青春スクエア ~東夜嗄の片思い~ 小学生編2
序章 全ての始まり
もしも、始まりに〝はじまり〟があるのだとしたら。
きっと、これがキッカケだと思うんだ。
全ての始まりが始まる、歯車が回り出した時。
誰にもその歯車は止められない。
運命の歯車は、絶対に止められない。
ただただ、時の中に流されて行くんだ。
何にも逆らえずに。
見つめている事しか出来ないんだ。
少なくとも、あの頃の僕にはどうしようもなかった。
どうする事も出来なかった。
きっと、これが全てのキッカケ。
――――全ての始まりとなる、キッカケ――――
嗄は母である椛と共にある場所へと足を踏み入れた。
その場所とは、兄達の通っている小学校だった。
椛と共に来たはずなのに、椛は全くと言って良い程に構って貰えなかった。
まるで最初から存在していないとでも言うような扱い。
すっかりそんな扱いに慣れてしまっているので特に気に留めないが。
幼い嗄が不安を感じないはずがない。
早く兄達と逢いたくて、兄を探して視線を彷徨わせる。
すると、榎がこちらに向かって駆けて来る姿を捉える事が出来た。
「母さん、嗄!」
「えのきにぃ!」
こちらへ手を振って駆けて来る榎の姿を目にした瞬間、嗄は榎へ向かって駆け出していた。
榎の元へと辿り着ける一歩手前で小石に躓く。
倒れそうになった所に榎が間一髪で嗄の身体を支えてくれた為、倒れる事はなかった。
身体を支えてくれた榎に嗄はそのまま抱き付く。
榎に触れられて、嗄は安心する。
今日は早く兄達に逢いたかった。
何故ならば、今日の椛はいつにも増して嗄の事を構ってくれないからだ。
嗄の事を視界に入れようとさえしてくれない。
その理由は、本日この小学校で行われる学校行事のせいだ。
文化祭。
そう、兄達の小学校では本日文化祭が行われるのだ。
椿はやはり演劇をやる事になり、ロミオとジュリエットを演じる事になっていた。
演じる役はもちろんロミオだ。
柊もステージに立つ事になったのだ。
椿と共に舞台に立つのではない。
椿がロミオとジュリエットを演じ終わった後に、柊の為に歌うステージが設けられたのだ。
この日の為に柊が作曲した歌を。
自慢の息子達の晴れ姿を手にしているビデオカメラに収めようと、いつも以上に嗄は視界に入らないのだろう。
いつも以上にも椛の目には嗄が映っていなかったから、早く兄達に逢いたかったのだ。
「椿と柊は今どうしてるの?」
「二人とも最後の練習をしてるよ。多分、練習に集中したいと思うから母さんは劇が始まるまでゆっくりしていなよ。嗄の事は僕に任せて」
「そうね。開演前に椿達の所に行くわ」
「うん、わかった」
榎がそう答えると椛は校内の方へと足を向けて行ってしまった。
椛の後ろ姿を目にした榎が優しく嗄の頭を撫でてくれる。
少し顔を上げて榎の顔を見上げてみると、榎は優しく微笑んでいた。
慈しむような眼差しで見つめられ、まるで〝もう大丈夫だよ〟と言われているような気がした。
「嗄、椿兄さんの所に行こうか?」
「うん!」
榎に手を引かれて嗄は歩き出す。
初めて足を踏み入れる、兄達の通っている小学校。
見渡せば見渡す程、色鮮やかに彩られている校内。
出し物の宣伝がされている廊下。
廊下を歩く生徒も仮装をしていたりした。
嗄にとっては珍しいもの。
初めて目にするようなものもあり、嗄は目移りばかりしていた。
榎に手を引かれて歩き、嗄はある場所へと連れて来られた。
ガラス張りの扉を榎が開けてくれて、嗄に中へ入るようにと促してくれる。
恐る恐る中へと足を踏み入れ、目の前に広がる光景を目にした嗄は駆け出した。
天井は何処までも高く。
どんなに駆け回っても広過ぎるその場所。
とても広い、空間。
多くのパイプ椅子が並べられている体育館。
人もまだ数人しか居ない空間。
嗄はこんなにも広い空間を目にするのは初めてだった。
舞台の上ではこれから行われる演劇の最終練習をしている人も居た。
そんな事は気にも留めず、嗄は高い天井を仰ぎ見る。
幾つものライトが嗄を、自分の居る体育館を照らす。
天井の鉄パイプの僅かな隙間で挟まって空気が抜けてしまっているバレーボールを見つめながら嗄はくるくると回りながら歩き出す。
天井を仰ぎ見て、両手を広げてくるくると回っていると不意に榎が嗄の腕を掴んで少し引いた。
「嗄、上ばかり見ていたら危ないよ」
榎に腕を掴まれ、榎の方へと視線を向ける。
榎は少し困ったような表情で嗄を見つめていた。
再び舞台の方へと顔を向けてみると、並べられていた多くのパイプ椅子が眼前まで迫っていた事に気付く。
榎が腕を引いて止めてくれなければもう少しで椅子と衝突している所だった。
榎は優しく微笑むと優しく嗄の手を握って引いて行ってくれる。
一体何処へ連れて行かれるのかはわからなかった。
けれど先程〝椿兄さんの所に行こう〟と言っていたので恐らくは椿の元だろう。
榎に手を引かれて連れて来られたのは、薄暗い舞台裏だった。
舞台裏では慌ただしく演劇の最終チェックや準備をしている人が大勢居た。
準備をする人の邪魔にならないような場所で台本の最終確認をしている人も居た。
椿もその一人で、舞台裏の隅っこで台本を手にしていた。
しかし、椿の姿を目にしても最初は椿だと気付けなかった。
いつもならばすぐに椿の元へと駆け寄るのだが。
何故ならば、椿は役の衣装を身に纏っていたからだ。
ロミオ役の衣装を。
その為、すぐに隅っこに居るのが椿だとは気付けなかった。
ロミオの衣装に身を包んだ椿は真剣な表情で手にしている台本を見つめる。
「つばきにぃ!」
そんな椿へと嗄は駆け出して抱き付いた。
けれど、椿からの反応はなかった。
嗄が抱き付けばいつもすぐに気付いて爽やかな笑みを浮かべてくれると言うのに。
優しく、頭を撫でてくれるというのに。
今日はそれがなかった。
不思議に思って椿の顔を見上げる。
どうやら台本に夢中で嗄の存在に気付いていない様子だった。
椛だけなら未だしも、椿にも気付いてもらえない。
不貞腐れた嗄は唇を尖らせて頬を膨らませる。
どうしても自分の存在に気付いて欲しい。
嗄はそう思うと近くにあった丸椅子を椿の隣に置き、椅子の上へとよじ登る。
背伸びをすれば台本から顔を上げた時に気付いてもらえるだろう。
