青春スクエア ~東夜嗄の片思い~ 小学生編1
――――僕には自慢の兄が居る――――
とっても格好良くて。
大好きで。
とっても凄いお兄ちゃん達が。
『つばきにぃ!』
本当に良く、僕の面倒を見てくれて。
僕と良く遊んでくれていたお兄ちゃん。
僕の、大好きなお兄ちゃん。
『おぉ、嗄! どうしたんだ?』
力強い腕で僕を抱き上げてくれる。
抱き上げた僕と一緒に回ってみせて、笑うお兄ちゃん。
頼れて優しいお兄ちゃん。
僕とは六歳年の離れた、お兄ちゃん。
でも、僕のお兄ちゃんは他の人とは違っていた。
長男の椿兄ちゃんの大好きな所。
椿兄ちゃんは演技をするのが大好きだった。
一度役に入ってしまえば、そこに〝東夜椿〟は。
僕の知っているお兄ちゃんは瞬時に居なくなった。
誰かを演じている時の椿兄ちゃんが、僕は大好きだった。
凄く生き生きとしていて。
誰よりも輝いていた。
だから僕はいつも、椿兄ちゃんに演技をしてって強請っていたんだ。
キラキラと、輝いている椿兄ちゃんが大好きだったから。
『えのきにぃ!』
僕には、自慢の兄が居る。
とっても優しくて。
とっても凄いお兄ちゃんが。
いつだって、優しいお兄ちゃんが。
『どうしたの? 嗄』
ワンテンポ遅く喋るお兄ちゃん。
優しく僕の頭を撫でて尋ねて来る。
凄く、優しいお兄ちゃん。
僕とは四歳年の離れた、お兄ちゃん。
でも、僕のお兄ちゃんは他の人とは違っていた。
次男の榎兄ちゃんの大好きな所。
優しい所も大好きだけど。
榎兄ちゃんの好きな所は〝声〟だった。
僕が眠れなかった時に良く榎兄ちゃんは絵本を読んでくれた。
眠れない時に絵本を読んでって強請ると榎兄ちゃんは優しく微笑んで読み聞かせてくれた。
普段はワンテンポ遅れた口調で喋るのに、絵本を読み聞かせてくれる時は普通に喋るんだ。
それに絵本を読んでくれると――
お姫様の声、赤ずきんの声、おばあさんの声、狼の声。
おじいさんの声、小人の声、王子様の声。
本当に色んな声を出して読み聞かせてくれたんだ。
読む度に声を少しずつ変えていったりして。
どっちかっていうと僕は男の子向けの童話よりも、女の子向けの童話の方が好きだった。
女の子向けの方が、榎兄ちゃんの声が格好良く聞こえたから。
そんな榎兄ちゃんの声を聞きながら眠るのが大好きだった。
『ひいらぎにぃ!』
僕には、自慢の兄が居る。
とっても綺麗で、美しい声を持っていて。
凄いお兄ちゃんが。
『ほら、涙を拭いて。一緒に笑顔になれるおうた、歌おう』
ポケットからキャンディーを取り出して僕に渡し、手を繋いで歩く。
僕が泣いている時に良く歌ってくれる、えがおになれるおうたを口遊みながら。
いつもポケットには色んなお菓子が入っていて。
マシュマロや一口サイズのチョコレート。
キャンディーや、他にも色んなお菓子が入ってて。
幼心に、お兄ちゃんのポケットは魔法のポケットだと思ってた。
僕が欲しいと思ってたお菓子をいつもくれていたから。
それで、お兄ちゃんは良くおやつにメロンパンを食べてた。
良く僕にも半分千切って食べさせてくれたのを覚えてる。
凄く甘いものが大好きなお兄ちゃん。
僕とは二歳年の離れた、お兄ちゃん。
でも、僕のお兄ちゃんは他の人とは違っていた。
三男の柊兄ちゃんの大好きな所。
それは榎兄ちゃんと同じで声。
だけど、榎兄ちゃんとは少し違った。
柊兄ちゃんは歌う事が大好きだった。
いつだって柊兄ちゃんは歌を歌っていた。
僕が泣いていた時も、僕の手を引いて歌ってくれた。
僕が笑っていた時も、一緒に笑って歌ってくれた。
切ない時も、悲しい時も。
どんな時だって、柊兄ちゃんは歌ってた。
良く、柊兄ちゃんが作った歌をみんなで手を繋いで歌ったりもした。
眠れない時、榎兄ちゃんが先に寝ちゃった時は柊兄ちゃんが代わりに子守唄を歌ってくれた。
柊兄ちゃんの優しくて暖かい歌声を聴きながら眠るのも大好きだった。
そんな、僕のお兄ちゃん。
三人の大好きなお兄ちゃん達。
そして、僕が四男で末っ子の東夜嗄。
僕はそんなお兄ちゃん達とは違って、何の取り得もなかった。
特に足が速いわけでもなく。
誰よりも凄く頭が良いわけでもなく。
僕は至って平凡だった。
お兄ちゃん達が異常な程、桁外れに凄かったんだ。
――いや、あの時の僕は全ての事において人よりも劣っていたんだ。
それでも、僕は幸せだった。
――――〝あの日〟が来るまでは――――
幼い少年は目を覚ます。
目を覚ますと同時にベットから飛び起きた。
二段ベットの二段目。
少年の居る二段ベットの右側にも同じ二段ベットが置かれていた。
少年は隣の二段ベットへ視線を向けるが、そこには誰も居ない。
兄の姿を探して視線を彷徨わせるが、兄の姿を捉える事が出来ない。
