『何が悪かったの? ――家族の中で、最初からいなかった姉の話』
この作品は、同一テーマを用いた二つの短編のうちの一つです。
もう一方には、異なる世界観・異なる状況で描かれた別バージョンが存在します。
どちらが正解でも、どちらが本編でもありません。
これは「同じ構造を、違う現実に置いたらどう見えるか」という実験です。
ここで描かれるのは、特別な事件のない家庭です。
暴力も怒号もありません。
ただ、扱いの差と、気づかれないまま積み重なる不在だけがあります。
もし読みながら
「これは現実にあり得る」
と感じたなら、それは偶然ではありません。
もう一つの短編と並べて読むことで、
“世界が変わっても消えないもの”が見えてくる構造になっています。
どちらから読んでも成立しますが、二つ揃って一つの問いになります。
冷蔵庫の扉を開けると、昨日の残りのカレーが透明な保存容器に入っていた。ラベルはない。うちの冷蔵庫には、いつだって誰のものか分からないものが並ぶ。
それが我が家の平和の証拠だと母は言う。
「ほら、うちはみんなで食べるでしょ。家族なんだから」
家族という言葉は便利で、ラベルの代わりにも、免罪符にもなる。
私はスプーンで一口すくって口に入れた。味は、いつも通り少し薄い。母のカレーは、妹が好きな辛さに合わせてある。私は辛いものが好きだけど、うちでは辛さは一段階で固定だ。妹の段階が我が家の標準になる。
その標準に慣れすぎて、辛いものを食べると逆に罪悪感が出るようになったのだから、笑える。
「お姉ちゃん、今朝もそれ?」
背後から声がして振り返ると、妹の灯里がリビングから顔を出していた。寝癖が少し残った髪を、指でくるくる巻いている。大学の春休み中で、生活リズムがふわふわしている。
「そう。簡単だから」
「パン焼く?」
「うん、お願い。あとコーヒー」
妹は「了解」と軽く言って、トースターの前に立った。トースターの前に立つ灯里を見ると、私はいつも思う。うちの台所で“お願い”を言える人間は二種類いる。言われる側は一種類だ。私はその一種類に分類されている。
母はいつも言う。私はしっかりしている。私は頼れる。私は手がかからない。
言い換えると、私は後回しにしても壊れないと信じられている。
朝のテレビはワイドショーで、司会者が大げさに笑っていた。母が好きな番組だ。母は笑いながら洗濯物を畳む。父は新聞をめくる音を立てている。
私たちの家は、外から見れば、穏やかで普通の家だ。
妹がパンを皿にのせてくれる。いつも少し焦げ目が強いのは、妹が焼き時間を“気分”で決めるからだ。それでも私は文句を言わない。文句を言うと、母が「妹は忙しいから」と言う。それだけだ。
「今日、ハローワーク行くんだっけ」
灯里がコーヒーを注ぎながら聞いてくる。
私は頷いた。今の会社を辞める予定はない。でも、転職サイトを眺めるのが習慣になっていた。履歴書の写真も撮り直した。自分でもよく分からないまま、いつでも逃げられるように準備している。
「お姉ちゃんさ、もう出てもいいんじゃない?」
灯里が小さな声で言う。母に聞こえないように。
「急にどうしたの」
「だって、ここにいると……ずっと、同じじゃん」
灯里は言葉を探しながら、視線を落とした。妹は優しい。優しいから、言葉が下手になる。
「同じって、何が」
「お姉ちゃんだけ、ずっと家のことやってる。わたしもやるけど、でも、結局……お姉ちゃんの方がさ」
妹は途中で口を閉じた。言ってはいけないことに触れたみたいに。
私は笑って、パンを一口かじる。焦げた部分が少し苦い。
「大丈夫。慣れてる」
慣れている。
それは、傷つかないという意味じゃない。傷つき方を覚えたという意味だ。
母がこちらを見て、明るい声で言った。
「灯里、今日は大学の友達と会うの? ほら、あの子。可愛い子。名前なんだっけ。ほら……」
「美咲」
「そうそう、美咲ちゃん。いいわねぇ。若いって」
若いっていい。