先程よりも椿に近付いて気が付いた。
椿が小声でずっと何かを呟いている事に。
椿が呟く言葉達。
それは舞台での台詞だった。
ずっと小声で椿は台詞を呟いていたのだ。
もう完全に頭の中へ入っているはずの台詞を。
嗄と榎の存在に気付かない程、集中して。
「椿兄さん、聞こえてる?」
榎がそう答えを掛けてみるが、やはり反応はない。
榎が溜め息を零す声が耳に届く。
嗄は椿が自分に気付いてくれないかと台本を手にする腕を突いてみたりもしてみるが。
反応はやはり返って来なかった。
ほんの少しだけ椿の見つめている台本へと視線を向けてみるが――
嗄には難しい言葉の羅列が台本には描かれていた。
何一つとして、嗄には読めない。
つまらないと、嗄は溜め息を零す。
刹那、不意に椿が台本から顔を上げた。
唐突に椿が顔を上げたので椿と触れ合いそうな距離で目が合う。
椿と目が合い、嗄が嬉しさの笑みを浮かべようとした次の瞬間。
「ふぃあああああああああああああああああああああっ!⁉」
突然、椿が大声で奇声を発した。
驚きのあまりか、手にしていた台本も何処かへ投げ飛ばしてしまっていた。
椿の驚き様に逆に嗄の方が驚いてしまう。
どれ程驚いたのかを例えるならば、驚いた猫が酷く毛を逆立てて飛び上がる程だ。
背伸びをして爪先立ちをしていた所に酷く驚き、バランスを崩してしまい視界が後ろへと傾く。
後ろへ倒れると思ったが、またもや間一髪で榎が支えてくれたので大事には至らなかった。
榎に抱き上げられて椅子から下ろされる。
椿はまだ驚いているようで、心臓を右手で押さえ蒼白とした表情で告げる。
「驚かせるなよ……。死ぬかと思ったじゃねぇか……」
「椿兄さんが気付かなかっただけだよ。今日は何時にもなく集中してたね」
「そりゃあな。こんだけの舞台だから気合入れねぇと」
「頑張って」
「おぅ、任せとけ!」
落ち着きを取り戻した椿はいつものように笑ってみせる。
椿の笑みを目にして、いつもの椿が戻って来てくれたと嗄は安堵の息を零す。
嗄が胸を撫で下ろしていると、椿が嗄へ優しい微笑みを向けてくれた。
微笑みを浮かべた椿は嗄の両頬に触れ、まるで犬の顔を撫で回すかの如く撫で回す。
「嗄も良く来たなぁ~! びっくりしたじゃねぇか、このこのこの~!」
「くすぐったいよぉ、つばきにぃ~!」
楽しげに嗄が笑うと、今度は嗄の身体を抱き上げる。
抱き上げた嗄とその場で回ってみせると、更に嗄は楽しげに笑う。
嬉しそうな、楽しそうな声で笑う嗄を目にして椿は回るスピードを少し上げる。
楽しそうに笑う兄弟を見つめる榎も、微笑んで二人を見つめていた。
目が回らない程度に回ると、優しく嗄を下ろして椿は告げた。
「今日兄ちゃん、頑張るからな! ちゃんと見ていてくれよ?」
「うん!」
もーいっかい!と嗄が強請ると椿は快くリクエストに答えてくれる。
嗄が無邪気な声で笑っていると、普段着姿の柊が先程まで椿が手にしていた台本を片手に三人の元へやって来た。
椿を恨めし気な視線で睨め付けて。
「これ、椿兄ちゃんの台本じゃないの? なんか、舞台裏の出入り口辺りに落ちてたよ」
「おぉ、サンキューな」
柊に礼を告げて嗄を床へと下ろす。
床に下ろされた後も椿とは離れたくなくて、椿が身に纏っている衣装の端を少し掴む。
柊の手から椿が台本を受け取ると、柊が不思議そうな表情をして尋ねて来る。
「それにしても珍しいね。椿兄ちゃんが大事にしてる台本を落とすなんて」
「柊、落としたんじゃなくて正確には〝投げ捨てた〟んだよ」
「違うっての。ちょっと驚いただけだ」
「――驚いたって、何に?」
「んな事どうだって良いだろ? つか、それより柊。お前、ステージ衣装はどうした。着ないのか?」
「着るけど……。さすがに早過ぎるよ。ボクは椿兄ちゃんみたいに舞台が楽しみすぎるワケじゃないから」
「別に楽しみ過ぎて衣装早く着てるわけじゃねぇっての。役に入り込む為に少し早く着てるだけだ」
「とか言ってぇ~ホントはすっごい楽しみにしてるくっせにぃ~!」
「うっ……うっせぇ! そういう柊もだろうがっ!」
耳が赤くなるまで顔を真っ赤にし、椿はそう告げる。
そんな椿に対し、柊はまるで当然かのように「そうだよ」と平然とした様子で答えた。
至って平然を装っている柊だが、嗄は知っている。
いや、恐らく兄弟全員が。
実の所東夜柊は、極度の上がり症なのだ。
歌う事は好きだが、人前で歌を披露するのは苦手としていた。
それでは駄目だと本人も思ったのか。
はたまた、椿が演劇をすると知ったからかは定かではないが。
最初は嫌がっていた演劇後のステージに、突然出ると言い出したのだ。
しかし、文化祭当日が近付くに連れて柊は不安そうに見えた。
昨夜、柊が文化祭の為に作詞作曲した五線譜を握り締めて震えていた事を知っている。
恐らく、表には出していないが内心では不安が募っているのだろう。
ここに来るまでの間もきっと、一人で練習をしていたのだろう。
必死に、イメージトレーニングをして本番に備えていたのだろう。
不安気な表情をしている柊へと嗄は歩み寄り、幼い手で柊の手を握る。
柊は驚いたように目を瞠ったが、やがて嬉しそうに優しい微笑みを見せてくれた。
「衣装と言えば、椿兄さんの衣装――凄く似合ってるね」
「今更そこに触れるか」
「だって、さっき言っても反応がなかったから」
榎の言葉を耳にした兄弟は、改めて椿が身に纏っている衣装へ視線を向ける。
ロミオの衣装は椿に見事な程似合っていた。
本当に、普段とは別人のように。
椿の衣装を作った人物も、〝本物のロミオ〟の為に作ってくれたのだろう。
サイズも全て、椿に合わせて作ったものだ。
全てが椿の為に出来上がっていた。
椿以外にロミオ役は出来ない。
まるで、そう言うように。
榎が衣装の事を褒めると椿は自身が身に纏っている衣装へ目を向けて。
格好良く見えるポーズをふざけて取って見せる。
そのポーズが完全に様になっているのでふざけるな等とは容易には言えない。
「つばきにぃかっこいー!」
「そうかぁ?」
「うん。マゴにも衣装ってヤツ?」
「柊、一言余計だっての」
柊の一言に椿の表情が瞬時に冷めていく。
