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灯りの残る家

作者:

 港町の冬は、潮の匂いが濃い。

 駅を出ると、冷たい海風が真正面から吹きつけ、コートの前を容赦なくこじ開けてくる。風の奥には、低くうねる波の音と、漁船のエンジンが遠くでかすかに響く音が混ざっていた。


 岸本美咲は、小さなキャリーケースを引きながら坂道を歩いていた。アスファルトはところどころ濡れ、海から舞い上がった塩粒が白くこびりついている。道端のガードレールも、何度も潮を浴びたせいで塗装がはがれ、錆が浮いていた。


 祖母が亡くなって三か月。葬儀のときは親戚の挨拶や手続きに追われ、ゆっくりと家の中を見る暇もなかった。今日は、売却に向けての片付けのために来た。


 坂を上がりきると、二階建ての木造家屋が姿を現す。冬の陽を受けて、瓦屋根の一部が白く輝いている。外壁の板は、潮風で色が抜け、触れれば粉のように剥がれそうだ。それでも、窓から見える港の景色は、子供の頃と変わらなかった。港の奥には白い灯台が立ち、ゆったりと空へ向かってそびえている。


 玄関の引き戸を開けると、長い間閉ざされていた空気がふわりと動いた。古い木の香りと、わずかに残る灯油ストーブの匂い。それらが入り混じり、胸の奥に懐かしさを広げる。


 二階に上がると、奥の部屋のカーテン越しに冬の光が柔らかく差し込んでいた。机の上には、深い藍色の毛糸玉と編み針。途中まで編まれたマフラーは、端がくるりと丸まり、毛糸の繊維が微かに光を反射している。まるで祖母が席を外しただけで、すぐに戻ってきそうだった。



---



 段ボールを広げ、棚から食器を取り出す。

 湯呑みを包もうとした瞬間、指先が釉薬の凹凸をなぞり、祖母が食卓に茶を置く姿がよみがえる。湯気の向こう、ふっくらとした手と、笑いじわの深い目尻。


 台所の引き出しから、木製のしゃもじが出てきた。米粒がほんの少し固まってこびりついている。子供の頃、これでよそってもらった炊き立てのご飯の甘い匂いが鼻を抜けた。


 棚の奥には、古いアルバム。港で凧揚げをしている幼い自分と祖母の写真。祖母は少し斜めに凧糸を握り、空を見上げている。海風に白髪が舞い、笑顔が広がっていた。ページをめくるたび、指先に紙のざらりとした感触と、インクのかすかな匂いが残る。


 夕方近く、外から低い声がした。窓を開けると、漁協の帽子をかぶった年配の男性が立っていた。

「おや、美咲ちゃんじゃないか」

「……田村さん?」

 祖母の食堂に毎日のように通っていた常連客だった。


「片付けに来たのか」

「はい……もう売ることになって」

 田村は港の方を見やり、目を細めた。

「夜になったら、灯台を見に行かないか。おばあちゃん、あの光が好きだった」



---



 夜の港は、昼間よりもさらに静かだった。

 潮の匂いは冷えた空気に凝縮され、息を吸うたびに胸の奥まで沁み渡る。海面は墨を流したように黒く沈み、遠くで灯台の光がゆっくりと回っていた。


 一筋の白い光が水面をなぞり、また闇に溶けていく。そのたび、波がわずかにきらめき、音もなく砕けては消えた。漁船のロープが桟橋できしむ音、旗がカサカサと揺れる音が、耳の奥で遠く響く。


 田村はポケットから手を出し、ゆっくりと言った。

「おばあちゃん、亡くなる直前までここに来てたんだよ。あんたが東京に行ってからも、毎晩この光を見て、『あの子に灯りを送る』ってな」


 胸の奥で、長く固まっていた何かがほどけていく。

 祖母は、自分の知らないところで、ずっと灯りを送り続けてくれていた。


 家に戻ると、祖母の部屋の引き出しを開けた。奥から、小さな便箋が一枚。インクが少しにじんだ文字でこう書かれていた。


> 美咲へ

無理しすぎるな。ちゃんと休みなさい。




 たったそれだけの言葉なのに、胸に深く沁みた。頬を伝う涙が便箋の端を濡らし、紙が少し柔らかくなる。

 机の上のマフラーは、毛糸がふわりと指先に絡み、そこに祖母の手の温もりがまだ残っているようだった。部屋の灯りはやわらかく揺れ、外の波音と溶け合っていた。



---



 翌朝、潮風がやや柔らかくなっていた。港の向こうには、春の気配を帯びた光が広がっている。

 美咲は片付けを終え、祖母の部屋の灯りを消そうとスイッチに手を伸ばしたが、押さなかった。

 もう少し、この灯りを残しておこう――そう思った。


 窓から港を見下ろすと、灯台の白が朝日に溶けていた。

 バッグの中には、未完成のマフラーと祖母の手紙。


 美咲は深く息を吸い、玄関を出た。

 灯りはもう、この胸の中にある――そう感じながら、港町の坂道を下っていった。



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