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マダムの物語――貴族の娘が切り開いた運命

掲載日:2026/05/12

この作品は、連続物語『マジェスティア・アエラ』の作中で語られる挿話『マダムの物語』を、独立短編としてそのまま掲載したものです。


それは衝撃的な光景でした。


私たち家族や使用人達が見つめる前で、その人は優雅に舞う白衣の剣舞のごとく美しい手さばきで祖父の腹部を切り開き、大きな腫瘍をいとも簡単に取り除くと、瞬く間に傷口を縫合し、「無事に完了いたしました。」と事もなげに言ったのです。


麻酔の魔術が施されていたとはいえ、あれほどの手術の最中でも祖父の表情は穏やかで、まるで夢の世界を楽しんでいるかのようでした。


十五歳の私は、初めて見る回復手術の美しさに、まるで七色に空に輝く虹をみた思いで、すっかり心を奪われていました。


この癒術士のそばにいて、この優雅な舞をいつも眺めていたい。できるなら私も癒術を学んで一緒に舞ってみたい。


若き癒術士テオフィールが祖父の開腹手術をすることになった経緯は、二年前にさかのぼる必要があります。


祖父の腹部に腫瘍が発見されたのが二年前のこと。たまたま透過魔法が使える王立癒術士が家族の健康診断に訪れた際に、その透過魔法で祖父を見立てましたところ、腹部に腫瘍が発見され、それは急激に大きくなって祖父の日常をひとつひとつ奪いはじめました。


王立治療院から派遣されてきていた癒術士の中に、テオフィールもいたらしいのですけれど、私にはどの癒術士も同じに見えて、特別テオフィールを意識したことはありませんでした。


二年間も屋敷に通っていた癒術士なのに、顔もほとんど覚えていなかったのですから、よほど影の薄い人だったのでしょうね。


王立治療院のなかでも、もっとも権威のある重鎮の癒術士の皆様の見立てでは、腹部の腫瘍は魔力により内側から時間を掛けて小さくしていくよりなく、外科的な魔力による治療法はないとのことでした。


しかし、二年経過しても祖父の腫瘍は直るどころか、ますます大きくなってきていて、苛立つ祖父が、たまたまその日診察に訪れていた若い癒術士のテオフィールにつらく当たってしまいました。


あとで知ったのですが、テオフィールはこのとき、希に見る天才の名を欲しいままに活躍する若き期待の癒術士といわれていたそうなのですが、そのテオフィールは、祖父の腫瘍は開腹手術で治癒できると王立治療院の中で主張していたらしいのです。


しかし魔法を使わない治療など前例がないと王立治療院の重鎮達に一蹴され、仕方なく魔力による内側からの治療を続けていたのだそうです。


でもこのときテオフィールは祖父の激しい叱責に、本来なら上司の許可無く口にしてはならない開腹手術の話をしてしまいました。この腫瘍は内臓に達しておらず、開腹手術で取り除くことができると確信を持って祖父に告げたのです。


こうして業を煮やしていた祖父の、「座してそのときを待つよりは、若き天才癒術士とやらに任せてみたい」という強い意志により、この日の開腹手術が、家族の者達はもちろんのこと、祖父を慕うお屋敷の全ての使用人が見守る中で行われたのでした。


お父様もお母様も王立治療院の院長様までもがこの手術に反対していらっしゃいましたが、祖父の強い意志は変わりませんでした。


それから数ヶ月後、体調も良くなり、最近では庭の散策も楽しんでいらっしゃるという祖父が、白や黄色や淡いピンク色の可憐なマーガレットの花が咲きほころぶ庭園の一角にあるベンチでくつろいでいらっしゃるところに、意を決してお伺いしました。


「おお、ナタリアか。お見舞いに来てくれたのかな。さあおじいちゃんの隣に座って、その笑顔をよくみせておくれ。おじいちゃんにはナタリアの笑顔が何よりの妙薬だ。」


優しい祖父の誘いに従ってベンチに並んで座ると、すぐ手の届くところにあるマーガレットの花に、そっと触れてみました。祖父は、ことのほかマーガレットのお花が好きみたいです。


「おじい様は、最近とってもお顔の色が良くなってナタリアはとても嬉しいわ。」


「そうか、そうか、誰よりもおじいちゃんのことを心配してくれていたからな。今日はどうしたのかな。おじいちゃんにおねだり事があるなら遠慮はいらないよ。」


祖父は、私が小さい頃から、私のことは人一倍かわいがってくれている。

快活で最近では家計の事もお手伝いしている積極的な姉と、将来の伯爵家を背負う弟の間にあって、おとなしく目立たぬ私は、元気な使用人の子供達ともあまり仲良くなれず、病気になられてからの祖父のお世話をして過ごすことが多くなり、すっかり「おじい様っ子」になっておりました。


「うん、ちょっとだけ、……いえ、もしかしたら、とっても変なお願い事があるの。」


私の言い方が可笑しかったのか、はははと笑うと、「どんな変なお願い事なのかな。」と私の頭をそっとなでながら聞いてくださいました。


「ええ、おじい様。実は開腹手術の痕がどうなったのか、見せて頂けたらなと思ったの。変なお願い事でしょう?」


「なるほど、ナタリアはそこまでおじいちゃんのことを心配してくれているのだな。よしよし、いまここで見せてあげよう。でも驚かないと約束してくれるかな、傷口なんて見ても気持ちの良いものじゃないからな。」


そう言うと、祖父は近くで控えていた専属執事を呼んで開腹手術をしたあたりのお洋服を広げて傷口が見えるように整えてくださいました。


開腹した痕は残っているものの、私の予想をはるかに超えて、縫合した痕は、引きつれもなく、ほとんどわからない程度になっておりました。縫合の際に回復魔法も添えていたのではという私の予想はどうやら正しかったようでした。


「おじい様ありがとうございます。痛みはもうないのですか?」


「ああ、全くないよ、ナタリア。手術前はいつも差し込むような痛みがあったのが、まるで悪い夢でも見ていたかのようだ。王立治療院の院長も調子がいいヤツで、あれほど反対していたことなどすっかり忘れたふりして、まるで自分の手柄でもあるかのように学会で発表しておったよ。」


ああ、なんて素敵なんでしょう。

私の脳裏には癒術士テオフィールの鮮やかな手さばきの様子が、まるで昨日の出来事のようによみがえるのでした。


「おじい様。ナタリアは、本当はもうひとつご相談したいことがあります。」


祖父は、相変わらず優しい笑顔で、「何だいナタリア」と聞いてくださいましたので、私は意を決して自分の気持ちを祖父に伝えることにしました。


「ナタリアは王立治療院でテオフィール様の助士として働きたいと思っています。おじい様、私に力を貸していただけませんでしょうか。」


少しだけ驚いた顔をした祖父でしたが、衣服を直すのを手伝っていた執事を下がらせてから、変わらぬ笑顔で答えてくださいました。


「そうか、ナタリアは癒術を学びたいのだな。ナタリアはおとなしい子で、小さい頃から滅多におねだりをしない子だったが、そのナタリアがおじいちゃんに、おねだりしてくれたんだから、これはかなえてあげないとね。」


「ありがとうございます。おじい様。」


本当は父にも母にも相談したけれど、全く相手にもしてくれなかった。貴族の令嬢が外で働くなどという、はしたないことを認める親は普通はいない。それが当然のことなのは私もよくわかっていたので、一度は諦めていました。


日が経てば、徐々に記憶も薄れ、自然に忘れるだろうと自分自身でもそう思い込もうとしていたのですけれど、むしろ逆で、あのときの開腹手術を見たときの感動は日を増すごとに深く大きく私の胸に広がっていくのです。


その私の思いを、きっと祖父ならわかってくださるのではないかという、淡い期待で、思いきってご相談してみましたら、私の願いをあっさりと認めてくださり、父や母には、仕事としてではなく、無償の奉仕活動と癒術の勉強ということなら、外の聞こえも良いではないかと説得してくださいました。


こうして私は、王立癒術士の資格を持つ若き天才癒術士テオフィール様が働く王立治療院で働くことができるようになったのです。十五歳の春のことでした。


「皆様、本日より治療院で助手として働くことになりましたナタリアさんです。ナタリアさんは貴族ですが、ご都合で家名は伏せて働くことになっています。貴族扱いも不要ですから、平民の助手の方がナタリアさんとお呼びしても不敬にはなりませんので、同僚の一人として歓迎してあげてください。」


王立治療院には、癒術士としての国家資格を持つ王立癒術士の他、資格は持たないが回復魔法が使える助手として王立癒術士の指示のもとに働く治療魔法師がおりました。


私も成人の儀式の際に回復魔法のスキルがあると言われておりましたので、レベルは低いですが擦り傷程度の治療はできました。でも治療魔法師と言われるほどの能力はありませんでしたので、助手とは名ばかりの雑用係が私に与えられたお仕事でした。


もっとも王立治療院で働いていらっしゃる多くの方は、お部屋のお掃除から皆さんのお食事のお世話まで、どんな仕事でもやる雑用係でしたので、私が特別というわけではありませんでしたけれど。


ですから、私は実質上は雑用係にすぎない助手の仕事でも、喜んで引き受けました。そのときの私には王立癒術士の方のお仕事を、間近で見ることができる喜びで幸せいっぱいで、すこしの不満もありませんでしたから。


「ナタリアさんは、貴族の身分を隠して、ここで助手として働いているのは、家計を助けるためなの?」


そんな誤解を受けることもございましたが、強く否定するほどの事でもありませんでしたので、微笑んで聞き流しておりましたら、気づきましたら、すっかり哀れな令嬢扱いになっていて、同僚の助手の皆さんが必要以上に優しくしてくださるようになってしまい、困ってしまいました。


しばらくは王立治療院の中のお仕事に慣れるよう頑張っておりましたから、実際の治療現場を見たいという私の希望はなかなか実現しなかったのですが、ある日、王立癒術士の専属助手として仕事をしてみないかというお誘いを受けました。


願ってもないことでしたので、是非にとお願いしましたら、何と専属助手のお仕事というのは、テオフィールの専属助手のお話だったのです。


「テオフィール様ほどの方でしたら治療魔法師の方が何人も専属助手としてついていらっしゃると思いましたが、私のような雑用係の助手でも務まりますでしょうか。」


そう尋ねてみましたら、むしろ私が適任なのではないかと、皆が言っているのですよと言われました。


何でも、テオフィールが、助手の治療魔法師に、「安易に回復魔法を使うな!」と、いつも口癖のように叱るものですから、「治療魔法師が魔法を封印されて、いったい何をすればいいのか」という不満になってしまったのだそうです。