癪に触ったのか、軽く柊の頭を小突いていた。
小突かれた頭を柊が手で押さえていると、椿は意地悪な笑みを浮かべて告げる。
「じゃあ後でお前にも同じ事言ってやるよ。馬子にも衣裳だってな」
「うわ~! すっごい椿兄ちゃんその衣装似合ってるね~! まるで本物のロミオみたーい!」
「今更取り繕うなっての!」
笑いながら椿は柊の背中を叩く。
釣られて榎と柊も笑う。
兄達が楽しそうに笑っているのを目にして嗄も笑う。
しばらく四人で笑い合うと、椿は舞台裏で色々と見せてくれた。
ロミオが腰に携える剣。
段ボールとアルミホイルで作られているのだが、意外とリアルに再現されていて驚いた。
剣の他にも舞台のセット等も見せてくれた。
楽しんでいると時間は一瞬で過ぎ去り、すぐに開演時間が迫って来た。
「もうそろそろ始まるな。俺も最後の確認があるからそろそろ行かねぇと」
「あ、もう開演十分前か。じゃあ僕達も客席に行こうか」
「「うん!」」
客席へ榎達と共に行こうと一歩歩み出そうとした時。
舞台裏への出入り口付近に椛の姿が見えた。
椛は子供達の姿を見つけると嬉しそうな表情をして見せ、愛する我が子の名を口にする。
「椿、榎、柊」
そこに嗄の名だけが呼ばれない。
いつだって、母の瞳に嗄の姿は映らない。
嗄が少しだけ悲しげな表情をすると、榎が嗄を庇うようにして背に隠してくれた。
眼前に立つ椛には笑顔を向けて。
「母さん、相変わらず気合入ってんなー。ビデオカメラ常備とか」
椿が笑いながら告げる。
椿も、嗄を庇うようにして前に立ってくれて。
柊の顔を不安気に見上げてみると、優しい微笑みを向けてくれた。
〝大丈夫。嗄はボク達が守るよ〟と、そう言いたげな瞳で。
「気合入れて当然でしょ? だって、自慢の息子の晴れ舞台ですもの!」
「なんか、めっちゃ期待されてんな? 俺達」
「お願いだから母さん、ハードルあげないでよ……」
「二人とも、本番頑張って」
椛にそう言われ、椿は柊を見つめる。
柊は困ったような表情を浮かべていた。
そんな柊とは対照的に椿は笑みを浮かべてみせた。
楽しそうに笑って、椿は告げる。
「よっし! んじゃ期待に応えて俺、本気出すから。柊も本気出せよ?」
「えぇっ⁉ そ、そんなにプレッシャー与えないでよ椿兄ちゃん!」
柊の言葉に椿は笑って返すだけ。
椿の笑みに釣られて椛と榎も笑い出す。
柊は絶望的な表情をしていたが。
開演時間が次第に迫って来て、時計を目にした椿は家族に背を向ける。
椛達も客席の方へ行こうと一歩、足を前へ踏み出そうとした時。
「あ、そうだ! 母さん達の為に特等席取っといたから、そこで俺達の勇姿ちゃんと撮っててくれよ!」
椿はそう言って客席の方を指差す。
指差されていた場所は、最前列の真ん中にある四つの空席。
そこには椿の字で〝東夜様御一行〟と書かれた紙が貼ってあった。
「あそこで俺の本気、目に焼き付けとけよ」
椿は笑ってそれだけ告げると、柊の背中を強く叩く。
真剣な眼差しで、柊を見つめて。
言葉では決して何も告げない。
あくまで表情で、瞳だけで告げる。
アイコンタクトを取ると、椿は背を向けて行ってしまう。
背中だけで、椿は告げる。
〝お前なら大丈夫だ〟と。
柊は行ってしまう椿の背中を見つめて、僅かに笑みを浮かべた。
「じゃあ、椿兄さんが用意してくれた客席に行こうか」
榎に促されて椛達は椿が取っておいてくれた特等席へと向かった。
舞台裏から、広い体育館へと出て行く。
体育館に躍り出て嗄は驚いた。
先程榎と見た体育館の光景とは、まるで正反対だったからだ。
多くの人で溢れ返った体育館。
誰一人として座っていなかった鉄パイプに、今では大勢の人々が腰掛けていた。
驚きながらも周囲を見渡していると、柊が優しく手を引いてくれる。
嗄が迷子にならないようにと。
誰かとぶつかって、怪我をしてしまわないようにと。
そうして嗄達は無事に椿が用意してくれた四席に腰を下ろす。
舞台から見て左から順に椛、榎、嗄、柊という並びで。
椛と少し間を取ってくれたのは榎の優しさだろう。
舞台が始まる前に柊は劇のクライマックスでステージの為の準備をするから抜けると教えてくれた。
柊が席を立つまでの間、嗄は右手を榎と。
左手は柊と繋いで今はまだ幕の下りている舞台を見つめる。
しばらくして開演を知らせるブザーが体育館内に鳴り響く。
ブザーが鳴り響いた瞬間、全員が舞台へと視線を向ける。
舞台が始まり、嗄はずっと椿が舞台に出て来るのを待っていた。
舞踏会でのシーンに入り、椿は舞台に上がる。
椿が舞台に上がった瞬間、空気が変わったような気がした。
今、舞台上に居るのは椿ではない。
〝ロミオ〟だ。
ジュリエットと手を取って社交ダンスを踊るロミオ。
社交ダンスを踊るその表情は正にロミオのもの。
愛しげに、優しげに。
慈しむように。
それでいて熱っぽい眼差しを彼女に向けるあの人物は、完全にロミオだ。
ロミオの眼差しを受けたジュリエット役の女の子の表情も、まるで恋に落ちたように熱に浮かされた表情をしていた。
きっと、本当に椿に恋をしてしまったのだろう。
幼い嗄にはロミオとジュリエットの内容は理解出来なかった。
でも、これだけは覚えてる。
「『他人の傷痕を嘲笑うのは、傷の痛みを知らぬ奴等だ……』」
バルコニーでのシーン。
ロミオの長い台詞。
台詞を吐く椿から、誰もが一時も目を離せなかった。
表情、動き、仕草、声。
身体の全てを使って、椿はロミオを演じる。
必死に、伝えて来る。
訴えて来る。
ロミオの抱えている、深い悲しみを。
沸き起こる怒りを。
激しい憎悪を
そして、ジュリエットへの愛情を。
――――今でも繊細に思い出せる――――
今まで目にした事のない程、優しくて愛おしそうな表情と眼差し。
ジュリエットを抱き締めた時の幸せそうな、安心したような。
何処か切ない表情。
愛する人の為に必死に生きようとするロミオ。
ロミオを演じていた椿は、今まで目にした中で一番輝いて見えた。
舞台上の誰よりも生き生きとしていて。
誰よりも伸び伸びと、自由に演じていた。
そんな椿の姿を目にし、瞬きをする事も忘れる程に魅了された。
物凄く、自慢したかった。
――あれがぼくのおにぃちゃんなんだよ!――
