青春スクエア ~東夜嗄の片思い~ 小学生編3
椛がオーディションの話を切り出した当日、椿と柊は書類審査の為に照明写真を撮りに行った。
そしてその日のうちにオーディションの応募用紙と撮ったばかりの顔写真を添付して送った。
椿は一次審査に受かるようにと、毎日祈っており。
柊は一次審査に落ちるようにと、毎日祈っていた。
そんな二人を暖かい眼差しで見つめる榎。
本当ならば、榎もオーディションに参加したかった。
けれど、応募年齢を満たさなかったので参加出来なかったのだ。
あまり表には出さないように榎はしていたが。
常に傍に居る嗄には、ちゃんと伝わっていた。
無理して笑っていると。
本当は、二人を見ているのが辛いのだと。
一次審査に受かった場合、次の最終審査の為に椿が更に演技力に磨きを掛ける姿を、悲しげに見つめていると。
嗄は、知っていた。
やがて、一次審査である書類審査の結果が届く。
結果はもちろん、二人とも合格だった。
合格通知が届いたのを確認した瞬間、椿はこれでもかと言う程に喜んで飛び跳ねていた。
対する柊は、何回も合格通知を目にして項垂れる。
まさか、本当に受かるとは思っていなかったらしい。
書類審査で絶対に落とされると思って受けてみたが、淡い期待を裏切られてしまったようだ。
「よぉし! もっともっと演技力を磨くぞー!」
「……こうなったら仕方ない。なるようになれっ!」
一次審査の合格通知が届いて以降、椿と柊はオーディションへ向けて更に自分の才能を磨き始めた。
合格通知が届いて数日後。
詳しい日程等が書かれた、最終審査の通知が届いた。
最終審査は、実際にオーディション会場へ赴いて自身の能力を披露する。
つまり、実技だ。
大勢の審査員達の前で、自分の持てる力全てを発揮するのだ。
柊はとにかく、自身の上がり症をどうにかしようと模索していた。
そうして、オーディション当日は一瞬のようにやって来た。
同じプロダクションでのオーディション応募。
行われるオーディションは、一日に三つ。
椿が参加する、子役のオーディション。
榎が参加するはずだった、声優のオーディション。
柊が参加する、歌手のオーディションの三つだ。
それぞれ、時間をずらして行われる様子だった。
まず、最初に行われるのは柊が参加する歌手のオーディションだ。
その次に声優のオーディションを挟み、最後は椿が受ける子役のオーディションとなった。
先手は柊から。
オーディションの行われる、指定された場所へ家族六人で来てみたのだが。
車の中でも柊は緊張からか、オーディションへの恐怖からか。
不安気な表情でずっと震えていた。
椿も柊と同じように緊張しているかと思えば、至って平然だった。
いつも通りの椿。
既に役に成り切って緊張を誤魔化している様子でもない。
寧ろ逆に楽しそうに笑っているようにさえ見えた気がした。
本日の車での並びは左から榎、柊、椿の順だ。
嗄は榎の膝の上に座っていたが。
何処か切なげに窓の外を眺める榎を見上げる。
隣の柊は緊張を解す為なのか、何故か念仏を唱え始めて。
椿は早くオーディション会場に着かないかと興奮しており、榎の様子に気付こうとしない。
少し不安になって嗄は榎の手を握る。
「……えのきにぃ?」
嗄が不安気な声音で尋ねると、榎は優しく微笑んでくれる。
それから隣で手を組んで必死に念仏を唱える柊にようやくツッコミを入れてくれた。
「……柊、それ念仏だよ。もっと違う方法で緊張を解けないの?」
「無理だよぉおお……。もう死にそう……」
「死ぬのはオーディションに落ちた時にしろ」
「――じゃあ今すぐ死ぬ」
そう言って柊が車のドアへ手を伸ばそうとする。
その姿を目にした椿が慌てて柊を制した。
どうやら相当緊張しているようだ。
いや、少々緊張というレベルを通り越している気もするが。
普段よりも騒がしい車内で移動し、やがてオーディション会場へと訪れた。
最初に行われる柊のオーディションが始まる、約一時間以上前に着いてしまった。
初めてのオーディションという事もあり、早めに来た方が良いとも思ったが。
場の空気に柊が早く慣れるようにとの、両親の配慮もあったのだ。
オーディション会場に着いても、柊は椿の背に隠れるようにして歩いていた。
まるでいつもの嗄のように、椿の服の裾を掴んで。
同じ事をする辺り、やはり兄弟なのだと実感する。
十分程は椿も大目に見ていたのだが。
流石に鬱陶しくなったのか、柊の腕を払って告げた。
「いい加減、覚悟決めろよ柊。堂々としてりゃあ良いんだよ」
「なんで椿兄ちゃんはそんなに堂々としてるんだよぉ!」
「そりゃあ、自信があるからな。お前だって俺の弟だ。お前なら出来るって。だから、堂々としてろ。つか、鬱陶しい」
「うっとうしいって何! ちょっとくらい良いじゃんっ! 椿兄ちゃんのケチ!」
「鬱陶しいに決まってんだろ! 来てからずっと俺の後付いて来やがって! 嗄ならまだしもよぉ!」
広いロビーで、馬鹿二人が喧嘩を始めてしまった。
まだ自分達以外に人が来ていなかったので誰も止めようとはしない。
それに、恐らくこの喧嘩は椿の配慮だろう。
いつものように喧嘩をすれば、少しは緊張が解けるだろうと椿も思ったのだ。
その場に居た全員がその事に気付き、止めようとはしなかった。
だが、今日はいつもよりもかなり柊が本気にしているようで。
下手をすれば、怪我をしてしまうかもしれないと一瞬思ったが――
柊が拳を繰り出した瞬間、椿の目付きが瞬時に変わる。
普段の椿では想像も出来ないような、素早い動きで柊からの攻撃をかわしてみせた。
攻撃をかわした椿本人も最初は驚いた表情をしていたが、楽しそうに笑って柊との喧嘩を続ける。
今日の椿は調子が良いらしい。
恐らく、今までの中で一番。
無意識のうちにも役に成り切れる程には、一応気を張っているらしい。
柊からの攻撃を上手くかわし、時には拳を受け止めているので怪我をする事はないだろう。
――椿は本番に強い――
大事な時はいつも失敗ではなく、良い方へと向かう。
自分の能力が大きな舞台で披露されるとなれば、更に良い演技を魅せる事が出来る。
柊はその逆かとも最初は思われたが。
先日の、文化祭でのステージ。
あの姿は、椿の弟であると証明しているものだった。
本人はまだ、自分の能力に気が付けていないだけで。
もしかしたら、椿よりも凄い能力を秘めているのかもしれない。
しかし、一番残念なのは榎だ。
榎の演技力は、椿と比べれば劣ってしまうが。
〝声〟での演技力は、椿の上をいくものを持っている。
もしも本当に三人ともオーディションを受けられていたら。
本当に、三人でオーディションに合格出来ていたかもしれない。
嗄の隣で、小さな溜め息を零す声が聞こえた。
榎の顔を見上げてみるが、切なげな表情をしていた。
切なげに、まだ喧嘩を続けている椿と柊へと視線を向けていた。
「――――」
幼い嗄には、榎だけがオーディションに出られない理由がわからない。
ただわかるのは、榎も自分と同じように取り残されてしまったという事だけだ。
嗄は榎へと歩み寄り、榎の手を握る。
こういう時、悲しい時や寂しい時。
榎はいつも、嗄の傍に寄り添って居てくれた。
傍に居て、微笑み掛けてくれていた。
手を握られ、驚いた榎が嗄の方へと視線を向ける。
嗄はいつも榎がしてくれるように、微笑んでみせた。
〝だいじょうぶだよ〟と。
〝ぼくもいっしょにいるよ〟と。
