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青春スクエア ~東夜嗄の片思い~ 小学生編5

ひらひらと。

一つ、二つと舞っていく。

ふわふわと。

三つ、四つと散っていく。

目を覆う程の、桜の花弁が。

薄紅の花弁が綺麗に儚くも、美しく。

嗄は風に攫われる桜の花弁を見上げる。

――春が訪れた――

とても優しく、暖かい季節が。

嗄は舞い散る桜を見つめながら少しだけ思った。

〝春〟はまるで兄達のようだと。

兄達はとても優しく。

まるで春の陽だまりのように、暖かい人達だったと。

桜の花弁が一つ舞うように、たくさんの思い出をくれたと。

一つ。

春になれば家族全員で花見へと出掛けた。

みんなで、お弁当を持って。

綺麗に桜が咲き乱れる、丘の上にあった小さな公園で。

桜の花弁が舞う中、柊が桜の歌を歌ってくれた。

続いて椿と榎が桜の舞う中で演じてくれていた。

桜の中には、たくさんの笑顔も咲いていた。

二つ、三つ……。

あの時は、みんなが笑顔で居て。

とても楽しくて。

でも、嗄だけがやはり取り残されていた。

そんな嗄に兄達は優しく手を伸ばしてくれて。

――〝ほら、嗄も一緒に遊ぼうぜ〟――

椿の、あの爽やかな笑顔を思い出そうとした時。

強い風が吹き抜けていった。

眼前いっぱいが、桜の花弁で覆い尽くされる。

思わず嗄は目を閉じて、風が吹き抜けるのを待った。

身体を撫でる風が弱まり、ゆっくりと目を開けてみると――

先程まで目を覆う程の桜の光景が嘘のように、何処か寂しげに桜の花弁は舞っていた。

静かに舞っていく桜を目にして、どうしてか物凄く切ない気持ちになってしまう。

もう、あの頃は戻って来ない。

もう、〝みんなで笑って〟はいられない。

「…………」

「ほら、嗄ちゃん。行くよ」

「……うん…」

楠に手を引かれて歩み出す。

桜の舞う中、嗄は身体のサイズに全く合っていないランドセルを背に。

楠から買ってもらった半ズボンの子供スーツを身に纏っていた。

今日は小学校の入学式。

背に背負っているランドセルは柊が使っていたものを譲ってもらった。

仕事が忙しくて学校へ通えない為、自分の代わりに嗄に使って欲しいと柊の方から言ってくれたのだ。

嗄の通う小学校は基本的に私服の学校。

兄達は椛からの言い付けで、一応は学校が用意していた制服を買って身に纏っていた。

椛曰く、同じ服ばかり着て登校していると虐めに遭うかららしいが。

当然、嗄の分の制服も買ってくれている訳がなかった。

それにもし買っていたとしても、嗄の身長が低過ぎる上に身体のサイズが小さ過ぎるので一番小さいサイズの制服でも大き過ぎるのだ。

なので、嗄は学校側が販売している制服を買う事はなかった。

遠くから見ればほとんどランドセルが歩いているような状態になってしまっている。

嗄は楠と手を繋いで周りを見渡す。

周りには両親や兄弟が傍に居て、記念の写真を撮ってくれる新入生の姿があった。

嬉しそうに笑っている新入生の姿を目にして、嗄も視線を彷徨わせてみる。

視線を彷徨わせても、嗄の傍に居るのは祖母の楠しか居なかった。

兄達の姿が見えなければ、両親の姿もなかった。

兄の姿がなく、嗄は少し項垂れる。

両親が来なくとも、兄達だけには来て欲しかった。

ほんの少しでも良いから。

五分だけでも良いから、兄達と話がしたかった。

もしかしたら兄達が来ているのではないかと期待して視線を彷徨わせていたが。

やはり何処にも兄達の姿はなかった。

結局、入学式が終わっても嗄の前に家族は誰一人として姿を見せる事はなかった。

がっくりと肩を落として嗄が帰路に着く中、楠が優しく言ってくれる。

「嗄ちゃん、そんなに落ち込まないで。帰ってから一緒にお兄ちゃん達を見よう? ね?」

「…………うん……」

この頃になると椿と柊は毎日のようにテレビに出ていた。

テレビのチャンネルを変えても何処のチャンネルにも映っている程にだ。

毎日兄達の姿が見られて嬉しいのだが……。

実際に逢う事は出来ない。

テレビを付ければ、まるで目の前に居るみたいなのに。

すぐそこに、居るように感じられるのに。

どんなにテレビの中に居る兄達へ手を伸ばしたとしても。

嗄の手は兄達には届かない。

兄達に触れる事はない。

触れられるのは、冷たくて固いテレビ画面だけだ。

不安になって真夜中に家を飛び出す事はなくなったが。

まだ心の中に残る寂しさや不安は拭えない。

それに、嗄にとってまだ気掛かりな事があった。

不安に思っている出来事があったのだ。

先日、椛が過労で倒れてから椛の様子が可笑しい。

退院後、もう仕事はしていないにも関わらず毎日外へ出掛けるようになったのだ。

かと思うと、今度は不定期な時間帯に帰宅してはまたすぐに何処かへ出掛けて行ってしまう。

帰宅してすぐに鏡台の前に座り、綺麗に化粧を施してから。

そんな椛と同じように、框も突然家に帰って来なくなってしまった。

最初は仕事が忙しいのかと思ったが、どうやら違うようだ。

仕事は対してそんなに忙しくないらしいが、家には帰って来ない。

嗄はそんな多くの不安の中、小学校一年生になった。

今までは家族六人生活だったが、今では嗄と祖母である楠との二人での生活。

本来ならば、嗄が真夜中に外へ飛び出さなくなったらこの生活は終わるはずだった。

しかし、嗄の不安を感じ取ってくれた楠はずっと家に居てくれた。

嗄が不安にならないようにと、この家で過ごしてくれるようになったのだ。

最近では、少しずつでも夜になれば楠は実家に帰るようにしている。

帰ると言っても、月に二回か三回程だ。

一緒に暮らしている祖父の東夜桂はほとんど放置して、嗄の事を気に掛けてくれているわけだ。

流石に桂も寂しがるという事で、学校生活が始まれば嗄が学校に行っている間は家に帰る事にしたらしい。

元々桂は足が悪く、外へ出掛けるのも困難になっている為今日の入学式には来られなかった。

悪いのは足だけで、他は元気なので本人は行きたかったと悔やんでいたそうだが。

夜になり、嗄は楠に寝かし付けてもらってベットへ横になる。

薄暗い部屋の中。

以前とは何一つ変わらない光景。

嗄の為の勉強机も用意されていなければ、ランドセルがないのも変わらない。

嗄の分の制服がないのも変わらない。

嗄はそんな事を気にする事なく、眠りに落ちた。

――目覚ましの音が遠くから聞こえる――

頭の上で騒がしい音を立てる目覚まし時計を、布団の中から消す。

まだ、もう少し眠っていたい。

布団の中へ潜り込もうとした時。

「ぅにゃ~……」

猫の声がして、不思議に思う。

猫なんて、飼っていただろうか。

まだ夢を見ているのだろうと思っていると。

不意にレインが布団の中に潜って来て、嗄の髪で遊び出す。

更には髪を噛んで引き千切るものだから、流石に嗄も目を覚ました。

「痛っ! 痛いよぉ、レイン!」

布団から飛び起きて、可愛らしくベットの上に座るレインを見つめる。

怒ろうと思っていたのに、そんな可愛らしい顔をされては怒れない。

諦めたように溜め息を零し、嗄はレインの頭を撫でようと手を伸ばそうとするが。