――すっごいおにぃちゃんでしょ⁉――
――すっごくかっこいいでしょっ⁉――
嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。
嬉しくて、仕方がなかった。
大好きなお兄ちゃんの一番輝いている姿を見られるのが。
みんなにも、見てもらっているのが。
〝観る者全てを魅了させる演技〟
椿の演技を目にした誰もがそう思った。
誰一人として、席から立ち上がろうとする者は居なかった。
情熱的に、熱情的に演じる椿に誰もが目を奪われていた。
やがて舞台もクライマックスへと差し掛かる。
愛するジュリエットの死を知ったロミオが毒薬を手にしてジュリエットの元へと駆ける。
柊もすっかり椿の演技に魅入っていた。
ふと我に返った嗄が柊と握っている手を少し大きく振る。
柊も我に返ったようで、ステージの準備の為に立ち上がろうとするのだが。
繋いでいる柊の手が震え出した事に気付く。
圧倒的な演技力を披露した椿の次に歌う。
伸し掛かるプレッシャーも酷いだろう。
不安気な表情をしている柊の手を嗄は引く。
柊の耳へ口元を寄せて、嗄は告げた。
「ひいらぎにぃのおうたも、つばきにぃにまけないくらいすごいよ」
嗄がそう告げると、柊が驚いた表情で嗄を見つめる。
柊を元気付けようと嗄は薄暗い中、微笑んでみせた。
「だいじょうぶだよ」
笑ってそう言うと、不安そうな表情を浮かべていた柊がふっと笑ってくれた。
〝ありがとう、嗄〟と、舞台のせいで声は聞こえなかったが。
口の動きからして、柊がそう言った事はわかった。
優しく嗄の手を握り返すと耳元で柊が「行って来るね」と告げて席を立った。
薄暗い体育館の中を歩いて行き、柊は舞台裏へと消えて行ってしまった。
柊が席を立ち、嗄は再び舞台へと目を向ける。
舞台は丁度、ロミオが仮死状態となったジュリエットの埋葬されている場所へ辿り着いた所だった。
完全にジュリエットは死んでしまっているのだと思い込んでいるロミオはゆっくりと、愛しのジュリエットへと歩み寄る。
信じられないと言った表情で。
安らかに眠るジュリエットの元へ来ると、静かに膝を付く。
恐る恐る、震える手でジュリエットの頬へと手を伸ばす。
愛しい人の頬に触れ、ロミオはポツリと呟く。
「こんなにも暖かいというのに……君は、死んでいると言うのかい……?」
もう片方の手で、反対側の頬へ触れる。
愛しい人の顔を、包み込むようにして。
愛しげな、悲しげな眼差しをジュリエットへ向けて。
「まるで、生きているようじゃないか……」
愛おしげに、ジュリエットの頬を撫でて。
ジュリエットの唇を、親指でなぞる。
悲しげな、今にも泣き出してしまいそうな表情で。
少し掠れた声で、眠るジュリエットへ尋ねる。
「どうして、僕を置いて行ってしまったんだ……。どうして、僕を一人にしたんだ……愛しいひと……」
ロミオの頬に、一筋の雫が伝う。
愛しげに、ジュリエットの頬を撫でて。
顔を寄せて髪、額、鼻、頬と。
そして最後に唇へと、キスを落とす。
顔を離し、静かに眠るジュリエットを目にして拳を強く握り締める。
歯を食い縛り、小さく呟く。
「君の居ない世界なんて……」
俯き、一つ二つと雫を零す。
涙を流す顔を上げ、安らかに眠っているジュリエットへ嘆く。
「君の居ない世界なんて僕にはっ……僕には考えられない‼」
ロミオは愛する人の死に悲しみ、嘆く。
眠っているジュリエットの両肩を掴み、涙を流しながら尋ねる。
「どうして死んでしまったんだ! どうして⁉ どうして、僕を置いてっ……! どうして一人でっ……どうして……っ‼」
悲痛に満ちた声で、ロミオは叫ぶ。
揺り起こすようにしてジュリエットの身体を揺すりながら。
しかし、ジュリエットは目を覚まさない。
「本当は、生きているのだろう……? だって、こんなにも暖かいのに……」
愛しいジュリエットを、ロミオは掻き抱く。
ほら、こんなにも暖かいのに……と呟いて。
耳を澄ませば、君の鼓動が今にも聞こえて来そうだと。
ジュリエットの胸へ耳を当てて、呟く。
「きっと……夢なんだ……。これは、悪い夢に決まっている……。ああ、なんて……なんて残酷な夢なんだ……っ!」
ジュリエットの頬に、ロミオの涙が一滴落ちる。
涙の落ちた、愛しい人の頬を優しく撫でる。
愛しげに、悲しげに……。
「そうだと……言ってくれ……」
頼む、とジュリエットに酷く懇願する。
ジュリエットを腕に抱き、縋るようにして何度も。
何度も。
神に懇願する。
何度も、何度も。
何度も、愛しげな声でジュリエットの名を呼ぶ。
けれども、ジュリエットは目を覚まさない。
何度も、何度も、ロミオは愛しい人の名を呼ぶが。
愛しい人は、一向に応えてくれない。
「ジュリエット……。ジュリエット―――――!!!!!」
身が裂かれそうな、悲痛に満ちた声が体育館に響く。
ロミオの声は館内に響き、反芻して虚しく消えていく。
聞こえるのは、ロミオが嗚咽を零す声だけ。
愛するジュリエットを抱き締めて、ロミオは泣き続けた。
嘆き続けた。
自分達の運命を。
愛する人への愛を。
深い悲しみを。
全てをロミオは悲しみ、嘆いた。
やがてロミオは抱き締めていたジュリエットを棺へと戻す。
美しくて、愛しい人を色取り取りの花に埋め尽くされる中へと。
名残惜しそうにジュリエットの頬を撫でて告げる。
「一人で寂しいだろう……。大丈夫、安心して……。僕もすぐに君の元へ行くよ……。僕達の愛は、永遠に終わらない……」
毒の入った小瓶を取り出し、ロミオは毒を一滴も残す事無く飲み干す。
小瓶を手落とし、瓶のカランという音が館内に響く。
全身を毒に蝕まれる中、最後の力を振り絞ってジュリエットの元へと這い寄る。
ジュリエットの眠る棺へ手を掛けて、苦しげにも口を開く。
「ジュリ……エット……愛、して……る……」
愛しい人の唇へ触れようと顔を寄せるが――
毒が全身に回り、ジュリエットの胸で力尽きてしまう。
静寂が訪れる中。
ジュリエットが静かに、眠りから目を覚ます。
身体に重みを感じ、一体何かと思って目を開けていく。
一番最初に視界に入ったのは、死んでしまった愛しい人の姿。
「きゃあああああああああああああああっ!!!!!!」
