第86話 レコードライン
雨足がまた小雨に変わり、空には雲の切れ間が見え始めた。
もう少しで雨は止むが、視界が良くなればスピードレンジも更に上がってくるだろう。
そう考えた春風は、この先の幾重にも連なるヘアピンカーブが、勝敗を分けるポイントになると判断した。
箱根山は箱根スパイラルのホームであり、後ろから天野開の走りを見ていると、そのライン取りがとにかく上手いことに驚かされる。
「ウッ、あぶねー」
とタイヤを滑らせた走りも、天野の走りを完全にコピーできたなら、飛び跳ねたり滑ったりするリスクを最小限に抑えられるだろう。
しかし、コピーには超えられない壁がある。
「くっそーっ、どんだけ攻めても前との距離が縮まらん、あかん」
ラインコピーで凌いできた東堂も、この走りに勝機がないことを感じているようであったが、乗り換える選択肢は見つからず、ただ、同じペースで巡航する以外何もできずにいた。
その天野のライン取りは、天野とバイクの組み合わせから生まれたバランスにより成しえるものであり、すべてが完全にコピーされたなら、同じようなタイムをマークすることもできるだろう。
しかしだ。これは着順争いだ。
理論的には、先行く箱スパ天野を捉えることはどこまで行ってもできやしない。
今、言うなれば天野が作り出したレコードラインを出し抜く早乙女ライン的なものを捩じ込まねば、天野を超えていくことはできない。
そのカラクリを知っていたからこそ、天野は後方集団に一度下がると言う、勝負事にはあるまじきパフォーマンスを見せてきたのだ。
仮に選手の誰かが天野を出し抜こうとしても、圧倒的に優位に立っているのは天野自身に変わりがなく、攻略されたラインは、天野を勝利へと導くだろう。
「なるほど、それならもう天野ラインのコピーはいらねえ」
春風は、一つの決断をしたのであった。
山下りで安全に走るためのセオリーを極限まで削ぎ落とすことで、自転車の限界的操舵性と限界的スピードを引き出すと言う決断だ。
これは、まだ乗り換えてから間もないV3RSの限界を見ていなかった春風だけが思いつく、とんでもない選択肢であった。
下り勾配の大きな連続ヘアピンカーブを前に、シフターをスリップ覚悟で連続タップして高速レンジにギアを移動させ、低重心を確保しながらも高速巡航を維持するための道路幅を最大限に利用したライン取りで攻める春風を、東堂は目の当たりにして、
「何なんだ、そのコーナリングは! 限界超えすぎちゃうか?」
と叫んだ。
「このバイク凄いな」
こんな細いタイヤなのに濡れた路面にしっかり食いついてやがるぜ。雨? そうか道路脇の砂を通常なら噛んでしまい滑って転倒してしまうところだが、砂が湿り、ズルッとしそうになるが、何とかコントロールが効く状態が保てるタイヤコンディションだ。
救われた。
あの日、タイヤもホイールも天野が新品に取り替えてくれていたから、前後輪のバランスが良く、おまけにこのRSのフレームの振動吸収性が高いから、安心して身体をバイクに任せられる。
きわきわでも軽量化されたRSだから、コーナー続きのステージでは、僕の持つ領域を大きく逸脱した神的操舵性を生み出せたのだ。
「行ける!」