母の言葉には、いつも“あなたはもう若くない”が隠れている。私は二十六歳だ。まだ若い部類だと世間は言う。でも母の基準では、妹がいると姉は自動的に“もう”の側になる。
父は新聞から目を上げずに言った。
「灯里は要領いいからな。姉ちゃんとは違う」
父は悪気なく言う。悪気がないのが一番厄介だ。悪気がないから修正されない。
私は「そうだね」とだけ返した。反応すると、空気が変わる。空気が変わると、私が悪者になる。私は空気を守る役目を負っている。
灯里が小さくスプーンを置いた音がした。
妹は私の代わりに怒れる。私の代わりに顔をしかめる。私の代わりに息を吐く。
でも妹は、最終的に私を救えない。救うには、家を壊す必要があるからだ。
その日、私はいつものように出勤して、いつものように仕事をして、いつものように帰宅した。
玄関を開けた瞬間、焦げた匂いがした。
「ただいま」
返事がない。
リビングに行くと、母がソファでスマホを見ていて、父はテレビを見ていた。灯里はいない。
キッチンのシンクには、鍋が放置されている。焦げ付きがひどい。
「ああ、おかえり。ごめんねぇ、カレー失敗しちゃって」
母が笑いながら言う。失敗したのに笑えるのは、失敗の後始末を自分がしないからだ。
私は黙って鍋を持ち上げた。焦げ付きがひどい。たぶん、妹が作ろうとしたんだろう。母は火加減を見ない。灯里は火加減を見るけど、今日は外出している。
「今日は外で食べてきて。灯里は友達とご飯だって」
母は悪気なく言う。悪気なく、私の夕飯を消す。
私は頷いて、鍋をシンクに置いた。
「じゃあ、何か買ってくる」
「えー、助かる。ついでに牛乳も。あとヨーグルト。灯里の好きなやつね」
母は自然に追加する。灯里の好きなやつ。
私の好きなものは、家の標準に含まれない。
私は外に出て、コンビニで適当な弁当を買った。牛乳と、ヨーグルトと、灯里の好きなアイスも買った。
家に帰って冷蔵庫に入れる。
誰のものか分からないものが、また増えた。
夜遅く、灯里が帰ってきた。玄関で靴を脱ぐ音がして、すぐにリビングに来た。
私の顔を見るなり、妹は眉を寄せた。
「今日、ご飯……なかった?」
「うん。鍋が焦げてた」
「……また」
妹は歯を噛みしめるみたいに唇を押さえた。
私は弁当の空容器を片付けながら言う。
「大丈夫。慣れてる」
「慣れなくていいよ」
灯里の声が少し震えていた。
私は手を止めた。妹の震えに、私はいつも負けそうになる。
でも、負けると困るのは妹だ。妹はこの家で生きていく必要がある。私はもう、そうじゃないかもしれない。
「灯里は、優しいね」
「優しいとかじゃない。普通でしょ」
妹は言い切った。
普通。
その普通を、私はずっと教えられなかった。
次の週、母が唐突に言った。
「そういえば、今月って、灯里の誕生日だっけ?」
私は箸を止めた。灯里も止めた。父だけが味噌汁をすすっていた。
「来月」
灯里が淡々と答えた。
「あら、そうだっけ。じゃあ今月は……何もない月ね」
母は笑って言う。何もない月。
私はその言葉の軽さに、胸の奥が少し痛くなった。
今月は私の誕生日だった。
私は言わなかった。
言えば母は「あら、ごめんねぇ」と笑って、次の日にケーキでも買ってくる。それで終わる。
私はケーキの甘さより、忘れられていた事実の方が重い。
灯里が母を見た。
そして、少し間を置いて言った。
「今月、お姉ちゃんの誕生日だよ」
母の笑顔が一瞬止まった。
父が新聞をめくる音がした。
母は「あら」と言って、手を叩いた。
「あらあら、ほんと? ごめんねぇ。もう、ほんとに私ってうっかり」
うっかり。
母のうっかりは、いつも私に向かう。
妹には向かわない。妹の誕生日は、三か月前から予定表に書かれている。
私の誕生日は、母の頭の中では“何もない月”と同じ場所に収納されている。
「ケーキ買ってくる? それとも外食?」
母が楽しげに言う。
私は箸を動かしながら答えた。