悲痛な、ジュリエットの悲鳴が響き渡る。
ボロボロと、大粒の涙を流しながらジュリエットはロミオを抱き起して嘆く。
「どうしてこんな事にっ‼ ああ、ロミオ! ロミオ‼」
もう少し、早く目を覚ませばこんな事にはならなかった。
こうなってしまったのは、自分のせいだと。
ジュリエットは酷く悲しみ、嘆いた。
どうしてこうなってしまったのかと。
「私の分の毒を残してくれれば、私もすぐに後を追えたのに……っ! 酷いわ、ロミオ!」
唇に毒が残ってるかと、キスをしてみるが――
ロミオの唇にも、毒は残っていなかった。
ジュリエットはロミオを抱いて、泣き続ける。
数分前のロミオのように。
やがて、泣き続けたジュリエットはある決断へ辿り着く。
ロミオが携えていた剣へと、手を伸ばす。
震えた手で、切っ先を自らの心臓へと向ける。
「ロミオ、待っていて……。私もすぐ、そっちへ行くわ……。もう二度と、誰にもこの恋は邪魔させない……!」
そして、剣を自らの心臓へと突き立てた。
ロミオとジュリエットは重なるようにして倒れる。
ジュリエットは涙を流して。
ロミオもまた、涙を浮かべて。
――良く、覚えてる――
意味もわからないはずなのに。
子供だった僕は、涙を流した。
僕は絶対に、あの時椿兄さんが演じたロミオを忘れない。
目に焼き付いて、忘れられない。
いつまでも鳴り止まない拍手の嵐。
周りを見渡せば、涙を流す観客が大勢居た。
幕が下がっても尚、鳴り止まない拍手の中。
拍手の嵐を打ち消すようにして、スピーカーから流れる透明な歌声。
〝あなたのために、わたしは愛を嘆きましょう。
共に、悲しみにくれましょう。
いつまでも、あなたと共に……〟
柊の考えた歌詞が、柊の歌声に乗ってスピーカーから流れる。
まるで硝子細工のように透明で、透き通るように美しい歌声が流れた瞬間拍手は鳴り止んだ。
誰もが柊の歌声に聴き入った。
再び幕が上がり、そこには神々しい限りの柊の姿があった。
鳥や、神をイメージしたような純白の衣装に白いファーが付いており。
女神と言っても、良いかもしれない柊の姿が。
儚くて、切なげで。
哀愁漂わせる歌声に、誰もが魅了された。
柊の作った歌は、ロミオとジュリエットを観た後に相応しい歌だった。
時に優しく。
時に激しく。
柊は歌い上げた。
先程まで隣で一緒に劇を観ていた時とは、まるで別人のように。
椿のように、ステージの上では別人になって歌っていた。
何者にも恐れる事はなく。
堂々と、柊は歌い上げてみせた。
普段の柊からは想像出来ない程に。
圧倒的な歌唱力で、観客全員を魅了させた。
〝聴く者全てを魅了する歌声〟
柊の歌声を耳にした全員がそう思った。
歌が終わると、柊は歌っていた時とは別人のようになってしまい。
恥ずかしそうに俯いて早口で「ありがとうございました」と告げると足早に舞台裏へと逃げて行ってしまった。
再び、鳴り止まない拍手の嵐が沸き起こる。
拍手の中、嗄は椅子から飛び降りるとある場所へ向かって駆け出した。
突然駆け出した嗄に気付き、榎が慌てて後を追う。
嗄は迷う事なく、真っ直ぐ舞台裏へと向かって行った。
舞台裏への扉を開け放ち、兄達の姿を探す。
舞台袖で柊が興奮したような面持ちで胸を押さえている姿が見えた。
柊の傍では椿が嬉しそうに笑って、柊の背を叩く椿の姿も。
兄達の姿を捉えた瞬間、嗄は兄の元へと駆け出していた。
「つばきにぃ! ひいらぎにぃっ!」
体当たりも同然の勢いで兄二人の胸へ飛び込む。
突然の嗄の登場に驚きつつも、兄二人は優しく嗄を抱き留めてくれた。
慌てて嗄の後を追って来た榎だったが、舞台裏へ来て兄の元へ行ったのだと知り安堵の息を漏らす。
「どうだった嗄、本気の兄ちゃん達は?」
「すっごいかっこよかった‼」
「そうか、カッコ良かったか! だって兄ちゃん、すげー頑張ったからな!」
「ひいらぎにぃのおうたもすごかったよ!」
「ありがとう、嗄」
「お疲れ、二人とも。本当にすごかったよ。圧巻で驚いた」
榎が舞台裏の出入り口付近からこちらへ歩み出して告げた。
榎の言葉に対し、椿は爽やかな笑みを浮かべて答え。
柊は未だに信じられないといった表情で答えた。
「ウソみたい……ボク、あんな大勢の前で歌ったんだ……」
「今更何言ってんだよ。あんだけ堂々と歌ってたくせによ」
バシンッと、痛そうな音が耳に届く程強く柊の背を叩いて告げる椿。
相当痛かったのか、柊が憎らしげに椿を睨め付けるが当の本人は全く気にしていない様子だった。
そんな二人の姿を目にして榎が小さく笑う。
「それに、二人とも本当に良く衣装が似合ってるよ」
「ああ。〝馬子にも衣裳〟ってやつだな」
「もう、椿兄ちゃん‼」
意地悪な笑みを浮かべて言う椿に対し、先程の仕返しなのか強く背中を叩き返す柊。
かなり本気で叩いたようで、次の瞬間椿は痛みから飛び上がった。
必死に背中に手を当てて、その場で飛び跳ねてみせる。
椿の反応にその場に居た全員が吹き出した。
みんなで楽しく笑っていた。
みんなで笑い合った日々。
きっと、これがキッカケだったんだ。
――――全ての始まりとなる〝キッカケ〟だったんだ――――
それはその日の出来事だった。
文化祭が終わり、自宅に帰るといつも通りの日常へ戻る。
日常であり、非日常でもある日々へ。
夕方になれば兄弟はリビングと居間でそれぞれの時間を過ごす。
椿はテレビの前でテレビゲームを。
榎は静かに読書を。
柊はテーブルで何やら書いているが、どうやら宿題をやっているわけではないようだ。
初めて耳にする鼻歌を口遊んでいる辺り、恐らくは作曲でもしているのだろう。
嗄はというと、椿と一緒にゲームをしていた。
レースゲームにて、椿との真剣勝負。
椿が勝てば嗄が勝つ、というようにどちらも引けを取らない。
と言っても、椿が手を抜いて勝たせてくれているのだが。
あと一歩でゴールという所で椿が手を抜き、嗄が先にゴールして勝つ。
「やったぁ! またぼくのかちだよ、つばきにぃ!」
「くっそぉ……次は絶対に勝つからな!」
負けて悔しがる〝演技〟を椿がしている事にも気付けない程に熱中して。
椿のリベンジマッチが始まると、不意に柊がテーブルの前から立ち上がった。
恐らくは作曲を終えたのだろう。
