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 来たか、と秋吉が呟いた。首肯してやると、彼も満足そうに笑んだ。

「我々は道を外れているのかもしれない。人には理解されないことをしているのかもしれない。それでも、それだからこそ、己の土下座道を捨ててはならない。それを捨てては本当に空っぽになってしまう。捨てるのは他のものだ。羞恥を。常識を。捨て去るんだ。常人には決して捨てられないものを、一瞥もくれず、捨て去るんだ……」

「秋吉さん、うるさいですよ。早く位置について下さい」

 横倉さんが注意する。

「黙っていろ。この、マンカスが」

 前口上を邪魔された秋吉は不機嫌もあらわに鼻を鳴らした。

「ま、何という暴言を」

「まあまあ、横倉さん、落ち着いてください。秋吉のは今に始まったことでもないでしょう?」

 なだめにかかる。

「わたしは横川です。吃驚した。どっから倉が出てきたんですか」

「え?」

 こいつはいけない。覚え違いをしていたようだ。

「もういいです。両者の審判への侮辱行為は今回だけは大目に見ます。位置についてください」

 無言で秋吉と正対する。秋吉と俺の背格好はほとんど同じ。彼はかなりの天然パーマで、チン毛のような頭をしているが、やはりどこかオーラがある。木枯らしが吹くような季節にあって、半ズボンを履いている。

 気持ちを切り替える。速まる鼓動を無理矢理に押さえつけて、静かに精神を統一する。

「これより決勝戦を始めます。赤、瀬戸。白、秋吉で始めます」

 ごくりと喉が鳴った。唾液を流し込んだはずなのに、喉の奥がカラカラだった。

「よーい、ぬかずけ」

 もはや、反射の域である。横倉さんの開始の合図と同時、床に額をこすりつける。気負いすぎることもなく、日和ることもなく、適度の緊張感を持って、ここに来て最速を叩き出した。そんな自信があった。

「ファースト・アポロジー、赤、瀬戸」

「やはり速い。瀬戸のヤツ、今年こそ本気で下克上する気だ」

 野次馬が色めきたつ。今年こそ? ふざけるな。最初に敗れて以来、いつだって秋吉を打ち負かすビジョンを頭の中で繰り広げて過ごしてきた。

 目線を上げる。相変わらずの美しい土下座があった。俺の速さには及ばないものの、あれほど綺麗に姿勢を保ったまま、開始数秒でパフォーマンスへ移行している。もちろん並大抵のことではないのだが、「秋吉だからな」の一言で皆が納得してしまうような、そんな空気を発してしまっているのは、やはり彼の寂しさの一端を垣間見る思いだった。

「俺は、昔、クラスの女の子の縦笛をねぶりまわしたことがある」

 救えない子羊<ダーク・ヒストリー>を紡ぎ始める。この期に及んで出し惜しみなどするつもりはない。

「そればかりか、口をつける部分にチンコを擦り付けた」

 館内がどよめいた。学生の時分に既に、そこまでの偏執的な倒錯行為をしている人間というのは実は少ない。

「ばれなかった。ばれないまま、その女の子が音楽の時間、リコーダーを口につけるのを見て、ギンギンにしていた。今思えば、この卑劣な行為は露見してしまって、糾弾されておくべきだった。謝る機会を得ないまま、成長するべきではなかった。腐った性根が、さらに鬱屈していくことになった。今、こんな場で……うぐ」

 言い切る前に、突然、秋吉の方へ向けていた頭頂部に、こつんと何かがぶつかった。

 来たか。

 目線を少し上げると、秋吉の陰毛頭が見えた。美しき土下座の平面移動<シューティング・スター>は秋吉の十八番。極限までスネ毛を剃り落とし、抵抗をなくした後、その脚部にローションを塗りたくり、床の上を滑走して襲い掛かる。土下座中に、ロスト・アポロジーの危険を冒すことなく動き回る、という技は、初見の人間なら誰でも度肝を抜かれる。しかもすぐ目の前で、教科書に載せたいほど模範的で美しい土下座が展開されるのだ。動転した凡百が気圧されて負けを認めても、なんら責められるものではない。

 さて。だがこの、美しき土下座の平面移動<シューティング・スター>は俺の伝家の宝刀に負けず、危険の高い技巧となる。何故なら、勢いをつけすぎて相手にぶつかった場合、それ即ち、相手のパフォーマンスの妨害、アイデンティティ・プッシュの反則を取られてしまうからだ。だから秋吉は、相手との距離を正確に測り、玄妙なまでの匙加減で、腕に込める力を調節、滑ってくるわけである。無形文化財のような、職人技だ。

「くぅ」

「どうした? 瀬戸。お前の一年はそんなものか?」

 グリと秋吉が頭を押し込んでくる。繰り返すが、やりすぎるとアイデンティティ・プッシュと見なされる。不遜なまでに豪胆。だが、こちらとしてもアイデンティティ・プッシュなどという勝ち方は恥ずべき事態である。あまねくドゲザーは、自身の土下座に少なからぬ矜持を持って互いにぶつかり合う。それを少し押されたからといって、安易にアイデンティティ・プッシュに持ち込もうなどと、自身の土下座が貧弱であることを自ら認めるような行為である。実を取るか名を取るか、という話になるかもしれないが、いかな現実主義者だったとしても、ドゲザーとしての魂を売ってまで勝っても何も残らないことくらいわかっている。