二段ベットの柵に捕まり、身を乗り出し頭だけを下ろして二段ベットの一段目を覗いてみる。
そこにも兄の姿はなかった。
二段ベットの奥には勉強机が三つ並べられている。
右から順に、長男、次男、三男と並べられていた。
長男の勉強机には黒光りを放つランドセル。
次男の勉強机には紺色のランドセル。
三男の勉強机には水色のランドセル。
来年になれば少年も小学生になる。
しかし、何故か少年には兄達のように勉強机は与えられていなかった。
もちろん、ランドセルもだ。
幼い少年に何故なのか、わかるはずもない。
部屋に兄の姿がない事を知り、少年はすぐさまベットから降りて行って子供部屋を飛び出した。
部屋から出ると正面にはトイレの扉が見える。
左側にはキッチン。
右側には食卓テーブルの置かれたリビングに居間へと続き、居間の先には和室がある。
キッチンには母の東夜椛が立っていたが、少年が居間へ視線を向けるとようやく兄達の姿を捉える事が出来た。
父の東夜框と共に兄達はテレビを見ていた。
次男の榎だけは読書をしていたが。
少年は兄の姿を捉えた瞬間、長男である椿が少年の存在に気が付いた。
「おぉ、嗄。ようやく目ぇ覚ましたか」
幼い少年――
嗄は椿の元へと走って行き、勢い良く抱き付いた。
押し倒すような勢いで。
椿は少し驚きながらも嗄を抱き留めてくれた。
「おきたらみんないないからおいていっちゃったかとおもったぁ‼」
嗄はそう言いながら椿を殴る。
幼い嗄に殴られても力が弱い為、何ともないが。
椿は少し困ったように笑い、嗄の頭を優しく撫でながら告げる。
「んなわけねぇだろ? 家族で遊園地に行くんだ。嗄一人置いて行くわけねぇよ。〝今日は〟な」
嗄を宥めるようにして椿は言ってくれた。
そう、今日は家族六人で遊園地へ行く事になっていた。
その為、目覚めて部屋には誰も居なかったので不安になったのだ。
兄達が居てくれた事に安心して椿から少し離れる。
服の裾をぎゅ、と握ってはいたが。
すると次男の榎が二人の元へ来て、嗄の頭を優しく撫でて告げる。
「おはよう、嗄。顔洗って着替えようか」
眠そうに、ゆっくりとした口調。
別に眠いわけではなく、これがいつもの榎だ。
榎はいつも、このようにワンテンポ遅く喋る。
ふと、ソファーで三男の柊がメロンパンを口にしながらテレビを見ている事に気が付く。
羨ましげな瞳で柊を見つめていると、柊が嗄の視線に気付いてくれた。
優しく笑って、嗄に尋ねて来る。
「嗄もメロンパン、食べる?」
手にしているメロンパンを千切ろうとしながら柊は口にした。
もちろん、嗄は大きく頷いて答えた。
柊の居るソファーへと歩み寄り、半分に千切ってくれたメロンパンを受け取ろうとした時。
不意に、椛の声が掛かった。
「柊、駄目よ! もうすぐ朝食なんだから、そんなもの与えないで」
「えぇ~⁉ だってひいらぎにぃはたべてるのに?」
「柊は良いのよ。良い子だから」
それだけ告げると椛は止めていた手を再び動かし、朝食を作り始めた。
メロンパンを受け取ろうとした手を、諦めるようにして下ろす。
嗄が俯いていると、柊がほんの少しだけメロンパンを千切って渡してくれた。
右手の人差指を唇の前で立てて、右目を閉じてウィンクをしながら。
母に気付かれないように小さく千切られたメロンパンを受け取って、口へと放り込む。
嗄がメロンパンを口にすると、榎が嗄の背中を押して洗面所へと促す。
「ほら、顔洗いに行こう」
「うん」
この頃の、幼い嗄にはわからなかった。
どうして兄は良くて、自分は駄目なのか。
幼かった嗄には、理解出来なかった。
――あの頃、僕だけ除け者にされる事は多かった――
家族六人で楽しく笑っているはずなのに。
楽しく、食卓を囲んでいるはずなのに。
何故か、自分一人だけが取り残される。
椛が家族分の料理を取り分けてくれるのだが、いつも嗄の分だけ明らかに量が少ない。
食事の時、嗄だけが話をしてはいけないというルールがあった。
兄達の話に入る事も許されなかった。
両親は、異常な程に兄達ばかりを可愛がっていた。
嗄が身に纏っている洋服も全て、兄達のお下がり。
兄弟が居るのならば当然だが。
この家だけは、少し違っていた。
兄達には多くの洋服を毎回の如く、椛は与える。
だが、嗄には一着も与えないのだ。
一度も、嗄の為に洋服を買って来たと言った事はない。
嗄の服と言っても、誕生日に兄達からプレゼントとして貰ったものぐらいしかない。
その為、基本的に嗄はサイズの合っていない大きな洋服を着る事が多かった。
特に、三男の柊とは二歳しか変わらないわりには身体のサイズはかなり違っていた。
椛から与えられる量の食事を採っていると、どうしても兄達のようには成長しなかった。
