引かせてもらいます。実は私もお坊っちゃまの事は心配だったのです。ですから――」

錦織は嗄から楠の方へと向き直った。

それから優しく微笑み、言ってくれたのだ。

「一日だけ、お坊っちゃまの事をお願いしても宜しいでしょうか? 明日のこの時間、再び迎えに参りますので」

「それはもちろん。一人でも二人でも面倒見ますよ」

楠がそう答えると、錦織は安堵の微笑みを見せた。

錦織のそんな表情を目にして少しだけ思う。

――右京は愛されている――

みんなから大切に、大切に守られている。

右京の事を心配してくれる人が居てくれる。

きっと右京にとって錦織とは兄のような存在なのだろう。

ほんの少しだけ、錦織と兄達が重なって見えた。

優しい表情に、優しい言葉。

普段は変態だが、本当に錦織は右京の事を大切に想っている。

すると錦織は思い付いたように顔を上げると、執事服の内ポケットからいつも常備している赤いデジカメを取り出した。

それから嗄と視線を合わせるように屈むと、取り出したデジカメを嗄の手を取って優しく手に収めてくれた。

手の中に収められたデジカメと錦織を交互に見つめていると、錦織が優しく言ってくれた。

「どうか、このデジカメで楽しんで居られるお坊っちゃまを撮って下さいませ。出来れば、たくさん。私がお坊っちゃまの写真を撮るのには理由があるのです。お坊っちゃまは多忙な旦那様と奥様とは中々お逢いする事が出来ないのです。ですから、写真でしかお互いの様子を知る事が出来ないのです。それに、一つ一つ……。全ての出来事が、大切なお坊っちゃまの思い出ですので。ですから、どうか……お願い致します」