声には出さなかったが、表情で伝えてみた。
すると榎は力が抜けたみたいにふっと、笑ってくれた。
「……ありがとう、嗄」
握っている手とは反対の手で、榎は優しく嗄の頭を撫でてくれる。
少しでも元気が出たようで、嗄は安心する。
ロビーに椿と柊の喧嘩する声が響く中。
一つの足音が、ロビーに響き渡る。
タイルで出来たロビーの床。
人が来たと、すぐにわかった。
他のオーディションへ参加する人の迷惑にならないようにと、框が柊の襟首をまるで猫掴みでもするかのようにして持ち上げる。
柊もまるで喧嘩をしている猫のように、興奮した様子で尚も椿へ殴り掛かろうとしていた。
椿との喧嘩のおかげで少しは緊張も解れたようだったが。
柊が受けるオーディションが始まるのは午前十時から。
午前十時へと、刻々と時は進んでいく。
オーディションの時間が迫れば迫る程、ロビーは大勢で覆い尽くされていく。
そして、オーディション開始十分前になった。
丁度十分前になると、オーディションの行われる大部屋の前で番号札の配布が始まった。
番号札は早い者順で好きな番号札を手にして良いという決まりになっていた。
椿に背中を押されて、柊は番号札が配布されているデスクの前に立つ。
並べられている番号札を目にして、柊はどの順番にしようかと悩む。
一番最初や、最初の方はどのようにして良いのか感覚が掴めない。
それに緊張もする。
緊張に至っては常にするだろうが。
ならば、最後の辺りにしようかと最後尾辺りの番号札へ目を向ける。
けれど柊の受けるオーディションには五十人もの人々がオーディションを受ける。
そこから更に十五人へと、かなり人数を絞る。
合格の門は狭い。
最後の辺りは待ち過ぎて気が緩むかもしれない。
何番の番号札を手にしようかと柊が迷っていると。
不意に、背後に立つ椿が告げた。
「そう緊張すんなよ。お前なら絶対に大丈夫だ。自分の力を信じろ。文化祭の時みてぇにしろとは言わねぇ。いつもみたいに、楽しそうに堂々と歌えば良いんだよ」
力強く、椿が柊の背を叩いて言ってくれた。
驚いて椿の方を振り返るが、いつも通りの爽やかな笑みを椿は浮かべていた。
「そうだよ。柊は柊らしく歌えば良いんだよ。この人より上手く歌おうじゃなくて、柊らしい歌を歌えば良いんだ。それが、柊の魅力だよ」
優しく、いつも通りのワンテンポ遅れた口調で。
落ち着くような声音で、榎が言ってくれる。
柔和な笑みを浮かべて。
「あのね、ひいらぎにぃ。ぼく、ひいらぎにぃのおうただいすきだよ! だからきっと、ひいらぎにぃのおうたをきいたらみんなもひいらぎにぃのことがだいすきになるよっ!」
無邪気に笑って、嗄は言う。
ずっと不安そうな表情をしていた柊だったが――
兄弟の言葉を受け、決心が付いた様子だった。
先程とは、瞳の色が違って見えた。
怯えた、不安気な色ではなく。
強く、真っ直ぐ前だけを見据えるような色を帯びた。
強い決意が、瞳には宿っていた。
表情も先程よりも綻ばせ、いつものような笑みを浮かべてみせる。
誰もが思った。
今の柊ならば、きっと大丈夫だと。
笑みを浮かべた柊は迷う事無く15番の番号札を手にして告げる。
「じゃあ、行って来るねっ!」
「おぅ、頑張れよ」
「歌う前に深呼吸をね」
「がんばってね、ひいらぎにぃ!」
家族に手を振ると、柊は手にした番号札を胸に付けてオーディションの行われる部屋へと入って行った。
本来ならば同行した家族も部屋へ入れるらしいのだが。
大勢の参加者が居る為、中に入る余裕がないらしい。
それに歌手のオーディションという事もあり、聞くだけなのでロビーに居ても十分聞こえるだろう。
防音が施されていない扉ならば。
柊が番号札を手にして入って行くと、ロビーに居た残りの参加者達もそれぞれ番号札を手にして部屋へと入って行った。
大勢で賑わっていたロビーが、途端に静まり返る。
ロビーには二十名程しか人が居なくなっていた。
自分の子供がオーディションに合格するようにと、手を組んで願っている人の姿も見えた。
もうしばらくすれば、柊のオーディションが始まる。
ロビーに居る人々も少しずつ緊張し始めた。
ただ一人、椿だけは大欠伸をして深く椅子に背を凭せ掛けていたが。
オーディション開始三分前。
不意に嗄が榎の腕を引いた。
榎も少し緊張した様子だったが、いつも通り優しく尋ねて来る。
「どうしたの? 嗄」
「トイレいきたい……」
もじもじとしながら、嗄がそう告げると榎が顔を上げる。
視線を彷徨わせて、トイレへの案内矢印を探しているようだ。
柊の入って行った部屋の左側の方にトイレへの案内矢印を見つけ、榎は家族に告げる。
「ちょっと嗄をトイレに連れて行って来る」
「おー、わかったー」
答えてくれたのは、椿だけだった。
椛は目を強く閉じて、柊がオーディションに合格するように祈っており。
框は静かに柊の入って行った部屋の扉を見つめていた。
榎は溜め息を飲み下し、優しく嗄の手を引いてトイレへの案内矢印を頼りにトイレへ向かう。
案内矢印を頼りに向かっていると、案外簡単にトイレを見つけられた。
部屋の左側、硝子張りの廊下を右へ曲がった所にトイレがあった。
「ほら、嗄。あそこがトイレだよ」
「もれちゃうよぉ!」
本当は少し、榎に言うのを躊躇っていた。
もうすぐ柊のオーディションが始まるので、我慢しようとしたのだが。
結局出来ず、榎にトイレへ行きたいと告げた。
流石に我慢の限界が近かったので、嗄は榎の手を放して駆け出す。
「あ、嗄! 走ったら危な――」
榎が制止の声を掛けるのも虚しく。
嗄は男子トイレへと駆け込もうとし、トイレの出入り口で男性とぶつかってしまった。
勢い良くぶつかってしまい、嗄はその場で尻餅を付く。
しかし、所詮は五歳児の勢い。
ぶつかってしまった成人男性の方としては、何ともなかった。
寧ろ、嗄が転ばなければ存在にさえ気付いてもらえなかったかもしれない。
眼前で転んでしまった嗄へと榎は駆け寄り、倒れた嗄を立たせながら告げる。
「ほら、だから言ったのに……。あの、申し訳ございませんでした」
嗄の代わりに頭を下げる榎。
ぶつかってしまった男性は考え事でもしているのか、心此処に有らずといった様子で答える。
「いや、こちらこそ考え事をしていて前を見ていな――」
顔を少し上げた男性は、榎の顔を目にした瞬間不自然に言葉を止めた。
自分の顔に何か付いているのだろうかと榎が疑問に思っていると。
榎に立たせてもらった嗄は慌ててトイレへと駆け込む。
これ以上我慢してしまっては、漏らしてしまうと思ったからだ。
頭も下げずにトイレの個室へと駆け込んでしまった嗄の代わりに、再び榎が頭を下げる。
「本当にすみませんでした」
榎は再び謝ったが、目の前の男から反応は返って来なかった。
不思議に思い、榎は顔を上げて男を見上げる。
男は静かに榎を見つめていた。
目元が少し隠れる、赤みの掛かった栗色な茶髪の奥で、榎を射抜くような眼差しを向ける男。
年齢は二十代前半程で、かなりの長身。
キッチリとしたスーツを身に纏い、顔立ちも綺麗に整っている、まるで俳優のようなその男。
まつ毛も長く、黒い漆黒の瞳で自分を見据える。
男の瞳を見つめていると、惹き込まれそうな不思議な感覚がした。
男の容姿からすると、オーディションを受けに来た一人だろうか。
最初はそう思ったが、男の瞳を見つめていると少しずつそれは違うような気がして来た。