 俺はケツを高く持ち上げた。逆にヤツより低い位置まで落ちれば、押し込みをかわせると判断したのだ。

「ブリリアント・チェンジ、赤、瀬戸。最低土下座、赤、瀬戸」

 秋吉が鼻を鳴らして笑った。

「ブリチェンか。まあ常套手段だな」

 言うとおり、秋吉のシューティング・スターへの対応としては、無難で陳腐なものだった。

「だがいつまでもつかな? お前がイボ痔を患っていることくらい、ここにいる誰もが知っているぞ?」

 口惜しいがやつの言うとおりだ。無理な体勢を続ければ、ケツに棲みつく、もうひとりの俺がいつ目覚めるか知れない。長期戦の利は秋吉にある。

 だが、そんなことは俺としては織り込み済み。審判から見えにくい位置にある右手をそっと動かし、秋吉の膝の周辺に余って飛び散ったローションを掬い取る。最低土下座は低土下座と違って、顔面を基点として全身を支えている状態であるため、手の拘束という点において、比して緩い。そこに着目して考え付いたのが今回の対策である。いや、対策というのは生ぬるい。カウンターの一手である。

 ぬるぬるになった右手を戻すと、そのままトランクスもろともジャージのズボンを引き下ろす。最低限の動作で性器を取り出す。別段、相手の道具を利用することは反則行為というわけではないのだが、今の段階で、俺が何をしようとしているのかが、秋吉や審判にばれるのはよろしくない。亀頭から始まり、全体に満遍なく塗りつけると、すぐに右手を所定の位置へ戻す。それと同時に、低土下座へと移行。ブリリアント・チェンジのコールはなかったが、気にしない。移行時に、性器をモモの内側で挟み込む。トランクス及びジャージのゴム部分を玉の裏側で押し留め、戻るのを阻止する。これで準備は整った。ちなみに先程のダーク・ヒストリーを繰り出す際に、当時の情景を鮮明に思い出したため、勃起は完了している。つまり、俺の作戦は最初から二段構えだったということ。

 低土下座に戻した瞬間、秋吉の頭がまたグイグイと俺の頭を押し込んでくる。しかし、何と美しい土下座なんだろう。こうして相手の頭を押し込んでいるというのに、上体が全くぶれない。恐らく押し込んだ分だけ、目に見えない微調整を下半身で絶えず行っているのだろう。素人がやれば、尺取虫のように醜い過程を見咎められるのだろうが、秋吉ほどの練達のドゲザーがやれば、あまりに自然で、人に目には異常として検知できない。

 俺もまた押し返す。秋吉が、ほうと感嘆したような溜息をついた。つまり俺が力押しにシフトしたと理解したようだ。頭でやる押し競饅頭を買った意気をして、自信と感心を混ぜた溜息をついたのだろう。心の中でほくそ笑む。秋吉、半分は正解だ。

 押し込む。押し返される。繰り返す。

 その間、こすれにこすれた俺の性器からは粘着質な音が響き始める。先走り汁が徐々に分泌され、亀頭をしっとりと濡らしているのを感じた。もう少しだ。もう少し。

 ジュプッと少し大きめの水音がして、とろとろと床へ流れ落ちるのを感じた。ここだ。秋吉の強烈なプッシュに押し負けたという体に映るように、自然な動作で、上体の左側を軽く浮かせる。もちろん、土下座の姿勢が崩れるほどになんてヘマはしない。刹那、ながし見ると、横原さんが目を見開くのがわかった。見届けてももらわなければ意味が無いということはわかっているし、そもそもそういう作戦だというのに、女性に見咎められたという事実が、しかも人妻に見られたという事実が、背徳的な興奮をよび、電流のような性感が全身を駆け抜けた。

「リ、リターン・トゥ・ベイビー、赤、瀬戸!」

 それだけじゃないだろう? アンタが見たのは。

「ウォータリング・フローリング、赤、瀬戸!」

 内心でガッツポーズをとった。視線をチラリと上げると、秋吉の顔が見えた。恐らく、生涯忘れられないであろう顔。呆然として、一体何が起きたのか、本当に理解が追いついていない顔をしていた。バカな、と唇が動いたのが見えた。そのまま秋吉はケツを高く持ち上げ、最低土下座に移行する。俺の土下座の下で繰り広げられている事態を確認するためだろう。だが、今、秋吉が最低土下座に移行する理由は何一つ無い。つまり……

「オーバー・パフォーマンス、白、秋吉」

 警告。ブリリアント・チェンジどころか、不必要な状態移行を咎められ、減点対象たるオーバー・パフォーマンスのコールを受ける。秋吉のこんな失態は初めて見た。

「な、なんだと。カウパー腺液だというのか!」

 そうだ。俺はお前との押し競饅頭の間、絶えず棒に刺激を送り続け、カウパー腺液を分泌、これを床に塗布することで、RTB及びウォータリング・フローリングのコンボを秘密裏に完成させていた。

「やめろ! 性感可罰説を忘れたのか! こんなことをして、学会を揺るがせる気か!」

「学者のご機嫌とりで土下座がやれるか! やめるのはお前だ。今すぐ負けを認めて、土下座をやめろ」

「ぐ…… くっ」

「射精してもいいんだぞ?」

 形勢は逆転した。勝った。勝てるんだ。秋吉に。あの秋吉に。

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