なかなか助手のなり手がいなくて困っていたところ、同僚の助手のみなさんが、ナタリアなら、ひとりで頑張って医術の勉強をしているので、むしろ治療魔法師よりもナタリアのほうが助手が務まるのではないかという話になって声を掛けてきたようなのです。


こうして私は、とうとう夢にまで見たテオフィールの治療をすぐ近くで毎日見ることができる専属助手になったのです。


私の家柄についてテオフィールは当然いつも往診に来ていましたから知っていましたが、まるで何も知らないかのように、ただの助手として扱ってくださいましたので、とてもお仕事がやりやすかったです。


確かに専属助手になってわかりましたが、テオフィールが助手に求めるものは厳しく、私のような、何もできない雑用係同然の助手にも、高度な医術の知識を求めてきて、全く妥協しませんでしたから、私も付いていくのに必死になりました。


「患者にとっては王立癒術士も、隣にいる助手も違いは無い。自分の命を預ける相手が、安心して信頼できる人間かどうかが全てだ。私は助手にすぎない、などと自分に逃げ道を作るな。あなたの命は私が守りますと、いつも強い決意で臨むように。」


などと、とても厳しく私に告げるのです。


でもテオフィールは、私が期待した通りの人でした。

その手術を行う姿をいつも身近で見られる幸福を毎日味わっておりました。


鮮やかな治癒魔法と、それにもまして、小さな手術道具を使って、魔法では治療が難しい部位を、まるで舞っているかのように軽妙な指使いで手術をする様を、いつもうっとりした目で眺めていたのです。


その助手として難しい手術を手伝い、教わるがままに必死になって魔術の腕を磨き、道具を使う指先を鍛え、それはもう、幼少の頃からそば仕えしていたばあやの小言が止まる日がないほど、毎日薄汚れた格好で家に帰っていたものです。


「おい、ナタリア。いまから往診だけれど、一緒に来るか?」


時には、何も知らずに後ろからついていったら、なんと平民街の一軒に到着して、伏せっている病人の治療もしていました。


「王立治療院の癒術士が来るような場所じゃないけれどな。誰でも助けられるならいいが、残念ながら体はたくさんないから、こんなことは貴族の気まぐれに過ぎない。」


王立治療院の癒術士は全員が貴族の身分です。ですから基本的には貴族の治療しかしません。大金を積まれてようやく富豪の治療をする場合がある程度です。


ですから、王立治療院の癒術士に支払うお金など、絶対にあろうはずがないことが、ひとめでわかるこのような下町の平民の家に往診に来るなど、ありえないことでした。


「でもね、目の前で倒れられて、自分に助けを求める人がいるのに、助けない選択肢なんてないだろう?」


何でもこの患者は、テオフィールが市場を歩いていたときに、目の前で心臓の発作で倒れた平民なのだそうです。必死に心臓蘇生の緊急治療を行い、回復後は定期的に診察に来ていると、それが当たり前の出来事でもあったかのように話していました。


テオフィールは、「まったく厄介な患者の往診に、私がなんで毎回来なければならないんだ……」と、不満げにつぶやきながらも、その言葉とは裏腹に、全く手抜きの無いしっかりした診察を行い、どのような食事に気をつけなければならないかといった細々としたことを、下町の平民でも対処できるような内容で伝えておりました。


「ナタリアなら、こんな場所でも、ひょこひょこ、ついてきそうだから声を掛けたけれど、本当に付いてきたな。聴診器を貸してやるから、この患者の容体を診察してみろ。」


面白そうにからかうテオフィールから、聴診器を奪うように取りあげて、患者の胸に当ててみたら、心音にわずかに雑音のようなものが混じっているのを感じました。


「心臓の弁に異常が見られます。」


そのように診断した結果を伝えてみたら、テオフィールは急に真顔になりましたが、私の診断については何も言いませんでした。


「じゃあまた来るからな。診察料は卵十個だ。高いってのなら、もう来ないがどうする。」


そう言いましたら、その家の子供が、「欲張り治療魔法師め。ほら卵十個だ。これでも家の一日分の食べ物代なんだからな。」と怒ったような顔で袋に入った卵を差し出しました。


「ふん、また来るからな。せいぜい治療費を頑張って働いて稼げ。」


テオフィールは、はらはらしている私に構わず、卵を受け取ると心臓の薬を手渡し足早に家をでました。


「そうだ。あの患者は心臓の弁に異常がある。魔術でも医術でも助けてやることはできない。王立癒術士の肩書きがなんだと言うんだ。神にでもなったつもりか。私はあの患者を診察しながらいつも自分にそう言い聞かせている。」


苦悩するテオフィールの顔を初めてみた私は、美しい白衣の剣舞とはまた別の若き天才王立癒術士の姿に、密かに胸をときめかせたのでした。


それからの毎日もテオフィールの助手としての忙しい日々が続き、より高い知識を求め一切の妥協がないテオフィールの期待を裏切らないよう、医術書や癒術書を学び、難しい手術の時には、時には助手の立場を超えて、テオフィールの三番目の手のように、医術道具を直接患者に使用することさえありました。


テオフィールは王立治療院のそうそうたる癒術士達が、口をそろえて難しいと言う虫垂腫の治療でも、「虫垂は切除しても体の機能に影響はもたらさない」と主張し、切除術を提案していました。そしてその難解な切除術を自ら率先して行うのでした。


「ナタリア、開腹手術で最も重要なのは時間だ。出血量を限りなく少なく抑えるには、可能な限り開腹時間は十五分以内に抑える必要がある。元々病気で体力が弱っている患者に、それ以上の時間の出血は命取りになる。止血を任せるナタリアに全てがかかっていると心得て望め。」


テオフィールは王立治療院でも最近取り入れられてきた癒糸という術後体内に残しても癒着などの心配の無い縫合糸を積極的に使います。虫垂に通じる主血管を癒糸で縛ることで、出血を最小限に抑えるのです。私の役目はこの重要な結紮(けっさつ)と呼ばれる仕事でした。


開腹手術には、手術中に麻酔の魔術を使い続ける治療魔法師や、透過魔法や鑑定魔法を駆使して常に患者の状態を確認し、逐一伝える治療魔法師や、洗浄魔法を使う治療魔法師や、患者の体力を保つためと術後の回復を早めるための回復魔法を使う治療魔法師など、たくさんの治療魔法師が助手として働いており、テオフィールは決して魔法の力をないがしろにはしておりませんでしたが、執刀の際にテオフィール自身は魔法の力は一切使用しませんでした。繊細な手術に魔力は向かないという持論があったからです。


それは止血を担当する私にも要求しておりましたから、魔法に頼ろうとする治療魔法師より、魔法がろくに使えない分、日々指先の鍛錬を怠らない私に向いていると、事もなげに言い、最も重要な役目を私に任せるのでした。


「テオフィール先生、虫垂腫の患者の術後投薬は、感染封じ液を一日三回、腹部の痛みには霧散痛草液を夕方処方ということでよろしいでしょうか?」


つい先ほどまで、学会報告に匹敵する大手術を終えたばかりとはとても思えない日常の患者治療に戻っていたテオフィールに、私もごく日常の助手に戻って尋ねました。


「ああ、それでいい。強い痛みを訴える場合は、念のため透過魔法で確認してほしい。それとナタリア、その『先生』と呼ぶのは今日限りとして欲しい。君はもはや、誰もが認める優秀な癒術士だ。その君が私に『先生』を付けるのは、もはや蔑称でしかない」


テオフィールが申しますには、真に先生と呼ばれるのにふさわしい者は、人徳に優れ、人の上に立って導く者でなければならないのだそうです。テオフィールはまだその域には到底及ばず、そのような人物を先生と呼ぶのは、相手がそう呼ばれると喜ぶだろうと見下げている態度だというのがテオフィールの考えだったようです。


「他の者が私のことを何と呼ぶのも勝手だが、ナタリアだけは私のことをテオフィールと呼び捨てして欲しい。これは私の心からのお願いだ。」


テオフィールは、片膝を付けて、私にそのように乞うのでした。


その日から、私は愛情を込めてテオフィールと呼ぶようになりました。ぎこちないテオフィールの精一杯のプロポーズと気づいたからです。


それからの私は、テオフィールの高度な要求に常に応えられる助手になりたくて、さらに勉強を重ねておりました。


両家の親も異存は無く、二人は晴れて婚約者の立場になりましたが、その後の生活は何も変わることなく、ふたりとも充実した医療活動を続けておりました。


私は基本的にいつも私服で出勤しておりましたので、血しぶきを浴びた服で帰りましたときは、ばあやはその場で気を失い、父と母からはこんこんと説教をされ、助手の自覚をもちなさいという父の命で、それからは治療院で白衣に着替えて仕事をするようになりました。


不思議なもので、テオフィールの専属助手にふさわしい格好をするようになりましたら、テオフィールが嫌っておりました先生の呼称を患者が私に使うようになりまして、自分は治療魔法師ではないことを毎回説明しなければならなくなりました。


こうしてテオフィールの助手になりまして、二年も経ちました頃に、テオフィールが興奮した様子で診療室に入ってまいりました。


「ナタリア、ついに女子にも王立癒術士の道が開けたぞ!」


貴族の令嬢でも社会での活躍の場を与える機運が高まって来ていることで、このたび、王の発案による改革で、その年の王立癒術士試験は、貴族の令嬢にも門戸を開くことになったということなのだそうです。


貴族の令嬢が社会で活躍する場面を演出したい王室が、ここのところ貴族の間で噂の高い王立治療院の女性助手の活躍に目を付けて、王国初の女性王立癒術士誕生と、諸侯の前で大々的に紹介しようということになったみたいだとテオフィールは笑いながら申しました。


「宣伝に使われることを承知の上でも、ぜひ受験した方がいい。貴族の女性は、男性の癒術士に患部をみせたり、肌に触れられるのを忌避し、平民の女性治癒魔術師も、身分故に近づけさせないので、それが原因でたくさんの貴族女性が命を落としている。君が正式な王立癒術士になることで救える命がきっとある。」


私も願ってもない好機到来に歓喜いたしました。テオフィールの助手として厳しい修行に耐え抜いた成果が、これでようやく社会に認めてもらえるのですから。


試験の日まで、私はテオフィールの助けを借りて、苦手な癒術理論の勉強に集中いたしました。実地試験に関しては申し分なく、推薦状も王立治療院の院長とテオフィールのふたりの推薦状に勝るものはないということで、万全の準備が整いました。