まるで、人の心を見透かすような瞳。
目の前の彼が、普通の人ではないような気がし始めた時。
唐突に、男が質問を投げ掛けて来た。
「君、名前は?」
「えっ、あの……」
戸惑いつつも、榎は目の前に佇む男を見つめる。
目は口程に物を言うという言葉があるが。
確かにその通りだと思えた。
眼前の男は目で語ってみせたのだ。
〝君の願いを叶えてあげよう〟と。
そのように言われたような気がしたのだ。
男は静かに、榎が名乗るのを待っている。
「……東夜榎、です……」
「年は?」
「九歳、です」
「――もしかして君、声優のオーディションに受けようとしていた?」
男の言葉に榎は目を瞠る。
何故、わかったのだろうか。
初めて逢った相手に、何故それがわかるのだろうか。
確かにオーディションへの心残りはあった。
しかし、初めて逢うような人物にそれがわかる程態度に出していたつもりはない。
つまり、目の前の彼は見抜いたのだ。
榎の心を、見透かしたのだ。
本当はオーディションに出たかったと、酷く心残りだった事を。
年齢を誤魔化してでも、本当はオーディションに出たかったのだと。
心の奥に追いやっていた想いを、目の前の男は簡単に見抜いたのだ。
榎は男の言葉に驚いたが、何も答えなかった。
無言で居たのだが、無言の肯定と取られても仕方ないだろう。
男の言う通りなのだから。
だが、目の前の男に自分の心を見透かされたとしてもどうしようもない。
榎がオーディションに出られないという事実は変わらない。
そんな榎の心を見透かしたかのように、目の前の男は告げる。
「――子役のオーディションが終わった後、ロビーで親御さん達と待っていてくれないか」
男の言葉を耳にし、榎は少し思う。
この人物はもしかして、オーディションの関係者なのだろうか。
普通ではない雰囲気を纏う、この男性。
いや、少し冷たい雰囲気と言っても良いだろう。
まるで月のような雰囲気を纏う男。
男の瞳を見つめていた榎の口が自然と動く。
「――はい」
こんな、初めて逢った相手に。
得体も知れない相手に待っているようにと言われたというのに。
榎は何故か、返事をしてしまっていた。
返事をする気など、なかったというのに。
自然と、榎の口から出てしまっていた。
本当に、不思議な感覚だった。
きっと男は、榎の隠していた想いに気付いたのだろう。
本音を、あの男はきっと引き出したのだ。
目の前の男は榎の言葉を耳にすると、口元を綻ばせて右手で前髪を搔き上げ歩き出した。
榎の横を通り過ぎ、男は颯爽と廊下を歩いて行く。
不思議と榎の目は男の姿を追っていた。
男の背中が見えなくなるまで見つめ、男が廊下を曲がるとトイレから嗄が戻って来る。
二人が一体何を話していたのか、全くもって理解していなかった。
茫然とした様子で、榎は男が行ってしまった廊下を見つめていた。
様子が違う榎に気付き、嗄が不安気に声を掛ける。
「……えのきにぃ?」
嗄の声に我に返った榎は優しく微笑み、手を引いて椿達の居るロビーへと戻って行った。
一方その頃、柊が入って行った部屋ではオーディションが始まっていた。
厳しそうな審査員の視線と、張り詰められた空気の中でのオーディション。
番号札を付けた順に番号と名前、そして歌う歌を告げてアカペラで歌い出す。
審査員の一人が番号順に歌ってくださいと告げて、一番の人が歌い始めるのだが。
完全に全員、審査員達の視線と張り詰められた空気に負けてしまっていた。
更には、審査員の一席だけ空席だった。
このプロダクションのオーディションでは、社長が直々にオーディションの様を目にして合格者を決めるらしい。
オーディションに合格した人々が大物になるのだから、相当社長の目に狂いはないのだろう。
空いていた空席は、その社長の席だった。
社長が居ないと言うのに、オーディションを受けていた人達は部屋の空気に負けている。
それは、柊も同じだった。
歌っているオーディション参加者は、酷いプレッシャーや緊張から声がちゃんと出ていない上に声が裏返ってしまっている。
音程もリズムも酷くなっていた。
明らかに本領発揮出来ない空間となってしまっている。
一番の人が歌う歌が二番に差し掛かった頃。
不意に閉じられていた扉が開く音が耳に届いた。
流石にオーディションを受けている最中なので、扉の方を見る事が出来なかったが。
一人の男性が、審査員が鎮座する席へと向かう姿が見えた。
そして、男は空席だったプロダクションの社長のネームパネルが置かれている席へと腰を下ろした。
キッチリとスーツを着こなしており。
赤みの掛かった栗色の髪に、少し冷たい雰囲気を纏う男。
前髪は目には掛かっておらず、横へ流れており漆黒の瞳が良く見える。
二十代前半の男が、社長の席へ躊躇いもなく腰を下ろした姿を目にして更にオーディションの参加者達は緊張してしまう。
まさか、社長がこんなにも若い人だとは思いもしなかった。
だが、誰一人として知らない。
――この男こそが、先程榎にロビーで待っているように告げた男だとは――
社長がオーディション会場へ訪れて、先程よりは少しだけ張り詰められた空気が和らいだが。
今度は社長が鋭い眼差しで、オーディションの参加者達を見つめる。
一番目の人がラストサビに入る前、社長が冷たい口調で「次の人」と告げる。
その後も、後から来た社長がオーディションを仕切り始めた。
二人目の人が歌い出し、サビに入る前に三人目の人へ変える。
社長のそのような態度に、オーディションの参加者達は更に緊張を募らせていった。
早いペースで次の人へと変わっていくので心の準備が出来ないままオーディションを受ける参加者も居た。
中には緊張のあまり、歌詞を間違えてしまう人も出てしまった。
もちろん、歌詞を間違えた瞬間に社長から「もう良い」と言われて次の人へ変えられてしまう。
次々と参加者達が歌っていく中、柊は俯いて必死に心を落ち着けようとしていた。
胃がキリキリと、締め付けられる感じがする。
上手く歌えるか、不安になって来る。
この空気の中でいつものように歌えるだろうか。
酷く目を瞑って、柊は必死に落ち着こうとする。
十番の人が歌い始め、柊の緊張が高まっていく。
心臓が耳元で鳴っているのではないかと思う程に、大きく心臓が鳴り出す。
十三番の人が歌い出した頃には、もう歌声など耳に届いていなかった。
ふと、審査員の方へと視線を向けてみる。
審査員達は、退屈そうにしてオーディションの参加者達を見つめていた。
ただ一人だけ、ずっと真剣に鋭い眼差しでオーディションの参加者達を見つめているのは社長だけだった。
不意に、社長と目が合う。
視線が絡み合った瞬間、心臓が止まるかと思った。
慌てて視線を逸らし、必死に落ち着くようにと言い聞かせるが一向に落ち着く気配はない。
十四番の人が歌い始める。
――もしも、失敗してしまったらどうしようか――
きっとこのままでは、一番に失敗してしまうに決まっている。
下手をすれば、極度の緊張から声が出なくなってしまうかもしれない。
緊張から、身体が酷く震える。
「――次の人」
「は、はいぃっ!」
声が完全に裏返ってしまった。
もう駄目だ。
審査員達の前に、まるでぜんまい仕掛けの人形のようにして出て行く。
前へ出た瞬間、審査員達の視線が酷く突き刺さる。
酷く緊張し、心臓の音も煩い。
その場に蹲りたい衝動に駆られた。
固く目を閉じて、歌えないと思った時だった。
