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新幹線で東京まで出て、そこから京王線に乗って、某駅を降りて、徒歩数分。会場は、区の公民館を借りて充てている。年々ドゲザー人口が減り、以前はオーディエンスも多く、丸々借り切っていた公民館も、今ではその敷地の半分を借りるだけで事足りるという状況だった。それでも会場に着くと、俺たち参加者以外の人間も、何人か見受けられる。彼らのヒソヒソ話に耳を傾けると、どうやらビッグネームの中では一番乗りだったようだ。
「おい、あれ風神の瀬戸じゃないか?」
「ああ。立ち居姿から既に、どこか卑屈な印象を受ける。流石だな」
「まだ働いていなかったのか……」
その後も今大会の展望などを語り合っている内容などを聞いていると、どうやらイチゲンさんではないようだ。
しばらく待っていると、秋吉や、「コメツキバッタ」の異名を取る豊田氏など、実力者が性懲りもなく馳せつけた。大会前に、参加者同士で話しをするのは、アンリトゥンにマナー違反とされる行為なので、会場内は顔見知りばかりなのに、一切の会話が生まれない、ある種異様な空気に満ちていた。各々瞑想したり、他の参加者の様子を窺ったりしているだけの時間。この時間が俺は好きだった。緊張感と期待が胸の鼓動を速くさせる。いよいよだ。年に一度の、己の技量を全て出し切る機会。
やがて時間になると、大会の運営側の人間が二人入ってくる。一人はスーツ姿の女性で、メガホンを持っている。年の頃はまだ三十代の前半程度だろうが、見た目からは想像もつかないほどの実力を有している。結婚を期に土下座道を退くまでは、「土塗れ姫」という通り名で親しまれた。議事進行及び審判を勤めるに相応しい才媛である。もう一人は、スポンサーの人間なので、土下座に関しては詳しくないだろう。ロマンスグレーの五十代くらいの男性だ。
「大会に参加されるクズ共は、一列に並んで下さい」
土塗れ姫、本名は横倉とか何とか言ったはず、がメガホン越しに指示を下す。
皆のたのたと列を成そうと動き始める。正座して瞑想しているフリをしていた豊田氏が、足がしびれたのか、やたらとよたついているのが見えた。
「はい、一列にお願いします。よく躾けられた家畜のように、速やかに、従順にお願いします」
ようやっと、列になる。今年の参加者は丁度八人。一回戦、二回戦、決勝と、三つ勝てば優勝できるという格好だ。俺の知る限り、ドゲコン参加者は多くても十人程度。ギャラリーも居ることだから、競技人口自体はもう少し多いのかも知れないが、大会で腕を競うとなると、この程度が例年通りということだ。
抽選を行い、組み合わせが発表された後、早速一回戦が始まった。
豊田夏樹という人物は、祖父の代から土下座道に心血を注ぐ、いわばエリート街道を歩んできたドゲザーである。祖父、父、と脈々受けついで来たスタイルはコメツキバッタ。そのイニシャルを取って「Kの系譜」と呼ばれ、土下座界でその名を聞いたことがない人間は居ないだろう。
豊田氏本人は、気のいい、うだつのあがらない四十がらみのおっさんだが、やはりその技量は決して軽視できるようなものではない。秋吉の台頭以前には、ドゲザ・オブ・ザ・イヤーにも数度輝いたほどの実力者だ。
「両者、いいですか?」
横倉女史が、最終確認を取る。アバウトに一メートルほど間隔をあけて、向かい合う形で立った俺と豊田氏は、ほぼ同時に頷いた。
「それでは。第一回戦。赤、瀬戸修。白、豊田夏樹で始めます。位置について……」
ごくりと喉が一つ鳴った。呼吸が心持ち浅くなる中、
「よーい、ひれ伏せ!」
開始の合図が告げられる。
最初に動くのは勿論俺。速さという一点に特化した俺の土下座が後手を踏むようでは、風神の二つ名が泣く。
足をその場で崩し落とすような、目にも止まらないであろう速さで体を倒す。風を生む。
「ファースト・アポロジー! 赤、瀬戸!」
深く、深く、頭を下げる。急激な体勢変化の煽りで打ち付けた膝小僧がズキズキと痛むが、大事無い。土下座用の受身というのを、俺は幾度もの、文字通り血の滲む努力を重ね、体得している。
「速い!」
観衆が湧き絶つのが耳に入ってくる。
「いや、豊田だ。見ろ!」
野次馬のその一言に、つい俺自身も、少し目線を上げる。
一瞬、残像が見えた。激しく上下する黒い頭が、点滅する灯りを見るような錯覚を与えた。速い。あれが、コメツキバッタ……
超高速のピストン。どれほどの研鑽を積めば、あれほどの速さで腕を折りたたんだり伸ばしたりと出来るのか。いや、真に恐るべきは、そのピストンの終着が、すべて床の上にまで到達していること。つまり一回一回、その全てで額を床へと打ち付けているのだ。ゴツ、ゴツ、と天井の高い会館内にあって、異様なまでに響き渡る。
もうよせ。その言葉が喉の手前まで出かかった。どうしてそこまでするのか、と。土下座の本質が、相手を心苦しくさせるほどの同情を誘ってでも許しを得ることにあるならば、彼のスタイルは王道と言えよう。並みの、それこそ一般人が相手なら、これ以上謝らせて額が割れてしまってはかなわん、とすぐさま許しの言葉が口をつくだろう。
