青春スクエア ~東夜嗄の片思い~ 小学生編4
本当に、幸せだった。
とても、幸せだった。
みんなが笑っていて。
お父さんとお母さんの目には僕がちゃんと映っていて。
本当に、暖かな時間だった。
きっと僕はその時程〝幸せ〟だと感じた事はないと思う。
初めて〝家族六人で〟過ごせた、最初で最後の夜。
気が付いた時には、僕の頬に涙が伝っていた。
嬉し過ぎて。
幸せ過ぎて。
僕は思わず、泣いてしまったんだ。
突然僕が泣き出したから、兄さん達は慌てて僕を宥めてくれて。
大丈夫だよって、何度も優しく頭を撫でてくれて。
いっぱい、僕に触れてくれた。
決して僕の中から消える事はない。
何よりも大切で。
何よりも、掛け替えのない時間。
〝家族になれた〟時の日の事。
――きっと、僕の中での〝一番の思い出〟だと思う――
本当に、夢みたいな夜だった。
ふと、物音がして静かに眠りから目覚める。
ゆっくりと、閉じていた目を開いていく。
目を覚まして、此処は一体何処だと少し不安になる。
不安な気持ちで、周りを見渡す。
月明かりが淡く照らす室内。
見慣れたリビングの風景。
ソファーに腰掛け、膝の上には飼っている猫のレインの姿があった。
いつも通りの光景に、嗄は安堵の息を漏らす。
どうやらレインを膝に抱えたまま、いつの間にか眠ってしまったようだ。
胸を撫で下ろしながら、膝で丸くなって眠っているレインを微笑んで見つめる。
本当に、気持ち良さそうに眠っている。
可愛らしいレインの姿に、心が癒されていくのを感じた。
優しく、レインの身体を撫でてみる。
すると全身に力を入れるだけ入れて更に丸くなり、力を抜くと大きく伸びて欠伸をしてみせる。
頭を撫でてあげて、嗄はふと顔を上げる。
懐かしい夢を見た。
久々に、子供の頃の夢を。
しばらくは見なかったはずの、幼き日々の夢を。
まだ、兄達が居た頃の夢を。
嗄にとっては、一番良く覚えている頃だ。
一番幸せだった日の夢を見て、胸が酷く締め付けられる。
もう、あの日々は帰って来ない。
もしもそれを、幼かった頃の自分が知っていたら。
一体、どうしていただろうか。
「――――」
レインを撫でる手を止めて、つい考えてしまう。
撫でられる手が止まると、レインは嗄の膝から下りてしまった。
レインが膝から下りた事に気付き、嗄は我に返る。
膝からレインの温もりが消えてしまい、半ばレインを追い掛けるようにして嗄もソファーから立ち上がった。
喉が渇いていたようで、レインは真っ直ぐ水置場へと向かって行った。
そういえば自分も喉が渇いた事に気付く。
珈琲でも淹れようかと、キッチンへ向かおうとした時。
嗄はある事に気が付いた。
ラックの上に飾っていた写真立てが、倒れている事に。
倒れていた写真立てを手に取る。
写真立てに飾られていた写真を目にして、何故子供の頃の夢を見たのか。
何故、あの最高に幸せだった頃の夢を見たのか瞬時に理解した。
倒れた写真立てにはあの時、母が撮ってくれた写真が飾られていたからだ。
三人の兄達と過ごした、最後の夜の写真。
椿も、榎も、柊も。
そして幼かった自分も、本当に良い笑顔で写っている。
先程聞こえた物音は恐らく、この写真立てが倒れた音だろう。
運が良い事に、写真立ての硝子は割れていなかった。
大切な思い出が。
兄達の笑顔が硝子で歪まなかった事に安心して微笑み、少しだけ写真に写る兄達の姿を。
幼かった自分を、指でなぞる。
何処か、切なげな表情で。
悲しげな眼差しで、写真に写る兄達を見つめる。
やがて、手にしていた写真立てを元の場所に戻してキッチンへと向かった。
淡い月明かりの下で。
月明かりだけを頼りにして、マグカップに珈琲を淹れる。
淹れ終わった珈琲を片手に自室へ向かいながら、嗄は思った。
手にした珈琲を、一口啜って。
――――あの頃は本当に何も知らない、ただの子供だったなと思いながら――――
眩い朝日で目を覚ます。
まだ眠たく、もう少し眠りたいともう一度目を閉じる。
そこで、幼い嗄はある事に気が付いた。
いつもならば聞こえる兄達の声が、聞こえない事に。
不思議に思って嗄は身体を起こす。
隣の二段ベットに椿の姿はなかった。
今日は日曜日。
日曜日ならば、朝は騒がしいはず。
特に椿が大騒ぎするはずだ。
ベットの下の方からも兄達の声が聞こえない。
梯子を使って下へ降りてみるが、子供部屋に兄達の姿はなかった。
いつもならば、兄達は部屋に居てくれるはずなのに。
少なくとも、榎だけは部屋に居てくれるはずなのに。
そう、〝いつも〟ならば。
垂れ下がる長い袖を捲って、眠い目を擦る。
柊からのお下がりであるパジャマはやはりサイズが大きく、手が隠れてしまう上にズボンの裾も引き摺ってしまう。
袖を捲ったまま、ドアノブへ手を伸ばして回してみる。
扉が開くとまず見えるのが正面のトイレの扉。
手前に食卓テーブル。
食卓テーブルの先には玄関があり、玄関には兄達の姿が見えた。
しかもパジャマ姿ではなく、既に着替えており外へ出掛ける様子だった。
まだ少し眠い嗄はゆっくりとした足取りで玄関へと歩み寄り、眠い目を擦りつつ兄達に尋ねる。
「……どこにいくの?」
嗄の声に気付いた兄達はすぐさま振り返ってくれる。
いつもと何一つ変わらない。
優しい笑みを浮かべて
「おはよう、嗄。ごめんね、起こしてあげられなくて」
「ボク達、これからお仕事に行って来るねっ!」
「テレビにいっぱい出るからな。嗄もちゃんと見ててくれよ?」
椿が嗄の頭を荒っぽく撫で回し、いつもの爽やかな笑みを浮かべて言う。
意味が全くわからず、嗄は首を傾げてみせる。
首を傾げた嗄を目にし、榎が悲しげに苦笑するのが見えた。
今度は優しく、榎が頭を撫でてくれながら言う。
「……ごめんね。これからは嗄と一緒に居れなくなると思うんだ」
悲しげな瞳で。
悲しげな表情で、榎はそう告げる。
優しく頭を撫でてくれる手は、いつもと同じなのに。
――どうして、そんなかおするの?――
わからない。
嗄には何一つ、わからない。
何一つ兄達の言葉が理解出来ず、嗄はただ兄達を見上げていた。
すると、玄関の扉の先から椛が兄達を呼ぶ声が耳に届く。
椛の声掛けに兄達は同時に答え、履き掛けていた靴に足を入れる。
柊はポケットからキャンディーを四つ取り出して嗄の手を取り、優しくキャンディーを手に握らせてくれる。
嗄の手の中にキャンディーが収まると、優しく柊は嗄の頭を撫でて告げる。
「じゃあ……行って来るね」
そっと、柊の手が離れて行く。
嗄はただ、兄達の背中を見つめている事しか出来なかった。
手渡されたキャンディーを手にして。
何一つ、理解出来ないまま。
――どこに、いっちゃうの?――
そう尋ねる前に、兄達は玄関の扉を開け放つ。
無意識に嗄は兄達へ向けて手を伸ばしていた。
