第98話 私の手を離さないで!
「まだ来ていないわね、春風くん、私の方が早く着けた見たいね、フフッ」
夏色に衣替えした鎌倉駅構内を見渡しながら改札を潜り、天音は横須賀線ホームへの階段を登った。そしてプラットホームの柱を背にしながら、差し込む陽の光を遮るように額に右手を当て、バングルウォッチをチラリと覗く天音は、春風を待ち遠しく思っていた。
「ねえ? あれAMANEさんじゃない?」
「どこよ?」
「あそこよ」
「あっ、本物だ。凄い可愛いい! 綺麗な髪して、スタイルいいわ!」
「あっ、しまったわ。浮かれていて、サングラスと帽子かぶるの忘れてたわ」
「AMANEさんですよね?」
「ええ、そうよ」
「一緒に写真いいですか?」
「私もいいですか?」
「僕もサインください」
ちょっと、私の幸福タイムが……どうしたら?」
「はーい、君たちホームで騒ぐの危険だからね、離れて離れて!」
と天音のところに駅員がやって来て、群がるファンたちを散らせた。
「天音さん、こっち!」
と春風に手を引かれ、到着した電車から降りてきた人ゴミに紛れるようにその場を離れた。そのギュッと握った手から伝わる安心感に、天音は蕩けてしまうほどの火照りを感じた。
「春風、あ、ありがとう……」
「さあ、これに乗るよ」
ふたりは横須賀方面に向かう列車に飛び乗った、
「プシュー」
と扉が閉まり、ふたりを乗せた列車は、ホームで天音を探す子たちを置き去りにするように、走り出した。
「春風くん、私の手を引いてくれて嬉しかったよ」
「天音さんが女の子たちに囲まれているのが見えたから、傍に立っていた駅員さんに、あれ危険行為だよと伝えたんだ。本当上手くいって良かったよ」
「……私ね、今日に限って変装アイテムを使うことを忘れてしまったの。本当にドジね」
「でもね、考えようによっては、天音さんは認知度が高くて、人気があるってことなんだよね」
「ガタン、ガタン、キャァ!」
と列車の突然の揺れに、天音は春風の胸に倒れ込んだ。
私、今キュンキュンしてる。どうしよう、神様! 春風とこのままでずっといさせて欲しいよ! お願い!
「春風? しばらくこのままでもいいかな?」
ちょっと待って。
周りがみんな見てるよ。
男の人に抱かれてるのが天音さんと知れたらまずいよね、ねぇ?
「天音さん、その方が良さそうだね。もう少しこのままでいてくれませんか?」
えっ! 私の願いが叶ったよ。
これって神様のお導きなの?
もう、ヤバいよ。
心臓が破裂しそうなほどドキドキだよ!
「春風?」
「ガタン、ガタガタン、うわっ!」
天音を抱いていた春風は、少しよろけながら天音を守るように強く抱きしめた。
「ギュッとしてゴメン、痛くなかった?」
と天音の耳元で春風は囁いた。
「大丈夫じゃないかも?」
心も体も重力を失って、天使みたいにふわふわしてるの。
「えっ? 本当にゴメンなさい。このままでいてくれなんて言ったくせに、痛い思いさせてすみません」
いいの。
私の人生で、これほど女の子に生まれてきてよかったと思った日は、なかったよ。
春風、大好きだよ。
暫くして、周りの視線がふたりから離れたのを確認した春風は、天音の手を引き、車輌の隅のシートに天音と腰掛けた。
「天音さん、あの、もう手を離してもらってもいいかな?」
「えっ?」
と握ったままになっていた右手を見た天音は、パッと手を離した。
「春風の握った手は、思ったよりガッチリしていたね」
「まあ、自転車競技しているからなのかな?」
「春風、私の手、これからもしっかり握っていてね」
あれ? 僕は何か可笑しなことになっていないか?
紗矢香さんのことを思っていたはずなのに、天音さんとこうしていると、なぜか悪い気がしない。
何故だ?
おかしくなってしまったのか?
本当に紗矢香さんに恋していたのか?
いや、恋をしている。
女の子なら誰でもよかったのか?
いや、それは違う。
天音さんが恋しいのか?
ここが、ぼやけている。
姉さんや詩織が、天音さんのことを気に入っているから、僕はこうして今ここにいるのか?
僕の中の本質が、女の子と付き合うことを制限していないからなのか?
そこが自分自身のことだか、もやっとしていて分からない。
でもね、ハッキリしていることもある。
プラットホームで囲まれて困っていた彼女を見た瞬間、守ってあげなきゃって夢中で手を引いていたこと。
この行動は本当にしたかったことで、混じりけなしの思いだったんだ。
守ってあげたい? これが天音さんに対する僕の思いなのか?
「次は横須賀、お出口は左側」
とアナウンスが流れ、春風は窓から見える軍港に気がついた。
「軍艦だ」
「そうよ、横須賀はね、軍港がお出迎えをしてくれる街なの」