伸ばした手までもに噛み付く。

噛まれた手を擦りながら、目覚まし時計へと視線を向ける。

時計を目にしてようやくわかった。

レインに餌を与える時間を過ぎている事に気が付いた。

「あぁ、ごめんごめん。今ご飯あげるからねぇ」

そう言って自室の扉を開けてリビングへ向かう。

リビングの扉を開け放った時。

走って追い掛けて来たレインが、まだ怒っているのか右足へと噛み付いて来る。

「痛いって! ほら、ご飯あげるから許してよぉ」

キャットフードを小皿に注ぐと、レインは餌の入った小皿へと飛んで行く。

嗄は安堵の息を漏らし、先程引き千切られた髪を撫でる。

起こしてくれるのは良いが、もう少し優しく起こしてはもらえないものだろうか。

所詮は猫に言っても無駄だと思い、嗄は洗面所へと向かう。

鏡に映った自分の姿を目にして、少しだけレインが憎らしくも思ってしまう。

レインに髪を弄られたせいで、すっかり絡まってしまっている。

とりあえず歯ブラシと歯磨き粉を手にして歯を磨き始める。

そこでふと、嗄はある事を思い出す。

ここ数日、子供の頃の夢を見るようになったと。

子供の頃の夢を見る心理状況は何だっただろうかと少し頭を悩ませるが。

寝起きで頭の回転が悪い。

ん~?と首を捻ってみるが、思い出せない。

対して気にもならないのですぐに口を漱いで、絡まってしまった髪を梳いていく。

髪形を整えてリビングへ戻ってみると、満悦といった表情で毛繕いをするレインの姿がそこにはあった。

さっきの仕返しと言わんばかりに、整えたばかりであろう毛並みを撫で回して乱していく。

すると案の定、腕に噛み付かれてしまった。

「あははっ、ごめんごめんってぇ。でも、さっきの仕返しだよぉ」

笑って嗄がそう言えば、レインは呆れたように深い溜め息を吐き出した。

もう少しレインを構おうかと思ったが、そろそろバイトに出掛ける準備をしなくてはいけない。

嗄がバイトへの準備を始め、ラックの横を足早に通り過ぎた時だった。

視界の端に、何かが落ちるのが見えた。

何が落ちたのかと、確認の為に振り返ってみると。

そこには一枚の写真が落ちていた。

裏返ってしまい、どの写真かはわからない。

写真立てに入っていない辺り、最近見つかったと思われる写真だろう。

床に落ちた写真を屈んで拾い、視線を落とす。

「うわぁ、懐かしいなぁ……」

写真を目にして、思わず嗄はそう呟いていた。

表情を綻ばせて写真を見つめる。

懐かしげに、目を細めて。

少しの間写真を見つめていたが、ふと嗄の表情が変わる。

何処か切なげな表情へと。

写真を手にしたまま立ち上がり、切なげに写真を見つめる。

「――今、何やってるのかな……。右京君は……」

小さくそう呟き、嗄は写真を手にしたまま自室へ戻る。

手にした写真をデスクの上に置き、自室から出て行ってしまう。

デスクの上に置かれた写真。

そこにはある少年が映っていた。

漆黒の髪に、エメラルドグリーンの瞳をした少年。

無邪気そうに笑う、色白な少年。

嗄にとっては、この少年も幼い頃の思い出。




――――幼き日々の、大切な思い出だった――――




初めての、小学校登校日がやって来た。

いつも通りの、少しサイズの大きい柊から貰った服を身に纏い。

大きいランドセルを背に背負う嗄。

初登校日という事もあって、嗄は少し不安だった。

今まではずっと、兄達が居てくれた。

きっと、兄達がデビューしなければ兄達と共に通っていただろう。

この小学校へ。

しかし、傍に兄達は居てくれない。

嗄が不安気にランドセルの肩ベルトを握り締めていると。

楠が優しく微笑んでくれて、小学校の手前まで送ってくれた。

優しく背中を押されて、歩み出す。

泣き虫で甘えん坊な末っ子の嗄。

一人で大勢の中に飛び込む勇気はなかった。

柊と似ているからか、実は人見知りな所があるのだ。

懐いてしまったり、仲良くなった人にはそんな事はないが。

不安になって振り返ってみると、楠が優しい微笑みを浮かべて手を振ってくれる。

肩ベルトをぎゅっと握り締める。

激しい不安から目を強く閉じた時。

脳裏に兄達の姿が見えたような気がした。

右隣には、柊の姿。

左隣には、榎の姿。

そして、椿が嗄の頭を優しく撫でてくれる。

〝ほら、行って来いよ!〟

椿にそう言われたかと思うと、強く背中を押されて一歩歩み出す。

驚いて目を開けてみると、嗄の足も一歩前へと歩み出していた。

もう一度、肩ベルトを握り締めてみる。

今、傍に兄達は居ない。

けれど、柊が使っていたランドセルを嗄は背負っている。

傍に兄達は居なくとも、心はずっと傍に寄り添っているはずだ。

〝大丈夫だよ〟

柊のそんな声が聞こえたような気がした。

大丈夫。

兄達の心が、魂が傍に居てくれるなら。

きっと、大丈夫だ。

嗄は俯いていた顔を上げてみる。

顔を上げた嗄は学校へ向かって歩み出した。

「お、みやぎじゃねーか!」

「だれがいちばんにきょーしつにつくかきょーそーしようぜ!」

聞き慣れた声が耳に届き、嗄は声の聞こえた方へ視線を向ける。

そこには幼稚園からの友達の姿があった。

見慣れた顔がある事にも安心して嗄は微笑む。

下駄箱へと駆け出す友達の後を追うとして嗄も駆け出すが――

足元に転がっていた小石に躓いて転んでしまったのは言うまでもない。

擦り剥いてしまった膝を抱えて目尻に涙を浮かべる嗄だが。

今日から嗄は小学校一年生。

いつまでも泣き虫なままで居たくない。

痛む足で立ち上がり、服の袖で涙を拭うと歩き出す。

また転んでしまわないようにと、ゆっくり歩いて。

先程走って行ったクラスメイト達は、案の定廊下を走っていたので先生に怒られていたが。

そんな事はお構いなしに嗄はこれから一年を過ごす教室へ足を踏み入れた。

教室内には、やはり幼稚園での顔見知りも居て安心した。

始業のチャイムが鳴るまでは幼稚園に居た時と同じようにして遊んでいた。

チャイムが鳴ると同時に担任の教師が教室へ訪れて、全員に自分の席に座るようにと促す。

出席番号順に机は並んでいる。

つまり、嗄は一番前の席だった。

クラスメイト全員を席に座らせた担任は、自己紹介をするようにと促して来る。

一番前の嗄が椅子から立ち上がる。

やはり一番最初に自己紹介をするのは緊張する。

小さく深呼吸をすると、嗄は口を開いた。

「あずまやみやぎです。よろしくおねがいします!」

嗄は深く頭を下げる。

拍手が聞こえるかと思った時。

不意に幼稚園からの友達、てつ君が告げたのだ。

「みやぎのにーちゃん、テレビにすっげーでてんだぞー!」

「えっ、うそぉ⁉」

「もしかして、ひいらぎくん?」

「ちがうよ! きっとつばきくんだよ!」

てつ君の一言によって、教室内がざわつく。

担任までもがてつ君の話に興味津々のようだ。

喧騒とした教室の中、クラスメイトの一人が嗄に尋ねて来る。

「ねぇ。つばきくんとひいらぎくん、どっちがおにいさんなの?」

「ぜったいにつばきだろ?」

「いいや! ぜったいにひいらぎくん!」

「つばきくんだってば!」

「……先生は柊君に似てると思うけど、椿君にも似ているねぇ~?」

「ねぇ? どっちなの?」

「ひいらぎだって!」