けれどその小さな手は兄達には届かず……。
虚しい音を立てて、玄関の扉は閉まってしまった。
鍵が閉められる音が、玄関には響く。
それじゃあ行こうかと言う声が耳に届き、嗄はすぐさま子供部屋へ向かって走った。
子供部屋へ戻り、嗄は窓から外の様子を伺う。
窓の外には三台の車が停まっており、それぞれの車に兄達は乗り込んで行った。
椛は椿と同じ車に乗り込む。
嗄ただ一人だけ、家に残して。
兄達を乗せた車は走り出す。
訳も分からず、突然嗄だけが家に取り残された。
今までずっと傍に居てくれた兄達はもう、傍には居ない。
あの笑顔達が、傍に居ない。
あるものは、手の中に握られた四つのキャンディーのみ。
嗄はただ一人残された子供部屋で、手の平にあるキャンディーを見つめる。
いつもならばすぐに開けてキャンディーを食べてしまうのだが。
何故だか今日はキャンディーを食べる気になれなかった。
いちご味のキャンディーを指で摘まみ、窓の縁へと置く。
キャンディーを一つ置いて、嗄は呟く。
「これは、つばきにぃ」
ライム味のキャンディーを指で摘まみ、いちごの横へ置く。
それから、ポツリと呟く。
「これは、えのきにぃ」
メロン味のキャンディーを指で摘まみ、ライムの横へ置く。
三つ並んだキャンディーを見つめ、嗄は小さく呟く。
「これは、ひいらぎにぃ……」
最後に手の平に残ったキャンディーを人差し指と親指で摘まんで持ち上げる。
みかん味のキャンディーを、三つ並べたキャンディーより少し離れた場所へ置いて呟く。
「それで、これがぼく」
手にしていたキャンディーを、全て窓の縁へ置いた。
並べられたキャンディーを、窓の縁に頬を乗せて見つめる。
しばらくの間キャンディーを見つめていたが、不意にライム味のキャンディーを指で突いて呟く。
「みやぎ、なにしてあそぼうか?」
榎のように、ワンテンポ遅れた口調でそう呟く。
まるで、兄達がそこに居るかのように。
おままごとのような事を、嗄は始めた。
今度はみかん味のキャンディーを突いて呟く。
「えっとね、えのきにぃのこえがききたいからえほんよんで。それとね、ひいらぎにぃのおうたもききたい」
メロン味のキャンディーを右手で突き。
少し顔を上げて、いちご味のキャンディーを左手で突いて言う。
「いいよ。どのうたがききたい?」
「じゃあそのあとになりきりごっこやるからな」
そう、小さく呟いて嗄は遊ぶ。
誰も居ない家で。
嗄しか居ない、空間で。
一人ぼっちで、嗄はそうやって兄達の帰りを待つ。
兄達が帰って来るまで、ずっと。
ずっと、その場を動かずに待っていた。
本当に、昨日の出来事はまるで嘘のように。
夢のようだった。
もしかしたら、本当に夢だったのかもしれない。
目を覚ませば、いつも通りに戻っていた。
椛が嗄の為に昼食を用意していないのも、いつも通りに戻ってしまった。
まるで夢のように、幸せな時間は一夜にして終わってしまった。
いつも通りの日々に、戻ってしまった。
いや、本当は〝いつも通り〟ではない。
幼い嗄にはまだ、家庭の変化には気付けなかった。
身体が空腹を訴え始めても、嗄は我慢するしかない。
兄達が帰って来て、椛が夕飯を作ってくれるまでは。
しかし、食事を摂ろうと思えば摂る事は出来る。
嗄の身長では冷蔵庫に手が届かないが、椅子を使えば冷蔵庫を開ける事は出来る。
だが、椅子を使って冷蔵庫の中にあった残り物に手を付けてしまえば椛に酷く怒られてしまう。
基本的に、誰も居ない家で嗄が何かをする事は禁じられていた。
勝手に食事をすれば、椿達の分がなくなるからダメと。
椿達のおもちゃを取り出して遊べば、それは椿達の物だから勝手に遊ぶなと。
柊のおやつのプリンやメロンパンを食べると、勝手にゴミを出さないでと怒られる。
一人で入浴した時程怒られた事はない。
アンタのせいで水道代が馬鹿にならない。
勝手に洗濯物を作るな。
そんな生活が、嗄にとっては〝常識〟だった。
〝ごはんはおにぃちゃんたちがかえってこないとたべられない〟
〝おにぃちゃんたちがいるときじゃないとなにもできない〟
〝ひとりでいるときは、なにもしちゃいけない〟
熱いからエアコンを付けると、椛に酷く怒られる。
一体誰が電気代を払っていると思っているんだと。
唯一出来る事と言えば、トイレに行く事と水道水を飲む事くらいだ。
空腹を訴える腹を、水を飲んで落ち着かせる。
水だけで空腹が満たされるはずがないのだが。
水を飲む時でさえ、グラスの半分以下しか水を注がない。
麦茶を飲んでしまえば、すぐに椛に怒られてしまう。
兄達が居なければ、嗄の生活は全て制限されてしまうのだ。
兄達が居て初めて、嗄は一応人並みには生活が出来ていた。
その兄達が居なくなってしまえば、嗄の生活はままならない。
――幼い嗄がわかるはずがない――
当時嗄は、ネグレクト状態に陥っていた事等。
子供である嗄が、わかるはずがない。
何もする事が出来ず。
外へ飛び出す事も出来たが、嗄はそれをしなかった。
遊びに行けば服を汚してしまい、椛に酷く怒られる。
かと言って、自分が居ない間に椛が戻って来れば家に居ろと怒られる。
だから嗄は何もせず、窓の前でじっと兄達の帰りを待つ。
何も出来ないまま、ずっと。
夜が来たとしても、電気を付けて待っていると椛に怒られる。
本当に嗄はただただ、待っている事しか出来なかった。
嗄の身体が、平均よりも小さいのはこのような生活の中で育ったから。
十分な量の食事を、与えて貰えないからだ。
自身の、サイズの合った服も指で数える程もない。
幼かった嗄は、自分以外のみんなもそうなのだと思い込んでいた。
しかし、心の何処かではわかっていた。
同い年の子供でも、嗄より身体の大きい子供ばかりだ。
そんな子供達はみんな、兄達のように大切にされて育って来たのではないかと。
それでも、中には自分と同じように育っている子供も居るはずだと信じていた。
嗄の送っている生活が立派なネグレクトだとも知らずに。
自分が送っていた生活がネグレクトだと知るのは、まだまだ先の話だ。
嗄は夕方になっても。
陽が沈んで、闇が訪れても。
月明かりが窓から射し込む時間になっても。
電気を付ける事もせずに、窓の前でずっと兄達の帰りを待っていた。
去年の誕生日に兄達から貰った、ほとんど等身大のくまのぬいぐるみを抱いて。
どんなに家に一人で居る事が多かったとしても。
寂しくないはずがない。
特にいつもならば、夕方頃には兄達は帰って来ていた。
なのに、今日は夜になっても帰って来ない。
こんな事は初めてだった。
綺麗で美しくも、冷たい月明かりに照らされる中。
嗄は抱き締めるぬいぐるみに顔を埋めて涙を流す。
早く、帰って来てと願いながら。
たった一人の部屋で。
暗闇の中で、嗄はただ一人待ち続けた。