椿と嗄がデットヒートしている様を目にして、テレビを横切ろうとした柊の歩みが止まる。
白熱とした二人のバトルを目にして柊が楽しそうな声音で尋ねて来る。
「ねぇ、そのバトルが終わったらボクも入っていい?」
「おぉ、良いぞ」
テレビ画面から一度も目を離さず、コントローラーを握り締めたまま椿は答える。
早くバトルが終わらないかと、柊が二人の後ろに座った時だった。
浴室から出て来た椛がリビングに居る嗄達に声を掛けた。
「お風呂沸いたから入りなさーい」
「「はーい」」
榎と柊が同時に答える中。
読書をしていた榎は栞を挟んで本を閉じる。
しかし、椿と嗄だけはまだゲームを続けていた。
テレビ画面から目を離さず、椿は呟く。
「ん~……このバトルが終わってからぁ~……」
椿がゲームをやめようとしないので、嗄もゲームを続ける。
兄が許されるのだから、自分も許されるだろう。
嗄はなんとなくそう思っていた。
子供部屋から、柊が自分の着替えを手にして脱衣所へ向かっているのが見える。
「――二人とも、いい加減にしないと母さんに怒られるよ」
「ん~、もーちょっとだけ……」
榎の忠告も聞かず、椿はゲームを続ける。
ゲームに夢中になっている兄の後ろ姿を目にして深い溜め息を零し、榎も子供部屋から自分の着替えと嗄の着替えを取りに行く。
あともう少しで決着が付くという所で。
台所に立つ椛がついに雷を落とした。
「遊んでばっかいないで、さっさと入って来なさい‼」
椛の怒声が耳に届いた瞬間、椿と嗄は飛び上がってすぐさまゲームの電源を落とす。
そして脱衣所へと慌てて逃げ込んだ。
逃げ込んだ脱衣所で早々に浴槽に浸かろうとし、服を脱いでいっていると呆れた様子の榎と柊も脱衣所へやって来た。
Tシャツを脱いで上半身を露わにした椿が榎に尋ねる。
「榎、俺の着替えも持って来てくれたよな?」
「……持って来てないよ。自分で取りに行ったらどう?」
「マジでか。嗄の分だけかよ。兄想いじゃねぇな、お前」
「どうして僕が兄の着替えまで持って来なくちゃいけないの。良いからさっさと取って来なよ」
「へーへー、わかったよ。わーかーりーまーしーたーよーっだ!」
溜め息を零し、諦めたように椿は脱衣所から出て行く。
残された嗄達は早々に身に纏っていた服を脱いで浴室へと入って行った。
今日は週に一度の、兄弟四人での入浴日だ。
最初は嗄の気紛れで誰と一緒に入浴するかを決めていたのだが。
かなりの頻度で榎ばかりを選ぶようになってしまい、榎に激しく嫉妬した嗄愛し隊の馬鹿二人が嗄と一緒に入る曜日を決めないかと提案して来たのだ。
なので、今では不公平のないように完全曜日制になった。
週に一回程は兄弟みんなで入っても良いだろうとなり、このような形に落ち着いた。
榎に掛け湯をしてもらっていると、服を脱ぎ捨てた椿が慌てて浴室に入って来た。
全員掛け湯を済ませると、不意に椿が言い出す。
「さて、誰が嗄の身体を洗うかじゃんけんで決めるぞ‼」
「ゼッタイに負けないからね!」
「別に、誰でも良いと思うけど……」
「「良くない‼」」
椿と柊の声が浴室なので良く響く。
あまりの煩さに嗄が思わず両耳を塞いだ程だ。
榎は深い溜め息を零し、早く浴槽に入って暖まりたいと切に思っていた。
どうやら、じゃんけんをしなければゆっくり入浴も出来そうにない。
これは、諦めるしかなさそうだ。
「じゃ、いくぞ? じゃーんけーん……」
「「「ぽんっ!」」」
グー、グーにパー。
ただ一人だけパーを出したのは柊だった。
意地悪な笑みを浮かべて出したパーを椿に見せ付ける。
悔しそうに椿は出した拳を睨み付けていたが、やがて大人しく浴槽へ浸かる事にした。
これでようやく浴槽へ浸かれると、榎も浴槽へと入る。
嗄と柊だけが残され、優しく柊が「じゃあカラダ洗うね」と耳元で告げる。
ボディソープを手に取った柊は健康タオルを使う事なく、手だけで嗄の身体を洗い始めた。
冷たいボディソープが触れた瞬間「つめたいよぉ!」と嗄が少し抵抗する。
柊の行為を目にした椿がバシャッと浴槽の水を大きく揺らして身を乗り出す。
動揺する椿を目にし、更に意地悪な笑みを浮かべた柊は見せ付けるように嗄の身体を洗う。
「ひいらぎにぃ……くすぐったいよぉ……」
柊の手から逃れようと嗄は身を捩るが、柊は嗄を逃がそうとはしない。
更には嗄の可愛らしい性器がある方へと手を伸ばそうとしていた。
それを目にした椿が浴槽から勢い良く立ち上がって告げる。
「俺にも洗わせろー‼」
「えっ、止めるんじゃないの⁉ どうしてそうなるの⁉」
ツッコミを入れる榎等お構いなく。
浴槽から飛び出した椿も嗄の身体を洗おうとして柊と喧嘩を始めてしまった。
眼前で喧嘩を始めた兄弟を目にし、榎は額に手を当てて深い溜め息を零す。
どうしようもない兄弟を持ってしまって疲れる。
三人とも泡塗れになり、嗄は嬉しそうに笑っているが怪我をさせてしまっては大変だ。
この馬鹿二人には場所を弁えて欲しい。
榎も浴槽から出て嗄の健康タオルを手にし、嗄の身体を洗うついでに自分の身体も洗っていく。
身体を洗い終え、泡を流そうとした時。
まだ馬鹿二人が喧嘩を続けていたので、榎は静かに二人へシャワーノズルを向けて一気にシャワーの蛇口を捻った。
頭からシャワーを浴びた馬鹿二人は驚き、喧嘩は止まったが二人同時に言って来る。
「何すんだ榎!」
「何するの榎兄さん!」
声を合わせて告げる様は正に兄弟。
榎は馬鹿二人に目もくれず、嗄と自分に付いた泡をシャワーで流していく。
泡を流し終えるとシャワーを止め、馬鹿二人へ向かって冷たく言い放つ。
「洗う気がないなら大人しくお湯に浸かってて。二人とも、嗄に怪我させるつもり?」
いつものように、ワンテンポ遅い口調ではなく。
冷たい声音と、冷たい眼差しで言われてしまった。
流石は椿と同じ血が流れている弟だけはある。
十分に馬鹿二人を大人しくさせる程の威圧感はあった。
これ以上榎を怒らせまいと、椿と柊は静かに浴槽へ身体を沈める。
確かに榎の言う通りだ。
もしも榎があそこで入って来なかったら嗄が怪我をしていたかもしれない。
二人は反省しながら落ち込んだ様子で告げる。
「「……ごめんなさい」」