「つばきくんだよっ!」

「ぜったいひいらぎくん!」

「つばきだっての!」

「ふたりとも、ぼくのおにぃちゃんだよっ!」

嗄が声を張り上げて告げれば、途端に教室内が静まり返る。

全員が、驚いた表情で嗄の顔を見つめていた。

クラスメイト全員の視線が集まり、嗄は少しだけ照れてしまう。

頭を少し掻き、改めて告げる。

「つばきにぃちゃんも、ひいらぎにぃちゃんも、ぼくのだいすきなおにぃちゃんだよ」

照れながらも嗄がそう告げると。

再び教室内は騒がしくなってしまった。

芸能人の弟と同じクラスだと喜ぶクラスメイト達。

「ふたりともってマジでか! すっげーなおまえ!」

「うそー!」

「ねっ、ねっ! じゃあサインもらってもいい⁉」

「うんっ! こんどいってみるね!」

喧噪とした教室の中。

嗄はとても嬉しかった。

みんなが、大好きな兄達の事を知っている。

自分と同じように、兄達のファンが居てくれる。

嗄にとって自慢である兄達について話をされると凄く嬉しかった。

小学校一年生になってから一週間程たった頃の事。

嗄は有名な芸能人の弟という事で、すぐに学校内でも有名になった。

クラスでは、嗄は人気者。

一度仲良くなった友達には、とことん懐く嗄。

人懐っこい上に明るくて元気だった為、クラスの中でもムードメーカー的な存在になっていた。

クラスメイト達とも仲が良く、休み時間になると良くクラスメイトと遊んでいた。

授業の間の短い休みでは、給食で出て来る牛乳の蓋を使ってめんこを作っては遊んでいた。

紙で出来た牛乳の蓋をみんなで集めては休み時間で遊んでいたのだ。

最初のめんこ遊びのルールは至って平凡。

めんこのルールに沿って遊んでいたのだが……。

何がどうしてそうなったのか、ある日突然めんこのルールが変わってしまったのだ。

完全にめんこの趣旨が変わってしまったルールとは。

〝牛乳瓶の蓋を長くくっ付けている奴が一番強い〟という、なんともヘンテコなルールへと変わってしまっていた。

恐らくこうなってしまったのは、牛乳の蓋を二枚にして厚みを増したらより多くのめんこ達を裏返せる事を知ったのが切っ掛けとなったのだろう。

みんながみんな牛乳の蓋を二枚くっ付け、中には間にコインを挟む者も居たが。

そこで、より多くの牛乳の蓋をくっ付けている人のめんこが一番強いのではないかと幼い子供達は思ったのだ。

その為、牛乳の蓋を他のクラスからも回収して大量に集めた牛乳の蓋を糊でくっ付けていき――

30cm以上にもなった長い、〝めんこ〟とはとても呼び難い代物を作り上げてはみんなで強さを競い合う。

「くらえっ‼‼ このレベル100のちょうウルトラハイパーかい、スーパーデラックスアズマキングをっ‼」

めんこの原型を留めていない〝めんこ〟に強そうな名前を付けては。

掃除用具入れの近くで投げ合っていた。

当然、ただの糊でくっ付けただけなので強度は弱い。

強く床へ叩き付ければ見事な程に粉砕していた。

「あああああああああっ‼‼ ぼくのアズマキングがぁああっ‼」

「ふんっ、キサマのめんこはそのていどなのだ」

この頃になってしまうと、ルールはもうめんこではなく。

〝誰の繋げためんこが一番壊れないか〟を競うルールへとなっていた。

壊れてしまっためんこを必死に糊で直している間に休み時間が終わる事も多々あった。

休み時間の長い、昼休みが来れば今度は校庭に出てみんなでドッジボールを始める。

もちろん嗄はいつも逃げる側だ。

逃げる専門と言っても良いだろう。

奇跡的に転んだり、しゃがみ込んだりしてボールをかわしていく嗄。

ボールが当たるのはいつも顔な為、いつもセーフだ。

常にボールは顔面キャッチで受ける為、外に出る事がない。

ツイているようで、ツイていない。

運があるようで、ないようなものだ。

ドッジボールをすればいつも運動神経の鈍さが物を言う。

雨が降っている時は、教室でバトル鉛筆を使って遊んでいた。

机や床に強く投げ付ける為、全員の使っている鉛筆は芯が全て粉々に折れていた。

そんな学校生活が、嗄は物凄く楽しかった。

だが、嗄にはある問題が一つだけあった。

嗄は何をやっても人並み以下。

テストの点もいつも赤点近くだ。

何をやらせても上手く出来ない。

給食の配膳時等は良く零したりもするし、食器を片付ける時は……。

言うまでもなく、毎回の如く食器の入った籠を引っ繰り返してしまう。

唯一の救いが、学校で使っている食器が硝子製ではなかった事だ。

そんな嗄には、ある悩みがあった。

それは、クラスメイト達の言葉だ。

〝きょうせんせいにほめられたんだ〟

〝きのうね、テストをみせたらおかあさんにほめられたんだ〟

ほとんど毎日のようにそんな言葉達が耳に入って来る。

嗄も、両親に褒めてもらいたい。

〝頑張ったね〟と、頭を撫でて言われたい。

嗄はそう思い、帰宅するとすぐに子供部屋へと向かった。

使う机はいつも、柊が使っていた勉強机だ。

勉強机の前に腰を下ろすと、嗄はすぐに勉強を始めた。

普通にやって出来ないのならば、普通以上に頑張ってみれば良い。

嗄はそう考えて、子供部屋に戻ってから三時間はずっと勉強ばかりしていた。

勉強を終えて夕食を摂った後、家事を手伝い。

入浴後にも勉強をし、クラスメイト達と並べるようにと必死に努力を続けた。

その結果、努力の甲斐があってしばらくして嗄はテストで百点を取れるようになった。

今まで何をしても駄目だった嗄が、勉強を出来るようになった。

嗄の努力を、みんなが認めてくれた。

先生にクラスメイト達。

楠に桂。

みんなが褒めてくれた。

けれど嗄はそれだけでは満足出来なかった。

「おばあちゃん! きょーもひゃくてんとったよー!」

「凄いねぇ、嗄ちゃん。嗄ちゃんはやれば出来る子なんだよ」

「うん!」

「これからまた勉強するのかい?」

「うんっ! だって、もっとがんばらないと! おにぃちゃんたちみたいになれないから」

それだけ言い残すと嗄は子供部屋へと入って行く。

三つ並べられた勉強机。

柊の机の上には百点のテストが数枚置かれていた。

全て嗄のテストだ。

嗄は自分一人の自室で、背負っていたランドセルを下ろす。

ランドセルを下ろすと静かに柊の使っていた勉強机の前に腰を下ろした。

――どんなに褒められても嬉しくない――

本当に褒めて欲しい人は他に居る。

兄達に褒めてもらうのはもちろんの事だが。

嗄が一番に褒めてもらいたいと思っている人物は両親だ。

兄達のようにただ、褒めてもらいたいだけ。

あの笑顔を、向けて欲しいだけ。

優しく頭を撫でて欲しいだけ。

ただ、それだけだ。

嗄は今日出された宿題を先に済ませようと、ランドセルからプリントを取り出す。

プリントを机の上に置き、鉛筆を手に取った時だった。

玄関の方から物音が聞こえ、玄関の扉が開く音が耳に届いた。

今家には嗄と楠しか居ない。

つまり、誰かが家に帰って来たという事になる。

台所の方からは楠が夕食を作る音が聞こえて来るからだ。

一体誰が帰って来たのだろうかと、椅子に座ったまま子供部屋の扉を見つめる。

扉は閉められたままだった為、玄関の様子を伺う事は出来なかった。

もしかして、兄達だろうか?