涙を流しながら、ずっと。
ずっと、泣きながら待ち続けていた。
けれど、どんなに待っても兄達は帰って来なかった。
やがて嗄は泣き疲れて、ぬいぐるみを抱き締めたまま一段目のベットで眠ってしまった。
時計の針が午後十時を過ぎた頃。
玄関の扉が解錠される音が響く。
泣き疲れて眠ってしまった嗄が目を覚ます事はなかった。
ゆっくりと、三人の兄達は嗄が待っている子供部屋の扉を開け放つ。
月明かりだけが部屋を照らす中。
ベットの上でぬいぐるみを抱き、頬を濡らして眠る嗄の姿を目にした兄達は酷く胸が締め付けられた。
しかし、今更もう引き返す事も出来ない。
芸能界デビューを果たしてしまった彼等には〝前に進む〟という選択肢しかなかった。
椿と榎、柊は悲しげな表情をして眠っている嗄の傍へと寄り添う。
椿は眠っている嗄と寄り添うように横になって。
榎は優しく、指先で嗄の涙を拭って。
柊は優しく、嗄の頭を撫でて。
兄達は眠っている嗄の姿に、酷く胸が締め付けられる。
「――ごめんな、嗄」
「……ごめんね」
「ゴメン……嗄……」
耳元で、兄達は謝る。
囁くようにして、大切な弟に謝る。
兄達が帰って来れば食事にあり付けると嗄は信じていたが。
悲しい事に、椿達は外食をして帰って来てしまった。
椛が嗄の分を持ち帰っているわけがない。
つまり、嗄の食事は完全に抜きだ。
本当は椿達もわかっていた。
自分達が居なくなれば、嗄がどうなるか。
こうなる事は、わかっていたはずなのに。
夢の舞台を頭に描き、目が眩んでしまっていた。
きっと、嗄をたくさん傷付けてしまう。
これから先、もっと嗄を泣かせてしまうだろう。
だから、自分達が出来る事。
しなくてはいけない事は、自分達が居なくても嗄が笑えるようにする事だ。
何処までも前に進み続けて。
もっともっと、名前が売れるようになって。
大物になれば、大金を稼げばきっとこの生活は変わる。
嗄にも、以前の自分達のように両親は接してくれるだろう。
もう、あんな風に嗄ただ一人が取り残される事はないだろう。
嗄だけが、食事の量が少ないなんて事は。
そんな事にはならないだろうと、兄達は信じて疑わなかった。
だから、全員が前に進む為の道を選んだのだ。
自分達が居たから、嗄の分の愛情を奪ってしまったのだと。
自分達さえ、両親の前から居なくなれば嗄も自分達のように愛されると。
椿達は、信じて止まなかった。
一日だけでも、芸能界という世界を知ってわかった。
自分達が〝夢を描いて〟手に入れたものは、何よりも大切なものを犠牲にするのだと。
大切な、大切な弟を。
大好きな嗄を、傷付けて泣かせてしまうものなのだと。
椿達は気付いた瞬間、自分の為ではなく。
傷付けてしまう嗄の為に。
これから先、たくさん泣いてしまうであろう嗄の為だけに頑張ると心に誓ったのだ。
逢えなくなって、きっと嗄は悲しむだろう。
嗄が泣かない為に、椿は全力で演じようと心に誓う。
まるで、椿が傍に居るように錯覚させるような演技をしよう。
いつでも、嗄と寄り添えるように。
何度でも、マイクの前で喚こう。
僕達は離れていても、何時だって嗄の事を想っているって。
嗄の為に、頑張っているのだと。
何度だって、声に乗せてこの想いを届けよう。
離れている嗄にも、ちゃんと届くように。
泣いてしまうのならば、笑顔になれる歌を作ろう。
逢う事は出来ないけれど。
メロディーに、歌詞に、歌声に想いの全てを乗せるから。
ボクの歌を聴いて、嗄が笑えるように。
少しでも近くに、自分達を感じ取れるように。
全力で前に進んでいくから。
その分きっと、大切な嗄を傷付けて泣かせてしまうだろう。
芸能界デビューと引き換えに、椿達は大切なものを失うのだ。
だから、三人の兄達は誓う。
「「「嗄の為に、頑張るから……」」」
椿と榎、柊は声を合わせて眠っている嗄に告げる。
何一つ、嗄には届かないだろうが。
今伝わらずとも、全てが理解出来るようになった時。
もう一度、この言葉を伝えよう。
もしかしたら、嗄は自分達を許してはくれないかもしれない。
見捨てたと、思ってしまうかもしれない。
そう思うと、椿達は更に胸が締め付けられる。
気が付いた時には、眠っている嗄を椿達三人は抱き締めていた。
今は伝えられない想いを、いつかは君に届けるから。
自分達の持つ力全てで、嗄へ届けるから。
その時はどうか、受け取って欲しいと椿達は酷く懇願する。
きっと、その時思った事は椿も榎も柊も同じだっただろう。
表情を見ればすぐにわかった。
みんな、悲しげで今にも泣き出しそうな表情をしていた。
しばらくして、椿は嗄を柊のベットで寝かせる。
抱いていたぬいぐるみを勉強机の椅子に置いて。
時間が許す限り、椿達は嗄の傍に寄り添うと決めた。
榎は眠っている嗄に優しく布団を掛け、嗄の手を優しく握って告げる。
「嗄……明日から、一緒に居られなくなるんだ……。本当に、ごめんね……」
嗄は夢見心地で、榎の言葉を聞いていた。
夢の中で、悲しげにそう告げる榎が出て来た。
今にも泣き出しそうな表情をして。
そんな榎の姿を目にして、夢の中で嗄は尋ねる。
――どうして、いっしょにいれないの?――
――ねぇ、どうしてあやまるの?――
嗄の質問に、榎は答えてくれない。
ただ、悲しそうな笑みを浮かべるだけ。
悲しげな瞳で、嗄を見つめていた。
不思議に思いながらも、嗄は榎へと手を伸ばす。
すると、榎は悲しげな表情をしたまま嗄へ背を向けた。
何も言わずに。
榎は一度も嗄の方を振り返る事なく、歩き出してしまう。
どこにいくの?と、嗄が大声で尋ねても答えてくれない。
榎の後ろ姿が遠くなって行き、嗄は慌てて駆け出す。
このままでは、榎が遠くへ行ってしまう。
追い掛けないと、行ってしまう。
嗄は榎の後を追いながら喚く。
〝えのきにぃ!〟
どんなに喚いても。
どんなに泣いても。
榎は歩みを止めようとはしない。
〝いかないでよ……〟
榎の背中だけ追って走っていると、足を絡ませてしまい派手に転んでしまう。
顔を上げてみるが、榎の背中は遠くなるばかりで。
視界が、涙で滲んでいく。
〝えのき、にぃ……〟
立ち上がる事が出来なくて。
嗄は涙を流しながら、必死に手を伸ばす。
気付いて。
振り向いて。
いつもみたいに、手を差し伸べてと。
必死に、伝わるように願いながら。
けれど、榎はこちらを見ようともしない。
〝いかないでよっ……! えのきにぃ‼〟
酷く嗄は喚く。
涙を流して、声を嗄らす勢いで榎を呼び止めようとする。
榎は嗄に気付かないまま、深い霧の中へと入って行ってしまう。
霧の中へ入って行く榎を目にし、嗄は慌てて立ち上がって霧の中へ突っ込んで行く。
もう少し。
もう少し手を伸ばせば、榎に触れられる。
榎の背中が眼前に迫り、嗄が必死に手を伸ばそうとした時。