――〝そう緊張すんなよ。お前なら絶対に大丈夫だ。自分の力を信じろ。文化祭の時みてぇにしろとは言わねぇ。いつもみたいに、楽しそうに堂々と歌えば良いんだよ〟――
不意に、椿の言葉が脳裏に過ぎった。
椿の言葉を思い出した瞬間、目を見開く。
――〝そうだよ。柊は柊らしく歌えば良いんだよ。この人より上手く歌おうじゃなくて、柊らしい歌を歌えば良いんだ。それが、柊の魅力だよ〟――
榎の言葉が、脳裏に蘇る。
あの、優しい微笑みが。
あの、暖かい声が。
柊は再び、目を閉じてみる。
――〝あのね、ひいらぎにぃ。ぼく、ひいらぎにぃのおうただいすきだよ! だからきっと、ひいらぎにぃのおうたをきいたらみんなもひいらぎにぃのことがだいすきになるよっ!〟――
嗄の言葉を、思い出す。
兄弟の言葉が、柊の心に残ってくれていた。
また、兄弟の言葉が背中を押してくれる。
またも、緊張を解してくれた。
柊は静かに、息を吐く。
そして、ゆっくりと息を吸う。
大きく、もう一度深呼吸。
深呼吸をし、心を落ち着かせた刹那。
柊は閉じていた瞳を開く。
真っ直ぐ、目の前に居るプロダクションの社長を見据えて。
笑顔で告げた。
「15番、東夜柊! アメイジンググレイスを歌いますっ!」
大きな声で、言い放つ。
ここまで柊のように大きな声を発した者が居なかった為、その場に居た全員が柊の声量に驚く。
柊は再び、静かに目を閉じる。
いつものように、歌えば良い。
楽しんで、自分らしい歌を歌えば良い。
別に、上手くなくても良い。
歌を。
音を楽しんで歌えば、きっとみんなの心にも響く。
目を閉じたまま、柊は靴と手でリズムを取る。
みんなと居る時のように。
兄弟と一緒に、歌う時のように。
心から楽しんで、歌を歌いたい。
聴いてもらう人にも、歌を楽しんでもらいたい。
満面の笑みを浮かべて目を開き、柊は大きく息を吸う。
刹那――
柊の力強くも優しく、硝子細工のように美しい歌声が響き渡る。
美しい、透き通るような歌声にその場に居た全員が聴き入ってしまう。
柊の歌声はもちろん、嗄達の居るロビーにも届いた。
正確には、〝柊の歌声だけ〟がロビーにも届いたのだ。
とても澄んでいて、美しい歌声が。
――その日聴こえた柊兄さんの歌声は、今まで聴いた中で一番良かった――
一番、楽しそうで。
一番、綺麗に聴こえた。
すっと、耳に入って来ても不快感が全くない歌声。
恐らくは柊の本気の歌声。
聴く者全てを虜にさせる、奇跡の歌声。
これが歌手、東夜柊誕生の瞬間だった。
柊が歌い終わるまで、誰一人として柊を止める者は居なかった。
全員、柊の歌声に聴き入っていた。
圧倒的な歌唱力に驚き、余韻に浸っていた。
ふと、我に返った人々からは拍手の嵐。
割れんばかりの拍手の中。
歌い終わってほっとした瞬間、突然身体が震え出した。
立っている事も困難になり、その場に座り込んでしまう。
けれど、自分の全てを出し切った。
思い残す事はない。
これで不合格だと言われても、納得がいく程悔いは残っていない。
拍手が湧き起こる中、不意に社長が椅子から立ち上がって告げた。
拍手の中でも、その声だけはやけにハッキリと柊の耳に届いた。
――――ボクはあの時の言葉を、きっと一生忘れないと思う――――
柊の歌声が止み、拍手が止んで数分後。
柊がオーディションを受けていた部屋から出て来た。
放心状態で。
柊の様子に驚きつつ、兄弟が柊の元へ駆け寄るとその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
突然座り込んだ柊の様子からして、只事じゃない事は見て取れた。
柊へと一番に駆け寄った兄弟達が次々に告げていく。
「柊、今までで一番良かったぜ」
「誰よりも上手く歌えてたよ」
けれど、柊の様子は何処か可笑しかった。
極度の上がり症を克服したとはいえ、緊張が今になって襲って来たとしても。
この様子は、可笑しい。
嗄が不安気な表情で柊の顔を覗き込んで尋ねる。
「……ひいらぎにぃ、だいじょうぶ?」
嗄の声でようやく我に返ったのか、柊はゆっくりと兄弟の顔を見つめていく。
そして突然、涙を流し始めたのだ。
椿達は意味がわからず、とりあえず柊を宥めるが。
泣きじゃくりながら、柊が告げる。
「椿兄ちゃん……榎、兄さん……みやぎぃ……っ! ボク、十八時にロビーで待っているようにってぇ……社長さんから言われたよぉお!」
珍しく柊が泣きじゃくり、嗄に抱き付いてそう告げた。
一瞬、柊が何を言ったのか家族全員が理解出来ず。
嗄以外の全員が、驚愕しつつも喜んだ。
理解は出来なかったが、泣きながら柊が「やったよぉ、みやぎぃ……」と嬉しそうにしているし、みんな喜んでいるから良い事があったのだろう。
一頻り、家族みんなは喜んでいたが。
不意に我に返った椿がいつまで抱き付いているんだと、柊の頭を殴った。
そこで再び、嗄愛し隊の馬鹿二人が喧嘩を始める。
激しい喧噪の中。
榎が戸惑いつつも、その場に居た全員に告げた。
「……みんな。さっき、嗄をトイレに連れて行った時……僕も男の人から同じ事を言われたんだ……」
榎が爆弾発言を投下。
刹那、喧嘩をしていた椿と柊の動きが止まる。
喜んでいた椛も、信じられないと言った表情で尋ねて来た。
「本当⁉」
「榎、お前すげぇな! オーディションも受けてねぇんだろ⁉」
「うわぁ、何それ。なんとなく、ソンしたような気分」
一体どんな展開になっているのかわからず、嗄は兄達の顔を交互に見つめるだけ。
すると嗄の視線に気付いた柊が涙を拭ってポケットからお菓子を取り出して手渡してくれた。
お菓子を受け取るが、首を傾げつつ嗄は兄達の姿を見つめる。
椿は兄二人の話を耳にして嬉しそうに笑い。
榎も少し嬉しそうに笑っており。
柊は落ち着いたのか、持って来ていたメロンパンへと齧り付いていた。
やがて、楽しげに笑いながら椿がボキボキッと指を鳴らして告げる。
「んじゃ、俺も全力でやるか! 俺もロビーで待ってるようにって言われる為にな」
椿の言葉だけは、嗄でもなんとなくわかった。
全力で演じる。
本気で演じる。
それはつまり、文化祭の時よりももっと凄い演技をすると言う事だ。
椿が本気で演じたら、どうなるのだろうか。
文化祭の時よりも上があるのだとしたら、嗄はそれを知らない。
椿の全力を、見た事がない。
きっと、あの文化祭でも本気ではなかったのかもしれない。
以前、椿は本気で演じる事をやめたと言っていた時がある。
本気で好きなアニメのキャラになりきって、自分が自分じゃなくなったと言っていた事もあるが。
まだ舞台で主役を貰えず、脇役ばかりしていた頃の事。
ほんの少しでも本気で演じてしまった時、主役よりも目立ってしまい先生から怒られたと言っていた。
下手をしたら、あのロミオでも気を抜いていたのかもしれない。
そう思うと、期待から身体が震えるような気がした。
「よっしゃー! やるぞー! もう、ぶっ倒れる勢いで演じてやるぞーっ‼」
両手を突き上げてそう告げる椿だが。
気合十分といった様子だが。
次の椿が受けるオーディションまでの間、かなり時間が空いてしまった。
子役のオーディションの間に、本来ならば榎が出るはずだった声優のオーディションが行われるからだ。
丁度柊のオーディションが終わった時間が昼前だったので、とりあえずは腹ごしらえをする事になった。
腹が減っては戦は出来ぬ、という事で近くのファミリーレストランへと足を運んだ。