兄達は何杯でもおかわりをしていると言うのに。
嗄だけはおかわりをする事が許されない。
兄達も、両親が嗄に対して態度が冷たい事には気付いていた。
だからだろう。
両親の見ていない所や、目の届かない所ではとても優しいのは。
両親の分まで、嗄に愛情を与えてくれていたのだろう。
幼心ではその事に気付く事は出来なかったが。
兄達の事は大好きだった。
両親が冷たかったからこそ。
兄達の優しさが、何よりも嬉しかった。
朝食を済ませ、遊園地への支度が整うと嗄達は車へと乗り込んだ。
東夜家には普通車が一台。
普通車には五人までしか乗る事が出来ない。
更にはチャイルドシートが義務付けられている為、本来ならば嗄は車に乗れない。
しかし、両親は嗄の分のチャイルドシートを買っていなかった。
兄達の使っていたチャイルドシートを使えば良い事なのだが……。
そうすれば兄達の中で誰かが家に残らなければいけない。
なので、家族全員で出掛ける時はこうするのだ。
運転席に框、助手席に椛。
後部座席に右から椿、榎、柊。
そして嗄は気分次第で兄達の膝の上に座るのだ。
ちなみに、本日は椿の膝の上。
パトカーが通った時、嗄は兄達の膝の上に横になって身を隠す。
それが東夜家のルールだった。
遊園地に着くまでは兄達とカードゲームをしていた。
時に柊からお菓子を貰ったりして。
二時間近く車に揺られ、ようやく着いた遊園地。
本来ならば喜ぶ所なのだろうが。
嗄は正直、喜べなかった。
「んじゃ、俺ジェットコースター!」
椿がジェットコースターを指差して駆け出す。
椿が並んでいるアトラクションの最後尾に並び、嗄達の順番が来るのを暫し待つ。
いざ、ジェットコースターへ乗ろうとした時だった。
「すみませんお客様……。大変申し訳ないのですが、このアトラクションは危険な為身長が120cm以上ある方でなければご利用出来ません」
ジェットコースターのアトラクションの門前で嗄を目にしたスタッフにそう告げられた。
アトラクションの門前には今スタッフが告げた言葉と同じ文章が書かれた看板と共に、身長が図れる身長計が設置されていた。
身長計で身長を測ってみると、嗄の場合は10cm以上も余ってしまった。
つまり、嗄の身長は110cm以下という事になる。
柊はギリギリ123cmだったのでなんとか入る事が出来たが。
嗄が悲しげに椿達を見つめていると、榎が優しく告げる。
「みんな、行って来て。僕は嗄の事を見てるから」
「悪いな、榎」
「ごめんね、嗄」
椿と柊はそう告げると両親と共にアトラクションへと行ってしまった。
残された嗄と榎は兄達の楽しむ姿を見ているしかない。
まさか、遊園地に来てまで取り残されるとは思いもしなかった。
けれど今は傍に榎が居てくれる。
優しく、嗄の手を握っていてくれる。
兄達と楽しめないのは寂しく思ったが、榎が傍に居てくれるから大丈夫。
――今の所は――
ジェットコースターが一周すると、兄達は戻って来た。
框は若干放心状態で。
椛は楽しげに笑顔を浮かべて。
兄二人は罪悪感が残っているような表情で。
次はどのアトラクションにしようかと、道なりに歩んで行きながらみんなで考える。
そこで椛があるものを見つけ、テンションを上げながら口を開いた。
「ねぇ、次はあれにしましょうよ!」
椛が指差す先にあったアトラクションを目にした框の顔が瞬時に蒼褪めていった。
框とは対照的に椿は目を輝かせてアトラクションへと駆けて行き、みんなに早くと催促する。
椛が指差したアトラクションとは、ウォータージェットコースターだった。
その名の通り水の上に船を浮かべて水力だけで推進し、ジェットコースターのように坂を上って行ったり勢い良く下って行くものだった。
椿に促されて框も渋々アトラクションの最後尾へと並ぶ。
嗄も今度こそはアトラクションに乗れる事を祈りながら列に並んだ。
数分待ち、あと数人でアトラクション内に入れるという所で。
「すみません、お客様。このアトラクションは120cm以上の方しか乗れませんので……」
またもや、門前のスタッフに声を掛けられた。
嗄もみんなと一緒にアトラクションを楽しみたいというだけなのに。
どうしてこうも身長に拘るのだろうか。
遊園地のマスコットキャラクターで出来た身長計を憎らしげに睨み付ける。
そんな嗄を宥めるようにして榎が頭を撫でてくれ、先程と同じように榎と嗄だけが残る事になった。
アトラクションの外から先程と同じように榎と残って、兄達が楽しんでいる姿を見ているしかない。
悲しげな視線で兄達を見つめていると、隣に居た榎が優しい手付きで頭を撫でてくれる。
「こういうアトラクションはまだ、嗄には危ないから入れないんだよ。もうちょっと嗄が大きくなった頃にまた来よう?」