不意に、夢から目が覚める。
眩しい朝日が、嗄を襲う。
どうやらもう朝になってしまったようだ。
少し身体を起こし、嗄は室内を見渡す。
相変わらず家の中は静まり返っていた。
もしかして、帰って来ていないのだろうか。
嗄が激しい不安に駆られそうになった時。
布団を掛けられている事に気が付いた。
追い掛ければ、まだ兄達は居るかもしれない。
そう思うと嗄はベットから起き上がって子供部屋から飛び出す。
いつもならば、扉を開ければ台所には椛が立っていて。
居間へ視線を向ければ、兄達が居たのに。
それが、ない。
慌てて玄関へ向かってみるが、玄関に兄達の靴は愚か椛の靴もなかった。
嗄は肩を落とし、子供部屋へと戻って行く。
子供部屋に戻り、嗄はある事に気が付いた。
平日の月曜日だというのに、兄達の勉強机にはランドセルが置かれている。
どうやら自分を起こさずに学校へ行ったわけではないようだ。
昨日眠る前と、何も変わらない。
帰って来て居ないのかと、視界が涙で滲み始めた時。
榎の勉強机の上に置かれているものに気が付いた。
眠る前には置かれていなかったもの。
それはラップの掛けられた、四つの大きなおにぎりが乗っているお皿だった。
嗄はそれを目にした瞬間、榎の勉強机へと駆け寄る。
おにぎりの乗っている皿の下には手紙らしきものが挟まれていた。
嗄は不思議に思いながらも手紙を手に取る。
手にした手紙へと、嗄は目を通していく。
〝みやぎ、かおをあわせられなくてごめんね。
おなかがすいたら、おいてあるおにぎりをたべて。
ちゃんとようちえんにはいくんだよ。
えのきにぃはしばらくおうちにはかえれなくなるから、おにぃちゃんたちとなかよくしてね。
えのきにぃより〟
幼い嗄でも読めるように、全てひらがなで書かれた手紙。
榎の優しさを感じ取れるが……。
しばらく家に帰れないと書いている一面を目にし、脳裏に過ぎるのは夢での出来事。
本当に、榎はあの夢のように居なくなってしまった。
あの、優しかった榎が。
突然、居なくなってしまった。
酷く、胸が締め付けられる。
涙が、溢れて来そうになった。
けれど、嗄の腹は空腹を訴える。
嗄はラップの掛けられたおにぎりへと手を伸ばす。
中からおにぎりを一個だけ取り出し、すぐにラップを掛け直す。
一度に全部は食べない。
どうしてもお腹が減って、どうしようもない時の為に残しておく。
だから、一つだけ手にしたのだ。
嗄はおにぎりを食べ終えた後、手紙に書かれていたように幼稚園への支度をし始めた。
いつもならば兄達が着替えを手伝ってくれていたのだが……。
今日はそれがない。
全て、一人でしなくてはいけない。
全部、自分一人で。
着替えようとするのだが、上手く出来なくて涙が滲んで来る。
服の袖で涙を拭い、自分一人だけで頑張って着替える。
そんな生活が。
突然、一人の生活が始まってしまった。
どうしてこうなってしまったのか、幼い嗄にわかるはずがない。
ただ兄達の帰りを子供部屋で一人、待つしかなかった。
ずっと、ずっと。
ずっと、一人で。
暗闇の中で。
月明かりが射す中、嗄は一人で待っていた。
やがて、玄関から解錠される音が響く。
玄関から物音が聞こえた瞬間、嗄は子供部屋から飛び出す。
子供部屋の扉を開け放つと、唯一電気の付けられた玄関には椿と柊の姿が見えた。
一日ぶりに兄の姿を目にした嗄は兄の元へと駆け出して勢い良く抱き付いた。
体当たりも同然な嗄の抱き付きを、驚きつつも椿と柊は優しく受け留める。
たった、一日触れていないだけなのに。
もう随分と椿達と逢って居ないような気がした。
何一つ変わらない、兄達の温もり。
柊の優しい手が、頭を撫でてくれる。
嗄は椿と柊の服をぎゅっと、強く握り締める。
もう、何処にも行かないようにと。
絶対に離さないという勢いで。
一人にしないでと。
口には出さないが、そう必死に訴えた。
その事にすぐ気が付いた椿と柊は、悲しげに微笑む。
そして、椿も優しく嗄の頭を撫でて告げる。
「――ごめんな、嗄」
椿が嗄の頭を撫で、柊は嗄を宥めるようにして優しく背を撫でてくれる。
兄達の優しい手が嬉しくて、嗄は更に椿へと抱き付く。
椿へ顔を埋めながら、兄二人に尋ねた。
「ねぇ……」
「ん? どーした、嗄」
「どうしたの?」
「……えのきにぃ、どうしておうちにかえってこないの……?」
嗄の問い掛けを耳にした瞬間、椿と柊が撫でる手を止めた。
悲しげに、二人して嗄を見つめる。
嗄は兄達の視線に気付かないまま、椿に強く抱き付く。
二人の兄が、こうして傍に居てくれる事は嬉しい。
頭を撫でてくれて。
自分に触れてくれる事は嬉しい。
兄達に触れられると、自分はちゃんとここに居るのだとわかるから。
ちゃんと、存在しているのだとわかるから。
けれど、どうしても完全に寂しさは消えてくれない。
椿、榎、柊の三人が居てくれないと嫌だ。
一人でも、欠けてしまってはダメだ。
何かが足りない。
榎が居ないだけで、こんなにも寂しい。
胸に、ぽっかりと穴が開いてしまったように感じられた。
その開いてしまった穴に、冷たい風が吹き抜けるような感じがする。
嗄がぎゅぅっと椿に抱き付いていると、椿が再び優しく頭を撫でながら言ってくれた。
「……榎はな、色々勉強してからじゃねぇとテレビには出らねぇんだと。だから、今はテレビに出る為に必死に頑張ってんだ。だから、榎は帰って来れねぇんだ」
「……どうして、テレビにでたいの?」
「それはね、嗄。嗄のタメなんだよ」
「ぼくの、ため……?」
柊の優しい答えに、嗄は兄達の顔を見上げる。
椿と柊は優しげに、何処か悲しげに微笑むだけでそれ以上は教えてくれなかった。
幼い嗄は、首を傾げてみせるだけ。
子供だった嗄は、全く知らない兄達の想い。
それを知るのは、まだまだ先の事だ。
兄達が帰って来て、なんとか嗄は夕食に辿り着く事が出来た。
以前のように、椿と一緒に曜日制で入浴する。
榎程優しくはなかったが、出来るだけ丁寧に頭も身体も洗ってくれて。
浴槽から出ると、優しく髪を乾かしてくれた。
一緒に脱衣所から出て、風呂上がりの牛乳を飲み干すが――
いつもは居るはずの榎の姿がなくて、やはり寂しさは拭えない。
その時だった。
框が付けていたテレビから不意に、柊の歌声が流れ出す。
柊の歌声に一番に反応したのは嗄だった。
自分の歌声がテレビから流れ出した瞬間、柊の顔は赤面になったが。
美しい、硝子細工のような歌声が流れ出した瞬間全員がテレビへと釘付けになった。
メロディーも、何も流れず。
ただ、柊の歌声と歌声をレコーディングする柊の姿がテレビに映し出されただけなのに。
正確にはメロディーも流れない、アカペラ状態で柊が歌っただけなのに。
歌声だけで、完全に魅せられてしまった。