慈しむような表情で、錦織は嗄の手にあるデジカメを見つめる。

そんな錦織の姿を目にして、嗄もデジカメに視線を落とす。

錦織が写真を撮る、本当の理由。

それは変態としての趣味だけではなかった。

錦織の想いをデジカメと共に受け取り、嗄は答える。

「うん、いいよ。いっぱいとっておくね!」

「どうぞ、宜しくお願いします東夜様。それでは、失礼致します」

もう一度錦織は一礼すると踵を返し、行ってしまった。

手にはデジカメだけが残されており、少しだけ不思議な気持ちになった。

錦織の事だから無理矢理にでも連れて帰ると思ったのだが……。

どうやら錦織もそこまで鬼ではないようだ。

少しの間玄関で立ち尽くしていると、リビングから右京が顔を覗かせて尋ねて来る。

「………どうだった……?」

「にしきおりさん、あしたまたくるって」

「え……じゃあけいことかは……?」

「おやすみだよ」

「ホントか!? やったぁ! じゃあきょうはここにいてもいいのか!?」

「良いよ。執事さんから君の事を頼まれたからね。泊まって良いんだよ」

「やった!! じゃあゲームするぞ!」

「あ……でもしゅくだいするからダメだよ」

「いますぐおわらせろ」

「えーっと……じゃあぼくがべんきょうしてるあいだにマンガよんでてくれる?」

「マンガか! だったらさっさとべんきょうしろ! それで、そのマンガとやらはどこにあるんだ?」

「こっちだよ」

瞳を輝かせる右京を子供部屋へと連れて行く。

子供部屋の扉を開け放つと一番最初に視界へ入るのは二つ並べられた二段ベット。

二段ベットを目にした右京は物珍しげに眺め――

好奇心で梯子を登って上の方へ行くと、余程二段ベットが珍しかったのかベットへと勢い良く飛び込んだ。

だがベットへ飛び込んだ右京が声を上げる。

「かたい! それにいたいぞ!!」

「とびこんだらいたいよ」

下からでは右京の様子が伺えないが、ベットから顔を覗かせている右京の表情は少しだけ不機嫌そうだ。

嗄はそんな右京に兄達の勉強机に並べられていた漫画を手にし、二段ベットの梯子を登って顔を出す。

どうやら右京は飛び込んだ時に落下防止の柵に足を打ち付けたようで、痛そうに右足を擦っていた。

「……だいじょうぶ?」

「へっ……へいきにきまってるだろっ! それよりさっさとマンガとやらをよこせ!」

「はい、これだよ」

梯子から漫画を渡すと右京は瞳を輝かせて漫画を受け取っては。

すぐさま漫画を読み始めた。

漫画に夢中になった右京の姿を目にし、嗄は梯子から下りて勉強机へと向かう。

今日は部屋に右京が居る。

漫画以外にも右京は色々と〝しょみんのあそび〟や〝しょみんのくらし〟をしたい事だろう。

それに六時から見たいアニメも始まる。

ランドセルから本日の宿題を取り出すと嗄はすぐさま宿題に取り掛かった。

嗄が宿題をしていると時々、二段ベットの方から右京の笑い声が耳に届く。

右京の笑い声を耳にし、鉛筆を握る手に力を入れて宿題を早めに終わらせる。

いつもより早く宿題を終わらせたのだが、右京はまだ漫画を読んでいた。

宿題が終わったと何度告げても、漫画に夢中な右京からは適当な返事しか返って来なかった。

二人で居ると言うのにまるで一人で居るような気持ちになる。

そこで嗄はある事を思い出した。

勉強机の上に置いていたデジカメを手に取る。

錦織から預かったデジカメを手にして梯子を登ると……。

二段ベットで横になり、漫画を読む右京の姿を写真に収めた。

写真を撮られたのにも構わず、右京は尚も漫画を読み続けていた。

余程、漫画が面白かったのだろう。

右京が楽しげに笑う度に嗄はシャッターを切った。

その後、数分程右京はずっと漫画を読み続けた。

やがて漫画を読み終えた右京は開いていた漫画を閉じ、不意に告げたのだ。

「つぎはテレビゲームとやらをやらせろ!」

二段ベットの上から嗄を見下ろして。

普通ならば上から目線過ぎる右京に腹を立てる所だが。

嗄も待っていましたと言わんばかりに嬉しそうな表情を浮かべ、右京と共にテレビの前へと向かった。