「う~……」
優しく榎が言ってくれるが、嗄は納得出来ずに小さく唸った。
とても楽しそうな兄達の声が耳に届く。
約一名だけ、本物の悲鳴を上げていたが。
アトラクションが終わると記念写真を撮られていたようで、写真を手にした兄達が嗄の元へ戻って来た。
椛は嬉しそうに笑って。
框は蒼褪めた表情で。
兄二人はやはり、何処か楽しく無さそうに苦笑気味で戻って来た。
少し不貞腐れる嗄の元へ椿が歩み寄り、頭を撫でて謝って来る。
「ごめんな、嗄。俺達ばっかり楽しんで……」
本当に、つまらない。
自分一人だけが楽しめなくて、兄達だけが楽しめるなんて。
嗄が俯いていると、柊がポケットから一口サイズのチョコレートを取り出して告げる。
「本当にごめんね、嗄。ほら、キゲン直して?」
「……うん……」
まだ気分は晴れなかったが、柊の手からチョコ菓子を受け取る。
視界の端で框の気分が悪そうにしている姿が少しだけ見えた。
そんな框を完全に無視して次は何処へ行こうかと兄達だけで考え始めた。
嗄も楽しめるアトラクション。
身長計に引っ掛からないアトラクション――
そこで柊が思い付いたように手を叩く。
どうやら良い場所を思い付いたようだ。
柊が思い付いた場所へ行こうと告げようとした時。
「次はあれにしましょう!」
嬉しそうな、楽しそうな椛の声が耳に届いた。
椛の指差したアトラクションを目にして框だけではなく、兄達も嫌そうな顔をして見せた。
何故ならば椛が指差すアトラクションは高速で回転し、上下へ激しく動くようなハードなアトラクションだったからだ。
名前を見てみると〝タコさんのシャッフルシーザーウェーブ〟と書かれていた。
流石に来たばかりで激しいアトラクションの三連続は厳しい。
「……母さん、俺達は違うアトラクションに行くから」
「あらそう? じゃあ集合場所は後でメールで教えるわ」
「わかった」
椿がそう答えると椛は早々に嫌がる框をアトラクションへと無理矢理に連れて行ってしまった。
全力で嫌がる框の姿を見つめ、兄三人が呆れたように溜め息を零す。
どうしてあの人は、相手が嫌がっていると言う事に気付けないのだろうか。
「――母さん、ホントにああいうアトラクション好きだね」
「あれ、俺達よりも楽しんでねぇか?」
「……絶対楽しんでるね、あれは」
「うん……」
兄弟だけとなり、さっそく柊の思い付いたアトラクションへと向かう事にした。
やけに柊が楽しそうに笑っていたのが気になったが。
何か、嫌な予感しかしない。
一体何を企んでいるのかと尋ねようとした頃。
柊が思い付いたアトラクションへと着いた。
そして、嫌な予感は見事に的中していた。
柊に連れて来られた場所とは。
ホラーハウスだった。
それも迷路とお化け屋敷が合わさったものだ。
ホラーハウスの前に連れて来られた椿が静かに告げた。
「……柊よ。ここは身長じゃなくて年が引っ掛かるんじゃね?」
若干表情を引き攣らせながら椿はホラーハウスの看板を見つめていた。
兄の椿とは対照的にニコニコと満面の笑みで笑って見せる柊。
確かにホラーハウスならば身長は関係ないかもしれない。
だが、一つだけ問題がある。
「こわいのやぁ!」
怯えるようにして嗄は榎へと抱き付いた。
榎の服をぎゅっ、と強く握って。
そう、嗄は怖いものが大の苦手だ。
真夜中に怖い夢を見た時は泣きじゃくり、兄達に宥めてもらう程だ。
思った通り、嗄はホラーハウスへ入ろうとはしなかった。
更にはわざわざホラーハウスへと足を運ぶ人も居ない為、完全に閑古鳥が鳴いていた。
榎は少し困ったように溜め息を零し、ある事に気が付いた。
「柊。例え嗄が怖がりじゃなくても入るのは無理みたいだよ」
「え?」
「だって、ここにも身長計がある」
榎に指摘され、そこで初めて気が付いた。
確かにホラーハウスの門前にもマスコットキャラクターの身長計が設置されていた。
身長計を目にした嗄が胸を撫で下ろす。
この時ばかりは身長計に感謝だ。
「つまり、どっちみち嗄には入れないって事だね」
「えぇ~。せっかく来たんだからさぁ、榎兄さん一緒に入ろうよ~」
「僕はやめとく。嗄の傍に居るから。それに、嗄が放してくれないから」
「じゃあ椿兄ちゃん――」
「俺はアレだな。パス」
「椿兄ちゃんは強制参加」
「えぇっ⁉ ちょっ、おまっ、うそっ……なんでだよ⁉」
「じゃ、行って来るね」
「行ってらっしゃい」
「ちょ、止めろよ榎ぃぃぃぃぃぃぃ‼」
がっしりと椿の腕をホールドして、無理矢理ホラーハウスへと入って行く柊。
椿の顔は完全に蒼褪めており。
対する柊は満面の笑み。
つい先程もこのような光景を目にしたなと榎は思った。
血は争えないものだと榎が思ったのは言うまでもない。