席の並び順は奥の窓際は榎、間に嗄を挟んで通路側に柊。
手前の通路側に椿、真ん中に椛、窓際が框となった。
椿はハンバーグを注文し、榎はとりあえずの海鮮サラダ。
柊はいきなりチョコレートパフェを選んだ。
嗄はやはり子供は子供らしく、お子様ランチを選んだが。
料理が運ばれて来た瞬間、椿はすぐに注文したハンバーグを平らげてしまった。
椿の勢いに、榎と柊が呆れて同時に告げる。
「「もっと落ち着いて食べなよ」」
「仕方ねぇだろ? 早く演じたくてうずうずしてんだからよ!」
椿の言葉を耳にした榎と柊が深い溜め息を零す。
こうなってしまっては、もう椿は止められない。
演じたいという衝動に駆られた椿には何を言っても無駄だ。
呆れながら榎は嗄の方へと視線を向ける。
口元をケチャップ塗れにし、美味しそうに頬張っている嗄を目にして榎は微笑み、ティッシュを取り出して告げる。
「ほら、嗄こっち向いて。口、拭いてあげる」
「んー」
榎の方へと顔を向けた嗄を目にし、嗄愛し隊の馬鹿二人が身を乗り出して反応する。
口元を榎に拭いてもらい、嗄は再びお子様ランチを食べ始めるが。
右隣に居る柊が優しく尋ねて来る。
「嗄、パフェ食べる?」
「うんっ!」
「はい、あーん?」
ホイップクリームをパフェ用のスプーンに乗せて、嗄へと向ける。
嗄が口を開ける姿を目にした椿が、テーブルの反対側から身を乗り出して反応してみせる。
ガタンッと激しい音を立てて。
口を開けている嗄へスプーンを差し出すと、嬉しそうな顔をして嗄はスプーンを銜える。
「美味しい?」
「うん!」
「そう、なら良かった」
嬉しそうに微笑んで柊はそう言うが、嗄が銜えたスプーンでアイスを掬って口へと運ぶ。
椿に向けて、意地の悪い笑みを浮かべて。
間接キス、大成功だ。
まるでそう言いたげに。
椿は激しい嫉妬に駆られる中、ある事を思い付く。
にやりと笑ったかと思うと、椿は嗄に提案し始めた。
「なぁ、嗄。そのプリン一口くれよ」
「プリン? うん、いいよっ!」
「あーん」
嗄ではなく、椿自ら口を広げてみせた。
すると心優しい嗄は何の疑いもせずにプリンを乗せたスプーンを椿の口へと持って行こうとするが。
反対側への席に居る椿にあーんをするのは、子供の嗄には難しかった。
反射的に椿がテーブルから身を乗り出してでも嗄と間接キスをしようとしたのだが。
あともう少しで食べられる、という所で框が一言。
「行儀が悪いからやめなさい」
それでも椿は続けようとしたのだが、ずっと手を伸ばしていた嗄が限界だったのかスプーンに乗せていたプリンをテーブルへ零してしまった。
椿の間接キス計画は虚しく終わってしまった。
失敗した姿を目にし、柊が意地悪く笑ってみせる。
流石に店内で喧嘩を始める事はなかったが、憎らしげに椿は柊を睨め付けていた。
しばらくの間、椿達はファミレスで過ごす事にした。
ドリンクバーや、アイスバー等を利用して。
椿が受ける子役のオーディションは午後三時から行われる。
それまでずっとファミレスに居ようと両親は告げたのだが。
椿はオーディションの一時間三十分程前にファミレスから出たいと言い出した。
ファミレスから出て、再びオーディション会場のロビーへと戻って来る。
普段通り椿は過ごすのかと思われたが――
オーディション会場のロビーに置かれたソファーへ椿は深く腰掛け、目を閉じてしまった。
最初は眠ってしまったのかと思われたが、どうやら違うようだ。
もしも眠ってしまったのならば、ソファーの背凭れへ背を預けるはず。
椿の場合、背凭れに背を預けないまま静かに目を閉じていた。
声を掛けても反応がない。
ただ静かに、目を閉じて座っていた。
初めて目にする、そんな椿の姿。
誰もがすぐに気付いた。
演技の為に椿が集中力を高めているのだと。
こんなにも椿が集中している姿を目にするのは、家族でも初めての事だった。
きっと、ここに演じる役の台本があったとしたならば。
椿は文化祭の時よりも更に集中して台本を見つめていたのだろう。
まだ演じる役が何なのかすらわからないので、集中力を高める事しか出来ないのだろう。
どんな役が与えられても、どんなに噛みそうな台詞が与えられたとしても。
すぐさま対応出来るように、椿は集中力を高めていた。
オーディションの時間が近付き、ロビーは大勢のオーディション参加者達で埋め尽くされていく中。
尚も椿は集中力を高めていた。
やがて、オーディション開始十分前になる。
「それでは、番号札の配布を開始します。お好きな番号を選んでください」
審査員の一人がオーディションの行われる扉の前でそう告げる。
先程、柊がオーディションを受けた時と同じようにデスクの上には番号札が並べられていた。
家族全員が椿に番号札を配布し始めたと告げようとした時。
静かに、椿が目を開いた。
そして立ち上がったかと思うと、椿は迷う事なくデスクに置かれた1番の番号札を手に取ってみせた。
顔には笑みを浮かべて。
流石にトップバッターを選ぶ人は中々居なかった為、椿が手にするまで一番は残っていた。
1番の番号札を手にした椿はいつも通りの笑みを浮かべて告げる。
「初っ端からかましてやるよ。だから、見ててくれよお前等。全力で演じるからな、俺」
笑みを浮かべているのだが、瞳には真剣な色を帯びて。
椿は家族にそう告げた。
手にした1番の番号札を胸に付け、右手の親指を立てて見せると椿はオーディション会場へと足を踏み入れて行った。
今回のオーディションは柊の時よりも人数が少なく、保護者達もオーディション会場へ入る事が出来る。
しかし、中に入れるのはオーディションの参加者達が全員集まってからだ。
子役のオーディションに参加する人数は三十人。
それから十五人程に絞られる。
やはり合格の門は狭い。
椿がオーディション会場へ足を踏み入れ、並べられているパイプ椅子へ腰掛けようとした時。
並べられたパイプ椅子の辺りに膝を付き、必死に何かを探している少年の姿が視界に入った。
榎と同い年くらいの少年。
一体何を探しているのかと最初は首を傾げたが。
少年の胸には参加者が付けているはずの番号札が付けられていなかった。
必死に探し物をしている辺り、恐らく胸に付けるはずの番号札を落としてしまったのだろう。
まだ審査員の姿もなく、周りのオーディション参加者達は自分の事で精一杯のようで誰一人として少年に手を貸そうとはしなかった。
椿は周囲へと視線を巡らせる。
そこでふと、部屋の隅に番号札が落ちている事に気が付いた。
パイプ椅子の方ばかりに目を取られていたので少年は気付かなかったのだろう。
椅子からはかなり離れた、扉側に番号札は落ちていた。
少し屈んで番号札を拾う。
4番の番号札。
パイプ椅子には手にした番号札の順に参加者達が腰を下ろして行っている。
少年が探している番号札は恐らくこれだろう。
椿は拾った番号札を手に、未だ番号札を不安気な表情で探している少年の元へ行く。
「お前が探してるのって、この番号札か?」
「え……?」
今にも泣き出しそうな表情の少年が、不意に顔を上げる。
可愛らしい、女の子のような容姿。
赤毛の茶髪に茶色の瞳。
左の前髪にはさり気無く女性もののペアピンが付けられていた。
可愛い系の男の子。
顔だけならば、すぐにでも採用されるだろう。
しかし、ここで試されるのは自身が持っている演技力だ。
それはともかく。