テレビとゲーム機の前でどのゲームをしようかとパッケージと睨めっこしている中。

ゲームのコントローラーを手にした右京が物珍しげにコントローラーを眺める。

始めるゲームを決めた嗄はゲーム機にディスクをセットしてゲームを起動させた。

先程までテレビ画面は真っ黒だったが、ゲームが起動した途端にゲームの起動画面が映し出される。

ただそれだけだと言うのに右京は異様にテンションを上げた。

コントローラーの使い方とゲームのルールを教えると右京はすぐに始めたいと言い出した。

嗄が選んだゲームはレースゲーム。

良く兄達と遊んだ、お気に入りのゲームだった。

このゲームは兄達と一緒にやり込んだ。

絶対に負けるわけがない。

ましてや今日初めてプレイする右京に。

そうしてレースを始めたのだが……。

結果、嗄の惨敗。

何度勝負に挑んでも、嗄が勝つ事はなかった。

『WIN!』

「うぇ~……」

「ふんっ! このおれさまがかってとうぜんなのだ!」

「う~~~……もーいっかい!」

「なんかいやってもおなじだ!」

右京はそう言いつつも、もう一度勝負をしてくれる。

当然、嗄が負ける事になったが。

右京は自分が勝つ度に嗄の事を見下す。

いつにも増して上から目線。

嗄はコントローラーを握り締めながら涙目になっていた。

それと同時に湧き上って来る感情は悔しさ。

次は絶対に負けたくない。

次こそは勝つ。

そんな想いが嗄の中で強く芽生えた。

「つぎはぜぇったい……ぜぇったいにかつんだからっ!!」

「はっ、おまえみたいなしょみんがおれさまにかてるわけがない!」

「う~~~~~~!!!」

ふと、そこで嗄はある事に気が付いた。

あと数分で六時になる事に。

出来る事ならば右京に勝つまで続けたかったのだが、嗄はゲーム機の電源を落とした。

右京も連勝して満足だった為、ゲームの電源を切っても怒らなかった。

一つだけ気掛かりだった事は、「まけをみとめるんだな」と言われて怒りを覚えた事くらいだが。

テーブルの上に置かれていたテレビのリモコンを手に取り、アニメの始まるチャンネルに変えるとリモコンを手にしたままテレビの前に腰を下ろす。

釣られて右京も嗄の隣に腰を下ろした。

「つぎはなにをするんだ?」

「アニメをみるよ」

「アニメか! じゃあはやくみせろ!」

「まだはじまらないからムリだよ」

嗄がそう答えると右京は少しだけ不機嫌になってしまった。

さっさとはじめろ。

はやくしろ、等と呟きながら。

テレビの前に腰下ろして少し経った頃、時計の針が六時を示した。

『テレビを見る時は部屋を明るくして離れて見てね!』

アニメが始まる前の注意が入った。

その声が耳に届いた瞬間、嗄はテレビに釘付けになる。

本編が始まると右京もテレビを見つめる。

嗄はこの時間になると必ずテレビの前に座ってテレビ画面に噛り付く。

放送されているアニメが男の子達に大人気のバトルアニメなのもあるが。

嗄がこのアニメを毎週欠かさずに見る理由はもう一つあった。

それは――

『ちょっとぉ、まぁ~たこんな所でサボってるの?』

可愛らしい声の、女の子キャラが居る。

男の子達からも人気がある女の子キャラ。

アニメが始まる前の注意を言っているのもこの女の子だ。

嗄はこの女の子の声を耳にした時からずっと、毎週欠かさずにこのアニメを見ていた。

何故ならば、女の子の声を聞いた時に思ったのだ。




――――えのきにぃ……?――――




テレビから聞こえた声は、嗄にとってとても聞き覚えのある声だった。

眠る前に良く聞いた声だ。

〝まぁ、なんて美味しそうなリンゴだ事……〟

〝――私も舞踏会に行きたいわ〟

〝ごめんなさい、お父様。お母様。私は月へ帰らなくてはいけないの〟

〝ああ、この塔の外に出てみたい……〟

〝おばあちゃん、赤ずきんだよっ!〟

〝誰か、マッチはいりませんか……?〟

〝――愛しい人の為に泡になるなら、私は構わない〟

お伽話の中で出て来たお姫様や、女の子達の声は今でも覚えている。

女の子の声を初めて聞いた時、嗄の脳裏にはお伽話の女の子達が浮かんだ。