「いいよ。何もしなくて」
「えー、でも誕生日だよ? ほら、灯里も一緒に」
母は“家族イベント”にしたい。イベントにすれば、忘れていたことが薄まる。
灯里は母を見ずに、私を見た。
「お姉ちゃん、どうしたい?」
妹の目は真剣だった。
私は、その真剣さに少し救われて、少し苦しくなった。
「……今日は、普通でいい」
灯里が頷いた。
母は「そう? じゃあ今度ね」と軽く言って、その話題を流した。
流すのが上手い。母はいつも、流すのが上手い。
流されたものは、家の底に溜まっていく。誰も掃除しないから、底はいつも黒い。
その夜、灯里が私の部屋に来た。
私の部屋は、家の中で一番“私”が薄い場所だ。物は少ない。飾りもない。いつでも出ていけるようにしているから。
「お姉ちゃん」
灯里はベッドの端に腰を下ろして、私の机の上の履歴書用封筒を見た。
「転職するの?」
「……準備」
「家、出る準備?」
妹の声が少しだけ高くなった。
私は否定しなかった。否定すると嘘になる。
「出たいの?」
「出たいっていうか……もう、そろそろ」
灯里は黙った。
しばらくして、小さく言った。
「わたしも、一緒に出たい」
その言葉は嬉しくて、同時に怖かった。
妹を連れて出るのは、正しいのか。妹の未来を、私の逃避に巻き込むのではないか。
でも、妹の未来は、ここに置いておいても削られる。削られ方が、私より少し遅いだけだ。
「灯里は、大学あるでしょ」
「だから、出たい。大学あるから、出たい。ずっとここにいたら、わたしも……」
妹は言葉を止めた。
私はその続きを想像できる。
“わたしも、お姉ちゃんみたいになる”。
それを妹が言い切るのは残酷だ。妹は優しいから言えない。
「灯里は、灯里だよ」
私はそう言った。
妹は首を横に振った。
「環境って、すごいよ。お姉ちゃん、ずっと頑張ってたのに、いつの間にか“頑張るのが当たり前”になってた。
わたし、怖い。わたしが“普通”って思ってたもの、ほんとは普通じゃないのかもしれないって、最近ずっと思う」
妹の目が潤んでいた。
泣かせたくないのに、私は泣かせてしまう。
私は妹の頭を軽く撫でた。
「じゃあ、考えよう。灯里のタイミングで」
妹は頷いた。
その頷きが、家の底に溜まった黒さを、少しだけ動かした気がした。
数日後、母が言った。
「灯里、今度のゼミ合宿、行くの? あれ楽しそうよねぇ。写真いっぱい撮ってきてね」
灯里は「うん」と答えた。
母は私を見て言う。
「あなたは、そういうのないの? 会社の旅行とか」
「ないよ」
「えー、かわいそう。仕事ばっかりじゃん。若いのに」
母は笑う。
その笑いは、私の人生を薄くする。
灯里が母を見て言った。
「お姉ちゃん、若いよ」
「でも灯里の方が若いでしょ。ほら、女の子って若い方が」
母は本気でそう思っている。
価値を年齢で計る。その価値の最上位に妹を置く。
私は価値の表から外されている。
その夜、私は賃貸サイトを見ながら、ため息をついた。
家を出るには金がいる。初期費用がいる。家具もいる。
それでも、家に払っている“見えない費用”よりは安いかもしれないと思った。
ふと、リビングから声が聞こえた。
「灯里さ、ちょっとやりすぎじゃない? 最近、姉ちゃんの味方ばっかり」
父の声だった。
私は部屋のドアを少しだけ開けて、耳を澄ませた。
「味方とかじゃない。普通のこと言ってるだけ」
灯里の声は落ち着いている。
母が笑いながら言った。
「でもねぇ、家族なんだから、そんなピリピリしなくても。お姉ちゃんだって、別に不満ないでしょ?」
母は私の不満を、私に確認しないで決める。
私は息を止めた。
「不満ないわけないじゃん」
灯里が言った。
その言葉は鋭かった。妹の優しさが、刃になる瞬間だ。
「だって、お姉ちゃんの誕生日忘れたよね。
ご飯ない日だって、お姉ちゃんが黙って外で食べてきてる。
洗濯だって掃除だって、気づいたらお姉ちゃんがやってる。