眼前の少年は椿の手にしている番号札を目にした瞬間、まるで花が咲いたかのように嬉しそうな表情を浮かべた。
まるで、オーディションに合格したかのように。
「そう! それだよ! ありがとうっ! これがなかったらどうしようかと思ったぁ……」
椿の手から番号札を受け取り、大事そうに手で包むとすぐさま胸へと番号札を付ける。
ようやく自分の胸に付いた番号札を見つめ、安堵の息を漏らす少年。
安心した少年の姿を目にして、椿も安堵の息を漏らす。
「見つかって良かったな」
「本当にありがとう。僕一人じゃきっとオーディションが始まっても見つからなかったよ」
「困った時はお互い様だろ? つか、みんな冷てぇな。困ってる奴が目の前に居るのによ」
「仕方ないよ。だって、みんなだって今日は運命の分かれ目の日だと思うから。人に構ってる余裕なんてないと思うよ」
「――そうだな」
パイプ椅子に腰掛けている参加者達へと視線を向ける。
椅子の上にはオーディションで演じる役の台詞が書かれた用紙が置かれていた。
オーディションの参加者達は全員その用紙に目を通していた。
用紙を見つめながら緊張している人も居れば、堂々と振る舞っている人。
緊張のあまりか、慌ててトイレへ駆け込んで行く人の姿も見える。
確かに少年の言う通りかもしれない。
「僕は、藤森拓斗。オーディション、頑張ろうね!」
「おぅ。俺は東夜椿。一緒にオーディション受かったら良いな」
「うん!」
拓斗と名乗った少年は笑みを浮かべ、手を差し出す。
差し出された手を握り返して、椿は爽やかに笑ってみせた。
拓斗は握った手で小さく手を振ると4番目のパイプ椅子へと向かって歩き出した。
本当ならば、ここに居る全員が敵と思って良いのかもしれない。
いや、普通はそうなのだ。
自分以外の全員を蹴散らしてでも合格する。
そう思わなければきっと、オーディションに合格は出来ないだろう。
けれど、オーディションに合格すればここで受かった人々とは仲間でもありライバルにもなる。
椿は1番目のパイプ椅子に腰掛けて台詞の書かれている用紙へ視線を落とす。
一瞬目にしただけで、瞬時に台詞が頭の中へ入っていく。
周りに居る参加者達はシャーペンやマーカー等を使っているが、椿にはそんなもの必要ない。
参加者達が用紙に書いている事が全て椿の頭の中には入っているので一々書く必要はないのだ。
用紙から顔を上げて、少し三席隣の拓斗へ視線を向けてみる。
真剣な眼差しで台詞の書かれている用紙を見つめ、何度も読み返して台詞を覚えている様子だった。
そんな拓斗の姿を目にして、椿も用紙へ再び視線を落とす。
あいつと一緒なら全力を出して演じる価値もあるかと思いながら。
小さく笑って、目を閉じる。
頭の中で、台詞から感じ取ったイメージを再生してみる。
もう少しこう演じたら良いと、頭の中だけで自身のイメージを訂正しながら。
例え同じ役を与えられたとしても、演じ手が違えば与える印象も変わって見える。
椿の得意なアドリブを入れれば、更に違う印象を審査員達に与えられるだろう。
目を閉じたまま、椿は笑ってみせた。
しばらくして参加者全員が会場へ入り、嗄達もオーディション会場へ足を踏み入れる。
オーディション会場へ入った瞬間、会場内は静まり返っていた。
全員が手にした台本である用紙を見つめ、台詞を必死に覚えている最中だった。
扉側のパイプ椅子に腰掛けて、嗄は椿の様子を遠くから見つめる。
子役のオーディションは柊のオーディションとは違い、台詞を覚える為にも開始十分前を入れたとしても三十分以上は猶予が与えられた。
オーディションの開始時間が迫るに連れて、台詞の覚えられない参加者は焦っているが。
椿ただ一人だけが最初から最後までずっと落ち着いた様子だった。
オーディションが始まる数分前には、審査員の席は全て埋まっていた。
不意に柊が審査員の一人を指差して両親に小声で告げる。
「あの人っ……あの人がロビーで待っているようにって言ったんだよ!」
柊が指差した人物。
それはこのオーディションを企画したRaw stoneプロダクションの社長。
多くの大物を世に産み出して来た、カリスマ若社長でもある人物。
柊だけではなく、榎にも同じ事を告げた男だった。
静かに参加者達の様子を見つめているその男の前に置かれたネームパネルへ両親は目を向ける。
〝Raw stoneプロダクション社長 山田望〟
ネームパネルにはそう書かれていた。
社長と聞いていた両親だったが、まさかこんなにも若いとは思っていなかったらしく。
俗に言うイケメンな若社長を目にした椛の頬が少々紅潮しているようにも見えた。
数分が経ち、プロダクションの社長――山田が椅子から立ち上がって告げる。
「それではこれより、Raw stoneプロダクションの子役オーディションを始めます。みなさんには先程、台詞の書かれた用紙を渡してあります。台詞を覚える為の時間は与えました。一人ずつ前に出て来て番号、そして名前と年齢を言ってから演じてください」
山田が言い放った瞬間、会場の空気が変わる。
張り詰められた、緊張感のある空気へと。
参加者達の緊張は保護者席に居る嗄にも伝わって来た。
山田は静かに椅子へ腰掛けて告げる。
「では、1番の人からどうぞ」
「はい!」
元気良く椿は返事する。
緊張した様子は全くなく、いつも通りの椿で。
パイプ椅子の並べられた場所と、審査員達の座る席の間にある広い空間。
そこに椿は立つと、真っ直ぐと審査員達を。
目の前に座る社長の山田を目にして、ハッキリとした口調で告げる。
「1番、東夜椿十一歳です! それでは演じます!」
大きな声で告げると、椿は静かに目を閉じる。
小さく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
ゆっくりと目を開いた瞬間、椿は先程とは目の色を変えてみせた。
完全に、役者へのスイッチが入った。
今あそこに立っているのは椿ではない。
〝東夜椿〟は瞬時に居なくなってしまった。
「『行かないで! お願いだから、僕の話を……聞いて……!』」
椿が演技を始めた。
静まり返った空間に、椿の声だけが響く。
椿の周りには何もないはずなのに。
椿が演じ始めた瞬間、見えたような気がした。
学校の教室での風景が。
椿が机と机の間を縫って走り、教室の扉に手を掛けて廊下へと声を掛ける姿が。
その場に居た全員には、見えた気がした。
力なく扉に掛けた手を下ろし、俯いて椿は告げる。
「『……ごめん。君を裏切るつもりなんて、なかったんだ。でも、ああするしかなかったんだ。本当に……ごめん』」
俯いたまま、拳を強く握り締めて。
前髪のせいで表情は伺えないが、見て取れる。
唇を酷く噛み締めている事が。
きっと、前髪に隠れたその表情は酷く悲しいものなのだと。
会場に居た全員が、容易に想像出来た。
それ程までに、椿の演技力は凄まじかった。
少し顔を上げて廊下の先に居る人物を一瞬だけ見つめるが。
すぐに視線を逸らし、小さく告げる。
「『――何を言っても言い訳に聞こえると思う。でも……でも、これだけは言いた――』」
次の瞬間、会場に居た全員が思わず息を呑んだ。
何故ならば、椿が殴られたからだ。
実際には誰にも殴られていない。
つまり、椿の〝演技力〟だ。
見えるはずのない人間に。
存在しないはずの相手に殴られる様が見える程の演技力。
