第72話 天音の献身
春風は東堂と別れたあと、気がかりなことが二つ浮かんでいた。
一つは大会までの練習が、寮長としての仕事に差し支えること。 もう一つは、ニューバイクのコルナゴ V3-RSでの走りの特徴をまだ掴めていないこと。
春風は「あー、寮長でなければ、こんな悩みはなかったにな」と愚痴りながらため息をついた。
ニューバイクに慣れないとまずいけど、どうする?
平日は難しいから、土日で山登りして、感触を掴んでおきたいな。
そう思いが纏まり、春風は寮に帰宅後に食事を取り、まずは天音に相談を持ちかけた。
「夕食は食べられたかな?」
「いろいろと助かりました。ありがとうございます」
春風は雑誌を見ながらソファーでくつろぐ天音に大会までの寮長職について相談を持ちかけた。
「あのですね、実は五月に自転車の大会があるのだけれど、寮長の仕事してると練習に参加できなくて、平日の二十時半、つまり施設内の夜の見回りまでには戻るから、それまでの仕事を誰かに変わってもらいたいんだが、どうしたものかと」
天音は、仕事も始まり出して調整が難しくなることが見えてきていたが、他でもない春風のためと、策を講じることとした。
「つまり、夕方の掲示物の張り替えや、郵便物の仕分け、電話外線対応や夕食点呼など仕事を私が基本的に頑張ります。でも、できない日には学年長にも土日同様、協力をしてもらえるよう頼んでおいて欲しいの」
「了解です。でも天音さん、本当に大丈夫なんですか?」
春風は気遣ったつもりだったが、天音はこう切り返してきた。
「その間、上手くやり切れたら、ご褒美に……一日デートをしてあげましょうか?」
「ええ? デートですね。わかりました」
本来なら条件として「して下さい」と言えば文脈的に良かったが、何かが引っかかって「してあげましょうか?」なんて高飛車にも取れる表現をしてしまった天音であった。
元々善意で協力をするつもりでいたことを、条件付きみたいなものにしてしまったことは、天音にとってプライドが許さない行為となってしまったことと同義であった。
また、他人のためには頑張っても、他人からの配慮は屈辱と感じてしまう天音の捩れた性分が、色濃く出てしまったのだ。
時間のない春風は、学年長に招集を願い管理室に集まってもらった。
「みなさん、遅くにすみません。実は勝手ながらお願いがあります」
麗香は「なんのお願いなのかしらねえ?」と迷惑そうに春風を睨みつけた。
「実はGWの自転車大会に参加をしますが、毎日練習をしなければなりません。天音さんが平日は補助をしてくれていますが、この自転車大会の話を聞き、できる限り協力すると言ってくださったのですが……」
「つまり、一月の間、天音にも配慮しながら平日も寮の管理をお願いしたいと言うことね」
と総長の麗香が忖度をしてきた。
「はい、本当に勝手なお願いですがよろしくお願いします」
一瞬沈黙があったが、
「私、協力します」
とセレナが声を挙げた。
すると中等部のセレナが声を上げたのに、自分たちが挙げないわけにはいかないと、高等部の学年長もセレナに賛同する流れを取った。
それを察した麗香は「学年長は五十嵐天音に協力します」と言い残し、部屋を退出した。
通路で中の話し合いを聞いていた天音は、出てきた麗香に頭を下げた。
「天音は健気だわ。尽くし加減が半端ないから」
「それは褒め言葉として受け止めておくわ」
とふたりはグータッチをしながら言葉を交わして、麗香は去っていった。
天音は管理室から帰って行く学年長らに頭を下げて見送った。
「ありがとう、天音さん」と春風は頭を下げた。