溜め息を零して「全く……」と榎は呟くと、今度は優しく嗄の頭を洗い始めた。
シャンプーハットを使う事なく。
嗄に目を閉じているようにだけ告げて、指の腹でマッサージするようにして洗っていく。
洗い終えれば泡を流す時、まるでヘアーサロンで洗髪をしてもらうかのように優しく洗い流していた。
そんな榎の姿を目にして、以前嗄が自分達を選ばなかった理由がわかったような気がした。
椿と柊が洗う時はいつも、ささっと洗ってすぐにシャワーで流していたからだ。
嗄の頭を洗い終えると榎は自分の頭も洗い、泡を流すと髪を搔き上げて二人に告げた。
「ほら、二人も洗って。じゃないと嗄がのぼせちゃう」
「お、おぅ……」
「うん……」
榎に促されて結局椿と柊は二人で身体と頭を洗う事になってしまった。
全員洗い終わると、今度こそ四人で一緒に浴槽へ浸かる。
流石に四人で浴槽に入れば狭く感じられたが、兄達と密着出来る事が嗄は嬉しかった。
四人で浴槽に入れば、必ず柊が手を忍ばせて擽って来る。
入浴剤が入って浴槽の中が見えない為、防ぎようがない。
嗄の次に椿が柊の魔の手に捕まってしまい、仕返しだと言わんばかりに今度は柊を擽り返したりもしていた。
狭い浴槽の中、逃げる事が出来ない為お湯を浴びせ掛けて逃げようとする。
ふざけ合う椿と柊に巻き込まれないようにと、榎が背で嗄を庇ってくれた。
だが、庇ってくれている榎の頭にお湯が掛かってしまい――
最初は無反応。
しかし何度も掛けられるうちに怒りが湧いて来たのか、榎が静かにシャワーへと手を伸ばして熱湯を浴びせ掛けようとしている事に気付いた馬鹿二人は逃げるようにして脱衣所へと出て行った。
ようやくゆっくり出来ると思ったのも束の間、嗄も浴槽から出てしまった為榎も渋々浴槽から出る事にした。
あの馬鹿二人に任せていたら、嗄が風邪を引いてしまうからだ。
脱衣所で素早く嗄の身体をバスタオルで拭き、嗄にパジャマを着るように促す。
自分は下半身にタオルを巻いただけの姿で。
嗄がパジャマのボタンを留めていっている間に、榎はタオルで嗄の濡れた髪を拭いていく。
パジャマを着終えると、今度はドライヤーを手にして嗄の髪を乾かす。
するとパジャマのズボンだけを履いた柊がバスタオルで嗄の頭を拭いて手伝ってくれる。
本当に柊は、この時ばかりしか役に立たない。
二人で嗄の髪を乾かした為、風邪を引かせる事なく乾かす事が出来た。
シャンプーの良い匂いのする嗄の髪を梳き、「もう行って良いよ」と告げて背中を押す。
ほとんど榎に全てをしてもらった嗄は脱衣所から元気良く飛び出す。
四人で入浴したら、本当に疲れる。
榎は深い溜め息を付いて、タオルで自分の頭を拭う。
嗄を済ませると、どうしても自分の事がおざなりになってしまう。
特に、四人で入った後は。
ゆっくり着替えたり、髪を乾かしたりしようと思っていると。
「――オツカレ、榎兄さん」
首にタオルを掛けた柊がドライヤーを片手にそう告げた。
こんな兄弟が居ると、自分がしっかりしなくてはと思ってしまう。
兄弟の中で一番の苦労者は、東夜榎だ。
そんな榎の苦労を知らない嗄は、先に脱衣所を出た椿の元へ行く。
椿はいつも浴室から出ると適当に身体をタオルで拭うとすぐに服を着て、脱衣所から出て行ってしまう。
椿は冷蔵庫の前でグラスを片手に、麦茶を注いでいた。
グラスに注いだ麦茶を一気に飲み干し、濡れた唇を腕で拭う。
Tシャツに半ズボン姿で、頭にはバスタオルを被って。
まだ髪からは雫が滴り落ちる状態だった。
飲み干したグラスを食卓テーブルに置くと、シャンプーの香りがする嗄の頭を撫でながら尋ねて来る。
「ちゃんと髪、乾かしてもらったか?」
「うん! つばきにぃのあたま、ぼくがふいてあげるよ!」
「おぅ、じゃあ頼んだ」
少し荒く嗄の頭を撫で回すと、椿は居間へと向かう。
居間ではテレビの前で框が新聞を目にしていた。
框が仕事から帰って来れば、テレビの前が彼の定位置だ。
椿がソファーの前に腰を下ろしたので、すかさず嗄はソファーに座って椿が頭に被っているバスタオルを使って雫を拭っていく。
脱衣所からドライヤーで髪を乾かし終えた柊が居間へやって来たが、嗄に髪を乾かしてもらっている椿を目にして羨ましげに睨め付けていた。
自分もそうしてもらえば良かったと、柊は酷く後悔する。
しばらくして、最後に榎が脱衣所から出て来た。
その頃には椿のタオルドライも済んでいた。
嗄に乾かしてもらった髪を自慢げに柊へと見せ付ける椿だが、柊から殴られたのは言うまでもない。
椿は殴られた頭を手で押さえ、再び嗄愛し隊の馬鹿二人の喧嘩が勃発しそうな雰囲気だ。
流石に榎は溜め息を零し、馬鹿二人は放って子供部屋へと向かう。
嗄は眼前の二人をどうしようかと、不安気に視線を巡らせていた時。
「ご飯の時間よー」
「「「「はーい!」」」」
椛の声が耳に届いた瞬間、喧嘩が勃発しそうだった空気が一瞬して断ち切られる。
榎は子供部屋に居たというのに、四人同時に声を合わせて返事をする辺りやはり兄弟だ。
椛が食卓テーブルへ夕飯を並べていく中、嗄達と框も食卓へ向かう。
優しい榎が嗄の椅子を引いてくれて、座るように促してくれる。
長方形の食卓テーブル。
台所側が左から椿、榎の席。
居間の方では左から柊、嗄の席。
そして、玄関側は椛の席で食器棚のある側は框の席だ。
それぞれが自分の定位置へ腰を下ろす。
そこに椛が全員分の夕食を並べていく。
いつもと何も変わらない光景。
嗄の分だけ、食事の配分が少ないのもいつもの事。
何も変わらない日常の中で。
――〝その時〟は唐突にやって来たんだ――
夕食を並び終えた椛が自分の席へ腰を下ろす。
「それじゃあ、いただきます!」
「「「「いただきます!」」」」
「いただきます」
元気な兄弟の声の後に框の声が耳に届く。
夕食が始まり、それぞれが眼前に置かれた料理へと手を伸ばす。
その時だった。
椛がにこやかな表情で〝それ〟を取り出したのは。
「ねぇ。椿、榎、柊。オーディション、受けてみない?」
「「「オーディション?」」」
兄三人は驚いた様子で椛を見つめる。
しかし、幼い嗄には何の話をしているのか全くもって理解出来ない。
兄達と椛の顔を交互に見つめる事しか出来なかった。