王立治療院で働く全ての人達が私を応援しておりました。

特に私が訳ありの貴族の令嬢と勘違いしていた同僚の助手の皆さんは、よくここまで頑張りましたねと、まるで家族のごとく涙して喜んでくださいましたので、まだ合格しておりませんのよと、苦笑してしまいました。


そうして、明日が試験当日という日のことです。私は明日が試験日だからと、特別な事は何もせずに、いつもの通りテオフィールの助手を続けておりましたが、この日、その後の私の運命に大きく関わることになる出来事がございました。


別の癒術士がテオフィールのところにやってきて、貴族の女性で産後の肥立ちが悪く、今日か明日が山場の命に関わる女性がいるので、手伝ってもらえないかと相談にいらしたのです。


王立癒術士といえど、貴族女性に直接触れることが許されずに、診断が遅れたため、緊急を要する事態に陥ってしまったと苦しそうに訴える癒術士に、テオフィールが無言で私の方をみました。


私はそのとき既に診療道具を鞄に詰め終えようとしていたところでした。テオフィールが診察を断るはずが無いことを、一番よく知っている私には当然のことでした。


「しかし、明日が試験のナタリアには……。」


私はテオフィールにそれ以上は言わせませんでした。


「参りましょう」


そう簡単に告げると、癒術士の案内で、テオフィールと一緒に貴族のお屋敷に向かいました。


二人の癒術士が幕の向こうに控える中、私は患者である褥婦(じょくふ)の元にひとりで向かい、その状態を二人に伝え、その指示で処置を行うという連携で患者の治療は始まりました。私が貴族身分の女性助手だということで患者は心をひらいてくださり、治療は進みました。


この連携方法は、実はもうこの二年間テオフィールとの間では何度も繰り返してきたことでした。幕の向こうのテオフィールは、意見を述べることはあっても、私の治療法に異を唱えたことは一度もなく、実質上は全て私が治療をおこなっていたのです。


テオフィールを呼びに来た癒術士も、そのことはよく心得ていて、実はテオフィールを呼びに来た体ではございましたが、本当は私を呼びに来たのです。


診断するまでもなく、患者は産褥熱で命を落としかけておりました。


「テオフィール、これは重度の産褥熱よ、どうしたらいい?」


「ナタリア、君はここで私にどうしたらいいか聞いてはいけない。君は我々と対等な癒術士だ。君が指示してくれ。われわれは君の指示に従う。」


緊迫した言葉が産褥室に響きました。


「ではテオフィール、あなたは幕の向こうから手を伸ばして、私の背に手を当て、私に回復魔法をかけ続けてください。私には洗浄魔法が使えませんが、テオフィールの魔力を使って、いまから洗浄魔法を学びます。」


私は必死でした。使ったことのない洗浄魔法を、この緊急の場面で、学ぶところから始める決心をしたのです。


貴族のしきたりは厳しく、産褥室には女性しか入れません。たとえこの女性の命と引き換えにしてでも、貴族の掟は絶対でした。私以外に産褥室に入れる人がいないのですから、そうするしかありません。


「ナタリア、脳裏に静かに水が流れる様子を想像するんだ。その水の流れが、ありとあらゆる穢れたものを洗い流すことを思い浮かべながら、水魔法を使ってみてくれ。」


私はテオフィールの言葉に、一切の疑問を持たないよう心からの信頼の心で、静かに水の流れを想像しました。背中にあてられたテオフィールの手からは、愛情の込められた熱いものが流れ込み私の全身を包んでいました。


実際の水は流れませんでしたが、確かに指先に全てのものを洗い流す水の力がたぎってくるのを感じました。


「テオフィールできたわ。もう少し強く回復魔法が掛けられないかしら。」

「ナタリアこれ以上は危険だ」

「大丈夫。指示を出すのは私と言ってくださったでしょう。これは私の指示よ。」


産褥室に静かな二人の声だけが響いていました。


テオフィールの回復魔法が少しだけ強まったおかげで、私の指先から洗浄魔法が患者の腹部に吸い込まれていくのを感じました。


「上手くいってるわ、テオフィール。このまま産褥熱が治まるまで続けたいけれど、大丈夫?」


「ああ、私は大丈夫だが、ナタリアの体がたぶん持たない。そういう無謀は到底認められないから、少しでも疲れを感じたらすぐに言って欲しい。あまり集中しない方がいいので、なにか気をそらすような話をするといい。」


テオフィールは、そう言ってくれましたけれど、いまの私には目の前の患者を助けたいという必死な気持ち以外、なにも浮かびませんでしたから、しかたがないので、医術に関する話をすることにしました。


「産褥熱の治療で魔法に頼らない方法があればいいのにね。」


「ああ、医術の進歩は激しいから、いつかは必ず方法が見つかるだろう。今はこれしかないからしかたがないけれど、何でも魔法に頼る治療は反対だ。魔法に頼ってばかりでは、どうして治療効果があるのかという肝心の医術証明ができない。証明できない治療法では医術は進歩しない。」


「魔法に頼らない方法って、どのようなものなの? 私には想像が出来ないわ。」


「ああ、私にも想像はつかない。だが、いつか、始まりの王の書物を読んでみるといい。始まりの王は、魔力が全くなかったけれど、『威圧』の力で国を治めたのだそうだ。私が思うに『威圧』とは、魔力とは真逆の、しっかりとした知識に基づき、理屈で説明のつく力の事だ。私は医術に関する知識のことを仮に『医学』と呼んでいる。医術の世界の『威圧』とは『医学』の事だ。」


「医学」初めて聞くその言葉を、私は何度も繰り返しました。医術は学問で解決して初めて進歩するという考え方はとても共感できました。


「ごめんなさい。続けられそうにありません。」


どれほどの時間が経ったでしょうか、私は激しい脱力感で、そう告げると、その場に倒れ込んでしまいました。


次に目が覚めたときは、深夜になっていた様子で、心配したテオフィールの手は、まだ私の背中に乗せられたままでした。


ゆっくり体を起こすと、真っ先に患者の腹部に触れてみました。


「テオフィール、熱が下がってきたみたいよ。」


「そうか、山場は超えたみたいだな。」


「できたら全身に洗浄魔法を掛けてみたいのだけど、いいかしら。もしかしたら産褥熱って、産褥室が不潔だから起きるんじゃないかなって、ずっと考えていたの。もしこの考え方が正しかったら、産褥室のあり方を変えるだけで患者が救われるんじゃないかしら。」


テオフィールも私の考えに概ね賛成してくれました。


ではせめて新鮮な空気を入れるよう屋敷のものに伝えようと、私たちに助けを求めてきた癒術士も賛同して腰を上げ、幕の向こうから離れていく足音が聞こえました。


患部の洗浄魔法から、全身の洗浄魔法に移った頃には、ずいぶんと慣れてきました。まだテオフィールの回復魔法がなければ、少しの力も出せませんが、訓練を重ねることで解決できそうな予感がしました。


そのまま、どのくらいの時間、患者の全身に洗浄魔法をかけ続けたでしょうか、部屋の隙間から、外の明かりが入ってきた気配がして、そのうちに産褥室の締め切った窓がようやく開けられ、朝の陽光が部屋の中をいきなり強く照らし出しました。


もうこんなに時間が経っていたとは思ってもいませんでしたので驚きました。

驚いたのはテオフィールも一緒だった様子で、幕の向こうから慌てたような声がしました。

「ここまで落ちつけば、あとは僕でも何とかなるから、試験会場に急いで行って欲しい。」


テオフィールの慌てながらも優しい声に、私は思わず笑顔になりました。この人は、とても不器用な話し方なのに、本当にどこまでも優しい人です。でも、私はきっぱりと断りました。


男の人が入れない産褥室で、テオフィールがひとりで何かをできるとは到底思えませんでしたから。


「自分に助けを求める人がいるのに、助けない選択肢はないとおっしゃったのは、あなたではないですか。わたしはそういうあなたの一番弟子ですよ。患者が安全な状態になるまで、私がここを離れられるとお思いですか?」


私は幕の向こうにいるテオフィールに、笑顔ではっきりと伝えました。


「まあ……ナタリアには無理だろうな。」

幕の向こうから苦笑交じりの不器用で優しい声が聞こえてきました。


自分の助けを必要としている人が、すくなくともふたり、ここにいるのです。

ひとりは患者。そして、もうひとりはテオフィール。

私はこの瞬間、これ以上ない、とても幸福な気持ちで満たされていました。


熱が完全に治まった患者はみるみる回復していって、私の勧めた栄養のあるスープも飲めるようになりました。私は静かに幕の向こうにいるテオフィールの元に行くと、何も言わずにその胸の中に包まれ、テオフィールは黙ったまま額にキスをしてくれました。


産褥室を出ると、穢れを嫌う貴族のしきたりに従って私は着ていた白衣から下着まで全て脱いで、お屋敷から支給されたドレスに着替えました。


屋敷の主人達はやはりしきたりに従い、産褥室から出てきた私に会うことはできませんでしたので、代わりに私たちをもてなしたのは、患者の実家から駆けつけていた実の弟でした。


「セドリックと申します。テオフィール様、このたびは姉の命を救っていただき、心から感謝申し上げます。王都に聞こえの高い癒術士のテオフィール様に救っていただき、家人も、とても喜んでおります。」


丁寧に頭を下げるセドリック様の言葉に、感謝の気持ちがあふれているようでした。


「いいえ、セドリックさん、誤解があるといけませんので、お話ししておきますが、患者をその身に変えて救ったのは、ここにいるナタリアです。私も、そこに控えている癒術士も、実は何もしておりません。産褥室ですからね、男は何もできないのですよ。女性のナタリアが、たったひとりで命がけで救ったのです。」


そのように、おおげさに話すテオフィールに、驚きの顔を隠せない様子のセドリック様は、正式な貴族の礼を持って私に挨拶をしてくださいました。


「ナタリア嬢、このご恩はわたくしも、わたくしの家族も、生涯忘れることはないでしょう。心から感謝申し上げます。このご恩にはいつの日か必ず報いたいと存じます。」


私も何かご挨拶をしなければと思いましたが、適当な言葉がみつかりませんでした。


「セドリック様、ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。私は貴族の娘としてではなく、ここにいるテオフィールの専属助手としてここに来ておりますので、家名を名乗らないご無礼をお許しください。」


そうして、助手なら当然そうすると思いながら、挨拶はそこそこにして、患者の世話をしているメイドを呼んでもらい、患者の清潔を保つためのいくつかの指示をさせていただきました。


セドリック様は、私のまるで貴族の娘らしからぬ行動に、しばらくは唖然としておりましたが、気を取り直したように、私たちを、最高のもてなしで食事に誘ってくださいました。