CMの最後に柊の声で一言。
『東夜柊ファーストアルバム、〝この声を君に〟 近日発売予定』
テレビを目にした椛と框と椿は目を輝かせて、柊の方へと視線を向ける。
柊は信じられないと言った表情で。
赤面して、口を開けたり閉じたりしてテレビ画面を指差していた。
「何今のCM⁉」
「柊、お前すっげーな!」
椛と椿が興奮した様子で柊に尋ねるが。
柊は真っ赤になって、俯いてしまった。
嗄は、不思議な感覚に捕らわれた。
目の前に柊が居るはずなのに、テレビに柊が映っていて。
いつも通り、楽しそうに歌っているはずなのに。
別の人のように感じられた。
それは椛も椿も同じだったようだ。
柊はその場に蹲って、小声で教えてくれた。
「昨日、ボクのために作曲してくれていた歌があってそれを歌ってって最初言われたんだけど……。〝ボク、作詞作曲も出来るし歌えます〟って言ったら、すぐに曲が頭の中で出来上がって……。とりあえず、歌ってみてくれって言われたからアカペラで歌ったんだ。そしたら、最後の台詞を言えって言われて言ったら……まさかCMになるなんて思ってなかったよぉお……!」
蹲って、頭を抱えながら激しい羞恥に柊は駆られている様子だった。
柊の言葉を聞いた椛が嬉しさのあまりか、涙ぐむ。
椿はいつもの如く、柊の背中をバシバシと叩く。
嗄だけが、再びテレビへと視線を向けていた。
今まで、CMを見てあんな感じになった事はなかった。
CMから、テレビから目が離せないなんて事は。
本当に、テレビに映っていた柊は別人のように見えた。
目の前に柊は居るのに、どうしてだか遠くに感じられてしまう。
テレビの向こう側の人に、なってしまったように感じられて。
気が付けば嗄は柊の傍におり、ぎゅっと服の裾を掴んでいた。
激しい羞恥に駆られていた柊が動きを止め、優しく嗄の頭を撫でてくれる。
――ここにいるはずなのに――
どうしてだろう。
その日以降、何故だか嗄は柊が遠くに感じられてしまった。
テレビから柊の歌声が聴こえる度に。
柊がテレビの向こうに居る人のように、遠い存在のように感じられた。
柊のCMがテレビで流れ始めて数日後の事。
柊は作曲の為、帰る時間が遅くなり夜は椿だけが家に居るような状態になった頃だった。
一緒に入浴し、いつも通りに過ごしていたのだが。
夜の九時前になれば、椛も框も。
椿もテレビの前で釘付けになっていた。
椛に至っては番組の予約録画をして、ビデオのリモコンを握り締めた状態でだ。
全員がテレビの前に座ってテレビを見る事がない為、嗄は首を傾げつつも椿の隣に座ってみる。
時計の針が九時を指示した刹那。
テレビ画面には、椿の姿が映し出される。
訳がわからないまま、驚愕する椿の姿が。
「『な、なんで子供になってんだ俺ぇ⁉』」
椿が映し出されたテレビを、両親は瞳を輝かせて見つめる。
当の本人は、何処か納得がいかないといったような表情で。
もう少しこう演じていれば良かったと、時に呟く。
そう、椿が初めてドラマ出演するドラマが放送されるのだ。
短編もののドラマ。
物語はとても面白いものだった。
とある朝、目を覚ませば見た事もない子供の姿になっていた二十六歳男性。
同じく、目を覚ませば見た事もない男性の姿になっていた十二歳の少年。
その二人の登場人物で物語は進んでいく。
椿が演じたのは中身が入れ替わってしまい、二十六歳男性として演じる子供だった。
相変わらず、椿の演技力はテレビ越しでも凄まじいものだった。
本当に、見た目は完全に子供なのに立ち居振る舞いが二十六歳のものだ。
嗄はテレビに映し出された椿を目にし、柊の時にも感じた〝距離〟を感じた。
椿は今、自分の隣に居るはずなのに。
テレビに映っている椿は、とても遠い存在のようで。
どんなに手を伸ばしても、届かない場所に居る〝芸能人〟で。
今隣に座ってテレビを見つめている椿は、間違いなく自分の兄で。
同じ人のはずなのに。
まるで、別人のように感じられてしまう。
テレビに映し出される兄達の姿は、嗄が知らない兄達の姿だった。
少しだけ不安になり、嗄は椿の服を握り締める。
「ん? どうした、嗄」
テレビから目を逸らし、こちらを見て椿は尋ねて来る。
いつもと何も変わらない、爽やかな笑みを浮かべて。
嗄は上手く言葉に出来ず、ただ椿の傍に居て服の裾を掴んでいる事しか出来なかった。
――――兄達は瞬く間に有名になっていった――――
期待の新人、東夜椿と東夜柊。
まだ十二歳という年齢にも関わらず、デビュー作からそれなりに大きな役を与えられた。
椿もまた、みんなの期待を応える――
いや、裏切るような圧倒的な演技力で応えて魅せた。
柊も、まだ七歳だと言うのに大人顔負けの作詞作曲のセンスを持っていた。
更に歌唱力もだ。
まだこの年齢でこんなにもレベルが高いのだから、彼等が大人になった頃には誰も敵わないだろう。
誰もがそう思った。
「あ、みやぎだ!」
「えっ、あの子があの東夜兄弟の弟なの⁉」
「みやぎくん! こんどおにいさんたちのサインちょうだい!」
「うんっ!」
兄二人が有名になれば、嗄もすぐさま幼稚園で人気者になった。
最初は〝あの東夜兄弟の弟〟だと、一目置かれる存在になったのだが。
運動もダメ、頭が良いわけでもない。
寧ろ逆に人よりも劣っている方だ。
ドジで鈍間な、少しおっとりしている子。
至って平々凡々な嗄を初めて目にした人は、本当なのかと少し疑う人も居た。
しかし、嗄の顔を見ればすぐにわかる。
嗄の容姿は間違いなく、東夜兄弟と似ているからだ。
東夜兄弟の血を引いていると、顔を見ればすぐにわかった。
幼い嗄は自慢の兄達が凄いと言われる度に、鼻が高くなった。
自慢の兄達が、みんなから見ても凄いし格好良い。
みんなからそう言ってもらえるのが嬉しかった。
まるで自分の事を褒められるかのように。
椿と柊がそれぞれ人気になって来ると、嗄の生活も少しだけ以前より変わった。
以前と比べると、少しだけ嗄の分の食事配分が多くなったように感じられた。
どうやら椛が上機嫌だと、嗄の事も兄達同様に構ってくれるようだ。
嗄はいつまでもこの幸せが続くかと思っていた。
だが、それは違っていた。
椛が嗄の食事量を多くしてくれたのは、本当に最初だけだった。
日を増す事に、椛は料理をしなくなり外食で済ませるようになったのだ。
夕食を外食で済ませるようにしてしまえば、もちろん嗄の分の夕食はない。
何故椛が夕食を作らなくなったのかと言うと――
椛は椿と柊のマネージャーをしていたからだった。
一人でも難しい所を、二人同時にだ。
恐らくは帰宅してから料理をするのが面倒になったのだろう。
なので兄達は毎日のように外食をしていた。
最初はそんなに二人とも忙しくはなかったが、爆発的な人気が出ると椿と柊の生活も変わってしまった。