殴られた光景を目にした瞬間、嗄の背筋に寒気に似たようなものが駆け抜けていった。
この殴られるシーン。
それは台本である用紙には書かれていない事だった。
つまり、完全に椿のアドリブだったのだ。
頬の痛みに椿が顔を歪ませる。
殴られて目元を覆っていた前髪が横へ流れ、悲しげな、辛そうな表情が良く見える。
椿の表情は、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。
「『……わかってる……。何度謝っても許してくれない、なんて事は……。だって、僕は絶対に許されない事をしたんだから……』」
頬に、ゆっくりと一筋の涙が伝う。
流れる涙は床へ一つ、二つと落ちていく。
悲しげに、寂しそうに。
苦しそうに、辛そうに、椿は涙を流して告げる。
「『僕は、大切な……初めて出来た親友を、傷付けたんだから……。絶対、許してなんかもらえるはずがない……』」
絶対に……と、小声で呟く。
誰もが椿の演技を目にして驚愕した。
まるで、ドラマのワンシーンでも見ているかのような錯覚を起こす演技力。
椿の全力を出した演技力。
観る者全てを虜にする、圧倒的な演技力。
これが俳優、東夜椿誕生の瞬間だった。
「『今の僕が何を言っても、君の心には何一つ届かないと思う……。きっと、僕の言葉は信じられないと思う。でも、これだけは――これだけ、言わせて欲しいんだ』」
悲しげに涙を流して、ほんの少しだけ笑ってみせる。
見ているだけで酷く胸が締め付けられるような、切ない表情で。
頬に一粒、涙を伝わせて。
椿は静かに告げた。
「『君と過ごした時間は、本当に楽しかったよ』」
椿の笑顔が、やけに綺麗に。
切ない程に澄んで見えた。
それから、ぼろぼろと涙を零して椿は続ける。
「僕の……っ、大切な……思い出、だよ……!」
小さく嗚咽を零して、泣きながら椿は告げる。
これもまた、椿のアドリブだ。
台本には載っていない、完全なるアドリブ。
本当ならば、先程の台詞で終わっているはずなのに。
溢れる涙を服の袖で拭い、椿は更に続ける。
「この思い出を壊したくないから、そっと……胸の奥にしまい込むよ。だから、バイバイ……」
切なげな表情で笑って。
決して手は振らず、椿は告げる。
――会場に静寂が訪れる――
その場に居た全員が、椿の演技の余韻に浸っていた。
椿の演技に、涙を流す参加者や保護者も居た。
椿は静かに目を閉じ、大きく息を吐いて目を開く。
いつも通りの瞳で、いつも通りの爽やかな笑みを浮かべて。
「これでおしまいです!」
屈託のない笑みで椿はそう告げた。
椿の全力な演技を目の当たりにして、家族全員が驚愕した。
特に兄弟達は。
椿の演技は誰よりも目の前で見て来た。
瞬時に人が変わる様を目にして来た。
しかし、今目の前で繰り広げられたものは〝人が変わる〟なんていうレベルではなかった。
〝完全に役に成り切る〟なんてものでもなかった。
あそこには。
目の前には、〝台本に書かれていた少年〟が居た。
〝少年〟本人と言っても良い人物が。
先日のロミオの比ではない人物が。
全く比べものにならないような人物が、そこには居た。
椿の演技が終わったと言うのに、審査員の誰一人として反応が返って来なかった。
皆、驚いた表情で椿を見つめるだけ。
椿の後に演技をする参加者達には焦りが募っている様子だった。
敵うわけがないと、台詞の書かれた用紙を手落とす人も居た程だ。
拍手も返って来ない程、その場に居た全員が椿の演技に魅せられた。
会場内が参加者達で騒めく中。
椿が苦笑しつつ、審査員に向かって告げる。
「あの、もう終わったんですけど……」
椿の言葉に審査員一同が我に返る。
審査員達も参加者達と同じようにひそひそと話し合う。
そんな中、山田ただ一人だけが静かに椿を見つめており。
静かに椅子から立ち上がったかと思ったら、唐突に告げたのだ。
「東夜椿君。十八時にロビーで待っていてください。もちろん、ご家族のみなさんも」
至って真剣に、真面目な表情で山田は告げた。
告げたかと思うと、再び山田は椅子に腰を下ろした。
オーディションの参加者達は更に騒めく。
審査員達も山田の様子に騒めき始めた。
騒めく会場の中。
椿は満面の笑みで保護者席に居る嗄達に向かって右手の親指を突き立てる。
榎は微笑みで答え、柊は親指を突き返して答える。
嗄は拍手をして答えた。
両親に至っては、自慢の息子達がロビーで待っているようにと社長直々に言われて舞い上がらないはずがない。
幼い嗄にはわからなかった。
ただ、みんなが喜んでいたから大成功なのだとは悟った。
本当に、嗄は何も知らなかった。
いや、知る由もなかった。
嗄だけではない、兄弟全員が。
知るわけがないのだ。
――――これが家族崩壊のキッカケになるなんて事は――――
椿のオーディションが終わり、人の去って行ったロビーで静かにある人物を待つ。
家族全員が待っている人物、それはオーディションを受けたRaw stoneプロダクションの社長、山田望だ。
彼にここで待っているようにと告げられた。
一体何の話だろうかと椿と柊は完全に浮かれていた。
もしかしたら、すぐにでもデビュー出来るかもしれないと喜んでいた。
それは両親も同じだった。
だが、この先に起こる事を彼等は知る由もない。
特に椿達にとって芸能界とは、夢のような世界だからだ。
ずっと、夢に描いていた出来事。
それが現実になるなんて、誰が想像出来ただろうか。
彼等は知らなかった。
自身の力がどれ程常人よりも長けた能力を持っているかを。
椿達は、普通より少し上だと言う程度の認識だった。
未だに誰一人として、兄達は自分の持っている能力が。
才能が誰も手にする事は出来ない程のものだとは知る由もない。
――運命の分かれ道であるこの日――
兄達は自分の実力を試すと同時に、自身の持っている能力が天賦の才能だと気付かされた日でもあった。
やがて十八時になり、もう嗄達しか居ないロビーに靴音が響き渡る。
すぐに椿達は誰が来たのかわかり、慌ててソファーから立ち上がる。
足音のした方へ視線を向ければ、そこにはやはりスーツ姿の山田望の姿があった。
山田は嗄達の両親へ会釈すると、内胸のポケットから名刺ケースを取り出して名刺を差し出す。
「私はRaw stoneプロダクションの社長、山田望と申します」
「え、あ……どうも……」
框と椛が戸惑いつつも名刺を受け取る。
椿達は静かに山田を見つめていた。
椿と柊が呼ばれた理由はわかる。
しかし、榎が呼ばれた理由だけがわからない。
いや、榎は少し悟っていた。
もしかしたら、と。
もしかするのかもしれない、と。
静かに榎が山田を見つめていると、不意に山田と視線が絡み合う。
目が合った事に少し榎が戸惑っていると。
榎の目の前にある一枚のA4サイズ程の用紙が差し出された。
不思議に思いつつ榎は山田を見上げるが、山田は静かに用紙を差し出して見つめて来るだけ。
戸惑いつつも差し出された用紙を受け取り、用紙に目を通した瞬間榎は自分の目を疑った。
これは夢かと、疑った程にだ。
だが、夢じゃないとでも言いたげに山田は告げる。
「君はまだ九歳だからオーディションに出たくても出られなかった。そうだろう? それは、とても惜しい事だ。君は顔も良いし、何よりも声が良い。滑舌もアクセントもイントネーションも、全てが完璧だ。後は君の演技力が聞きたい。椿君と柊君を見て、君にも才能があると私は直感した。これは私が独断で決めたオーディションだ。榎君、その中から好きな役を選んで演じてみてくれないか? 男役でも女役でも、好きなものを選べば良い」