もしかして、榎が声優デビュー出来たのではないかと喜んだが。

いつもエンディングで流れるスタッフロールのキャストに表示される名前は〝都依槇亜弥乃〟だった。

都依槇亜弥乃はデビューしてまだ間もない。

年齢も嗄と対して変わらない。

更にはデビュー作であるこのアニメキャラクター。

原作ではモブキャラも同然なキャラだった。

だが、都依槇亜弥乃がキャストに決まってから第二主人公にまで登り詰めたのだと言う。

アニメ界に君臨された女神。

アニメ業界に革命を起こしつつある人物だと言う。

都依槇亜弥乃の噂は学校で耳に入った。

年が嗄と対して変わらない事、デビューしてまだ間もない事。

嗄はそれぐらいしか知らなかった。

最初、榎じゃない事に強いショックを覚えたのだが。

榎と声が似ているせいか。

――声を聞くだけで、とても落ち着く事が出来た――

アニメが終わった頃、楠が作ってくれた夕食が出来上がった。

本日の夕食は一般的なハンバーグ。

ハンバーグを目にした右京は「なんだこのたべもの!?」と瞳を輝かせていた。

食べるまでは年相応にはしゃいで居たのだが、食事をする時はやはりお坊っちゃまだった。

まるでお手本のように完璧で正しいテーブルマナー。

お坊っちゃまなのでナイフとフォークしか使えないと思い込んでいたが。

思わず見惚れてしまう程に美しい箸の持ち方。

綺麗に左手を添え、口へとハンバーグを運ぶ右京。

そんな右京の姿を目にして自分は完全に負けていると嗄は思った。

嗄の箸の持ち方は、鉛筆を握る時と同じ持ち方。

左手は主に使わず、遊ばせている状態。

挙句の果てにはテーブルに肘を付いてしまっている。

「う~……」

なんとなく、自分が右京に敵わない理由がわかったような気がした。

右京はハンバーグを口に運ぶと如何にも美味しいと言う表情をしてみせた。

だが、すぐに色白な頬を赤く染めて言い放った。

「こ、これならせんぞくのシェフがつくったほうがうまい!」

そう言い放つが、ハンバーグを尚口に運ぶ右京。

しかもおかわりまで言って来る。

もちろん「おかわりしてやらないこともない」と口元にはご飯粒を付けながら照れて言っていた。

嗄も当然、錦織から預かっていたデジカメで右京の姿をカメラに収めた。

楠はそんな右京の姿を目にして少し笑い、すぐにおかわりを注いでくれた。

夕食の後は入浴。

右京と共に入浴したのだが、浴室を目にして右京が発した第一声が。

「せまい!!」

その一言だった。

幼い嗄には自分の家の浴室が他人と比べて広いのか狭いのかがわからなかった。

嗄の使っている健康タオルを使わせてみれば「いたいしかたい!」と顔を顰めてみせた。

シャンプーとリンスで洗髪をした後、浴槽にしばらく浸かって脱衣所に出てみると今度は「かみをかわかすのはだれだ?」と尋ねて来る右京。

楠も右京がお坊っちゃまな事を知っていたので、出来るだけ優しく髪を乾かすのだが。

「もっとやさしくしろ!」

「おなじとこばっかするな! あつい!」

「つめをたてるな! いたい!」

何かに付けては文句ばっかりだった。

右京にそこまで言われても楠は優しい表情のままだった。

普通ならば「我が儘ばっかり言うな!」と怒鳴り付けると思うのだが……。

楠が優しい人で本当に良かった。

右京は生粋のお坊っちゃま。

みんなから甘やかされて育った。

だからきっと我が儘に育ってしまったのだろう。

――何処か自分と似ていて、自分とは何処か違う――

やはり育った環境が違うからだろうか。

それとも、少しだけ環境を変えれば嗄も右京のようになってしまうのだろうか。

ほんの少しだけ、嗄はそんな事を考えていた。

入浴後は再びテレビの前へ。

午後七時からは柊が出るバラエティ番組が放送される。

柊が出ている番組を録画しながら視聴する。

嗄と楠、そして右京と一緒にテレビを見ていたが。

右京はテレビに映る柊の姿を目にした瞬間、嗄の顔とテレビに映る柊を交互に見つめていた。

柊の姿を必死に目に焼き付けようとしている嗄は、そんな右京には気付けなかった。

すると代わりに楠が優しく右京に答えてくれた。

