第79話 紗矢香の特効薬
自転車集団は箱根登山口を通過して、いよいよ本格的な山岳区間に入って行った。
そして、これからが本番という時に至り、一抹の不安感が春風を襲った。
「太ももに違和感が……」
その違和感の原因は、三日前にジムトレをしていた時に起こっていた。
「春風くん、お疲れ、先帰るよ」
「あっ、お疲れ様です。天野さん」
「大会前だ、あんまり無理すんなよ」
「大丈夫ですよ、皆さんより若いですから」
「言うね、じゃあお疲れ」
二十時を過ぎたところで、ERCのメンバーは練習をあがり、春風は一人、黙々とトレーニングをこなしていた。
レッグカールを黙々と続けるなか、クラブハウスの入り口から中を覗く気配に気を取られた瞬間、左太ももに「ビビッ」と電流が流れるような痛みが走った。
「痛っ!」
その声に、入り口で覗いていた女性は慌てて春風に駆け寄った。
「大丈夫なの?」
と春風に近寄って来たのは、紗矢香であった。
「あゝ紗矢香さん」
「ねえ、それより足大丈夫?」
「足? ああ、少し負荷をかけ過ぎたかな? どうだろ?」
と言いながら足を床につけ、クルリと歩いてみせた。
「うん、ちょっと張りがあるようだけど、休ませれば大丈夫かな?」
と春風は安心してみせた。
「寮に戻ったら、足のケアだね」
と少し心配した顔で紗矢香は足を見ていた。
「心配症だね」
と僕は笑い飛ばしてみせた。
ただ、寮に帰る足取りは重く、実際にはもも裏が張っていると言う事実に、レースへの不安が一層掻き立てられていた。
また、整形外科への受診も考えたが、万が一のドクターストップをもらわないため、未受診のまま大会前日まで、市販の鎮痛系のシップを貼って凌いでいた。
大会前日の夜、紗矢香は就寝前に寮長室にやってきて、春風の足を気遣った。
「明日だね」
「そうだね」
「足はどう?」
「まだ張りはあるけどね」
「そう、実はこれ飲んでもらいたくて」
と紗矢香はある液体の入ったボトルを差し出した。
「これは何?」
「これはね、回復薬よ。春風くんの足の張りが治るよう紗矢香が作ったの」
「なるほど、これを飲めば回復するの?」
「あっ、信じてないでしょう? これはね『肉体疲労時の特効薬』よ、ママ直伝なの。試してみない?」
「ええ、ありがたく、いただきます」
「どうぞ、お飲み下さい」
「ゴクッ、ゴクッ……凄いね、これ。身体が熱くなる」
「ウフフッ、全部飲んじゃうと、今夜眠れなくなっちゃうかもね?」
「そんな感じだね、あとは明日の朝、いただくよ、ありがとう」
この紗矢香がくれた特効薬が吉と出るか、凶と出るか?
「春風! どうしたんだ? 引きが弱いぞ、踏めないのか? おい、メカトラか?」
天野が心配そうに後ろから声をかけた。
「あっ、天野さん?」
「おいおい、天野さんって、メカトラか? それとも体調か? 行けんのか?」
「すみません!」
いかん、太もも裏に違和感があるけど、どうだ、回しても大丈夫なんか?
MAXで行くか? そこそこ維持して行くか? それとも不調を理由にリタイア……いや、それはありえへん!
左太ももの裏辺りには相変わらず違和感が出続けているが、この戦況で手を抜いたら、やっぱ後悔しか残らないよね、僕的には。
今、並ばれた南大付属に先行かれたら、チームの士気はもう戻らんようになってしまうし、
「天野さん! ちょっとだけ足に違和感ありますが、やっぱ決めましたよ、MAXで踏みます!」
「おーりゃー!」
春風は、紗矢香の特効薬の仕事を期待して、シフターを2タップして、ケイデンスを上げた。
くい下がる南大付属を先ずは引き離しにかかった。
「いい感じだ、春風くん」
「はい」
「足は保ちそうか?」
「はい、痛みはなく、足の張りもないです」
「なら、行こうか? この先へ」
「はい」
南大付属を二〇メートルあとに退け、ERCはグングン加速し、一度視界から消えた、鎌学OBを追いかけた。
「春風、足は回せるか?」
「まだまだ! 行きますよ! そぉーりぁー!」
更に春風はシフターを2タップしてギアを八段まで上げた。
まだ行けるか? 僕の足?