それって、普通じゃない」
沈黙が落ちた。
母が少し困ったように笑った。
「えー、でも……それは、お姉ちゃんがしっかりしてるから……」
「それ、理由になってない」
灯里ははっきり言った。
父が咳払いをした。
「灯里、お前も大人になれ。世の中にはもっと大変な家だってある」
「じゃあ、うちは大変じゃないってことにしていいの?」
妹の声が少し震えた。
私は胸が苦しくなった。妹を戦わせたくない。妹が壊れるのが怖い。
でも、誰かが言わないといけない。私が言えなかったことを、妹が代わりに言っている。
母が少し怒った声で言った。
「灯里、そんな言い方しなくても。お姉ちゃんは、そんなに弱くないでしょ?」
その瞬間、私は笑いそうになった。
弱くない。
弱くないから、傷つかない。
弱くないから、忘れていい。
弱くないから、扱いを雑にしていい。
その論理で、私はここまで育った。
私はドアを閉め、ベッドに座った。
逃げる準備は、もう準備じゃなくなっていた。実行の段階に入っている。
それから一か月後、私は契約書にサインをした。
小さなワンルーム。駅から少し遠い。築年数も古い。
でも、鍵を受け取った瞬間、胸の奥が軽くなった。
引っ越しは、ほとんど一人でやった。物が少ないから、段ボールも少ない。
灯里が休みの日に手伝いに来てくれた。妹は黙々と荷物を運びながら、時々、部屋を見回して笑った。
「お姉ちゃんの部屋、初めて“部屋”っぽい」
「今までのは、倉庫だったってこと?」
「倉庫っていうか……避難所」
妹は言って、少しだけ目を伏せた。
私は笑った。
「避難所、卒業」
「うん。卒業」
その夜、私は実家に戻って、母と父に話すことにした。
話すと決めたのは、灯里が「ちゃんと言った方がいい」と言ったからだ。
妹は私の背中を押す。押し方が優しいのに、決して弱くない。
夕飯の後、私はリビングで言った。
「来週、家を出る」
母が箸を止めた。父がテレビの音量を少し下げた。
母は笑って言った。
「えー、急に? どうしたの。結婚?」
「違う。引っ越すだけ」
「なんで? 家にいた方が貯金できるじゃない」
母は本気で言う。
家にいると、私は貯金以外を削られる。
「一人で暮らしたいから」
父が少し眉をひそめた。
「甘えるなよ。家族なんだから」
家族。
またその言葉が出る。
私は息を吸って、できるだけ穏やかに言った。
「甘えるっていうのは、頼るってことだよね。
私はずっと、頼る側じゃなかった」
母が困ったように笑った。
「えー、そんなことないよ。ほら、あなたはしっかりしてるから。頼られ上手っていうか」
頼られ上手。
それは褒め言葉の形をした鎖だ。
「しっかりしてるって言われるの、もう疲れた」
私はそう言った。
母の笑顔が少し硬くなった。父は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「何が不満なんだ」
父が言う。
私は一つずつ言える。誕生日。夕飯。掃除。比較。言葉の棘。
でも、一つずつ言っても、父と母はたぶん“細かいこと”で片付ける。
だから私は、まとめて言うことにした。
「ずっと、扱いが違った。
灯里のことは大事にして、私は大事にされなかった。
それが普通みたいに続いて、私は……自分が家族の一部だって感じられなくなった」
言ってしまった。
言葉が空気を割った。
母は目を丸くした。
「え? そんなつもりないよ? だって、あなたは……」
母は言葉を探す。
父が言った。
「お前が勝手にそう思ってるだけだろ」
そのとき、リビングの扉が開いて、灯里が入ってきた。
妹は寝る準備をしていたらしい。髪をまとめ、パジャマ姿だった。
「お姉ちゃんが勝手に思ってるんじゃない」
灯里はまっすぐ言った。
父が妹を睨む。
「灯里、お前は関係ない」
「関係ある。わたしは、ずっと見てた」
妹の声は震えていない。
母が慌てて言った。
「ちょっと、二人とも……そんな大げさな……」