期待に胸を膨らませていると、台所に立つ楠が口を開いた。

「椛さん、今まで何処に行ってたんだい」

楠の声が耳に届く。

だが、返事は返って来なかった。

すぐに椛が帰って来たのだとわかり、嗄は百点のテストを手にして部屋から飛び出した。

部屋から出てみると、丁度玄関からリビングに椛が入って来た所だった。

椛の姿を捉えた瞬間、嗄は椛の元へと駆け寄って手にしたテストを見せながら告げた。

「おかあさん! ぼく、テストでひゃくてんとったんだよ!」

しかし、椛から反応は返って来なかった。

更には嗄の事を見ようともしない。

それでも嗄は必死に背伸びをして、テストを椛に見てもらおうとする。

百点のテストを椛に見せ付けるようにして、嗄は椛の前にテストを出す。

椛から返って来た言葉は――

「邪魔」

「え……?」

「退いて頂戴」

相変わらず、嗄の顔は見ようとせず椛は告げた。

また、顔を合わせてくれない。

少し不安になり、椛の顔を見上げてみる。

けれど椛と視線が合う事はなかった。

不安気な表情で見上げる嗄を、椛は押し退けてでも自室へ向かってしまった。

久々に帰って来たかと思うと、数分後には大きな荷物をスーツケースに纏めて自室から出て来た。

その姿はまるで、家出でもするかのようだった。

そして椛はそのまま玄関へと向かい、靴を履き出す。

嗄はテストを手にしたまま、椛が靴を履いて立ち上がる後ろ姿を見つめていた。

一度も椛は嗄を見る事はないまま、玄関の扉へと手を掛ける。

「おかあさ――」

嗄が声を掛けるのも虚しく、玄関の扉を開け放って出て行ってしまう。

手を伸ばす暇もないくらい。

ただ、見つめている事しか出来なかった。

虚しくも騒がしい音を立てて、玄関の扉が閉まる。

閉じられてしまった扉を、嗄は見つめている事しか出来なかった。

自然と、嗄は手にしていたテストを握り締めていた。

――ダメだ――

今のままじゃ、両親に褒めてはもらえない。

もっと……。

もっと、頑張らないと。

もっと。

今よりも、もっと。

もっと、上を目指さないと。

もっと、上を。

嗄は強くそう思い、すぐに子供部屋へ戻っては宿題を再開した。

勉強だけじゃ駄目だ。

勉強も出来て、運動も出来なくては。

自分の運動音痴を直さなくては。

勉強も、運動も出来るようにならなくては。

兄達のようにはなれない。

兄達のように、褒めてはもらえない。

その日から嗄は今まで以上に猛勉強を始めた。

テストで百点を取れる回数も増えていった。

しかし、運動だけは全然駄目だった。

完全に運動音痴な嗄。

相変わらずドッジボールでは顔面キャッチ。

手で受け止める事が出来なかった。

少しでも走り出せば絶対に転んでしまう。

跳び箱では跳び箱へ向かって体当たり。

それでも決して諦める事はなく、必死に何度も挑む嗄を目にしたクラスメイト達や担任が笑う事はなかった。

寧ろみんな、嗄の事を応援していた。

だが、それでも嗄の運動音痴が改善される見込みはなかった。

毎日、何かしらで身体を動かしてはいるのだが……。

何をどうすれば運動音痴が直るのかわからない。

どうして兄達は運動神経が良くて、自分は運動音痴なのだろうか。

嗄は深い溜め息を零す。

「おちこむなってみやぎ。みやぎはすっげーがんばってるって」

「もっと、がんばらないとダメなんだよ。うんどうオンチがなおればきっと……」

きっと、両親は自分を見てくれる。

良く頑張ったねって、褒めてくれる。

嗄はそう信じて疑わなかった。

そんなある日の事。

嗄はあるものと出逢った。

――東夜嗄を化け物へと変えてしまう〝キッカケ〟になるものに――

それは意外と身近にあったのだ。

昼休みを知らせるチャイムが鳴った瞬間、一斉に子供達が教室から飛び出して行く。

もちろん嗄もその一人だった。

チャイムが鳴ったと同時にクラスメイト達と共にスタートダッシュを切ったはずだったのだが……。

やはり嗄だけが躓いて転んでしまい、一人取り残されてしまった。

膝に痛みを感じ、顔を歪めながらも起き上がる。

子供達に踏まれなかっただけマシだったが。

正に、その時だった。

嗄の耳に、ある声が届いたのだ。

「きのうスイミングできゅうが上がって、母さんにほめられたんだ」

「すごいなー。オレなんてぜんぜんあがんないからやめようとおもってるんだ」

「そんな! もったいないよ」

声の聞こえた方へと、顔を向けてみる。

そこにはクラスメイト達が集まって話し合っていた。

〝母さんに褒められた〟

確かにそう聞こえた。

擦り剥いてしまった膝の痛み等すっかり忘れ、嗄は集まっているクラスメイトの元へ歩み寄る。

今も尚話し続けるクラスメイト達に尋ねた。

「……おかあさんに、ほめられたの?」

「うん。そうだよ?」

「なにをして?」

「おれ、スイミングにかよってるんだ」

「……すいみんぐって、なに?」

首を傾げつつ、嗄はそう尋ねた。

スイミング。

それは一体、何なのだろうか。

食べられるものなのだろうか。

どんなものかも想像が付かない。

嗄が首を傾げていると、眼前のクラスメイトは笑いながら教えてくれる。

「プールだよ。およぎをれんしゅうしてるんだ」

「プール?」

「あそぶことばっかりはできないけど、けっこうたのしーよ?」

「それって、どこでやってるの?」

「がっこうのすぐちかくでやってるよ? ほら、プレハブこーしゃがあるほう。あっちのみちぬけて、さかをあがったらすぐにあるよ」

「そうなんだ」

「そうだ! みやぎもやってみたらどう? もしかしたらうんどーオンチがなおるかもしれないよ」

「う~ん……」

頑張ったらお母さんに褒められる。

褒められるなら、やってみたい。

自分を見てもらえるなら、やりたい。

けれど、本当に運動音痴が直るのだろうか?