家に帰って来る時間が少なくなったのだ。
夜が明けてまた日が昇る度に、椿と柊のスケジュールは埋まっていく。
そんな二人のスケジュール管理も椛はして、家庭の事もしなくてはいけない。
椿と柊がデビューした頃は、椛も両立させようとしていた。
けれど、椿と柊が忙しくなって来ると家庭の事は完全に後回しにするようになってしまったのだ。
頑張っている椿と柊は外食を。
何もせず、家でただ待っている嗄には何も与えない。
そうなってしまえば、食事が摂れるのは一日一度だけ。
幼稚園での給食が、唯一出来る食事となる。
兄達が外食生活になってしまえば、嗄は一日一食という生活になってしまった。
やがて、家事をする者が居なくなり家の中は荒れ果てていく。
洗濯をする者が居ない為、脱ぎ捨てた洗濯物が部屋には溢れ返り。
以前使われた食器も、ずっと流しに放置されたまま。
溜まった食器を洗う者も居ない。
更には溜まったゴミを捨てる者も居ない為、家の中は荒れ果てていた。
床が見えない程に、脱ぎ捨てられた服達。
椛が出したゴミ達が片付けられる事はない。
嗄が片付けようと思えば出来るのだが、きっと怒られてしまうだろう。
そこまでいってしまえば、嗄の生活は決して良いものではない。
荒れ果てた部屋の中で。
真っ暗な暗闇の中で。
嗄は一人、くまのぬいぐるみを抱いて待つ。
椿と柊も、家の中が荒れていく様を目にしていた。
久々に帰宅してみれば、以前とは打って変わった光景。
そんな中で嗄はずっと自分達の帰りを待ってくれていた。
嗄が兄達を笑顔で出迎える度、椿と柊は悲しげな表情をして見せた。
それでも椿と柊は信じていた。
自分達がもっと有名になれば、嗄の生活は良くなると。
信じて、前に進む事しか出来なかった。
もう、引き返す事は出来ないのだから。
椿達が帰って来れば、この荒れ果てた部屋も少しはまともになる。
再び仕事へ出掛けてしまえば、部屋の中は以前よりも荒れてしまうのだが。
椿達は仕事へ出掛ける度に何度も、嗄に謝って来た。
嗄は暗闇の中で一人、ぬいぐるみを強く抱き締めて思う。
どうして、こうなってしまったのだろうかと。
嗄がずっと欲しいと思っているものは。
ずっと求めているものは、こんなものではない。
ただ、家族六人で幸せに笑って居たいだけだ。
オーディションで兄達が合格した日のように。
ただ、みんなで笑い合って居たいだけだ。
ただ、大好きな兄達と一緒に居たいだけだ。
たった、それだけだというのに。
嗄の願いは、それだけだというのに。
誰も知らない。
誰も、気付いてはくれない。
嗄の想いになど。
嗄は静かに涙を流す。
わからない。
自分でもどうすれば良いのか。
わからない。
何も、わからない。
どうして兄達が傍に居てくれないのかも。
どうして、突然一人になってしまったのかも。
嗄の願いはただ、以前のように兄弟で居たいだけなのに。
そう思う事は、いけないのだろうか。
嗄は不意に、居間へと向かう。
ぬいぐるみを抱いたまま、鼻を啜って。
テレビの前に座り込み、ビデオのリモコンを手にする。
椛が帰って来るまでの間なら、良いだろう。
気付かなければ、良いだろう。
嗄は、暗闇の中でテレビを付ける。
そして、録画していた椿のドラマを再生した。
テレビの向こうに居る椿へと、嗄は手を伸ばす。
けれど、嗄の手は椿に触れる事はない。
触れられるのは、冷たいテレビ画面だけだ。
テレビに映し出される椿を見つめながら、嗄は涙を流す。
もう戻れない。
あの日々には。
家族六人で笑い合っていたあの瞬間には。
それが幼い嗄にわかるわけがない。
だから、嗄はずっと信じていた。
また、家族六人で笑い合える日が来ると。
幸せで溢れていた、あの最後の夜のように過ごせる日が来ると。
嗄はずっと、信じて兄達の帰りを待つ。
――もうあの日々は戻って来ないというのに――
車の音が耳に届けば、嗄はすぐさまテレビを消す。
再び暗闇の中で兄達が玄関の扉を開け放つを静かに待っていると。
柊が玄関の扉を開けて、嗄の元へと来てくれた。
荒れ果てた部屋の中で。
暗闇の中でずっと待っていた、嗄の元へと。
嗄の姿を目にした瞬間、柊は強く抱き締めてくれた。
「――ごめんね、嗄」
何度も、耳元で謝りながら。
強く、強く。
柊は抱き締めてくれた。
きっと、帰って来てくれた時に兄さん達が抱き締めてくれたのは確認だと思う。
まともに食事が摂れていなかったから、僕の身体は前よりも痩せていて。
体重も、多分前よりも減っていたと思う。
兄さん達は、僕を抱き締める度に悲しげな表情をしてたから。
何度も、僕に謝って来たから。
「ホントに、ごめんね……嗄……」
抱き締めて、優しく頭を撫でてくれた。
すぐ近くに兄を感じられて。
兄の温もりが嬉しくて、嗄は涙を流す。
後から帰って来た椛は荒れた部屋を目にして深い溜め息を吐くが。
片付けようとはせず、そのまま布団が敷かれたままの自室へと行ってしまう。
椿と柊も、最初は嗄の為にこっそりとおにぎりを握ってくれていた。
椛にバレないように、嗄もこっそりと食べていたのだが。
ある日、椛にバレてしまい嗄だけ酷く怒られた。
仕事でも疲れており、ストレスも溜まっているのか椛は嗄に八つ当たりの如く怒鳴り付けた。
それ以来、椛の監視の目が鋭くなり兄達がおにぎりを握ってくれる事はなくなった。
しかも、以前は兄達と一緒に入浴も許されていたと言うのに何故か一緒に入浴するなとも言われてしまった。
恐らくは兄達を嗄のせいで無駄に疲れさせたくなかったのだろう。
入浴する事も禁じられ、着替える事も禁じられてしまった。
出来る事は、兄達を待つ事だけだ。
椛が居ない時は、テレビで椿の姿を見る事しか出来ない。
CDラジカセから流れる柊の歌声を聴く事しか出来ない。
兄達が帰って来た時は、寝かし付けてもらう事しか出来ない。
柊は泣き出した嗄を優しく宥めてくれて、ベットで寝かし付けてくれる。
耳元で優しく、子守唄を歌ってくれて。
柊の歌声を聴けば、安心する事が出来た。
ラジカセから流れる声もそうだが。
やはり、傍で歌ってくれる時が一番安心出来る。
心が安らぐのだが――
嗄は柊の服を掴む。
ぎゅっと、強く。
すると柊は悲しげにも優しく微笑み、優しい手付きで頭を撫でてくれる。
――あの頃僕は、眠る事が嫌だった――
柊の子守唄へ耳を傾ければ、すぐに眠りへと落ちていく。
しかし、朝目を覚ましてみれば眠る前までは傍に居てくれた柊が居ない。
何処を探しても、居ない。
本当は夢だったのではないかと、激しく不安になる。
不安になって、目を覚ましてから嗄は何度も涙を流した。
――つぎは、いつかえってくるの……?――
次に兄と逢えるのは、一体いつなのだろうか。
三日後?
五日後?
それとも、一週間後?