山田から渡された用紙。
それは恐らく、本日の声優のオーディションで実際に配布されたオーディションの台詞だろう。
まるで山田は榎の心を見透かしたかのように言って来たのだ。
――本当は、自分もオーディションを受けたかった――
山田はそんな榎の本音を見抜いた。
見抜いて、特別にオーディションを設けてくれたのだろう。
榎の為に。
山田は榎にチャンスを与えてくれたのだ。
ロビーの空気が、瞬時に変わる。
オーディションが行われていた会場のように、張り詰められた空気へと変わっていく。
榎は台詞の書かれた用紙へ視線を落とし。
数秒後、口を開いた。
「……東夜榎、九歳。四番を演じます」
椿の時のように。
柊の時のように。
榎は自身の名前と年齢、演じる役の番号を告げた。
告げると、榎は深呼吸を一つ。
自分だけが特別に与えられたチャンス。
このチャンスを逃せば、恐らくは三年後までチャンスは与えられないだろう。
椿達のように、自分の持てる力全てを出し切りたい。
せっかくのチャンスを、無駄にはしたくない。
榎は静かに目を開く。
目には真剣な色を宿し、真剣な表情で。
ゆっくりと、口を開いた。
「『あっはははははは‼』」
突如、ロビーに響き渡る笑い声。
今まで、榎の口からは聞いた事のないような高笑い。
榎の笑い声を耳にした瞬間、兄弟は驚く。
実に愉快そうな笑い声。
愉しくて、愉しくて、仕方がないような笑い声。
笑い続ける事、約二分。
わざとらしい笑い声ではなかった。
〝本物〟の笑い声。
本当に腹を抱えて、榎は愉快そうに笑ってみせた。
壊れてしまったのではないかと思う程に、少し不安になる程に。
笑い疲れたのか、はぁ……と大きく息を吐き出すと。
背筋が凍り付くような、蔑むような声音で榎は告げた。
「『俺とお前とじゃ、格が違うっつーの』」
台詞を吐き捨てた榎は、普段の榎ではなかった。
台詞を口にした瞬間、榎からいつものワンテンポ遅れた喋りが消えた。
いつもの優しい榎からは想像も付かないような台詞。
正に、別人のようだった。
たった、たったの一言なのに。
椿は全身で、自分の持てるもの全てで演じていたものを。
榎は声だけで表現してみせたのだ。
榎も兄弟と同様に、最後の台詞は全力で演じてみた。
自分の持てる力全てを出し切ったつもりだ。
どう、だったのだろうか……。
不安に思いながら、榎は山田を見上げる。
すると山田は無表情のまま、両親へと向き直って告げたのだ。
「お父さん、お母さん。お子さん方をうちで使わせてもらっても宜しいでしょうか? お子さん方の演技力、歌唱力は現役で活躍している者達よりも遥かに上です。三人を我がRaw stoneのタレントとしてデビューさせても、宜しいでしょうか?」
山田の言葉に一瞬、その場に居た全員の理解が追い付かなかった。
けれど、理解した瞬間に椿達は飛び跳ねて喜んだ。
両親は涙ながらに何度も「是非!」と答えていた。
嗄ただ一人が、状況に何一つ付いていけない。
兄達が酷く喜んでいて。
両親も涙を流しながら喜んでいるので、オーディションに合格したのだろう。
幼い嗄では、そのような認識だった。
明日にでもすぐデビューという話になっている等、嗄がわかるわけがない。
明日の朝に兄達を迎えに行くという話になり、両親は山田に何度も深々と頭を下げていた。
両親から何度も頭を下げられながらも、その場から山田が立ち去ろうとした時。
不意に、山田と嗄の目が合った。
山田はじっと、嗄の顔を見つめて来る。
あまりにもじっと見つめて来るので、少し怖くなって嗄は椿の後ろに身を隠す。
それでも尚、山田は嗄を見つめながら尋ねて来た。
「――君、得意な事は?」
「……ないよ?」
取って食われてしまうのではないかと、不安になる。
ぎゅっと、椿の服を掴む。
早く向こうに行って、と願いながら。
しかし、山田は嗄の前から立ち去らない。
「――じゃあ、好きな事は?」
「ない、よ……?」
「じゃあ、なりたいものは?」
「……ないよ……」
山田の投げ掛ける質問に、嗄は全て素直に答えた。
本当に、得意な事もなかったし。
好きな事もなかった。
もちろん、なりたいものもない。
子供にしては夢も希望もなかったと思う。
嗄はただ、大好きな兄達と一緒に居られて。
楽しく笑って居られれば、それで良かったのだ。
嗄の答えに山田は少し不思議そうな表情をして見せた。
不思議そうに首を傾げつつも、山田は告げたのだ。
――今思えば、彼には本当に人を見抜く力があったのかもしれない――
今でもあの人の言葉を鮮明に覚えてる。
「君は、お兄さん達よりも凄い人間になる素質を持ってる」
静かに、眼前の男はそう告げた。
何を言っているのかが理解出来ず、嗄は首を傾げる。
そんな嗄の態度を目にした山田は、静かに踵を返して行ってしまった。
山田がロビーを去った後、両親は声を上げて喜んだ。
今日はパーティーだと。
デビュー祝いをするぞ、と。
兄達も、両親も凄く喜んでいた。
――忘れもしない――
きっと僕は、あの日を一生忘れない。
家に帰ると、お母さんがご馳走をいっぱい作ってくれて。
お父さんが凄くにこにことしていて。
椿兄さんの頭を。
榎兄さんの頭を。
柊兄さんの頭を撫でて。
凄く、嬉しそうだなぁと思って僕が兄さん達の傍に居ると。
急に、僕の頭も撫でて来たんだ。
嬉しそうに、にこにことして。
椿兄さんよりも、大きなその手で。
僕の頭を、撫で回したんだ。
初めて、お父さんから頭を撫でられた。
それも、笑顔で。
本当に、夢かと思った。
みんなが笑ってて。
お父さんとお母さんが、兄さん達に向ける笑顔と同じ笑顔を僕にも向けて。
いつもは僕だけ、ご飯の量が少ないのに。
僕なんて、いっつも一人ぼっちだったのに。
僕も初めて、〝家族の輪の中〟に入れたんだ。
すっごいご馳走をお母さんがテーブルの上に並べて。
兄さん達と同じように。
平等に、僕の分も取り分けてくれた。
その事が、本当に嬉しくて。
〝ほら、嗄もいっぱい食べるのよ〟
そう言って微笑み掛けてくれたお母さんが嬉しくて。
僕は、泣いちゃいそうな程に嬉しかった。
とても、暖かな時間だった。
とっても、幸せだった。
ずっと、僕が求めていたものが。
求めていた光景が今、目の前に広がっている。
その事が凄く嬉しかった。
いつもは柊兄さんのメロンパンを食べちゃいけないのに、特別に許してくれて。
柊兄さんと一緒に、メロンパンを食べて。
本当に幸せで。
何度も、何度も夢なんじゃないかって思った。
何度も頬を抓って、確認したくらいに。
夢みたいな光景だった。
「ねぇ、デビューの記念に写真を撮らない?」
お母さんがそう言って、カメラを手に取る。
カメラを向けられた瞬間、兄さん達が僕を間に挟んでカメラに向かってピースをする。
もうちょっと寄ってってお母さんに言われて、更にみんなで寄り添って。
僕は笑顔でカメラを見つめた。
「ハイ、チーズ!」
カシャッと、シャッターが切られる音が耳に届く。
きっと、僕はこの日を忘れない。
忘れられない。
だって、本当に幸せな時間だったんだ。
僕にとっては、いつまでも色褪せない最高な思い出なんだ。
――――だって、これが家族六人で過ごした最後の夜だから――――
~To be continued~