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俺もあんな土下座がしたい。流れる水のように淀みなく、夏の青空のように颯爽とした、そんな土下座を……
それは、俺がまだ学生だった頃のことだ。ある日道を歩いていると、向こうからどう見てもカタギじゃない御仁がのそのそと歩いてくるのが見えた。わざとらしくない範囲で、可能な限り速やかに視線を外し、歩速は変えずにすれ違うつもりだった。だがそこで、俺を追い抜いていく影に顔を上げた。よほど急いでいるのか、早足というよりは駆けるようにサラリーマンが追い抜いていったところだった。危ない、と声を上げる前に、前方不注意のそのサラリーマンは筋者とぶつかった。肩と肩がぶつかり合い、ガタイの良い筋者がたたらを踏みながらも何とか転倒は免れているような状態だった。俺は他人事にも関わらず肝が冷えるような思いで見ていた。
だがそこで、瞠目するべき事態が起きた。渦中のサラリーマンは崩した体勢をそのままに、片足を引き、もう片方の膝を地に着け、そのまま上体も倒す。最後に引いていた片足をもう一方に揃え、微動だにしなくなった。額は地面に擦りついているはずだがうめき声一つ上げなかった。土下座だ。ぶつかった衝撃をそのまま利用するような、一切の無駄を感じさせないものだった。
思わず息を呑んだ。俺はその場から一歩も動けなかった。
体勢を整え終えた筋者が怒髪天を衝くような形相で振り返った時には、既にサラリーマンは平伏している。決して筋者の動きが鈍かったわけではない。サラリーマンの土下座があまりに速かったのだ。恐らくは、体感だが、一秒を切っているのではないかというほどの早業だった。
筋者は怒鳴ろうとしていたのだろう。だが怒りをぶつけようとしたときには、既に相手は謝罪の最終形を取っている。「どこ見て……」と切りかけた啖呵が虚しく風にさらわれていく。
「すいませんでしたー!」
サラリーマンが筋者の何倍も通る声で叫ぶように謝る。それまで注目していなかった通行人たちも何事かと二人を見る。筋者は眉間に縦皺を入れながら、「気をつけろ」とか「もういい」とか不明瞭な声を出して、決まり悪そうに去っていく。
サラリーマンは結局、筋者が曲がり角の向こうに消えるまで彫像のように姿勢を崩さなかった。
家に帰っても、その光景が頭から離れなかった。年甲斐もなく興奮しているのはわかっていたが、どうにも抑えられなかった。アレだ。アレこそ土下座の可能性だ。俺も人生にあって都合何度か土下座をしたことはあるが、いかにこれまでの土下座が薄っぺらかったかを思い知った。いつも決まって怒ってしまった相手に対して、その怒りを静めてもらうために頭を下げていた。いわば対症療法的な側面が強く、後手を踏んでいる形だ。だがあのサラリーマンが繰り出した土下座はどうだ。相手の怒りに先回りして、元から絶つ。俺のそれが守りの土下座だとすると、彼のは攻撃の土下座だ。先制土下座。咄嗟の機転、それを成す体のしなやかさ、恥も外聞もなく頭を下げれる決断力。どれをとっても、並大抵のことではない。相当に修練を積んでやっと体得したのだろう、彼だけの土下座。
ものにしたい。俺もあんな土下座がしたい。熱い思いが胸中に渦巻いていた。子供の頃読んだ少年漫画の主人公の必殺技は憧れるだけのものだが、アレは違う。俺でも努力次第で会得できるはずだ。
気がつけば、彼の動きを脳内で再生しながら、体を傾けていた。
それから六年が経った。大学を出た俺は、定職にも就かず、ひたすらに土下座道を究めることに心を砕いていた。かつて見た、あの魂が震えるような土下座に少しでも近づきたい。その一心で来る日も来る日も、鏡の前に頭を下げる生活を続けた。
そんな日々の中、三年ほど前に、「土下座コンテスト」なるものの存在を知った。通称「ドゲコン」と呼ばれるこの催しには、全国津々浦々から、我こそはというドゲザーが集い、しのぎを削るという恐ろしく非生産的かつ魅惑的なものだった。俺も知って以来はずっと参加し続けている。もしかして、あの時のサラリーマンに会えるかもしれないという思いもあったが、残念ながらついぞ見かけない。だが、それで良いとも思う。世間には彼のような名も知らぬ凄腕のドゲザーがまだまだ居ると想像するだけで、わくわくする。
ドゲコンにおける俺の戦績は、今のところ初参加の年を除けば、過去二年は、いずれも表彰台には立てている。もっとも参加人数自体が少なく、勝ち上がるのはそう難しいことでもなかった。だがそれでも、未だ優勝は出来ていない状態である。準決勝、決勝と、同じ相手に辛酸をなめさせられたのだ。秋吉健太。通り名は「土下ザムライ」、実家が剣道場を営み、幼い頃から剣に血道を上げていたのだが、何をトチ狂ったか、土下座道に飛び込んできた変り種である。だがその実力は折り紙つきで、国内ドゲザーランキングでも、四年連続の一位に輝いている。
だが今年は俺が倒す。そのための修練は欠かさなかった。もっと速く、もっと鋭く。終生の好敵手を見つけたことで、俺の土下座熱は一層強く燃え上がり、胸に灯る気炎で、寝苦しい夜を幾度と過ごした。悔しさを全てぶつけて、ヤツを負かす。いつしか、俺にも一流ドゲザーの証として「風神」の通り名がついていたが、どうでもよかった。無冠の実力者で甘んじるつもりはない。
頬を二度三度、平手で打つ。
今日はその雪辱の日。年に一度のドゲコン開催日。
「いってきます」
玄関から声をかけると、母さんが居間から顔を出した。
「ハローワーク?」
「いや。そうじゃないんだ。ドゲコンの日だから」
「ああ、またあのわけのわからないヤツ? 修はいつになったら働くのよ?」
「ごめん。今はそれどころじゃないんだ。俺はこれがやりたいんだ」
母さんはとても悲しそうな瞳をして、そのまま顔を伏せた。ここ数年で目に見えて増えた白髪を多分に混じらせた母さんの頭から目をそらした。申し訳ないとは思う。それこそ、今すぐにでも、風を巻き起こすとまで称される素早く切れ味鋭い土下座を繰り出したいほどに。
だが謝るのは頂に立ってからだ。負けっぱなしで終われるわけがない。勝ちたい。勝たないといけない。
「いってきます」
もう一度そう言って、家を出た。
短編で書いていたものですが、思ったより熱い気持ちがたぎり、字数が多くなってしまったので、分割して連載の形を取らせてもらいます。すぐ終わります。内容の方は……察して下さい。