椛は嬉々とした様子で、オーディションの応募用紙を食卓テーブルへと置く。
嗄はその様子を夕飯を口へ運びながら見つめていた。
椛がオーディションの応募用紙を取り出すと、新聞を手にしていた框も応募用紙へと目を向ける。
オーディションの応募用紙を目にした兄達は、それぞれの応募用紙を手に取って見つめる。
「今日の舞台を見て確信したわ。あなた達は絶対に才能がある! だから、自分の力が何処まで行けるか試してみない?」
椛が、まるで子供のように瞳を輝かせて告げる。
椿は嬉しそうに、楽しそうに笑みを浮かべて応募用紙を見つめ。
榎は心なしか、嬉しそうな表情をして応募用紙を見つめ。
柊は不安気な表情をして応募用紙を見つめていた。
「自分の力を試す、か……。面白そうだな!」
「えー……。オーディションなんて無理だよぉ……」
「でも、このプロダクション凄いね。子役のオーディションと声優のオーディション、それに歌手のオーディションも同時期に行うなんて」
「そうなのよ! それなら、みんなで一緒にオーディションも受けられるしあなた達にぴったりじゃない?」
「僕達にぴったりって、母さん。それ、ちょっと日本語違うと思うよ?」
「――母さんの言う通り、俺の演技力がどこまでいけるのか知りてぇしな……。よし、俺は受けるぞ! このオーディション!」
「えぇっ⁉ 嘘でしょ、椿兄ちゃん!」
「嘘じゃねぇよ。それに、お前も自分の力を試してみろよ。俺も今日のお前を見て思った。お前は恥ずかしがってたけど、堂々と歌ってるお前は楽しそうだったし生き生きしてたからな。ステージの方が、柊は絶対に輝くぜ」
「でもぉ……」
柊が不安気に手にするオーディションの応募用紙を見つめる。
何を話しているのかは全部理解する事は出来なかったが。
椿の言う通り、今日ステージで歌を歌った柊は輝いて見えた。
衣装のせいではなく。
それは柊自身の能力で、眩いくらいに輝いて見えた。
もっと、今日みたいに柊が歌えば良いのにと幼心に思う。
すると框が静かに口を開く。
「そうだ、母さんの言う通りだぞ。受けてみたらどうだ、柊」
「う~……。わかったよ……。受けるだけ、受けてみる」
「よし、良く言った柊!」
嗄ただ一人だけ会話から取り残され、不安気な表情で兄達を見つめる。
いつもならば嗄の視線にすぐ兄達は気付いてくれるのに――
安心するようにと、微笑み掛けてくれると言うのに。
今日は、それがなかった。
兄達は三人とも、手にしたオーディションの応募用紙へ目を向けていたからだ。
誰も……。
誰一人として、嗄の事を見ようともしてくれない。
完全に一人だけ、取り残されてしまった。
寂しさを感じ、嗄は小さく俯く。
どうしてか、食事を摂る気分ではなくなってしまった。
けれど、席を立ってしまえば両親から怒られる。
それに今は兄達の事ばかりで、嗄が食事の手を止めても気付かれないだろう。
「じゃあ、応募用紙は自分で書くのよ?」
「「「はーい」」」
椛がボールペンを取りに席を立つ。
隣に居る柊へ視線を向けるが、まだ不安気な表情をしていた。
向かい側に居る椿へ視線を向けるが、嬉々とした様子で応募用紙を見つめている。
榎も同じように応募用紙を見つめていたが……。
ある項目へ目が留まったのか、少しだけ眉を吊り上げた。
三つボールペンを手にして戻って来た椛に、榎は静かに告げる。
「……母さん。僕、オーディションに応募出来ない」
「えっ? どうして?」
「だって声優のオーディション、〝12才以上の方から募集を受け付けています〟だって」
「えぇっ⁉」
静かにオーディションの応募用紙を榎が椛へ返す。
椛は驚いた様子で榎から応募用紙を受け取り、改めて目を通していく。
榎が告げた通りの文面を目にした椛は驚いた表情で口元を手で隠す。
そう、榎が受けたかった声優のオーディションは応募の対象年齢が十二才以上だったのだ。
まだ九才の榎ではオーディションに応募したくても応募出来ない年齢だ。
そんな事を、幼い嗄が聞いていて理解出来るわけがない。
ただただ、首を傾げてみせるだけだ。
「マジかよ……。三人でオーディション受けて、三人とも合格出来りゃ良かったのにな」
「っていうか、声優のオーディションって対象年齢あるんだ」
「……みたいだね。僕は応募出来ないから、嗄と一緒に応援側に回るよ。二人とも、頑張ってね」
榎は微笑んでそう告げるが。
何処となく、悲しそうに見えたのを覚えてる。
それから、榎は嗄の方へ顔を向けて優しく微笑んでくれた。
榎の笑みを見た瞬間、嗄はようやく安心する。
ようやく、自分の存在に気付いてもらえたと。
「おぅ! 本番は今日よりも本気でやるからな!」
「うわぁ、今からすっごい不安なんだけど……」
「そうと決まれば、書類審査の為にご飯を食べ終わったら写真を撮りに行きましょ! こういうのはちゃんとした照明写真の方が良いわ!」
「ああ!」
「……うん」
椿は本当に楽しみのようで。
柊は本当に不安そうで。
榎だけが、嗄の事に気に掛けてくれた。
夕食を終わった後、先程椛が言ったように照明写真を撮りに行く為に両親と兄二人は車で出掛けてしまった。
榎だけは、家に残ってくれた。
夕食を食べ終えると、嗄に歯磨きをするように促してくれて。
一緒に洗面所へ向かって、共に歯を磨く。
いつもと変わらない微笑みを浮かべてくれて。
幼い嗄に、これから何が起こるのかはかわからなかった。
ただただ、この幸せな日々が続いていくと思っていた。
兄弟で、楽しく笑って過ごして。
いつかは、両親も自分を兄と同じように接してくれると信じていた。
歯磨きを済ませると、榎は嗄をベットで寝かし付ける。
「『白雪姫や、この林檎をお食べ。このと~っても美味しい林檎を…』」
眠る前に絵本を榎は読み聞かせてくれる。
目を閉じて静かに聞いていたが。
何処となく、榎の声に悲しさが帯びているような気がした。
――どうしてえのきにぃもいっしょにいかなかったのかな――
聞こうと思うけれど、意識は深い眠りへと落ちていく。
榎が傍に居てくれる事は嬉しい。
けれど、幼心に思った。
――――〝きっとえのきにぃもつばきにぃたちといっしょがよかったんだ〟と――――
~To be continued~