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勝利を確信したとき、それは起こった。閉め切った公民館の鉄扉が、耳障りな音を立てながらゆっくりと開いていく。入り口側に向かってこうべを垂れていた俺は、位置関係から、闖入者の姿をすぐに確認できた。くたびれた背広姿の男だった。まだ三十代の半ば程度に見受けられるが、頭には白いものが盛大に混じり、病的なまでの痩身が、どうにも実年齢より年老いて見せた。目には生気がなく、ややもすると俺のモンタージュの方こそ間違っていて、実際はもっと年かさなのかと思わせるほどだった。
男はゆらゆらと幽鬼のような足取りで、こちらに向かってきた。もちろん関係者ではない。土下座試技の合間に乱入とは穏やかではない。さっそく横川女史が注意に走る。
「ただいま、厳正な試技の途中です。申し訳ありませんが、部外者の立ち入りはご遠慮願っています」
「……」
男がうつろな瞳を女史に向けた。
「こちらでなら、いくらでも謝っていいと聞いたんですが」
「え、ええ。ですがそれは、キチンと参加申請をして受理されてのことであって……」
「僕は、どうしようもない、最低のクズ野郎なんです! お願いします! 謝らせて下さい!」
男はまるっきり、女史の言葉が耳に届いていない様子で、いきなり喚き散らした。
おいおい、と俺は思う。冗談じゃない。今まさに秋吉を打ち倒せると思った矢先に、謎の闖入者に邪魔をされてたまるものか。向かいの秋吉を見やるが、彼もまた呆然とした様子で、何がどうなっているんだという目をしていた。
「僕は…… 僕は息子を死なせてしまった。少し目を離したのがいけなかった。何と謝っていいのか、誰に謝っていいのかもわかりません。僕が死ねば! 僕が死ねばよかったんです!」
男はいきなり土下座を始めた。一体だれに向かってしているのか、それすらも定かではなかったが、俺も秋吉も思わず息を飲んだ。技巧的にはたいしたものではない。足も投げ出すようにして、不均等だし、地に着いた両手もてんでバラバラで不必要なまでに力が入っていて、甲が白んでいた。だのに、
「大貴、大貴、だいき…… ごめんな、本当にごめんな。だい……き」
愛息なのだろう、憑かれたようにその名だけを繰り返して謝罪する姿には、理屈や形など抜きにして、胸につまされるものがあった。
次元が違うのだ。なんだかんだと言いながらも、土下座を保身の手管として利用しようと浅ましい猿知恵のもと行う俺たちとは向いているベクトルが全く違う。彼は許されることを望んではいない。罰されることを望んでいる。もちろん、深層的には、罰を受けることによって、許しを得たいという心的プロセスを描いているはずだが、今の彼にはそこまでを意識的に行っている節は全く見られなかった。ただただ、いかな経緯かは知る由もないが、彼の息子が受けた辛苦が、自身の体にも降り注げ、ということしか考えていない。そう、祈っている。謝っているに非ず。心胆が、氷嚢にでも漬かったように底冷えた。自身の腕が粟立ち、それが体を起こすために、力を込めているのを第三者の腕のようにぼんやりと見た。弾かれたように立ち上がっていた。
「やめてくれ! 本当にやめてください!」
「貴方が誤ることじゃない! やめてください!」
いつの間にか俺と同じように、意識的とも無意識的ともつかぬまま立ち上がっていた秋吉も、重なるように哀願していた。たまったものではなかった。真っ当に生きている人間に起きた不幸。そのやりきれなさ、自分への不甲斐なさ、それらは当然あるだろう。だが、それを俺たちのようなふざけた生き方をしている人間にこうべを垂れるのは根本から間違っている。彼は自分を最低のクズ野郎と卑下したが、その称号は真には俺たちにこそ贈られるべきものであることくらい、当の昔に、三葉虫が居た時代から十全に熟知している。そんなクソどもに、謝る筋は一片もないし、ある種、未来への無限の道を幼くして閉ざされた彼の息子さんに対しての冒涜行為以外の何物でもなかった。俺たちが今、息をして、この場に存在し、あまつさえこれほどまでに息子さんを愛していた父君に膝をつかせているという事態が、冒涜なのである。時の将軍が、水呑み百姓に謝ることくらい、あってはならないことである。