嗄が頭を抱えて悩んでいると、追い打ちを掛けるようにして告げられた。

「おれもスイミングに行くまではおよげなかったけど、今はふつーにおよげるよ?」

「えっ、うそ⁉」

「だからみやぎもぜったいにおよげるようになるし、きっとうんどーオンチもなおるよ。いっしょにスイミングや――」

クラスメイトが最後まで言い終わる前に嗄はクラスメイト達が集まっていた机に手を付いた。

結構派手な音を立てて。

バンッと嗄が机を叩いた音に驚いて、教室中の全員が嗄の方を見る程には。

驚いているクラスメイト達とは対照的に、嗄は瞳を輝かせて告げたのだ。

「ぼくもやる! スイミング‼」

スイミングに行けば、運動音痴が直る。

更には親にも褒められる。

そんなの、願ったり叶ったりの上に一石二鳥だ。

嗄はスイミングに対して完全に興味を持ち、ドッジボールの事も忘れてクラスメイトからスイミングについて色々と聞いていた。

早く家に帰って楠にスイミングの事を告げたい。

スイミングに通ってみたい。

クラスメイトの話を聞く程、その想いが強くなっていく。

嗄は夢中になって話を聞いていた。

「それで、おれたちとおなじとしでやなぎはらって言う――」

「みやぎー‼ いつになったらくるんだよおまえー‼」

「あ、ごめーん! いまいくー!」

教室の出入り口で嗄を呼ぶクラスメイトにそう声を掛けられ、ようやく我に返った。

スイミングの話を聞いていたクラスメイトに「ありがとう、ぜったいいくね!」と言い残すと呼びに来たクラスメイトと共に教室を出て行った。

校庭に出てみんなとドッジボールを始めるのだが……。

考えてしまうのはスイミングの事ばかりだった。

早くスイミングをしてみたい。

早く放課後が来ないだろうか。

期待で胸を膨らませていた。

学校が終わったら猛ダッシュで家に帰ろう。

そう嗄は心に誓う。

少しでも早くスイミングに通えるようになりたいと思いながら。

早くこの運動音痴を卒業したい。

早く、早く夕方にならないだろうか。

「みやぎー! ボールがいったぞー!」

「ふぇ……?」

顔を上げた刹那。

ボールが眼前まで迫っていた。

嗄が迫っているボールを上手く捌けるはずもなく。

「ぐふぅっ!」




――――当然、顔面キャッチとなった――――




放課後を知らせるチャイムが鳴り響く中、嗄はランドセルを背負って教室から飛び出した。

下駄箱で上履きから運動靴へ履き替えると、転ぶ事も忘れて一目散に家へ向かって駆け出す。

兄達を待っていた公園前に来ても、公園に目もくれず。

何度転んでも、すぐに立ち上がって走り続けた。

膝に痛みが走っていたのだが、全く痛みを感じなかった。

傷だらけになっても、泥だらけになっても、嗄は家に向かって走り続けた。

兄達と並べるように。

両親に褒めてもらう為に。

我武者羅に走って、家へと帰って来た。

家に着き、玄関の扉を勢い良く開け放って履いていた靴を脱ぎ捨てる。

慌ててリビングへ足を踏み込んで嗄は楠に告げた。

「おばあちゃん! ぼく、スイミングやりたい!」

嗄の声で台所に立っていた楠が振り返る。

だが、楠は濡れた手を拭う為手にしていたタオルを手落としてしまった。

それも、驚愕とした表情で。

どうしたのかと、嗄が聞こうとした次の瞬間。

「どうしたの⁉ その格好‼」

「え……?」

楠にそう言われ、嗄は自分の姿を確認してみる。

何度も転んでしまった為、身に纏っていた洋服はすっかり汚れてしまっている。

そして両膝には擦り傷が。

転んでしまった事を思い出した瞬間、突然膝に痛みが襲う。

「まぁー……どうしちゃったの嗄ちゃん。野良犬みたいになっちゃって、まぁ……」

「おばあちゃん、あのね。ぼくね――」

「とりあえず、お風呂に入って綺麗になっておいで。話はそれからでも良い?」

楠が顔に付いた汚れを優しく拭いながら言ってくれる。

本当ならば今すぐにでもスイミングスクールに行ってみたかったのだが。

服だけではなく、顔も身体も髪までもを汚してしまった自分が悪い。

「……うん」

今すぐにでも行ってみたかったが。

嗄は大人しく汚れた洋服を脱ぎ、先に入浴する事にした。

掛け湯をして浴槽に浸かり、スイミングとはどんなものだろうかと考えてみる。

潜ったりも、するのだろうか。

そう考えて嗄は少しだけ浴槽に潜ってみる。

けれど息が続かず、すぐに顔を出してしまった。

兄達が居た頃は良く、みんなで浴槽に潜って誰が一番息が続くかを競っていた。

いつも嗄が一番最初に顔を出してしまっていた。

その次は椿。

最後まで残るのはいつも、榎か柊だった。

どちらが長く息が持つか競っていたのを思い出す。

勝つのはいつも柊だったが。

あまりにも二人が長く潜っていたので、つまらないという理由で椿と共に榎達を擽っては顔を出させたりもした。

楽しかった時の事を思い出し、小さく笑ってみせる。

笑ってから、気付いてしまう。

天井の水滴が、浴槽へと音を立てて落ちる。

ぴちゃん、という音が風呂場に響く。

兄達が居た頃の入浴は騒がしくもあり、とても楽しかった。

それが今となっては――

ぴちゃん……。

ぴっちゃん……。

一定のリズムを刻んで水滴が落ちていく。

聞こえる水音が寂しさを増す。

「…………」

嗄は勢い良く浴槽から出る。

――兄達と並べるようになりたい――

そうすればきっと、両親は自分を見てくれる。

兄達と同じように、頭を撫でてくれる。

その為にはもっと、頑張らなくては。

今よりもずっと。

多くの努力をしなくては。

必死に、頑張らなくては。

スイミングはその為の一歩だ。

嗄は髪や身体を全て洗い終えてから、脱衣所へ出て行く。

少し時間を掛けてでも、嗄は洋服を身に纏うとリビングへと向かった。

リビングに楠の姿はなく、居間の方へ視線を向けると楠の姿を捉える事が出来た。

洗濯物を畳んでいる楠の傍へと歩み寄る。

「嗄ちゃん、ちゃんと髪を乾かさないと風邪を引くよ」

「うん」

「それで、話って何だい?」

嗄は洗濯物を畳む楠の傍に静かに腰を下ろした。

楠と同じように、正座をして。

真っ直ぐ楠を見つめ、嗄は告げた。

「あのね、おばあちゃん。ぼく……スイミング、やってみたいんだ」

「え……?」

楠が驚いた表情で嗄の顔を見つめる。

しばらく楠は嗄の顔を見つめていたが……。

洗濯物を畳む手を止めて嗄と向き合い、優しく言ってくれた。

「嗄ちゃん。おばあちゃんね、お兄ちゃん達に言われたんだ。〝嗄が何かをしたいって言い出したら何でもさせてあげて〟って。でも、こんなに早く嗄ちゃんが何かをしたいって言い出すなんて……おばあちゃん思ってなかった」