その後、治療院に戻って、報告書を書いて院長に提出すると、さすがに疲れが出ていて、このまま患者の治療にあたるのは良くないと自分で判断したわたくしは、この日は家に戻って早めに休むことにしました。


本音を言えば、あれほど頑張って勉強してきた癒術士試験に行けなかったことで、無力感が激しく、とてもここにいられる状態ではなかったのです。自分の決断には少しも後悔はないはずなのに、屋敷に戻って、ひとりで泣きたい気持ちになっていたのです。


私の耳に、王立癒術士試験が終了して、セリーヌ・ド・シルフォワ子爵令嬢という、一度も名前を聞いたことのない人が、王国初の女性王立癒術士に選ばれたことが聞こえてまいりました。


セリーヌは、王の改革最初の成功例として、国王により、王国中に広く紹介され、国をあげて祝福されたそうです。


その祝賀ムードは、王都のメイン通りを、聖獣馬が曳く王家の紋章の入った馬車の上で、セリーヌが手を振るパレードで最高潮に達し、家々の窓からはたくさんの花びらの吹雪が巻かれ、人々の歓声が王都中に聞こえたそうですが、私はテオフィールから受けた強い回復魔法の後遺症で伏せっておりましたので、その光景を見ることはありませんでした。


『王国初の女性王立癒術士セリーヌ・ド・シルフォワ子爵令嬢』の名は、その後も語り継がれ、癒術の教科書にはたくさんのページが割かれて今でも紹介されております。


後に、新たな王立治療院が建設された際には、その名も『王立セリーヌ記念治療院』と名付けられ、セリーヌは初代の院長に就任したというお話です。


そのような外の騒ぎなど無縁な場所で、私は相変わらずテオフィールの助手として、難しい患者の治療や、貴族のお屋敷への往診に明け暮れ、時には下町の平民の家にまで出かけていったりと、その忙しさに王立癒術士試験の事はいつしか忘れてしまっていたほどでした。


でも、初の女性王立癒術士誕生の余波は、意外なところで私を苦しめることになりました。「無資格の助手が、女性患者の前で癒術士の真似をしている」という心ない中傷がきこえるようになってきたのです。


女性の王立癒術士がいるというのに、女性患者をその癒術士に診察させずに、なぜ助手に任せているのだという苦情が、連日テオフィールの元に届くようになりました。


「任せたくとも、その肝心の女性王立癒術士とやらは、一度も王立治療院に出勤してきたことがないから任せようがないしな。そもそもどのくらいの腕があるのかもわからないから検討すらできない。われわれとしては女性患者を全部任せたい心境なのになあ。」


とテオフィールは意にも介さない様子でした。


私はと言えば、テオフィールの「気にするな」の明るい一言で、そのような陰口はきれいに忘れることができました。


忙しい毎日の中でもテオフィールと私は愛を育み、もう少し落ち着いたらきちんと結婚をしようと話し合っておりました。


そうして半年ほどが過ぎた頃でした。ある日突然テオフィールが王立治療院に姿を見せなくなってしまったのです。重症患者を放置して治療院に現れなかったことなど、ただの一度もなかったテオフィールに、何か重大な事が起きたのではと感じました私は、テオフィールのお屋敷にすぐに伺ったのですか、「ここにはいない」と冷たく門前で追い返されてしまいました。


何事が起きたのかもしれないまま、何日か過ぎた頃、ようやくテオフィールが王都の外れにある療養所にいるらしいという話を聞いて、いても立ってもいられずに、すぐに駆けつけました。


やっとの思いで探し出したテオフィールは、別人のようになっていました。患者から移された伝染病に犯されて、療養所でひとり病気と闘っているうちに、伝染病は何とか治ったのですが、その間に高熱に長期間晒されたため、記憶を無くしているとのことでした。


テオフィールのお屋敷の方は、私に知らせれば、必ず治療をしたいと駆けつけて、ふたりとも感染してしまうから、決して話さないようにと使用人に口止めしていたのだそうです。


「テオフィール、ひとりで病と闘っていたのね。力になれずにごめんなさい……。でもこれからは私がついています。記憶が戻るまで、私がずっとおそばにいますからね。」


私は、全てを忘れて遠いところを見つめているだけのテオフィールに泣きすがっておりました。


伝染病の心配がなくなって、設備の整っている王立治療院に転院したのは、それからひと月も後のことでした。テオフィールは自分がこの王立治療院で働いていたことも、全く思い出せないようで、まだ戻らぬ体調でうまく歩くこともかなわず、ベッドに横たわるだけの毎日でした。


しばらく経ったある日のこと、いつものように出勤して、真っ先にテオフィールの部屋に参りましたら、見知らぬ女性がテオフィールに朝食を食べさせておりました。そばにいた同僚の助手に尋ねましたところ、あの人が今年王立癒術士になったセリーヌさんだと告げられました。


今まで一度も王立治療院に来たことのないセリーヌさんでしたが、国の宝とも言える天才王立癒術士のテオフィールが病に倒れたことを知った国王が、特にセリーヌさんを指名して治療にあたらせることにしたのだそうです。


「あなたがこれまでテオフィール様の看護を担当している助手のかたね。癒術士の資格もないのに、見よう見まねで看護されていたそうで、さぞ大変でしたでしょう。今日からは私が治療をいたしますから、ご安心なさいね。天才王立癒術士のテオフィール様が記憶をなくされたまま、助手に任せて、まともな癒術士の治療も受けていないと聞いて、いても立ってもいられずに駆けつけたのよ。私には専属の優秀な治癒魔術師がたくさんいますから、もう安心です。あなたをテオフィール様の看護から解放して差し上げますね。今までご苦労様でした。」


「でも……私はテオフィールの専属助手ですので、離れるわけには……。」


涙目で訴えましたが、治癒魔術師でもない雑用係の助手が、よくこれまで慣れない看病をしてくれましたと、感謝の言葉を告げながらも、セリーヌは決して私がテオフィールの近くに行くことを許しませんでした。


テオフィールは、まるでただの介護助手のひとりを見るような目で私を一瞥しただけで、セリーヌから渡された食事を美味しそうに食べていました。


その後の私は、いったいどうしたというのか、無意識のうちに気がついたらテオフィールの聴診道具が入った鞄を抱えて、いつもならテオフィールの後ろから遅れまいと早足であるいて患者の往診に回っていた下町の街道を歩いていました。


「あら、ナタリア先生じゃないか。しばらく来なかったから、私らのことなんか忘れちゃったのかと思ったよ。ありがとうね、往診に来てくれて。うちのバカ息子が、先生に駄目だって言われてたのに聞かずに酒飲んじまってね。足が痛いって騒いでるんだよ。なんとかしておくれよ。今日は男先生は一緒じゃないんだね。」


いつも陽気なおかみさんでした。その声に気づいたのか、次々と私の周りに、病気の時にお世話をした患者や家族の人達が集まってきました。


「先生だけだよ。私らを見捨てないでいてくれるのは。本当に感謝しているんだからね。」


そう言われた瞬間、私はようやくその場にテオフィールの鞄を抱えたまま、泣くのを許された気持ちになって、大声で泣き崩れました。


下町の優しい皆さんが抱きかかえるようにして近くの食堂に連れて行ってくださり、椅子に座るよう促されると、皆さんは何も聞かずに、ずっといつまでも私の背中をさすっていてくださいました。


その日私は初めてお屋敷に無断で外泊しました。食堂の旦那様や奥さんのご親切で二階の宿部屋に泊まらせて頂いたのです。


翌朝も、噂を聞きつけた下町の皆様が、私のことを心配して次々とやってまいりました。いつの間にか、こんなにも私は下町の皆様に守られていたことを知り、感謝の気持ちで一杯でした。


やってきた人の中に、平民ではない方もいらっしゃいました。


「もし私にお力になれることがございましたら、ぜひ言ってください。私には尽くしがたいご恩があるのですから。」


そうおっしゃってくださったのは、私が王立癒術士試験の前夜に治療した褥婦の弟のセドリック様でした。あのとき食事をもてなしてくださったセドリック様は、変わらぬ紳士の態度で私に貴族の挨拶をされていらっしゃいました。


「ナタリア嬢、半年ほど前に、姉の命を助けて頂いたセドリックです。覚えていらっしゃいますでしょうか。」


「忘れるはずがございません。お姉様はすっかりご健康になられたと伺っております。でも、どうしてセドリック様がこちらにいらしてるのですか?」


貴族がこのような平民の食堂に来ることなど普通はあり得ないことです。あまりに不思議だったものですから、尋ねました。


「そりゃあナタリア先生、このセドリックさんは、いつもナタリア先生の事を心配していて、私らにナタリア先生を困らせないようにって、先生へ渡す治療代を立て替えてくださったりしていたのさ。先生が何か困っていたらお屋敷にすぐに連絡してほしいって言われてたから、皆が急いで知らせに行ってきたってわけよ。」


以前治療したことのある、人なつこい町民の方がセドリック様のかわりに教えてくださいました。


「まあそのようなことを……。私は医術を心得る者として当たり前のことをしただけですのに……。」


「ナタリア嬢、そのような謙遜をなさらないでください。ここにいる皆さんには、いかにナタリア嬢が素晴らしい癒術士であるかを、何度も繰り返し聞かされていて、みんな覚えてしまったほどです。本心皆さんも私も、あなたには感謝しているのですよ。困っていらっしゃるときくらい手を貸すことを許してください。」


「そうだよ、そうだよ」という町の皆さんに勇気づけられて、私は少しだけ落ち込んでいた気持ちを救って頂いた気がいたしました。


それほど詳しいお話はできませんでしたが、私にはもう居場所がどこにもないのですと、寂しい気持ちを皆さんに打ち明けました。


「何処にも行くところがないんだったら、ここに診療所を開いておくれよ。みんな貧乏だから儲からないかもしれないけれど、食べていくくらいはできるよ。ご飯くらい私が三度三度とどけるしね。」


宿のおかみさんが、そう提案すると、「ならあそこに診療所にちょうどいい部屋がある」などと誰かが言いだし、「部屋の契約料くらい、お金持ちのセドリックさんが出してやれよ。」と、無骨な体をして昔治療した怪我がすっかり治ったと笑っていた酒屋の主人が言い、私が何も言いださないうちに、すっかり私は下町の診療所の仕事をすることになってしまったのでした。


歩けば数歩で部屋の隅から隅に行き着いてしまうほど小さな診療所でしたが、私にはこのうえもない安らぎの場になりました。私の住まいは、その診療所の二階で、大工の工房の皆様が大きなベッドを運んでくださったら、もうそれだけで部屋がいっぱいになるほどの狭さでした。