「やめてください、お願いします」
「やめてください、本当に。教会に行ってください」
俺も秋吉も左右から両腕を掴んで、何とかして立ってもらおうとしたが、手の平が吸盤になってでもいるように、男性は地面に張り付いていた。大の男二人がかりでも動かすことがついに出来なかった。物理法則も何も、彼の自罰の魂には、何らの影響も及ぼさないらしかった。
「大貴、大貴、ごめんなさい。父さんが、父さんが…… お前を殺したんだ!」
うわごとのように繰り返す最後は、涙声になって、しゃがれた。その声も鬼気迫るものだった。既に喉を枯らして声の限り泣いた後だろうに、それでも後から後から涙が頬を伝い、声にならない声で、自身へ呪いの言葉を雨あられと降らせる姿に、俺も秋吉も言葉もなくただ立ち尽くす以外に術はなかった。
「ライク・ア・プレイヤー」
声を振り絞ったのは、横…… えっと、横なんとかさんだった。
ライク・ア・プレイヤー<真なる内罰の祈り>と称される業であるが、誰もそれを判定されたことのないものだった。幻の絶技。それもそのはず、俺たちのような馬鹿げた生き方をしている人間が、心の底からその性根を懲りて、自身を罰せよと、思えるはずがないのだ。繰り返すが、我々は保身のための土下座しかしない。甘えて生きていくための、人として下の下、そんな目的を遂行するための手段に過ぎないのだ。そんな醜悪な人間が、どうして自分の身を罰せよと祈念できるというのか。
「ライク・ア・プレイヤー、謎のおっさん。勝者、謎のおっさん!」
この不測の事態に、キチンと自分の役割をこなせる女史に感嘆するのも忘れ、俺も秋吉もカミナリに打たれたように、その場から一歩も動けず、自身の土下座観が根底から突き崩されていくのを呆然と受け容れた。
帰りの電車、秋吉は言った。
「シューティングスターとか言ってて恥ずかしい」
「よせ」
俺たちはいよいよ立つ瀬がない、みじめな思いを抱えていた。よもや一般人が紛れ込み、あまつさえ、我々では到底成しえない土下座を放ち、その場に居た全員を氷漬けにしてしまったのだ。
俺たちのする土下座と彼がやった土下座とは根底から、その精神性が違う。いわば全くの別物。さりとて、別物と割り切って、今までのように児戯のような土下座を繰り返すのか。あの真に胸に迫る土下座を目の当たりにして、ああいうのは俺たちには出来ないから、今までどおりやりましょうね、とできるのか。
男性は、新聞記事にも載っていた。彼の言ったとおり、息子を風呂場で溺死させてしまった父親のようだ。大切な命、掌中の珠を失った激情に駆られたあの土下座は金輪際なしえないものなのだろう。だが、仮にもドゲザーなどと名乗っている人間が、アレを一時的なもの、限定的なものとして、なかったことにするには、あまりにも鮮烈で、ショッキングなものだった。
「これからどうするんだ?」
奇しくも秋吉も俺と同じように、自身の方向性を見失っていたらしい。
「わからない。アレがいかに限定的なものだったとして、彼独自のものだったとして、あんな恐ろしいものを見せつけられたんだ。変わってしまうかもしれない」
ゆっくり自分の考えを反芻するように言葉にしてみたが、上滑りしているのが自分でもわかった。あの土下座が網膜に焼き付いていて、いまだその残像を振り払えていなかった。自分の身の振り方となると、何も思いつかなかった。
「俺は…… 俺はやめるよ」
「そうか」
平素なら、殴ってでも止めるような秋吉の考えにも、二の句を継げなかった。
「真面目に働いてみようかと思う」
「そうか。お前がそう思うなら、それで良いのかもしれないな。俺も…… いや、まだどうするかわからん」
「そうだろうな。正直、あんなの反則だろう。ドゲコンチャンピオンは俺が防衛するか、お前が奪うか、それ以外まったく念頭になかった。まさか」
そこで言葉を切った秋吉は、諦念の浮かんだ顔で、ゆっくりとかぶりを振った。
名古屋で降りていく彼の後姿を、ぼんやりと見送っていると、不意に寂寥を感じた。ヤツとはもうまみえることは無いのだろうか。そう思うと、終生のライバルたる彼のモラトリアムの終わりを、自分ごとのように寂しく思った。
半年後、地方のドゲザーイベントで彼のチン毛頭を見たときには、思わず抱きついて再会を喜び合った。
<了>
書いた方としては結構満足です。