椿と柊が分厚いホラーハウス、〝呪いの館〟の扉の奥へと入って行った瞬間。
「ぎぃやぁああああああああああああああああっ‼」
椿の叫び声が。
それも途切れる事無くずっと。
時折、柊の不気味にも聞こえる笑い声が聞こえる気がした。
絶え間なく聞こえて来るけたたましい程の椿の叫び声に嗄は不安になり、心配そうな視線で呪いの館の方を。
榎の方へと交互に視線を向ける。
榎は苦笑いして小さく呟く。
「あんな笑顔で連れて行くなんて……悪魔だよ、柊……」
そして数分後。
榎と嗄の元に二人が戻って来た。
椿は顔面蒼白な上に放心状態で。
柊は嬉しそうに、楽しそうに笑顔を絶やさずに。
顔色の悪い椿を目にして榎が少し呆れたように告げた。
「そんなに怖いのなら全く動じない役に成り切って入れば良かったのに」
「ハッ‼ その手があったか!」
「気付くの遅いよ兄さん」
みんなで少し笑い合い、呪いの館を後にした。
嗄達が呪いの館を去った後、椿の叫び声を耳にした人々がどれ程怖いのだろうかと呪いの館へと入って行ったとか。
いつの間にか呪いの館に行列が出来るようになったとか、なんとか。
そんな事は知らない当人達は休憩の為に飲み物を買って休憩をしていた。
休憩を挟んだ後、再び嗄の楽しめるアトラクションを選び始めたのだが……。
榎と手を繋いで歩いていた嗄が突然、繋いでいた手を放して駆け出した。
椿達は一瞬焦ったが、嗄が駆け出した理由がすぐにわかった。
嗄が駆けて行ったのは、飛行機型のアトラクションだったからだ。
空中をゆっくりと回転するアトラクションの前で嗄は瞳を輝かせていた。
このアトラクションならば嗄でも乗れるだろう。
誰もがそう思っていた時。
一人の女性スタッフが嗄の元へ歩み寄って告げた。
「ごめんね。坊やの身長じゃこのアトラクションに乗れないんだ」
スタッフにやんわりと拒否されてしまった。
どうしても乗りたいと思ったアトラクションで遊べない。
それも、自分だけが。
悔しくて思わず涙が目尻から零れ落ちる。
重い足取りで兄達の元へ戻ると、嗄は榎に抱き付いて泣き出してしまった。
何故、自分だけは駄目なのだろうか。
兄達と一緒に楽しんでは、いけないのだろうか。
遊園地でも一人だけ除け者にされて涙が頬を伝う。
そんな嗄の頭を榎が優しく撫でてくれる。
柊もポケットからお菓子を取り出して宥めてくれる。
椿は困ったように頭を荒く掻きながらパンフレットを睨み付ける。
柊からお菓子を受け取って、泣きながらも貰ったキャンディーを口へと含む。
柊も椿と一緒に嗄も遊べるアトラクションを探してくれた。
――どうして、自分だけなのだろうか――
仲間外れなのも。
兄達よりも身長が低いのも。
どうして、嗄だけ楽しめないのだろうか。
涙を服の袖で拭って幼いながらも考えていると。
不意に椿が言い出した。
「身長計のないアトラクション、この近くにあるぞ! 童話シアターって何処だ?」
「……どうわしあたぁ……?」
「あ、もしかしてあそこじゃないかな?」
榎が指差す先へ視線を向けると確かに〝童話シアター〟と書かれた看板が見えた。
童話シアターの看板を目にした椿が足早に駆け寄って行き、シアターの上映時間を確認する。
柊も椿の後を追い、榎が優しく嗄の背中を押して童話シアターへと促してくれる。
見た所、童話シアターの付近にはあの忌々しいマスコットキャラクターの姿はなかった。
また入れないとスタッフに言われるのではないかと、警戒しつつ榎にしがみ付いたまま椿の方を見てみる。
すると椿が満面の笑みを浮かべて告げた。
「良かったな、嗄! 上映時間、もうすぐだぞ!」
椿はそう言ってくれるのだが、やはり嗄はまだ信用出来なかった。
榎の傍から片時も離れず、ずっとくっ付いたまま童話シアターへと足を踏み入れた。
誰にも引き留められる事もなく。
周りには嗄と年の近い子供達が居たと言う事もあって、中に入った瞬間に嗄の機嫌が直った。
シアターというだけあって、席はまるで映画館のようになっていた。
映画館のようだと言っても五十席程しかないのだが。
空いている四席を見つけて右から椿、榎、嗄、柊と順に腰掛ける。
席に座って嗄は一体何が上映されるのかと期待に胸を膨らませて待っていると。
間もなく上映開始の合図であるブザーが鳴り響き、照明が落とされる。
客席から向かって正面に舞台があり、それが――
いや、客席側のステージだけが回り始めた。
嗄や他の子供達も驚きの声を上げていると、回っていた客席が止まる。
止まった正面の舞台には醜いアヒルの子の風景があった。
それぞれに四面の舞台があり、順番では醜いアヒルの子。
裸の王様、マッチ売りの少女、人魚姫と童話が上映された。
正確には一番最初に待たされた何もないただの壁の面も入れると五面ある事になるが。