街の人達はみな親切でいつも私のことを気遣ってくれ、いつしか私も悲しみを乗り越えて、下町の皆さんの診療を、以前のように楽しく行っていました。


お屋敷からは心配したばあや達が、一度お屋敷に戻るよう何度も説得に参りましたが、居場所を見つけた私には、もはやお屋敷はさほどの場所でもなくなっておりましたので、そのうちに説得を諦めたばあやが、時々着替えを持ってくる程度になりました。


セドリック様もご病気でもないのに、体の健康状態を見て欲しいなどと、適当な言いわけをしながらいつもいらっしゃいました。


そしてその日は、小さなお子さんを抱えた、あの褥婦だったお姉様と一緒にいらっしゃいました。お姉さんは、もうまったく心配いらない健康なお姿で明るく私にお礼を言ってくださいます。


「ナタリア先生、少しおなかが目立つようになりましたね。お大事にしてくださいね。」

めざとくお姉様に言われて少し恥じらいの顔を浮かべながら、ありがとうございますとお答えしました。


「あの日は私のせいで王立癒術士試験を棒に振ったと弟から聞かされております。とても申し訳ないことをしたと、一度きちんとお詫びがしたくて、弟にせがんで来たのです。ナタリア先生、もしお気持ちがあるのでしたら、ぜひ次の王立癒術士試験を受けるためのお手伝いをさせていただけませんか?」


驚きの提案でした。王立癒術士試験は、私が王立治療院でテオフィールの助手として働いていたからこそ受験資格を得られたのであって、平民相手の治癒魔術師には到底無理な話でしたから、全く考えてもいなかったのです。


セドリック様と、お姉様がおっしゃるには、王立治療院の院長はいくらでも推薦状は書くとおっしゃっているのだそうで、お姉様も高位貴族でしたから、高位貴族の推薦状もあるので、受験資格には全く障害は無いとのお話でした。


前回の試験の時も王立治療院の院長には推薦状を書いていただいたのにご迷惑をおかけしましたから、ふたたび推薦状を書いていただくのは、あまりに厚かましいことでしたが、そのご親切には本当に頭が下がる思いが致しました。


「それに悔しいではありませんか。弟に聞いた話では、女性初の王立癒術士と評判のセリーヌという女性は、王立治療院に来ても助手達に任せるばかりで、ご自身はまったく患者の治療はしないというお話ですよ。院長から弟がお伺いしたそうなので、間違いございません。それなのに治療院でもテオフィール先生の次に腕が良いと言われていたナタリア先生が、テオフィール先生の看病も出来ないなんて、わたしは悔しいですわ。ぜひ次の王立癒術士試験に合格して、テオフィール先生の看病は王立癒術士になった私がいたしますと、堂々と言っていただきたいのです。」


私の中では、もう過去の話になりつつあった、あの悪夢のような出来事を、私以上に悔しがってくださる方がいらっしゃることに、とても感謝しました。気持ちをわかってくださる人が、私の周りにはたくさんいる。それだけで十分でしたので、王立癒術士試験の受験のお話は丁重にお断りしました。


でもセドリック様のお姉様は、諦めずに何度も診療所に通ってこられたのです。


「ナタリア先生、我が家の皆で話し合った結果、我が家の主治医はナタリア先生と決めることになりました。王立治療院の院長にも正式に認めて頂きましてよ。」


最後には、とうとうこんなことまで言いだして私を説得したのです。


「でも残念ですわ。院長が申しますに、貴族の主治医になるには王立癒術士の資格が必要なんですって。我が家は少しは名の知れた貴族ですから、一度決めた主治医を変えるなど聞こえが悪いと当主が申しておりましてね。これでは家族が病気になったら治療してくださる癒術士がいませんわ。どうしましょう先生。」


そのような決まり事なんて聞いたことがありませんから、私は苦笑してしまいましたが、そこまでして私のことを買ってくださる皆様にお答えしないわけにはいかないと意を決して、次の王立癒術士試験に再挑戦する決断をしたしました。


それからは治療の傍ら、試験の勉強を再開し、教材などはセドリック様と、お姉様が代わる代わる届けてくださったり、まるで私よりも王立癒術士試験に熱心なのではと思うほどでした。


「ほらジル、また診療所に来て! ナタリア先生はお勉強で忙しいんだから、ご迷惑をおかけするんじゃないよ。そのくらいの擦り傷なんか、唾でもつけておきな。」


いつも忙しい私にかわって診療所のお掃除や食事の世話をしてくださっていたお隣のおかみさんが、ジルを叱っていました。


快活な男の子のジルは、私が初めてテオフィールに連れられて心臓弁膜症の父親の診察に来たとき、卵を10個診察代として持ってきた男の子でした。母親のいないジルは、私のことを慕ってくれて、「塀から飛び降りたら、ちょっとだけ血が出ちゃって……」などと、診療所に来る理由を考えては、いつも卵を一個だけ持ってきてくれていました。


彼なりの応援だと知っている私は、「だめよ、唾なんかつけちゃ、洗浄魔法をかけてから包帯をしておきましょうね。」と、たいしたことのない傷口を治療してあげ、「はい終わりました。治療代は卵1個よ。」と言いました。わたしもこの頃には、自力で洗浄魔法が使えるほどに魔力が上がっておりました。


「このくらいの治療で卵一個取るのかよ。さすが強欲男先生の助手だけあるな。」


と悪態をつきながらも、ジルは嬉しそうに台所に卵を置いていくのでした。


街の皆様も、私に気をつかってくれて、勉強の邪魔にならないようにと、よほどのことでもない限り診察にはこないように協力してくださっていましたから、少しだけ勉強に余裕ができて助かりました。


こうして私は、大分目立つようになったおなかを抱えて、一年前に断念した王立癒術士試験を受けに王城に向かうのでした。


まあ、この格好を見れば大抵の試験官や、受験の方は驚かれるでしょうね。なによりも私自身がこんな格好で受験に臨むことになるなんて、ほんの数ヶ月前までは考えられないことでしたもの。


「実技試験を担当するグラウベルト・フォン・イシュトリアと申します。ナタリア嬢……とお呼びしてもよろしいですか?」


「はい、どのようにでも構いません、イシュトリア卿。」


「ではナタリア嬢、今回の実技試験には、見立てと、止血縫合と、治癒魔法と、救急処置があります。少し、その……ナタリア嬢にはきついかもしれませんので、無理をなされませんよう。無理と判断いたしましたらお止めする場合もございますので了承願います。」


気遣ってくださっているイシュトリア卿には申し訳ありませんが、私にとっては、実技試験など、これまでテオフィールに従って過酷な助手の仕事をしていたときの事に比べれば、何でも無いとても易しい実技内容に過ぎませんでしたから、少しもきついことはありません。


最初の「見立て」は、自分でも不思議に思うほど、患者のステータスが自然に透視でき、小さな病変も見逃さずに即座に診断を下せました。普通の受験生なら一時間はかかるはずの「見立て」をものの五分もかからずに終えてしまったものですから、イシュトリア卿はあんぐりとした顔で、私の見立て表を眺めておりました。


「右の腎臓に結石が見られるとありますが、今回の見立て試験用に手配した患者はナタリア嬢が最初に回答した甲状腺肥大の患者です。その解答で満点ですが、腎臓結石については、試験官の誰もが気づきませんでした。採点に影響することですので、しばらく待っていていただけませんか? 王立癒術士全員で患者の精密検査をしたいと思います。」


そうしてしばらく待たされた後に、確かに右腎臓に小さな結石がたくさん見つかり、要治療と診断されたと教えていただきました。


次の止血縫合の実技試験は動物の皮膚模型を使った試験でした。傷口に止血部位を探して止血してから傷口を消毒して縫合するまでの試験でしたが、私は傷口の消毒以外、魔法は一切使わずに行ったものですから、他の試験をしていた癒術士まで集まってきて、私の指裁きを感心した顔で眺めておりました。


「ほう、ほとんど出血しませんでしたね。これを魔法無しでやられるとは……」


「いえ先生、むしろ魔法は使わない方がいいのです。細かな手術は指先でやるほうが、精密な治療ができますから。魔法ではここまで細かくはできません。」


私はテオフィールから何度も聞かされていたことを説明しました。


次の治癒魔法は、私はどちらかというと苦手意識がありましたが、下町の皆さん相手に洗浄魔法を毎日のように使っておりましたせいでしょうか、魔力も足りて、不思議とスムーズにこなすことができました。


最後の救急処置は、突発的な患者の治療が正確にこなせるかどうかという試験でした。


目の前に救急の患者に見立てた人が横たわっており、気道閉塞状態と仮定されておりました。この救急の患者にどのような救急処置を施すかというのが試験内容でした。


普通であれば、当然のように浄化系風魔法を駆使して毒を排出するのですが、私は風魔法の属性はありませんでしたので、それは使えません。それでも口頭でそのように説明するだけでも一応試験の成績にはなるのですが、ここは実技試験です。


本当に気道閉塞状態の患者が目の前にいたら、私はどうするでしょう。そう思ったら私は迷わず患者にまたがって胸部圧迫を始めました。貴族の令嬢がすべきではない、あまりにはしたない行動に、試験官の皆様が大慌てになりました。女性に門戸を開いたばかりの試験に、試験官も不慣れだったのでしょう。


そして私がマウスツーマウスの人口呼吸を始めようと、患者の顎を上げて鼻をつまんだところで、慌てた試験官により試験中止の合図が出ました。


「わ、わかりました。ナタリア嬢、それは言葉で説明していただくだけでもう満点ですので、そこまでなさってはいけません。」


そんな騒ぎがございましたが、それで私の実技試験は終了し、筆記試験もたぶん私の感覚ではそこそこにできたのではないかという感触で、最後の口頭試問になりました。


「ナタリア嬢、あなたは貴族のご令嬢でありながら、下町で平民の治療を行っていると聞きましたが、事実ですか?」


「はい、確かに私は貴族であり、貴族の患者を長年診てきましたが、今は平民相手の治療を行っています。」


「それはなぜですか? 何か特別な理由がおありですか? もし貴族も平民も等しく治療するのがナタリア嬢の方針というお話になったら、ここは王立癒術士を育てるための試験ですので、合格させられないことになってしまいます。」


「それは……。私は王様のご恩でこの仕事に長く携わっておりますので、その恩に報いたい気持ちです。でもそれと同時に、目の前に私に助けを求める患者がいたら、それを見て見ぬ振りして通り過ぎることが、どうしても私にはできないのです。それがたとえ平民であってもです。これは私の癒術士としての本能のようなものなのかもしれません。」