優しく微笑んで。

嗄の手を優しく包み込んで。

楠は、そう告げた。

嗄が首を傾げながら見つめていると、楠は優しく答えてくれた。

「良いよ。スイミングでも何でも」

「いいの? ホントにいいの?」

「もちろん」

「やったぁー!」

楠の返事を聞き、嗄は思わず飛び跳ねて喜んでしまった。

楠は優しく微笑み、手早く洗濯物を畳み終えるとクラスメイトから教えてもらった学校の近くにあるスイミングスクールへと一緒に向かった。

スイミングスクールに着くと、受け付けで楠が入会の手続きをすぐにしてくれた。

少し時間が掛かるという事なので、嗄は楠の隣の椅子で大人しく待っていた。

それでも子供なので、見慣れない景色を目にしてキョロキョロと周りを見渡していた。

意外と人が少なく、嗄は楠の方ばかり見ていた。

数十分後、書類手続きが終わってスイミングで必要な物を選んで買おうとしていた時だった。

突然、受け付け横にある通路の方が騒がしくなった。

先程までの静けさが、まるで嘘のように。

通路の奥はプールと繋がっているようで、プールが終わった子供達が一斉に出て来ていた。

バスタオルを頭や肩に掛けている子供達や、髪が濡れている姿を目にしてみんなプールで泳いだ後なのだとすぐにわかった。

その時だった。

通路の奥から、人が綺麗な程左右に避けて行くのが見えて何事かと思う。

避けられた奥の方から、二人の影が見えた。

嗄はその影を見つめる。

二つの影はこちらに向かって真っ直ぐ歩いて来ていた。

嗄の居るフロアにその人物達が足を踏み入れた瞬間、空気が変わったような気がした。

二つの影の正体は――

一つは、嗄と年の変わらない幼い少年の傍に控える――スイミングのリュックを手にした二十代前半か後半の、執事服を身に纏った男。

執事を傍らに控えさせて堂々と歩く少年は、まるで人形のように嗄の目には映った。

もう一つの影の正体。

美しい漆黒の髪に、完璧な程に整った綺麗な顔立ち。

綺麗で、色白な肌。

エメラルドグリーンの瞳をした少年。

まるで絵本やお伽噺から飛び出して来たかのような少年だった。

少年と執事は真っ直ぐ出入り口へと歩いて行き、フロアから去ってしまった。

二人がフロアから出て行ってもしばらくはフロア内が騒めいていた。

嗄は少年が出て行った出入り口を見つめる。

あの少年も、このスイミングに通っているのだろうか。

あんな凄い子と友達になりたいと、無邪気に嗄は思っていた。

それから二日後の事。

嗄が初めてスイミングに通う日が訪れた。

学校が終わるとすぐに嗄は帰宅し、用意していたスイミングのリュックを背負って楠と共にスイミングスクールへと向かった。

初めての授業なので、予定の時間より少しだけ早めに来て時間が来るのを待っていた。

不安でもあったが、凄く楽しみでもあった。

早く時間が来ないかと思っていると、すぐに時は経ち。

時間が迫って来ると嗄が入るクラスの生徒達が集まり、更衣室へと入って行く。

楠に背中を押され、嗄も更衣室へと入って行った。

男女に更衣室は分けられており、水着に着替えるとプールの扉前でプールの準備が整うまで待たされる。

プールの準備が整うまでの間にコーチは出席を取り、それが終わると嗄の事を紹介してくれた。

「今日からみんなと同じクラスになる、東夜嗄くんです。仲良くしてね」

「あずまやみやぎです。よろしくおねがいします!」

そう言って頭を下げると、クラスメイトのみんなから拍手が送られる。

思っていたよりも生徒達の空気が明るく、すぐに嗄の緊張が解れた。

生徒の中には先日スイミングを教えてくれたクラスメイトの顔もあって安堵する。

そこで、嗄はある事に気が付いた。

嗄達よりも先にプールサイドに出て行ったクラスの生徒の中に、先日目にした少年が居た。

釣られて嗄達のクラスもプールサイドへと出て行く。

先に少年の居るクラスはプールを使って授業を始めていた。

ホイッスルが鳴ると同時に少年はプールへと飛び込んで泳ぐのだが……。

とても優雅に、美しいフォームで滑るようにして泳いで行った。

少年の泳ぎを目にした瞬間、水泳に詳しくない嗄でもわかった。

少年の泳ぎは上手だと。

泳ぎ終えた少年にコーチが声を掛ける。

「柳原君、上手だね~」

「――――」

きっと、あの少年のようにならないと褒められない。

あの少年を超える。

その為には努力を積み重ねなくては。

嗄はそう意気込んで初めての授業に挑んだ。

結果、嗄の運動音痴はすぐには直らなかった。

運動系に関してはいつもD判定。

いつだって〝もう少しがんばりましょう〟だ。

それでも、スイミングは遣り甲斐があると嗄は思った。

今日よりも明日は少しでも上手くなれる。

明日より明後日はもっと上手くなる。

そう思い、嗄は努力を続けた。

すると、全く泳げなかった嗄が少しずつでも泳げるようになっていったのだ。

少しずつの成長が積み重なっていき――

スイミングを始めて一週間も経たない内に嗄は普通に泳げるようになっていた。

更に嗄は努力を続け、更に一週間後の事だった。

「嗄君は次からSクラスで授業受けようね」

「あ……はい……?」

スイミングを始めて僅か二週間程で嗄はエリートクラスであるSクラスへ入る事になった。

嗄の居たBクラスは低学年ばかりのクラスだったのだが。

Sクラスになると、スイミングの級が高い人達ばかりになってしまう。

と言っても、この時嗄の級は7級までいっていた。

小学校四年生程のレベルまでいっていたのだ。

小学校一年生の嗄にはそれが凄い事なのかはわからなかった。

ただ、スイミングのテストが楽しくてまるでゲーム感覚だった。

少し頑張れば、すぐにテストにはクリアしていった。