忙しくなればなるほど、椿と柊は帰って来なくなる事が多くなった。
実際には帰って来ているのかもしれない。
嗄が眠っていて、気が付けないだけなのかもしれない。
だから何日も逢えないと思い込んでいるのかもしれない。
だが、実際に椿達は忙しくなるに連れて帰宅する事は少なくなった。
撮影の現場から家に帰れば、明日の撮影所には時間通りに着かない。
その為椿はホテルに泊まる事が多くなったからだ。
柊も作曲の為に機材が揃っているレコーディングルーム等で作曲し、そこでほとんどを過ごす為中々帰って来る事は出来なかった。
次に帰れる日はいつなのかと、椿達にもわからなかった。
中々帰宅しない兄達に、嗄は不安を感じる。
このままでは、椿達も榎のように家に帰って来なくなるのではないかと。
激しい不安に駆られる。
「――やだ」
大好きな兄達が帰って来なくなるなんて、絶対に嫌だ。
一人でずっと待っているのも、嫌だ。
「いやだ、よ……っ」
目を覚ました時に、兄達が居ないのは。
前みたいに……。
こうなってしまう前みたいに、朝ご飯の時間だよって起こしてもらうのが良い。
目を覚まして最初に目にするのは、大好きな兄達の笑顔が良い。
もう、兄達とは離れたくない。
ずっと、一緒に居たい。
だから兄達が帰って来ればいつも、強く兄達の服を握り締める癖が出来てしまった。
絶対に、離さないようにって。
何処にも行ってしまわないようにと。
優しく寝かし付けてくれる兄へ、嗄は言う。
「もう、どこにもいかないで……。おねがい……」
泣きながらそう言う嗄の頭を、優しく撫でてくれる椿と柊。
何度も、耳元で囁くようにして謝って来る。
そんな兄達の手を強く握り締めて、嗄は言う。
「ぼくがおきるまで、このてをぜったいにはなさないでね……?」
泣きながら、嗄は兄に告げた。
椿と居る時は、椿に。
柊と居る時は、柊に。
二人の兄に、同じ事を告げた。
兄二人の反応は、全く同じものだった。
悲しげな表情をして、嗄を見つめるだけで。
優しく抱き締めてくれて、何度も謝って来るだけだった。
どうして兄達が謝って来るのか、嗄にはわからなかった。
寂しかった。
辛かった。
苦しかった。
どんなにお腹が空いても、耐える事しか出来なくて。
どんなに一緒に居てって言っても、兄さん達は答えてくれなくて。
ただ、謝って来るだけで。
「……おしごとになんて、いかないでよ……」
兄さん達を困らせる言葉ばっかりを、吐いていたんだ。
右手は兄さんと繋いで。
左手は兄さんの服を掴む。
泣きながら、僕は何度も言ったんだ。
「ひとりに、しないで……」
不安で、不安で、仕方がなかった。
いつかは兄さん達も帰って来なくなるんじゃないかって。
僕の前から、居なくなっちゃうんじゃないかって。
怖くて、怖くて、堪らなかった。
朝目を覚まし、兄の姿を探して家中を探し回る。
家の何処にも居なければ、鍵の掛かった玄関の扉を開け放って外へ飛び出す。
靴も履かないまま、裸足のままで。
もしかしたら、まだ近くに居るんじゃないかと淡い期待を抱いて。
しかし、その期待はすぐに裏切られる。
何度も、何度も涙を流した。
それ以来だ。
嗄が真夜中になれば毎晩外へ飛び出すようになったのは。
眠る前には確かに傍に居てくれた兄が、真夜中に目を覚ませばもう居ない。
まだ、追い掛ければ間に合う。
そう思って嗄は玄関の扉を開け放って、外へと飛び出した。
駐車場から、兄の乗った車が走り出す。
裸足のままで、兄の乗った車を必死に走って追い掛ける。
涙を流しながら。
必死に、暗闇の中を駆け抜けた。
「おにぃちゃん……!」
何度も、兄を呼びながら。
夜の暗闇の中で、涙を流す。
どんなに走って行っても。
どんなに名前を呼んでも。
どんなに手を伸ばしても。
兄達に届く事はない。
決して、追い付く事はない。
伸ばした嗄の手が、届く事はない。
「いかないでよ……っ!」
嗄の声は、兄達には届かない。
置いて行かないで。
お願いだから、一人にしないで。
どんなに兄達に伝えたとしても。
兄達は、繋いだ嗄の手を解いて行ってしまう。
嗄の手の届かないような場所へ、行ってしまう。
嗄を一人、置いて行ってしまう。
「おいてかないで……‼」
何一つ、届きはしない。
転んで傷だらけになっても、起き上がって車を追い掛ける。
遠ざかっていく車を、必死に追い掛けて行く。
裸足のまま駆け出し、硝子を踏んでしまっても。
痛みが足を襲っても、嗄は足を止める事はなかった。
どんなに必死に追い掛けても、車には敵わない。
来た事もないような場所へ来てしまい、嗄はその場に座り込む。
硝子を踏んでしまった足が、酷く痛む。
帰り道もわからない。
兄の乗った車は何処かへ行ってしまった。
嗄はその場に座り込んで泣き喚く。
きっと嗄から〝兄〟を奪ってしまうと何も残らないだろう。
嗄の生活は全て、兄達によって支えられていた。
その兄が居なくなってしまえば、嗄は生きていけない。
兄が居ないと不安になる。
あの、優しい瞳で見つめられないと不安になる。
自分なんて、本当は存在しないんじゃないかと不安になる。
自分はちゃんと此処に居るのか、不安になってしまう。
触れてもらわないと、不安になる。
不安で、不安で、怖くなる。
嗄はその場で泣き続けた。
兄達のおかげで成り立っていた嗄の生活。
兄達が居なくなってしまえば、何一つ成り立たない。
「つばきにぃ……」
何をする事も、許されない。
「えのき、にぃっ……」
〝人〟として生きる事を、許されない。
「ひいらぎにぃ……っ!」
存在を、完全に忘れ去られてしまう。
まるで、最初から存在しないかのような。
誰にも見てもらえない。
誰にも触れてもらえない。
存在に、気付いてもらえない。
あの荒れた部屋に居ると、そう思えてしまう。
〝自分なんて、最初から居なかったのではないか〟と。
「いかないでよぉっ‼」
嗄は、泣き続けた。
暗闇の中、誰にも気付いてもらえず。
ずっと、蹲って。
偶然通り掛かった車によって発見されるまではずっと。
警察に保護されても、誰一人として迎えには来てくれない。
椛も、框も。
椿も、榎も、柊も。
誰一人として、迎えには来てくれなかった。
ずっと泣き続ける嗄を、警察の人々は必死に宥めようとしたが。
嗄が泣き止む事はなかった。
誰も迎えに来てくれない中、唯一嗄の元へやって来たのは――
「嗄ちゃんっ!」
父方の祖母、東夜楠だった。
楠の姿を目にした瞬間、嗄は泣きながら楠へと抱き付いて泣き出した。
半年程前に逢った、祖母。
泣き続ける嗄を優しく抱き締めて、楠は宥めてくれた。
楠だけが、気付いてくれた。
嗄の抱えている不安に。
嗄の抱えている恐怖に。
嗄の抱えている寂しさに。
気付いて、くれたのだ。
ずっと泣き続ける嗄を目にして。
一向に泣き止もうとしない嗄を目にして、楠は言ってくれたのだ。
目線を嗄と同じようにする為に屈んで、告げたのだ。
「嗄ちゃん。明日からおばあちゃん、嗄ちゃんのおうちに行くからね。ううん、これからずっと、嗄ちゃんの傍に居てあげるから。嗄ちゃんが不安にならなくなるまで、ずっと……」
指で嗄の涙を拭いながら、楠は言ってくれた。
優しく、暖かい声音で。
優しく、嗄の事を抱き締めて。
楠は、言ってくれたのだ。
楠の言葉が嬉しくて。
楠の温もりが嬉しくて。
嗄は更に泣き出してしまった。
楠と共に帰宅し、家の荒れ様を目にした楠は目を瞠った。
足場のない、ゴミの中を掻き分けて子供部屋へ行く嗄の姿を目にして楠は悲しげな表情をして見せた。
その後も楠は優しく嗄を抱き締めてくれた。
嗄が落ち着くまで、ずっと。
深い眠りに付いて、目覚めてもずっと。