「なるほど、よくわかりました。昔あなたとそっくりなことを言った癒術士がおりましてね。合格後は天才癒術士などとも呼ばれていたものですよ。今日のあなたを見せていただきましたが、あれを彷彿するような光景でした。」


口頭試問の試験官は、笑顔で優しく私に語りかけたのでした。


「主席合格です。おめでとうございます。」


まもなく発表された結果は、私の予想を遥かに超えた好成績の合格発表でした。


国王からの祝福も、祝賀パレードもありませんでしたが、診療所に詰めかけたたくさんの皆様の祝福は、何にも勝るものでしたので、私はとても幸福でした。


「ナタリア先生。王立治療院に報告に行ってきておくれよ。この診療所がなくなるのは寂しいけれど、前みたいに王立治療院からときどき診察にきてくれればいいからさ。これはここに住んでいる皆の夢だったんだ。王立治療院一の名医が、俺たちの先生なんだって自慢する日が来るのがよ。」


こうして私は皆さんの期待を背中にうけて、およそ半年ぶりに王立治療院に向かうのでした。


半年ぶりにくぐる王立治療院の門でしたが、懐かしさも、そこにいた自分への未練も特に感じず、ただ淡々と待合室までの緩いスロープを登っていきました。


私にすぐに気づいたのは元同僚の助手の皆さんでした。私が王立癒術士試験に合格したことは皆さんご存じの様子で、突然の私の訪問に、驚きと祝福が混じった複雑な歓迎の声があちらこちらから聞こえて参りました。


静かに微笑みながらも、緊張して声も出ない私は、考えまいとしてはおりましたが、やはりその足は、テオフィールのいた病室に向かって真っ直ぐ進んでおりました。


ああ、久しぶりに会うテオフィールに、私はその第一声を何と発すればいいのでしょう。記憶は戻りましたか? 私を思い出していただけましたか? 私はあなたが望んだとおりに試験に合格しましたよ。次々と浮かぶ思いで、胸は一杯になっていました。


でも、その病室にテオフィールの姿はありませんでした。

私に相変わらず、懐かしさのこもった声で話しかける方や、祝福の言葉を投げかける人達が私の後ろからたくさん付いてきましたが、私が病室の入り口で立ち止まったら、皆さんそれまでたくさん掛けてくださっていた声が一瞬止まりました。


「ナタリア、テオフィール先生なら、すっかり健康になって、今も敷地のお庭で日に当たっていますよ。」


同僚だったベルナという名前の助手がそっと耳元で教えてくれました。ベルナは最初に私のことを訳ありの貴族令嬢と勘違いして、何かにつけて私に親切にしてくれていた同僚でした。


はやる心を抑えながら、私は治療院の庭園のようなお庭に向かいました。程なく庭のベンチに腰掛けるテオフィールを見つけ、それまで我慢していた私の目から少しだけ涙が頬を伝いました。


急ぎ足でテオフィールの元に駆けつけようとした私の足が突然止まりました。テオフィールに、まるで睦まじいという言葉が似合うほど寄り添っているセリーヌの姿が隣にあったからです。とても不安な予感がしました。それで私は足がすくんでしまったのです。


私に付き添うように一緒に庭に出てきた幾人かの助手の方の中にいたベルナが、その様子を見て小声で話してくれました。


「セリーヌ先生は、ナタリアが治療院を出てテオフィール先生の看護をしなくなってから、ずっとあのように、ただ寄り添うだけの毎日なのよ。癒術士としてのお仕事をなさっているのを誰も一度も見たことがないの。いくら王命とはいえ、ただ寄り添うだけの介護なら、王立癒術士でなくとも誰にでもできるわ。」


それでも、テオフィールがあそこまで回復したのを支えてくださったのでしたら、私には感謝の言葉しか浮かびません。でも、私のテオフィールが……。


「ナタリア、気を確かに聞いてね。いずれわかることなので、ナタリアがテオフィール先生のところに行く前にお話ししておくけれど、テオフィール先生とセリーヌ先生は、つい先日ご婚約されたのよ。」


すっと血の気が引く気が致しました。確かに私とテオフィールの婚約は、テオフィールが病気になった直後にお屋敷から私の家にご当主様がおいでになって、今の状態で婚約を続けることはとてもできないので解消したいとお申し出になり、私の父もそれを受けて正式に婚約解消しておりましたから、テオフィールが別の方と結婚されても私は何も言えない立場です。


それでも私は伝えなければならない事があります。

でも、ああ、あの睦まじいお二人を、私はどうして引き裂くことができるでしょうか。

テオフィールには、私との思い出など、なにひとつないのです。あるのは、ほんの短いあいだ、身の回りの世話をしたただの介護助手としての私の記憶だけです。


テオフィールに掛ける言葉など何一つないことに気づきました。あるのは今心穏やかに幸せを育んでいるテオフィールの心を乱すようなつらいお話だけです。


気丈に振る舞わなければ。そう私はこれでも貴族の女性のはしくれです。優雅に、できるかぎり優雅に、スカートの裾をつまみ、そして静かにこの場を去るのです。同僚の助手の皆様に涙は決して見せてはなりません。


私が王立治療院の門をくぐって外に出るまでの間、発した言葉は「皆様ごきげんよう」の一言だけでした。ああ、私はここに何しに来たのでしょう。もう二度と来ることはないと思っていた場所なのに、たかが王立癒術士試験に合格したくらいのことで、全てが元に戻ると錯覚してしまうなんて。


外には、私のことを心配してか、乱暴者のジルが、ひとり待っていてくれました。私の顔を見て幼いなりに何かを感じたのか、黙って私の手を取って、貴族の紳士でもあるかのように診療所までの街道をずっとエスコートしてくれました。


診療所に到着したら、あまりに早く戻ってきた私に、何があったのかを察した人達は、ジルがそうしたように、何も聞かずに、食堂の方に連れて行って、そこに皆が集まり、私を慰めるように、古くからある仲間を慰める歌をずっと歌い続けてくれました。


途中からは、やはり誰かが呼びに行ってくれたようで、セドリック様と、セドリック様のお姉様も駆けつけてきてくださいました。おふたりも下町のこの切ない歌を知っていらした様子で、下町の皆さんと一緒に歌って、いつまでも私を慰めてくださいました。


「ほらセドリック。思いを打ち明けるなら今しかありませんよ。下町の皆さんが証人になってくださいます。頑張りなさい。」


セドリック様のお姉様が、セドリック様のお尻のあたりを軽く叩くと、セドリック様が私の前に進み出てきました。そして恭しく片膝を床に付くと、突然の告白を始めたのです。


「ナタリア嬢、わたくしセドリックは、一年前にお会いしたときから、一時も忘れることなくナタリア嬢をお慕いしておりました。この気持ちを初めて打ち明けます。どうか私の妻になってください。私は生涯あなたを苦しませたり悲しませたりは決してしないとお誓いいたします。」


突然のことで私は言葉がありませんでした。今まで恋の対象になど、ただの一度も見たことのない方でしたので、何かの間違い話でも聞いているのではないかと錯覚したほどでした。


「ナタリア先生、セドリックの気持ちは本当です。姉の私が保証しますよ。気弱な弟ですが、ナタリア先生を幸福にできる男は、私の弟以外には絶対にいないと確信を持ってお伝えできます。どうかこの姉からもお願いします。弟を幸せにしてあげてください。」


「……でも」


私は黙って自分のお腹を見つめました。


「ナタリア嬢、わたしは今のあなたの全てを愛しております。全てを受け止めて、お子は私の子として育てます。ぜひ一緒に育てる栄誉を私に与えてください。」


セドリック様の真剣な表情は本物に思えましたので、わたしも軽い気持ちのお返事はできないと悟りました。お断りするにしても、時間を掛けて考えて話さないとと思いました。


「セドリック様、私のような者には勿体ないお言葉です。でも今すぐに心を決めることはできませんので、しばらく考えさせていただいてもよろしいでしょうか。」


そう言うのが精一杯でした。


「ちぇっ、すぐに返事しないのかよ。セドリック(にい)なら強欲女先生をくれてやってもいいかなって思ったのに。」


ジルがそう言うと、固唾を飲んでその様子をみていた下町の皆様も、緊張した体を息を吐きながらほぐし、何人かは奥からワインを持ってきてセドリック様に静かにすすめるのでした。


人生で一番長い日だったのではないだろうかと思うほど長い一日がおわり、診療所の二階のベッドに休む頃には、もう夜も大分更けておりましたが、しばらくは寝付くことができませんでした。


翌日の朝からは、いつものように診療所のドアを開け、待ちきれないように外で待っていた患者の診察を再開いたしました。まるで昨日までの出来事は夢の世界のお話でもあるかのように、静かな朝でした。患者の皆様も昨日の私に何があったのかをよくご存じの様子でしたが、その話には決して触れることなく、いつもの診察風景が流れておりました。


「ナタリア先生、私をこの診療所で雇って頂けませんか。」


唐突にそのようなことを言いに来たのは、昨日王立治療院でテオフィールとセリーヌのことを耳打ちしてくれた助手のベルナでした。


「先生はやめて、ベルナ。くすぐったいわ。前みたいにナタリアって呼んでちょうだい。どうしたの王立治療院のお仕事になにか問題ができたの?」


「いいえ、そういうわけじゃないの。昨日のナタリア先生の様子が……、あ、ごめんなさい。でも私の中では、ナタリア先生は王都一の王立癒術士なの。これからは私にもここに来ている患者の皆さんのように、ナタリア先生と呼ばせて欲しいわ。」


ベルナは、そう言うと、話を続けました。


「私はナタリア先生が王立治療院を黙って去って行く姿があまりに痛ましくて、もうテオフィール先生とセリーヌ先生のお二人を見るのが、絶えられなくなってしまったの。王立治療院は昨日のうちに辞表を出してきたわ。これでも私の家は少しは名のある商家ですもの、自分の食べる分くらいは何とかなります。報酬はいりませんので、どうかここで働かせて頂けないでしょうか。」


必死にすがるような目で訴えるベルナに、私は何も言えなくなりました。私がこの人の人生に何かの影響を与えてしまったのだわ。私には責任を取らなければならない義務がある。私はできる限りの笑みでベルナにこたえました。


「わかりました。ではこんなに小さな診療所ですけれど、お手伝いをお願いできるかしら。報酬は時には現物になってしまうかもしれませんが勘弁してね。」


そう言って、今日も何らかの理由を見つけて診療所に来たジルの手の中にある卵を指さしました。


「やらねえよ。これは強欲女先生に取りあげられる卵だ。でもベルナが助手になってくれるなら、この街のみんなが歓迎するぜ。この先生はちょっと目を離すとすぐに無理するから見張りが大変だったんだ。よろしくな。」


ジルは、まるでこの街の人達の代表でもあるかのようにベルナに挨拶をしました。

こうして街の人達にも受け入れられたベルナは、家からは通える距離だからといって、毎朝早く診療所に来て、お掃除をしたり、私の身の回りの世話をしたりと、まるで専属メイドのように働いてくれました。わたしもそろそろ体がきつくなってきていたので、とても助かりました。


昔からの私をよく知るベルナが、いつも近くにいて、お話相手にもなってくれるのは、とても心が穏やかになれてありがたかったです。


「ナタリア先生は、求婚してきたセドリック様にいつ心の内をお話になるの?