「……っく」
出来ることなら今すぐ彼を、やめさせたい。もういいから、わかったから、と。そう言ってやりたい衝動がどんどんと俺の中で強くなる。ガンガンガンガン…… その間にも、豊田氏は一向に額を床に打ち付ける行為をやめない。
運のない、と思う。一回戦からいきなりの苦戦である。速さによるアドバンテージなどもはや無いに等しい。だが一方で当然だろうとも思う。競技人口が減っていく中、横倉さんのように土下座より大切なものを見つけて、身を退く人がいる中、まだこんなことをやっている。今残っている参加者たちは、どう言い繕っても、本物ということになる。
「仕方ないか」
口の中だけで呟くと、俺は意を決した。本当は、決勝まで残しておきたかったのだが、とっておきの、俺だけが紡げる物語。
「……最初から、間違っていたんだと思います。ここまで育ててくれた親に、恩義を感じながらも、何一つ親孝行が出来ないばかりか、迷惑ばかりかけて…… でも、変われなくて。変われないなら開き直ることが出来るのかと言えば、それも出来ない。本当に、どうしようもなく中途半端で、救いようのないクズなんです」
静かに語りだす。豊田氏の打撃音が少しだけ間隔が長くなった気がした。
「アレは、中学校の運動会の日でした。昼休憩のとき、母親と食べるのが妙に気恥ずかしくて、お弁当を無くしたと嘘をついて…… そうしたら、母は自分の分を半分こしようと言ってくれたんです。だけど、僕はどうしても食べたくなくて、癇癪を起こして…… お弁当を蹴っ飛ばして、中身を全部ぶちまけてしまったんです」
「……瀬戸君」
ゴツン…ゴツン…… 間隔は間違いなく長くなっていた。ピストンが衰えているのは、顔を下げきった俺にも容易に察せたが、そんなことがどうでもよくなってくる。
「あの時の、母さんの…… 母さんの悲しそうな顔が忘れられないんです。僕は…… 僕は…… そんな母さんに謝ることもせず、逃げたんです。逃げたんですよ……」
「瀬戸君!」
豊田さんが立ち上がる空気を感じた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。俺は…… 僕は……」
自然と、腰が突き上がり、顔の前面を床に押し付けていた。もっと。もっと、頭を低くしたい。ただその願望だけが俺を突き動かし……
「ブリリアント・チェンジ! 赤、瀬戸! 最低土下座! 赤、瀬戸!」
審判の横倉氏の声もどこか遠く聞こえて。
「瀬戸君、もうやめるんだ!」
気がつけば、誰かに腕を掴まれて無理矢理に引き起こされていた。涙ぐんで滲んだ視界に、ぼんやりと豊田氏の顔が浮かんだ。
「もう、よすんだ。お母さんの話はやめるんだ。わたしも…… わたしも胸が詰まる」
「豊田さん……」
差し伸べられる手を掴んで、そっと片膝を立てた時、
「フォーギブン! 赤、瀬戸! 勝者という名の敗者、赤、瀬戸」
決着を告げる審判の声が高らかに館内に響いた。
救えない子羊<ダーク・ヒストリー>は、超速土下座と並んで、俺の、俺だけの武器だった。徹底的に自己の価値を否定し、どうしようもなくみすぼらしい姿を見せつけ、相手の心を抉る。
救えない子羊<ダーク・ヒストリー>は、同時に諸刃の剣だった。俺の心をも鋭く傷つける。これを放った直後など、本当に自身に生きている価値を見出せない。
会館を出て、その建物の外壁に背を預けて三角座りしていると、不意に自分の前に誰かが立った。驚きながら見上げると、豊田さんと目が合う。彼はふっと笑うと缶ジュースを手渡してくれた。そしてそのまま、自分の分のプルタブを開きながら、俺の隣に座る。
「完敗だったよ」
「……いえ」
「見事なブリチェンだった。あんなに切れ味のあるヤツは初めて見たかもしれない」
ブリリアント・チェンジ。土下座の仕方にも色々ある。一般に知られる、尻を深く落とし、頭を下げるものが「低土下座」、尻を持ち上げるようにして、顔全体を地面という汚いものに押し付けて謝る姿勢を「最低土下座」という。これらを試合中に、スムーズに自然に変形させたり、戻したりする技巧のことを「ブリリアント・チェンジ」と呼ぶ。業界人は大抵略して「ブリチェン」と言う。
「いえ。あれは、無意識的にやってたっていうか」
「無意識だから良いんじゃないか。自分が悪かった、間違っていた、謝りたい、そんな痛々しい気持ちが伝わってきたよ」
豊田さんはコーヒーを混ぜるように手の中で缶を動かしながら、そう言った。
「正直、ダークヒストリーは使いたくなかった。俺自身つらいから」
「そうか」
「でも、豊田さんのピストンが速すぎて、あのままじゃ負けていた」
「はは。わたしにはアレしかないからな」
「でも、本当に速かったです」
「そうか。じゃあ……」
「じゃあ?」
「チンコより速かったかな?」
「チンコより速かったです」
素直に賞賛すると、豊田さんは歳より幾らか若々しい、照れ笑いを見せてくれた。