「テレビに出ている子はね、嗄のお兄ちゃんなのよ」

「……おにいちゃん……?」

小さく右京は呟き、改めてテレビへと視線を向ける。

嗄は兄の映る番組が始まった瞬間、CMを挟むまではずっとテレビの前から離れない。

唯一、兄達の姿が拝めるからだ。

兄がテレビに出た瞬間、瞬きをするのも忘れる程に目に焼き付けていた。

しばらくして柊がステージで歌う時間になり、柊が息を吸い込んだ刹那。

柊の歌声を耳にした全員に、鳥肌が立った。

美しい歌声が、テレビを通じて流れる。

柊の歌声が流れた瞬間、右京は目を瞠った。

テレビ越しだと言うのに、伝わって来る。

どれ程柊が凄い人間なのか。

鮮明に、伝わって来る。

まるで目の前で歌っているかのような、錯覚を与える歌声。

全てを魅了させる歌声。

テレビを見ていなくても、思わずテレビの方へ視線を向けてしまうような。

圧倒的な、歌唱力。

嗄はテレビに映る柊を、必死に目に焼き付けていた。

嗄には、そうする事しか出来なかったからだ。

以前のように兄達と逢う事は出来ない。

一方的にテレビで兄の姿を見る事しか出来ない。

同じ血の流れた、兄弟だと言うのに。

逢う事も許されない。

それに、兄達と自分の差。

同じ血が流れていると言うのに、嗄は兄達のようにはなれない。

嗄はいつしか、テレビの中の兄達に対して憧れを抱くようになっていた。

いつからか、兄達のように凄い人間になりたいと思うようになっていた。

兄達と、並べるようになりたい。

兄達の立っているような、あんなステージに自分も立ってみたい。

嗄はテレビを見つめながらそんな事を考えていた。

柊が出ていた番組が終われば、今度は椿が出演しているドラマが始まる。

椿の出ているドラマも録画しつつ、視聴する。

右京は椿の姿を目にした瞬間、先程と同じようにテレビと嗄の顔を交互に見つめ始めた。

楠はそんな右京に対し、微笑んだまま頷いて答えた。

だが、右京もテレビを目にすると嗄と同じように釘付けになっていた。

そこが椿の凄い所だ。

一度椿の演技を目にすれば、誰もが魅了される。

全てを魅了させる演技力を持つ者。

椿の演技を見ていても、必死に伝えて来ていた。

訴え掛けていた。

全力で演じる中にも確かに深い〝愛情〟が椿の演技にはあった。

見ているだけで、まるでその腕に抱き締められているような。

とても優しく、心地良い感覚。

椿の演技を見ていると、本当に不思議な感覚に捕らわれた。

椿の出ているドラマを見ていると、時間が一瞬のように過ぎ去ったように感じられた。

ドラマが終わってしまえば、もう眠る時間だ。

洗面所で歯を磨き、右京と共に子供部屋に戻ると嗄は椿のベットで眠る事にした。

代わりに右京は嗄がいつも眠っているベットで眠る。

椿のベットは二段ベットの上。

つまり、嗄の隣のベットだ。

嗄は先に布団に潜り込んでいる右京に尋ねる。

「でんき、けすよ?」

「けしたいならけせばいいだろ」

「じゃあ、けすね」

部屋の電気を落とし、二段ベットの梯子を登って嗄も布団の中に潜り込む。

大きく息を吸い込むと、布団にはまだ椿の匂いが残っていた。

一人でずっと兄達を待ち、寂しかった時は良くこうして椿のベットで眠っていた。

こうしているとまるで椿に抱き締められているような気がした。

まるで、兄達と共に眠っているような気さえした。

椿のベットで兄達の事を思い出していると時折、隣のベットから寝返りを打つ音が聞こえる。

木で出来た二段ベットの為、少しでも動けばギシ…と木の軋む音が耳に届く。

頻繁に聞こえるので恐らく眠れないのだろう。

嗄は少し起き上がり、右京に問い掛けた。

「……ねむれないの……?」

「――――」

返事がない。

本当は眠っていたのだろうか。

そう思い、再び横になろうとした時。

「――いつもねるまえに、にしきおりがほんをよんでくれる。きょうはそれがないからねむれない」

そんな右京の声が耳に届いた。

右京の声を聞き、先日のプールサイドでの出来事を思い出す。

〝私をクビにすれば毎晩絵本を読む者も、夜にお手洗いへお供する者も居なくなりますが……〟