「大げさじゃない」
灯里が言った。
「お母さん、お姉ちゃんの誕生日忘れた。
お姉ちゃんが夕飯ない日があるの、気づいてても『仕方ない』で済ませた。
お姉ちゃんが掃除しても洗濯しても、当たり前だと思ってた。
それって、差だよ。格差だよ。虐待って言われてもおかしくない」
母が顔を引きつらせた。
「虐待って……そんな言葉、使うなんて……」
「言葉が嫌なら、現実を変えて」
灯里の言い方は冷静だった。
私はその冷静さに、少し驚いた。妹は優しいのに、ここまで言える。
妹は優しいからこそ、言えるのかもしれない。自分の優しさを守るために。
父が苛立った声で言った。
「お前ら、被害者ぶるな。普通に育てた。飯も食わせた。学校も行かせた。
それで何が虐待だ」
その言葉は、よくある正論の形をしていた。
食わせた。行かせた。
“最低限”を、最大限の恩として提示する。
私はゆっくり言った。
「それは、親として当たり前のことだよ」
母がすぐに言い返した。
「でも、うちは普通にやってきたよ? ほら、家族で旅行だってしたし。
灯里だって笑ってたし。あなたも……笑ってたじゃない」
笑っていた。
笑うしかなかった。
笑わないと、空気が悪くなる。空気が悪いのは、いつも私のせいになる。
灯里が小さく息を吸って、静かに言った。
「……お姉ちゃん、ずっと一人だったんだよ」
その言葉は、部屋の温度を変えた。
母が目を瞬かせた。父が黙った。
私は胸の奥が締め付けられた。妹は、私が言えなかった言葉を言う。
母は少し困った顔をして、首を傾げた。
「え? でもご飯も作ってたし、学校にも行かせたし。
何が悪かったの?」
その瞬間、私は分かった。
母は本当に分からない。
分からないまま、私を削ってきた。
分からないまま、妹を愛してきた。
分からないまま、“普通の家庭”をやってきた。
私は、泣かなかった。
怒鳴らなかった。
ただ、小さく笑った。
「うん。やっぱり分からないんだね」
私は立ち上がり、テーブルの上のコップを流し台に運んだ。
最後の片付けみたいに、静かに。
「来週、出る。鍵ももうある。
灯里は……灯里のタイミングでいい。いつでも来ていい」
灯里が頷いた。
母は口を開けたまま、何か言おうとして言葉を失っていた。
父は不機嫌そうに腕を組んだ。
私は玄関に向かい、自分の部屋に戻った。
段ボールはすでにほとんど空だ。
残っているのは、必要なものだけ。
ベッドに座ると、外の車の音が聞こえた。
世界はいつも通り動いている。
私の家の中だけが、取り残されたように静かだった。
その静けさが、少しだけ心地よかった。
私はようやく、空気を守らなくてよくなる。
最後に聞こえた母の声は、まだ困ったままだった。
「……ねえ、本当に。何が悪かったの?」
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この話には、分かりやすい悪役も、決定的な断罪もありません。
あるのは「普通の家庭」の中で、誰か一人が少しずつ削られていく構造だけです。
親は最後まで「何が悪かったの?」と言います。
それは反省ではなく、本心からの疑問です。
そしてその疑問が出てくる時点で、もう取り返しはついていません。
この短編は、
「虐待は怒鳴り声や暴力だけではない」
「無自覚の差別は、説明できないほど静かに人を壊す」
という点を、できるだけ感情を煽らずに書きました。
救われない結末にしたのも意図的です。
救済を入れた瞬間、この構造は“物語”になってしまうからです。
現実は、だいたい救われないまま続いていきます。
なお、この作品には別バージョンが存在します。
異なる世界観、異なる出来事を使いながら、
同じ問いを投げている短編です。
もし可能なら、そちらも読んでから、
もう一度この作品を思い出してみてください。
どちらが重く感じるかは、読む人の現実に近い方です。