童話が終わり次の童話へ移動する際に客席側が動く度、子供達は楽しげな声を上げた。
もちろん嗄もその一人だった。
童話シアターでは、まるで自分自身が物語の中に入ってしまったような感覚に捕らわれた。
時折、客席の子供達へ言葉を投げ掛けて来たり。
絵本から飛び出して来たかのように、舞台上のブリキで出来た人形達は動いていた。
スピーカーから台詞が流れて来て、とても楽しかった。
楽しかったのだが。
上映が終わった後、童話シアターから出た嗄の表情は嬉しそうではなかった。
その事に気付いた兄達は少し戸惑う。
嗄の傍にずっと居た榎が優しく嗄に尋ねる。
「……嗄、楽しくなかった?」
「ううん、そうじゃなくてね。えのきにぃのほうがじょーずだった」
「え……?」
嗄の返事を聞いた榎が目を丸くして驚く。
童話シアターは、楽しかった。
いつも聞いていた絵本の中に入れたみたいで、凄く楽しかった。
けれど、嗄は何処か物足りなさを感じていた。
眠る前にいつも、榎は絵本を読んでくれる。
読んでくれる絵本の中には今日上映された童話も含まれる。
正直な所、絵本を読んでくれるのは榎だけだった。
椿も柊も読んでくれる事はあるのだが、嗄がそれを拒んでいた。
榎が一番、聞き易かったからだ。
絵本の雰囲気をそのままにして、読み上げてくれる榎。
時には優しくて。
時には怖くて。
時には、切なくて。
時には格好良くて。
時には可愛くて。
目を閉じれば、榎の声だけでその場面が浮かび上がる。
それが楽しくて、楽しくて。
だからだろうか。
スピーカーから流れる台詞達が。
流れる声達が不快で堪らなかったのは。
榎の声で聞き慣れたせいか、嗄の中にあるイメージとは違う声だったので何処か楽しめなかった。
「えのきにぃがしゃべったほうがぜったいにいいよ!」
本当に幼心からそう思った。
嗄がそう言うと、榎は優しく微笑む。
嗄が告げると、椿と柊も確かにそうだったと口にし始めた。
プロの声優なんかよりも榎の方が上手いんじゃないかと。
今すぐにプロデビュー出来るんじゃないかと。
これでもかと言う程に褒められた榎は嬉しそうに表情を綻ばせていた。
その後、椿達は嗄の為に嗄が乗れるアトラクションを必死に選んでくれた。
コーヒーカップにメリーゴーランド。
そして世界一遅い事で有名なジェットコースター。
世界一遅いという事もあって、完全に子供向けになっていた為嗄でも乗る事が出来た。
一応ジェットコースターと付いているだけあって、途中で少しだけ速度が上がったりして十分に嗄も楽しめた。
嗄も楽しめるアトラクションはこの世界一遅いジェットコースターという事になり、何十回も繰り返し乗る事になった。
最初は椿と柊も乗ってくれたが、三回目になるとベンチで嗄が満足するまで待っていた。
こういう時、誰よりも優しい榎は損をする。
嗄が満足するまでずっと、榎だけは嗄に付き合っていた。
結局、四十三回連続で乗る事になったが。
夜になるとパレードが始まり、兄弟だけで楽しむ。
両親と合流しても良かったのだが、椿がそれを拒否したのだ。
本当は兄達の携帯にパレードの時間には待ち合わせ場所で落ち合うようにとメールが来ていた。
しかし、両親と逢ってしまえば再び嗄が束縛されてしまう。
せっかく楽しんでいるというのに、またつまらない思いをさせてしまう。
閉園時間まで遊ぶ事になっていたので、まだ遊び足りないと椿は両親に返信してくれた。
そんな兄達の優しさ、想い等知る由もなく嗄は楽しんでいた。
パレードが終わると閉園時間が近付き、最後に兄弟だけで観覧車へと乗り込んだ。
――周りからは至って普通に見える兄弟――
仲睦まじい兄弟。
だが、この兄弟は普通ではない。
それを知るのはもう少し後の話。
この時は誰一人として知らない。
いや、本人達は気付いていた。
自分が普通ではないと。
ただ一人、嗄だけを除いて。
嗄はただただ、楽しんでいた。
何も知らず、無邪気に笑って。
「ねぇ、みてみて! ゆうえんちがぜんぶみえるよ! おうちもみえるかなぁ?」
「ここから家は――見えないだろうね。残念だけど。でも、本当に綺麗だね」
「あれぇ~? 椿兄ちゃん、俯いてどうしたの?」
「べっ、別になんでもねぇよっ‼」
観覧車に乗ったばかりの頃は嗄の方を見て話してくれたのに、今では全くこちらを見ようとしない椿。
先程からずっと、床ばかりを見つめている。
右側に嗄と榎。
左側に椿と柊と乗っているのだが。
柊が意地悪な笑みを浮かべて観覧車を揺らす。
刹那、嗄のはしゃぐ声。
そして、椿の表情は蒼褪める。
「や、やめろよ! もし落ちたらどうすんだよ⁉」
「えぇ~、そんな事あるわけないじゃん。何? もしかして怖いの?」
意地悪な笑みを浮かべて柊が椿に尋ねる。