まさかお断りするつもりでいるのじゃないわよね。駄目よ、深く考えずにお断りしちゃ、紳士に対してとても失礼よ。」


ベルナはセドリック様が私に求婚してきた話を聞いたときは、まるで自分が求婚されたかのように顔を赤くして「まあ!」と絶句しておりました。


「セドリック様はとてもお似合いだと思うわ。私のような平民にだって、決して分け隔てすることなく、いつも紳士でいらっしゃる。私の知る限り、あれほどの紳士は他にはいらっしゃらないわ。ナタリア先生もそうよ。癒術士としてのナタリア先生は、絶対に妥協しない強い先生だけれど、ひとたび癒術士の立場を離れたナタリア先生は、気品が全身にあふれて物腰が穏やかな貴族のお姫様で、本物の淑女だわ。」


大げさよ……と申しましたが、セドリック様が紳士なのは確かなことです。思い起こせば、初めてお会いしたときから、あの方はそうでした。お姉様の治療で必死だった私は、たぶん髪も整えておらず、炭小屋で働く下女とどこも違わないほどひどい顔だったはずなのに、とても優雅なカテシーで最上級のご挨拶をしてくださいました。あのときからセドリック様の私に対する態度は、一度もぶれたことがありません。


激しく燃え上がるようなものはございませんでしたが、心が平穏を保てるようになるにつれ、静かさを求める私の心の中に、セドリック様の存在が、少しずつ広がって来るのを感じるようになりました。


「ナタリア先生、今日は市場で面白いものを見つけました!」


まるでジルと遊ぶ子供のように、セドリック様は、はしゃいだ顔で、ふたりがかりで持ってきたらしい馬の人形のようなものを診療所の中に持ってきました。


「セドリック様、これは大きすぎて邪魔です。そうでなくても狭い診療所なのですから、このような大きな木のお人形は持ってこないでください。」


ベルナに叱られて、ふたりは全く同じような顔でシュンとなってしまいました。


「これ馬の足の下にソリのような物がついてますわね。」


私が馬の人形を興味深くのぞき込んだら、途端に明るさを取り戻したセドリック様が、説明を始められました。


「これは『揺り木馬』というんだそうですよ。小さい子が乗って前後に揺らしてあそぶものなんだそうです。魔力を込めると勝手に前後に動いてもくれます。生まれてくる子にいいんじゃないかって思ってジルと運んできたんですよ。」


まるで子供に戻ったようにはしゃいでいるセドリック様に思わず吹き出してしまいました。ベルナは「ナタリア先生、セドリック様のことを、いつも紳士と言ったのは撤回します」と怒りながらも、顔は笑っておりました。


「セドリック様、これはどうみても二歳くらいの男の子が遊ぶ乗り物ですよ。まだ生まれてきてもいないし、男の子かもわからないのに、早すぎますわ。」


きっと私に少しでも笑っていて欲しいと思って、持ってきたに違いない。その気持ちがうれしくて、私はずっと木馬をなで続けていました。この木馬は、ベルナに何度も邪魔ですと言われ続けながら、この後もずっと狭い診療所の中に置かれ、小さな子供の診察椅子代わりとなっておりました。


「こういう愛の受け入れ方もあるのかしら……そもそも、これは愛なのかしら。」


セドリック様が帰られたあとで、だれに問うでもなくつぶやきましたら、ベルナが、「あふれるほどの愛に包まれると、心は騒がしくならずに、むしろ穏やかになるんじゃないかしら。」と、そのつぶやきに、つぶやきで答えてくれました。


こののち、ようやく心を決める決心がついた私は、セドリック様の求婚を受け入れるとお返事をしました。


そうしましたら、セドリック様以上にセドリック様のお姉様が飛び上がって喜んでくださり、慌てたようにお屋敷に戻ると、ご主人様に求婚の使者になるよう伝え、セドリック様のお屋敷と私のお屋敷との間を取り持つ正式な使者として向かわれました。ほんの数日のお話で、わたしも驚いてしまいました。


ベルナは、このあとセドリック様のお屋敷直属のメイドということになりました。そうすることでお屋敷に自由に出入りすることができますから、私に何事かあれば、正門からお屋敷に直接入っていってセドリック様にお伝えすることができます。


セドリック様のお屋敷に、私もご挨拶にお伺いしましたが、ご当主様ご夫妻もとてもお優しいお方で、何よりもセドリック様のお姉様のことでは返しきれない恩があると、セドリック様と同じような事を言って、私の手を取り泣かれてしまい、私はどうして良いかわからないほどでした。


結婚後も私が望むのであれば下町の診療所のお仕事は続けてもいいというお許しも頂きました。さすがに伯爵家の妻が下町に一人で暮らすのは無理なので、毎日お屋敷の馬車で送り迎えする話にはなりましたが。


アルフェルド伯爵家の次期当主セドリック・ド・アルフェルドの結婚式は国王陛下もご臨席いただくほどの盛大なものでした。わたくしは、さほど目立たぬようにと配慮された白く柔らかなドレスに身を包んで、貴族の皆様からの祝福を受けました。父も母も、王城にいる私の姉も、新当主になったばかりの弟も、みな祝福してくれました。


私の姉も少し目立つおなかをしていました。

「まあ臨月が一緒なのね。仲の良いお友達になれるといいわね。」

屈託のない、いつも明るい姉の笑顔には、とても救われます。


「いいな姉さん達は。僕のところはなかなか子宝に恵まれなくてね。」

弟は、少しおなかをなでていいかと私に聞いてきて姉に叱られていました。

「私のおなかでもなでなさい」と言われて「やだよ」と逃げていく弟に、「何処が違うんでしょう」と姉は笑いながらその後ろ姿を目で追いかけていました。

昔の明るく陽気な姉弟の頃に戻った気がして、とても懐かしくなりました。


ああ知らなかった。私にもこんな幸せが用意されていたんだわ。

運命に翻弄されながらも、私はみんなに守られて、こんなにも幸せでいられる。脳裏に浮かぶひとりひとりに、心の中で感謝の言葉を告げておりました。


診療所は少しの間ベルナに任せることにしました。

ベルナは助手としてではなく、もう立派にひとりで診療のできる治癒魔術師でしたので、任せても大丈夫と私は判断しましたが、それでも勉強熱心なベルナは、診療を終えてお屋敷に帰ってからも、私の部屋に来て、新しい患者の治療法について必ず相談しておりました。


そして「これが私の本当のお仕事なので」と言っては、メイド服に着替えると、私のお世話もしているのでした。無理しないでねとお願いしても、「王立治療院にいたときよりはずいぶんと楽な仕事ばかりよ。なによりも私が楽しいの」と、言って聞きませんでした。


セドリック様はお姉様のようなことにならないようにと申しまして、風通しの良い場所に新しい産褥室を作られました。それはこれまで私が見たこともないような清潔感のある広い産褥室で、産室は別棟に建て、また乳母やベルナ用のメイドの部屋まで隣接して建てられていて、広い産褥室には私が療養所から持って参りました医術書などが書棚に並び、もはや産褥室など名ばかりの私専用の華やかな書斎のようでした。


「いっそ産褥室など廃止して出産直後から夫婦の寝室で過ごせるようにしたかったのだけれど、母やばあや達に猛反対されてね。それなら産褥室の方を変えてしまえばいいんだと思ったのですよ。」


セドリック様は、いたずらなジルと一緒にいるときのような顔ですまして言うのでした。


「わたくし、次の出産は里帰り出産にしますわ。」


セドリック様のお姉様まで、この産褥室を気に入られてそうおっしゃいました。この後、王都の貴族のお屋敷の産褥室は、貴族達がこぞって豪華さと清潔さを競うようになり、産褥熱で苦しむ褥婦は激減したとのことでした。


季節が変わる頃に、私は無事に男の子の母親になりました。産後の肥立ちもよく、もちろん産褥熱に苦しむこともありませんでした。男の子の名前は当主のお義父様(とうさま)がお決めになるのが普通でしたので、お義父様がフィリベールという男の子の名前にしてはとても可愛らしい名前を考えてくださいました。


「愛されしものという意味だよ。」


その言葉に込められた、お義父様の優しさに、私は嫁に来てからずいぶんと幸せな涙腺が緩んでしまっていて困りました。


「若奥様、先日診療所に来た患者だけれど、背中の膿瘍がひどくて、私の浄化魔法ではとても治療しきれないの。排膿手術が必要かもしれないわ。でも私には無理。そもそもあの狭い診療所では手術なんてとてもできそうにないわよね。どうしたらいいと思う?」


ベルナは、私が結婚したあとでは、私のことは他のメイドにならい『若奥様』と喚ぶようになっておりましたけれど、そのわりに、話し方は古くからのお友達のままの話し方でした。メイド長からはいつもお叱りを受けているみたいでしたが、私が「いやよ、ベルナは変わらないでちょうだい。」とせがむので、一向にあらたまりませんでした。


変わらないと言えば、最近庭師見習いとしてお屋敷勤めを始めたジルも、「おい強欲女先生」なんてたまに呼ぶものですから、こちらは庭師頭に痛いげんこつをもらっているようでした。


「一度私がその患者を診察してみようかしら。」


もうそろそろ診療所の仕事を再開しようかと思っていたところでしたので、頃合いかなと感じました。子供は乳母に任せておけるので、不都合なことは何もありませんでした。


セドリック様に相談してみましたら、診療再開に賛成してくださった上に、「ではあの近くに、手術室も備えることができる程度のもう少し広い建物を探そう。」と言ってくださいました。


翌日、その患者の容体を確認しに、結婚してから初めて下町に向かいました。今までと大きく違うのは私とベルナとジルが一緒に馬車に乗って診療所に行くことでした。


「なんでジルも一緒なの?」


不思議がる私に、ジルは当然顔で、「俺は強欲女先生の専属庭師なんだから当然だ。」と胸を張っていいました。専属庭師なんて聞いたことないわ。


「ジル。お屋敷に奉公に上がって、台所には山のように卵があることを知ったでしょう?