楠は嗄の傍に居てくれた。
椛の代わりに荒れ果てた家を片付けながら。
本来は椛がする家事全般を全て、代わりに楠がしてくれたのだ。
楠が片付けてくれたおかげで、家の中は以前のように片付いた。
楠のおかげで、嗄の生活は救われた。
しかし、最初の頃は少し戸惑う事が多かった。
「嗄ちゃん、お風呂沸かしたから入っておいで」
「――いいの?」
「良いんだよ」
優しく微笑んで楠はそう言ってくれるのだが。
本当に入浴して良いのかと不安になってしまう。
また勝手な事をしたと、椛から怒られないだろうか。
不安になりながら、嗄は楠に尋ねる。
「……ほんとうにはいっても、いいの……?」
「もちろん。ここは嗄ちゃんの家なんだから、遠慮しなくて良いんだよ」
「……おこらない……?」
「誰も怒らないから、ほら。入っておいで」
楠にそう言われてもまだ不安だったが。
楠の優しい微笑みを目にして、嗄は入浴する事にした。
――何度も、楠の言葉に救われた――
何もしてはいけないと言われていた嗄に。
楠は〝何でもして良い〟と言ってくれた。
束縛されていた嗄を、自由にしてくれた。
嗄を、解放してくれたのだ。
楠が嗄を解放してくれたおかげで、兄達と居た頃のように。
以前のようにまともな生活が出来るようになった。
ただ、一つだけ以前とは違う事がある。
嗄の傍に、大好きな兄達が居ない事だ。
あの優しい笑顔が、ないだけなのに。
元の生活に、戻れたはずなのに。
どうしてか、嗄は素直に喜べなかった。
兄達が居ないというだけで、寂しく感じられたのだ。
どんなに、兄達と同じ食事量を与えられたとしても。
どんなに、一人で入浴出来たとしても。
どんなに、兄達と一緒に遊んでいたおもちゃやゲームで遊んだとしても。
何故か、嬉しく思えなかったのだ。
楠はその後しばらくの間、嗄と共に過ごしてくれた。
毎晩、真夜中になれば外へ飛び出そうとする嗄を引き留めてくれた。
兄達に逢いたいと泣き出す嗄を、優しく宥めてくれた。
毎日、毎日、楠は嗄の傍に居てくれた。
一ヶ月以上もそんな生活が続き、楠のおかげで嗄が外に飛び出して警察に保護される事はなくなった。
そんなある日の出来事だった。
「嗄ちゃん、ちょっと手伝ってくれないかい?」
台所に立つ楠からそう言われた。
すぐに楠の元へと行き、嗄は楠に言われた通りに手伝いをこなしていく。
やはりドジな嗄は時に失敗もしていたが。
楠は優しくフォローをしてくれた。
なんとか、楠からのお手伝いを終わらせる事が出来ると――
「良く頑張ったねぇ。嗄ちゃん、えらいえらい」
嗄の頭を、優しく撫でてくれた。
とても暖かい手で、頭を撫でてくれた。
久々の感触。
兄達が居た頃は、いつも頭を撫でてもらっていた。
今は、そんな優しい兄達が居ない。
嗄は撫でてもらった頭に手を当てる。
――もっと、なでてほしい――
――おにぃちゃんたちみたいに、ほめてほしい――
もっと褒めてもらうには、どうしたら良い?
何をしたら、褒めてもらえる?
幼い嗄なりに必死に頭を悩ませて。
必死に考えて、その答えに辿り着いた。
〝たくさんおてつだいをすれば、いっぱいほめてもらえる〟
椛が家に帰って来た時、料理の手伝いや家事の手伝いをすれば褒めてもらえる。
兄達のように、自分を見てくれる。
嗄はそう思うと、今まで以上に楠の手伝いを心掛けるようにした。
最初の頃は頑張ろうとする気持ちだけが焦ってしまい、空回ってしまう事ばかりだった。
食器を割ってしまったり。
出来上がった夕食を運ぶ時に零してしまったりなど。
失敗ばかりを繰り返していたが、それでも嗄は挫ける事もなく。
決して諦める事無く、家事の手伝いを続けた。
毎日手伝いを頑張っていると、努力が実を付けて失敗する事なく手伝いが出来るまでになった。
これならば、両親から褒めてもらえる。
お手伝いを続けていれば、また家族六人で笑い合える日が来る。
幼い嗄はそう信じて、必死に楠からの手伝いや家事を頑張っていた。
その日も幼稚園から帰って、嗄はすぐに楠の手伝いをする。
楠が台所で食器を洗っていたので、取り込んである洗濯物へと目を向ける。
嗄が洗濯物を畳む手伝いをしていた時だった。
自宅に設置された固定電話が、突如鳴り響く。
嗄が台所で食器を洗う楠の代わりに電話に出ようとすると――
「ああ、私が出るよ」
台所から、楠の優しい声が掛かった。
濡れた手をタオルで拭い、楠が受話器へと手を伸ばす。
楠に止められてしまったので、嗄は再び洗濯物を畳む作業に戻る。
手にした受話器を耳に当てた楠。
だが、受話器に耳を当てた楠の表情が瞬時に変わった。
いつもの優しい表情ではなく、険しい表情へと。
一瞬だけ楠と目が合ったが、すぐに楠は嗄に背を向けて小声で話し始める。
楠の様子に少しだけ首を傾げながら、嗄は洗濯物を畳んでいく。
やがて、受話器を元に戻した楠が嗄の元へと来た。
静かに、嗄の目の前で正座をして。
嗄の瞳を見つめて、教えてくれた。
「嗄ちゃん。お母さんが倒れちゃったって今電話があったから、一緒に病院に行こうか?」
「おかあさん、だいじょうぶなの?」
「うん。ちょっと、働き過ぎて疲れちゃっただけだって言ってたよ。大丈夫だから、ほら出掛ける準備をして」
「うん……」
電話に出た直後の表情と比べれば、楠の表情は優しかった。
だが、椛が倒れたと聞いて少し不安になる。
そんな嗄に楠はすぐに気付き、何度も「大丈夫だよ」と声を掛けてくれた。
優しく、頭を撫でてくれた。
タクシーを使って病院へ向かい、楠と共に椛が居る病室へと向かう。
真っ白な病院の廊下を、嗄は楠と手を繋いで歩いて行く。
先程ナースステーションで教えてもらった、椛の居る病室前で足を止める。
楠が病室の扉をノックすれば、中からは力ない椛の声が返って来た。
不安を胸に抱きながら、嗄は楠と共に病室内へと足を踏み入れた。
病室に入ってみると、ベットには椛の姿があった。
身体を起こして、窓の外を見つめる椛の姿が。
「大丈夫かい?」
「……ええ」
「少し、無茶をしたんだよ。大人気になってる椿と柊のマネージャーをやるだなんて……。専属のマネージャーが居るんだから、何も椛さん一人でしなくても良いんだよ」
楠が椛へと声を掛けるが、椛は答えない。
それ所か、一度もこちらを見ようともしない。
嗄はベットへと歩み寄るが、椛が嗄の方へと顔を向ける事はない。
――どうして、みてくれないの……?――
椛に声を掛けてみようとするのだが、何故か喉から声が出て来ない。
もしも椛に声を掛けたとして、無視されてしまったとしたら。
そう思うと、声が出せなかったのだ。
この時、椿と柊は異常な程に有名になっていた。
東夜椿と、東夜柊の名を知らない者は居ない程になっていた。
帰宅する事も出来ない程に、二人は忙しくなっていた。
そんな二人のマネージャーをしていた椛の身体が持たず、倒れてしまったのだ。
「……私よりも頼りになるマネージャーが、あの子達には付くんですって」
椛は、それだけ告げた。
椛の言葉に、これからはゆっくりすれば良いと言う楠の声が耳に届く。
けれど、椛がそれ以上口を開く事はなかった。
しばらくは病室に留まっていたのだが、やはり椛が口を開く事はなかった。
無言で、死んだような目で窓の外を見つめるだけだった。
楠は諦めるようにして、「また来るね」とだけ告げると優しく嗄の手を引いて病室から出て行く。
楠に手を引かれながら、嗄はずっと椛の方を見ていた。
病室から出て、扉が閉まるまでずっと椛を見つめていたが――
結局病室に入って出るまでの間、椛が嗄を見る事は一度もなかった。
~To be continued~