椿は下を俯いたまま、目を閉じて深く深呼吸をする。
すると椿は顔を上げた。
顔を上げた椿の瞳は、先程とは違っていた。
いつもとは違う色を宿しており、嗄は椿の目を見た瞬間に気が付いた。
椿は先程まで決して見なかった窓の外を目にして告げる。
「怖くねぇし。つか、怖いわけがねぇだろうが。寧ろ、怖いとこ好きだし。おー、ホントに夜景が綺麗だな」
普通の人ならば気付かないだろう。
ずっと椿の傍に居た兄弟はわかる。
椿の目付きが変わった事に。
目付きが、瞳の宿す色が変わったという事は椿は完全に〝役に成り切っている〟という証拠だ。
一度役に成り切ると椿は苦手なものまで克服してしまう。
役に成り切るあまり、思考や行動までが完全に成り切った役のようになってしまう。
もちろん、癖もだ。
一瞬にして、目の前から〝東夜椿〟は消えてしまう。
嗄はこの瞬間が寂しくも、大好きだった。
恐らく、昼に榎から忠告された通り役に成り切ったのだろう。
「あ、役に成り切るなんてずるい」
「ずるくない」
「ちぇっ……」
少し不貞腐れたように呟いた柊はポケットから三人分のお菓子を取り出す。
一口サイズのカステラ、チョコレート、グミ。
それを嗄、榎、椿に渡すと――
柊は立ち上がって観覧車の真ん中に立つ。
目を閉じて大きく息を吸い込む。
柊が息を吸う姿を目にして嗄は瞳を輝かせる。
息を吸い込む時の柊が嗄は大好きだ。
大きく息を吸い込む時、声を発せられる直前。
一体何が飛び出すのかわからない、この瞬間が好きだ。
息を吸い込んだ柊が口を開いた瞬間、美しい歌声が発せられた。
柊の歌声は嗄達の乗っている観覧車だけではなく、風に乗って他の人の乗っている観覧車や地上に居た人の耳にも届いていた。
聴く者全てを魅了させる歌声。
柊の美しい歌声に嗄は目を閉じて聴き入る。
それは椿も榎も同じだった。
観覧車が一周するまで柊はずっと歌ってくれた。
最後のアトラクションである観覧車を乗り終え、両親との落ち合い場所であるパーキングエリアへと歩き出す。
遊園地の出入り口近くで売っていたペロペロキャンディを兄達に買ってもらい、右手にキャンディを手にして左手は榎と繋いで歩く。
所謂、食べ歩きをしながら歩くのだが……。
不意に睡魔が襲って来て、勝手に目が閉まっていく。
眠そうに、というよりも眠りながらも歩いている嗄の姿を目にした榎はすぐに嗄を背負う。
嗄が手にしていたペロペロキャンディの争奪戦が椿と柊で行われるのを目にしながら榎は嗄を背負ってパーキングエリアへと向かう。
結局ペロペロキャンディは椿が最初に齧って食べ、次に榎が少しだけ舐めさせてもらい最終的に柊が舐めて食べ尽すという形になった。
結構大きめなペロペロキャンディだった為、嗄が食べ切れないだろうと思って食べたのとは別にもう一つ買っていた。
椿の手の平くらいの大きさはあるペロペロキャンディ。
まぁ、帰る途中に買った為嗄が眠る事は想定内だったので二個買ったのもあるが。
パーキングエリアに着いた頃には完全に嗄は眠っていた。
車に乗る時、嗄を寝かせる為に膝枕役をするのは自分だと椿と柊が言い争っていたが。
じゃんけんの結果、柊が膝枕役になった。
来た時と同じように後部座席に並んで座り、柊が膝枕役になるように嗄を横に寝かせる。
風邪を引かないようにと榎がカーディガンを嗄の肩に掛けると、車は走り出した。
車が走り出すと椿は終始柊に羨ましげな視線を向けていた。
そんな椿に見せ付けるかの如く、柊は嗄の頭を撫でる。
一時間程して母がトイレに寄りたいと言い出したので帰り道の途中、コンビニへと寄った。
その時に待っていたとばかりに椿が柊に膝枕役を交代するように交渉し、なんとか膝枕役を交代する事となった。
膝枕役を交代して三十分くらいは椿も嗄の頭を優しく撫でたりしていたのだが。
いつの間にやら三人も嗄と同じように眠ってしまっていた。
椿は窓の方へ頭を凭せ掛け、榎は座席に頭を預けて、柊は榎の肩に頭を乗せて。
バックミラー越しに兄弟の姿を目にして両親は微笑む。
そこに嗄の姿は映っていないが。
四人、仲良く眠っていた。
兄弟で仲良く。
幸せそうな表情をして。
遊園地へ行ってから数日後の事。
幼稚園から帰った嗄は一度家に帰り、私服に着替えてから通学路の途中にある公園へと向かった。
通学路の途中にある公園で友達と遊ぶのはいつもの事だ。
遊ぶ、というよりも本来の目的は学校帰りの兄達を待つ事なのだが。
嗄は基本的に家に一人で居る時は家で遊ぶ事はない。
何故ならば〝嗄にだけ〟遊ぶ為のおもちゃがないからだ。
自分のおもちゃがないので、兄達のおもちゃで遊んでいると何故か椛に怒られてしまう。
なのでいつも外へ出て遊んでいた。
身体を動かして遊ぶのは好きなのだが――