錦織の言葉が脳裏に蘇る。

絵本……。

その時、榎が眠る前に絵本を読んでくれた事を思い出した。

とても心地の良い声。

聞いているだけで安心し、すぐ眠りに誘われた。

嗄も榎が居なくなってからしばらくは眠れなかった。

柊の歌声でも眠る事は少し難しかった。

やがて柊も帰って来なくなってしまい、一人で眠る夜。

寂しくて。

眠れなくて。

嗄はくまのぬいぐるみを抱いたまま、椿のベットにこうして潜り込んだ。

それでも眠れない時は――

「……むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」

ベットから起き上がり、右京が横になっているベットへ行っては。

榎がしてくれたように、優しく。

優しく、右京の頭を撫でてはすっかり覚えてしまった桃太郎を朗読する。

少しでも安心してくれれば良い。

落ち着く事が出来れば良い。

嗄はそう思いながら右京に桃太郎を朗読して寝かし付ける。

――どうしても眠れなかった時――

くまのぬいぐるみを抱いて、大好きな絵本を手にして布団の中で。

一人の空間で、ずっと絵本を読み上げていた。

カーテンを閉めても怒られてしまうから、カーテンを閉めずに。

淡い月明かりが射す中、泣き疲れて眠ってしまうまでずっと……。

ずっとくまのぬいぐるみを抱いて、ただ一人。

ずっと、泣きながら絵本を読み上げていた。




















静かに、目を覚ます。

薄暗い部屋で目を覚まし、此処は一体何処だと思う。

少し身体を起こし、カーテンの隙間から射し込む月明かりに照らされたくまのぬいぐるみが視界に入る。

そこでようやく此処が何処なのか理解出来た。

壁に掛けられている時計へ視線を向けてみると、午前二時二十七分を差していた。

丑三つ時に目を覚ますのは好きではない。

しかし、すぐに眠れそうにもない。

嗄は小さな溜め息を零し、ベットから起き上がる。

淡い月明かりに照らされた、デスク前の椅子に置いているくまのぬいぐるみの頭を優しく撫でて自室から出て行く。

リビングへと足を踏み入れ、渇いた喉を潤す為にキッチンに立つ。

グラスを手に取り、水道のコックを捻って水を注いでは一気に仰ぐ。

濡れた口元を手の甲で拭い、そこである事に気付く。

ベランダへ続く窓が少しだけ開いており、そこから僅かに風が入り込んではカーテンを揺らしていた。

嗄は手にしていたグラスを流し台へ置き、ベランダへの窓を開けてみる。

カラカラカラ、と僅かに音を立てて窓が開く。

鍵は掛けていなかった為、恐らくレインが窓を開けたのだろう。

ベランダ用のサンダルに足を通し、手摺りへ両肘を付いて小さく呟く。

「……満月か……」

電気を付けずにキッチンまで辿り着けたのは、外が明るかったからだ。

嗄は静かに空に浮かぶ綺麗な満月を見上げて眺める。

深夜という事もあり、とても静かだ。

それに、見事に丸い満月。

嗄は満月を見つめ、少しだけ目を細めた。

月を見て思い出すのは、一人で過ごした幼き日々の事。

寂しくて、泣いてばかりだった頃の事。

いつも、月だけが嗄を見つめていた。

月だけがいつも、傍に居てくれた。

月がいつも、嗄を見守ってくれていた。

そのせいか、時に月明かりが寂しく感じられる。

月明かりはいつも優しく、暖かい。

けれど、何処か冷たくも感じられた。

「――――」

「ニャオ~……」

不意にレインの鳴き声が聞こえ、振り返ってみる。

レインは月明かりが射すベランダの前に座っていた。

嗄がレインに気付き、優しく微笑むとレインは足元に寄って来た。

足に擦り寄り、珍しく喉を鳴らしている。

そんなレインを目にして嗄は表情を綻ばせる。

擦り寄って来たレインを抱き上げ、リビングへ戻ると。

嗄は静かにベランダの窓を閉めた。









                                              ~To be continued~


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