テストの内容が難しくなればなるほど、面白く感じられた。

ただ嗄の場合、毎回受けるテストで合格していた為級はいつも昇級していた。

毎回昇級をしていた嗄は少しだけ疑問に思う事があった。

ずっと低い級から昇級せず、テストでも合格出来ない人を見て〝どうしてこんな簡単な事が出来ないんだろう?〟と。

幼かった嗄は不思議で堪らなかった。

BクラスからSクラスへたったの二週間で上がったのは嗄が初めてだとコーチ達は言っていた。

そして、Sクラスで初めての授業の日。

プールの準備が整うまで、ロッカールームにある小さな広場で水着に着替えてから待つ。

そこに嗄と年が近い生徒は四人しか居なかった。

三年生の男の子と、四年生の女の子。

それから、あの少年だ。

一年生でSクラスなのは、嗄とあの少年だけだった。

あの少年の名は、柳原右京。

かの有名な柳原財閥の御曹司らしい。

右京の級は3級。

誰一人として、右京に追い付ける生徒は居なかった。

将来を期待されている生徒だが……。

将来右京は、柳原財閥の跡を継いでいる事だろう。

そんな右京だからか、それとも大金持ちの御曹司だからだろうか。

右京が他のクラスメイトと話をしている姿を嗄は見た事がなかった。

いつも一人で居る姿ばかり見ていた。

プールの準備が整うまでの間、出席を取る中また嗄は紹介をしてもらう。

紹介が終われば、すぐにプールサイドへと向かった。

準備運動を済ませると、コーチが笑顔で告げる。

「それじゃあ、今日は二人でペアを作ってください。ペアが決まったらここに二人ずつ並んで座っていってねー」

相手は自由に選んで良いと言われ、他のクラスメイト達はそれぞれに仲の良い人ばかりを選んでいった。

次々とペアの出来ない人が残っていく中。

最後の一人に残ったのは、右京だった。

右京ただ一人だけ、取り残されていた。

クラスの人数は偶数。

右京が一人だったのは、まだ嗄がペアを決めていなかったからだ。

ただ一人だけ取り残されてしまった右京の元へと嗄は歩み寄る。

お金持ちのお坊っちゃまな右京。

問題が起こらないようにと、みんな右京と関わらないようにしているのだろう。

Sクラスに入ってみて、それがなんとなくわかった。

何故ならば、いつだって右京だけが一人ぼっちになっていたからだ。

みんな、右京に近付こうとしないのは右京の親が持つ権力に怯えていたのだ。

右京が一言、気に入らないと言えば翌日は笑って過ごせない。

そんな噂が流れる程だ。

長年勤めていた会社も、右京に睨まれただけですぐ解雇されてしまうだろう。

それを恐れた生徒の親達が子供達に関わらないようにするか、差し障りのない態度を取るようにと言う程にだ。

幼い嗄はそんな事を知らず、右京へ向けて右手を差し出す。

「ぼく、あずまやみやぎ。よろしくね! あいてがいないなら、ぼくとペアになろ?」

笑顔で嗄はそう告げる。

右京は静かに嗄を見つめていたが――

差し出された嗄の手を軽く払い除けて告げた。

「しょみんのくせに、なれなれしくするな」

右京の言っている意味は全くもって嗄には理解出来なかったが。

嗄はその日、右京と初めてペアになった。

右京とペアになったのは良いが、一言も話はしなかった。

嗄は右京の泳ぎを見ている事しか出来なかったが、やはり右京の泳ぎは上手かった。

流石3級を持っているだけはある。

右京とペアを組んで以来、嗄は右京の事を良く構うようになった。

右京と自ら一緒に居たがる嗄は化け物かとも囁かれたが。

幼かった嗄にはそんな事関係なかった。

大人達が引いてしまうような線を、嗄は引かなかった。

みんな平等。

子供らしいと言えば、子供らしい考えだが。

嗄は誰もしようとしなかった事を、一番最初にした人物だった。

嗄にとって右京とは親近感が湧いていたのだ。

年上ばかりが居る中で、唯一同い年の右京。

話し相手やペアになる人の居ない右京の傍にずっとくっ付いていた。

スイミングが始まれば、ずっと一緒に居るというのに右京は一向に嗄と話そうとはしなかった。

そんな、ある日の事だった。

ここ何日か、ペアを組む授業ばかりだった。

その日もコーチからペアを作るようにと言われていた。

相変わらず、右京ただ一人だけ取り残されてしまっていた。

一人ぼっちになっている右京の元へ行き、嗄だけが右京をペアに選ぶのはいつもの事。

それを静かに受け入れるのもいつもの事。

だが、その日だけは違っていた。

嗄が右京をペアに選んだ瞬間、突然右京が言い出したのだ。

「どうしてこのおれさまが、こんなヘタなやつとペアなんだ!」

「え……?」

プールサイドに、右京の声が響き渡る。

全員が右京の発した声に驚いた。

ついに柳原右京を怒らせてしまったかと、全員が恐怖に戦く。

右京は眼前に立つ嗄を睨め付け、右手の人差指で嗄を指差して告げる。

「それにおまえ! しょみんのくせになれなれしいぞ‼」

右京の言っている〝しょみん〟の意味が相変わらず嗄は首を傾げる。

言葉の意味はわからなかったが。

嗄は右京を見つめたまま尋ねた。

「じゃあ、ぼくじゃないひととペアをくむの?」

「とうぜんだ! なんでおまえみたいなビンボーくさいしょみんなんかとまいかい……」

「だれとペアになるの?」

「それは――」

右京がSクラスのクラスメイト達へと視線を向ける。

けれど悲しい事に、誰一人として右京と目を合わせようとはしなかった。

それを目にして嗄が更に尋ねる。

「ねぇ、だれとペアになるの?」

「うるさいっ‼ おまえいがいのだれかだ!」

「でも、だれもうきょーくんとペアになろうとしないよ? みんな、うきょーくんとはなそうとしないのに?」

「っ‼」

刹那、突然右京が嗄の事を突き飛ばした。

嗄はその場で尻餅を付く程度だったが。