鬼ごっこをすればいつも嗄が鬼。
かけっこをすればいつも嗄が最下位。
ヒーローごっこが唯一悪役になったりしないので大好きなのだが。
ヒーローをやれば躓いて転んでしまい、常に傷だらけ。
服も汚してしまうので結局は椛に怒られてしまう。
それでも友達と遊ぶ事は楽しかった。
遊ぶ物がなくて困った時は幼稚園が公園から近かったのでおもちゃを貸してもらったりしていた。
竹馬や縄跳びを。
けれど、竹馬も縄跳びも嗄がすると転んでしまうだけだったが。
ベーゴマで遊んだり、普通に砂場で遊んだり等。
兄達の学校が終わるまで友達と遊んでいた。
やがて、通学路でもある公園前を三人の兄が通る。
「嗄」
椿に名前を呼ばれ、嗄は笑顔で振り返る。
公園の出入り口には学生服姿にランドセルを背負った兄達の姿。
椿は学ランのボタンを全て外し、カッターをズボンから出しており肩ベルトを束ねてランドセルを右肩に掛けていた。
榎は学ランの詰襟のホックを外しており、椿とは違ってちゃんとランドセルを背負っていた。
柊は学ランのボタンを第三ボタンまで外し、下に少し大きいサイズの灰色のセーターを着てランドセルは左肩だけ腕を通していた。
兄達の姿を目にした瞬間、嗄は兄達の元へと駆け出した。
あと少しで兄の元へ行けるという所で。
まさかの小石に躓いて転んでしまった。
目の前で転んでしまった嗄の元へ兄達が駆け寄って行く。
起き上がった嗄の右膝には掠り傷が出来ていた。
「嗄、大丈夫か⁉」
「いたいよぉ……」
「ほら、泣かない泣かない。お菓子をあげるから」
「ていうか柊、学校にお菓子持って来ちゃダメだよ」
「だって、口寂しいんだもん」
「けど、また母さんに怒られるな……」
柊がポケットから小さなドーナツを取り出して差し出してくれる。
榎が手を差し伸べてくれて、手を取って立ち上がると服に付いた砂を払ってくれた。
微かに涙を浮かべた顔を覗き込み、優しい手付きで榎が頭を撫でてくれる。
ぐしゃぐしゃに頭を撫で回して帰るように促す椿。
そんな兄達に宥めてもらい、四人で夕日の中帰路に着く。
いつものように柊は鼻歌を口遊みながら。
右手は椿と繋いで。
左手は榎と繋いで。
綺麗な夕焼けに照らされながら。
「俺、テストの点めっちゃ悪いんだけどさ。やっぱ怒られるかな、コレ」
「大丈夫だと思うよ、多分。父さんも母さんも僕達が人から褒められるから許してくれるよ」
「悪いって、椿兄ちゃんのテストの点ってどれくらい?」
「………………八点」
「え」
「やった! ボクの勝ちだね! だってボク三点だもん」
「いや……えっ?」
椿と柊の言葉に歩みを止める榎。
嗄には全くもって兄達が何を話しているのかわからなかった。
兄達を少し不安気に見上げる。
「なんで二人とも、そんな点しか取れないの?」
「だって、ベンキョーなんて全然面白くないじゃん。何? コクゴって。サンスウ? 何それ、おいしいの?」
「でも柊、前に音楽のテスト百点取ったって……」
「音楽は別だよ、榎兄さん」
「だよなー。理科とか社会とか覚えられるかっての。俺が得意なのは体育だけだよ」
「柊はともかく、椿兄さんは役に成り切ればすぐに暗記出来るからテストだって大丈夫じゃないの?」
「あー、ダメダメ。それとこれは別だから。いや、出来るっちゃ出来るけどな? 終始ずっと誰かを演じてるのって疲れるし、やりすぎれば〝俺〟ってのがわからなくなるからあんまやりたくねぇの」
「そう……なんだ……」
「ねぇ、なんのはなしー?」
嗄は兄達に小首を傾げながら尋ねる。
無邪気な嗄の姿を目にした兄達は小さく笑い、再び歩き出す。
夕日の中。
兄弟で仲良く手を繋いで。
「小学生になったら、テストっていうのがあるんだよ。来年は嗄も小学生だからすぐにわかるよ」
「嗄のランドセル姿か~……。早くみてぇな~」
「あ、じゃあボクのランドセル嗄に背負わせてみる?」
「お、それ良いな!」
「多分大きいと思うよ、柊」
「デカ過ぎる制服も良いよな~。よし嗄。帰ったら俺の制服着てみろ。めっちゃ似合うと思うから」
「似合う以前に大き過ぎて着れないと思うよ、椿兄さん」
「わかってないなー、榎。そ、こ、が! 良いんだろうがよ」
「あ、彼シャツ的な感じ? じゃあ嗄、ボクのセーターも貸してあげるから着てみてね」
「そこの二人。嗄にヘンな事しないで」
「「全然変じゃない!!」」
兄達の会話に付いていけず、嗄は首を傾げる。
兄弟にとって、至って平凡な日常。
幸せな日々。
兄弟四人で笑い合って過ごす日々。
柊が自分自身で作詞作曲した歌を口遊み。
嗄達も歌いながら帰る夕焼けの中。
この時はまだ、知る由もなかった。
――全ての始まりが訪れるなんて事は――
~To be continued~