あなたもアルフェルド家に仕える身になったのですから、もうその呼び方はやめて、これからは若奥様とお呼びなさい。」


乱暴者で口の悪いジルでしたが、ベルナの説教にだけは反発したことが一度もありませんでしたので、このときも「はい」と小さく返事をするだけでした。


診療所の前の狭い道に、いきなり伯爵家の馬車が来たものですから、皆さん通りに出てきて大騒ぎになりましたが、馬車の中から私が降りると、騒ぎはいきなり大きな拍手に変わりました。


「ナタリア先生、男の子だって? おめでとう。うちらはありがたいけれど、もう診療所に来てもいいのかい?」


食堂のおかみさんが祝福の一方で心配顔で尋ねました。


「はい、もう大丈夫です。子供は乳母に任せておけば、安心なので、また診療所に戻ってきました。よろしくお願いします。」


わたしが頭を下げると、「それは反対じゃないか。お願いするのはわたしらのほうだよ。」と笑われてしまいました。


診療所を開けるのももどかしく、わたしは早速膿瘍の患者をつれてきてもらいました。

看ると確かに背中に大きめな膿瘍があって、触れると少し柔らかめでした。


「このくらい柔らかければ切開して排膿することができるわね。無理すればここでもできるかもしれないけれど、清潔が保てないわね。排膿した後の傷口はなかなか塞がらないから、清潔な場所で排膿しないと、再び化膿する心配があるの。」


考えましたが、どうしても妙案がでてきませんでした。


「だったらお屋敷の産褥室で手術したらどうだ、……若奥様。あそこは清潔なんだろう?」


「『若奥様ぁ』だってさ、あのジルが」


ジルの言葉を聞いて、一緒にのぞき込んでいた近所の人達が爆笑してジルの真似をしました。


「そうね、その手があったわね。まだ馬車は帰っていないわよね。」


私はすぐに御者(ぎょしゃ)を呼び止めると、患者を乗せてお屋敷に向かいました。


「若奥様は、また考え無しに! 若旦那様は、若奥様のすることに駄目と言ったことは一度も無いから大丈夫でしょうけれど。」


確かにセドリック様は、私のすることは何でも許してくださいます。このときも一緒になって手術台をつくるお手伝いを当然のようにしてくださいました。


患者の膿瘍の周りを丁寧に消毒してからベルナと交互に浄化魔法を使って傷口の清潔を保ちながら、昔から助手として何度も行ったことのある膿瘍切開手術をはじめました。太い血管を切らないよう慎重に切開し、布で圧迫しながら、膿を取り残しのないように絞り出し、少し強めの水魔法による浄化魔法を掛けてから、縫合はせずに清潔な布で傷口を押さえてから包帯を巻きました。


「縫合はしないの?」


ベルナが心配そうにいいましたが、私は、はいと笑顔で答えました。


「膿瘍はまだ出てくるから、綺麗になくなるまで縫合はできないの。縫合しなくても、清潔にさえ気をつけていれば、自然の治癒力で塞がるわ。私がいないときでもベルナが診療所にこの方を呼んで、毎日布を交換したり洗浄魔法を掛けたり、排膿したりして様子を見てあげてね。」


私は、この産褥室を手術もできる治療院に改造できないかしらと別のことを考えておりました。もちろんそれは産褥室という特別な意味を持つ部屋なので無理でしたが、手術室についてはセドリック様が急いで探してくださり、広い待合室や診察室や手術室や、時には緊急入院できるベッド付きの部屋などを持つ本格的な診療所を下町に作ってくださいました。


「ここで私は能力はあるのに癒術士になれない平民のための癒術士養成所もやってみたいわ。」


私のひとことで、新しい診療所は、診療施設だけでなく、癒術士養成所としての機能も持つことになりました。


診療所のお仕事と、乳母に任せているとは言え私も母親なので子育てにはそれなりに参加して、お屋敷の奥向きのこともお義母様(かあさま)と話し合いながらこなしていくという、忙しい毎日を過ごしておりましたら、気がついたらそれから二年ほど経っておりました。


癒術士養成所出身の平民癒術士は、わたしの予想通り王立癒術士に匹敵するほどの実力をつけ、王都に名の知れる癒術士が何人も巣立ちました。


これでようやく私もゆっくりできるかしら。


可愛い盛りのフィリベールは、お屋敷の皆さんから親しみをこめて「フィル」と呼ばれておりましたが、ひとつ違いの弟のアルマンの面倒もよく見る優しい兄に育っておりました。


「ジル、またフィルに剣術を教えていたの? 乱暴者にならないよう、ほどほどにしてね。」


庭師の仕事をしながら、剪定した枝を使ってフィルに剣術のようなものを教えていたジルに注意しましたが、「貴族の男は剣を使えて一人前になるんだよ」と、私の注意など聞こうともしませんでした。


そんなある日のこと、実家で隠居した父の後を継いで立派に当主の仕事をしていた弟が、セドリック様と私を訪ねてきました。


「セドリック様、姉上、実は今日は是非にとお願いに参りました。フィリベールを我が家の養子として、いただけないでしょうか。もう長いこと我が家には子ができません。妻もフィリベールはとても気に入っており、セドリック様と姉上に誠実にお願いしてほしいと頼まれております。例えこの先、私に子ができたとしても、フィリベールは我が家の家督を継ぐ者として決してないがしろにしたりはしません。どうかお願いを聞いては頂けませんでしょうか。」


いつかはそういう相談に来るのではないかという予感はしておりました。弟や、義妹(いもうと)が、しょっちゅう我が家に来てはフィリベールをかわいがる様子を見ていて、そういう気持ちなのではないかと感じていたのです。


セドリック様ともそのことは何度か話し合っておりました。


「はい、いつかはそういうご相談があるのではと、ナタリアともよく話し合っておりました。私の父は正直申しまして、我が家の跡を継ぐ者は血のつながったアルマンという希望のようでしたので、いつかフィリベールにつらい思いをさせるようなことになるのではないかと危惧していたのです。あなた方ご夫妻もそのようにお感じになって、お話ししてくださったのでしょう。これからのことは、前向きに考えてみましょう。」


つらい決断ではありましたが、弟の優しさは、姉の私がよく知っておりましたので、弟のところでフィリベールは幸せに育つだろうことは容易に想像がつきましたので、私も異存はありませんでした。


フィリベールが母親のように慕っている乳母も一緒に行くことを条件にセドリック様と私はフィリベールを弟の養子に出すことを承諾しました。


養子となったフィリベールは、名もフィリップと改め、愛称はフィルのままでしたが、新たな人生をスタートさせたのでした。


フィリップは、弟の元ですくすくと育ち、王城からよく遊びに来る姉の子と、連日剣術に明け暮れていると聞きました。ジルに木の枝で教わっていた剣術が大好きな子にそだったようでした。


それから何年も経ちましたが、義妹を実の母と慕うフィリップの心を乱さないよう、私は実家にはよほどの用事でもない限り行くことはありませんでしたから、少し寂しくはありましたが、時々は遠くからその姿を眺めて満足しておりました。


「よく咳をしていますね。一度診察してみましょうか。」


このところセドリック様は夕刻になるとよく咳をするようになりました。心配した私が透視魔法で診察しましたところ、軽い肺炎にかかっていることが判明しました。


「肺炎は軽くみてはいけません。長い療養になる場合もあります。セドリック様もしよろしければ、私と二人だけで、田舎の方に療養にいきませんか?」


思いきってセドリック様に転地療養を勧めてみました。

セドリック様は、とても嬉しそうに、「病気はしてみるものですね。ナタリアにそんなふうに言ってもらえるなんて。とても嬉しいです。ぜひ二人だけで田舎暮らしをしましょうか。」と、お話しくださいました。


つてを頼って王都からは大分離れた自然豊かな田舎の領都に来たのはそれから半年後のことでした。一緒にいたのは、当然のことのようについてきたメイドのベルナと、庭師のジルだけでした。


静かな田舎で、四人だけのお屋敷暮らしは、それからセドリック様がこの地で亡くなるまでずっと続きました。王都のお屋敷は、すっかり大人になったアルマンが立派に継いでいてくれました。


弟のところに養子に行ったフィリップは、出世した弟の家でやはり次の当主として立派に成長してくれていました。


「あら、お時間ですわね。お話が長くなりましたけれど、退屈ではありませんでしたか?」


マダムは話を終えると、ハーブティを入れ直して僕に勧めてくれた。


「素敵なお話で感動しながら聞いていました。マダムは良い人達に恵まれていたのですね。

波乱の人生で、とても三時間じゃ聞き足りないお話でしたけれど、また中庭のお手入れでお呼びくださったときに、もっと詳しいお話を聞かせてください。ところでテオフィールさんは、あのあと記憶は戻ったのですか?」


その後のテオフィールの話を聞いちゃってはまずかったかなと一瞬思ったけれど、やはり気になる。


「実は私も知らないのよ。噂を聞くことすらなかったわ。婚約したはずのセリーヌが、あのあとで結婚したという話も聞かないわ。新たな王立治療院が建設され、『王立セリーヌ記念治療院』と名付けられて、セリーヌが院長に就任したという話でしたけど。」


「そうなのですか。セリーヌの家は確か子爵家というお話でしたが、子爵家にそれほどの資力はないでしょうから、国王陛下によほど気に入られていたのでしょうね。」


ちょっとおぼつかない知識だけど、貴族の爵位については図書館のマルグリットから、ちらっとだけ聞いた覚えがあった。


確か子爵家というのはマダムの家やマダムの実家のような伯爵家より下の身分のはず。王立治療院を設立できるほどの財力なんて、たぶんないよね。


「たぶんそうね。でもセリーヌの治療院からたくさんの女性癒術士が誕生したのはセリーヌのおかげなの。癒術士としてより経営の手腕のほうがセリーヌにはあったのかもしれないわね。いずれにしても癒術の世界にはとても大きな貢献をした方よ。」


きっとその後の人生がとても幸福だったマダムには、テオフィールを奪ったセリーヌでさえ優しく評価できるんだろうな。


これは、Gランク冒険者の僕が、冒険者ギルドの依頼で荒れ放題だった屋敷の庭を手入れしに訪れた折、独り暮らしのマダムからお茶に誘われて聞いた、若き日のマダムの話だ。

もしよろしければ本編の方もお楽しみください。


「マジェスティア・アエラ」(n7510kk)で検索していただけると嬉しいです。

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