右京の行動を目にしたコーチ達は、誰一人として右京を叱ろうとはしない。

みんな、静かに右京と嗄を見つめるだけだ。

ただ一人動いていたのは、慌ててロッカールームの方からプールサイドへ右京の執事が入って来たくらいだ。

「お坊っちゃま‼」

執事の怒声が、プールサイドに響き渡る。

その瞬間、右京が少し飛び上がったような気がした。

執事がこちらへ向かって歩み寄って来るが、嗄は右京を見上げて告げた。

「ぼくがいないとうきょーくん、ひとりになっちゃうよ?」

「ッ……!」

「ぼくは、うきょーくんといっしょになれてうれしいよ? うきょーくんとはなせて、たのしいよ? うきょーくんは、そうじゃないの?」

「…………」

嗄の言葉に、右京は俯いて黙り込んだ。

微かに右京が口を開いたその時。

右京の背後には執事がいつの間にかおり、右手の拳を振り上げていた。

拳を振り上げた刹那、プールサイドにごちんっという打撃音が響いた。

そう、執事である人物が仕えている主である右京に向かって拳骨を食らわせたのだ。

実に奇妙な光景に、その場に居た全員が目を疑った。

拳骨を真面に食らった右京は頭を押さえ、背後に立つ男を見やって怒鳴り付ける。

「なにするんだ、にしきおりぃ‼」

「お坊っちゃまこそ、何をされて居られるのですか。プールサイドで人様を突き飛ばす等……。尻餅で済んだなら未だしも、頭でも打っていたらどうするおつもりだったのですか? それに、今のは何処からどう見てもお坊っちゃまが悪いです」

「うるさい‼ おれさまにこんな事していいとおもってるのか‼」

「ええ。私は旦那様と奥様からお坊っちゃまの〝教育〟を頼まれましたので。これも教育の一環で御座います」

「たいつみもはんざいだ‼」

「――お坊っちゃま、体罰で御座います。〝たいつみ〟では御座いません」

「うっ、うるさい! おとうさまにいいつけてクビにしてやる‼」

「ええ、結構。どうぞお好きなようにして下さいませ。ですがお坊っちゃま。私をクビにすれば毎晩絵本を読む者も、夜にお手洗いへお供する者も居なくなりますが……それでも宜しいのでしょうか? 私は別に良いのですが。お坊っちゃま、流石に小学校一年生でそれも無いでしょう」

「うるさい! うるさい、うるさい‼ だまれだまれだまれぇぇぇ‼」

「では、黙らせてもらいます。ですがその前に、お坊っちゃま。東夜様にお謝り下さいませ」

「はぁ? なんでおれさまが――」

「では、もう一発いきますか?」

にしきおり、と呼ばれた執事が無表情で拳を掲げて見せる。

それが真顔に見えるものだから、目にした右京の表情が見る見るうちに蒼褪めていった。

右京は「わかったよ!」と言うと咳払いを一つし、口を開いた。

「…………わるかったな……………」

蚊の鳴くような、小さな声で。

そしてすぐに顔を背けた。

そんな右京の姿を目にした執事が口を開く。

「お坊っちゃま、そんな声では聞こえません。先程のように、大きな声でもう一度」

「うるさい! もう帰る‼」

それだけ言い残すと右京はロッカールームへ向かって歩き出した。

にしきおりと呼ばれた男は深い溜め息を零す。

それから嗄へ向けて手を差し出してくれた。

嗄が差し出された手を取り、立ち上がる。

嗄が立ち上がったのを確認すると、眼前の男は頭を下げた。

所謂、執事がする右手を腹部に当てて頭を下げるあの動作だった。

洗練された動作に、思わず見惚れてしまう。

優雅に、滑らかな動作。

流石は執事だと思わざるを得ない、見事な動作だった。

「申し訳御座いませんでした。私の方からも謝罪させてもらいます。あんなお坊っちゃまですが、どうかお許し下さいませ」

「ちゃんとあやまってくれたから、もういいよ」

嗄がそう告げると、執事の男は下げていた頭を上げて柔和に微笑んでみせた。

それから、声を潜めて男は言うのだが――

静まり返ってしまったプールサイドでは、男の声がやけに響いてしまい結果的には全員に聞こえてしまった。

「実はお坊っちゃま。今までずっと一人でお過ごしだった為、東夜様の存在を嬉しく思って居られるのですよ。今日は東夜様とこんな事をしたと、それはそれは楽しそうな表情で私に話してくれるのです。ですから、どうぞこれからもお坊っちゃまの事を宜しくお願いします」

そう言うと男は再び優雅に頭を下げてみせた。

そんな男に対して、ロッカールームから着替えを済ませた右京が声を掛ける。

「にしきおり! かえるぞ‼」

「かしこまりました」

右京に対して返事をする、眼前に立つ執事の男。

嗄に背を向ける前に「それでは失礼致します」と一声掛けて。

男は踵を返すと、右京の居るロッカールームへと歩き出す。

ロッカールームの方へと視線を向けてみると、不意に右京と目が合った。

視線が絡み合った瞬間、気が付けば嗄は告げていた。

「うきょーくん! あしたもよろしくね!」

嗄が笑顔でそう告げると、右京は照れたようにそっぽを向いてしまった。

そのまま行ってしまうかと思ったが……。

そっぽを向いたまま、大きな声で右京は口にしたのだ。

「あいてしてやらないこともない!」

それだけ言い残すと右京はそのまま執事の男を引き連れてロッカールームを出て行ってしまった。

これが、柳原右京と嗄の距離が近付いた時の事だ。

嗄にとって、大切な幼き日々の思い出の一つ。

それが、〝柳原右京〟だ。




――――柳原右京と東夜嗄が出逢った頃の出来事だった――――












                                              ~To be continued~


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