第61話 紗矢香と天音の抗争勃発
カーテンに手がかかり「シャッ」と開けたのは、パーラーの美涼店長であった。
「あっ」と声を上げながらも意識がぼやけた僕に「迎えに来たから、診療所に行きましょうか?」と優しく声をかけてくれた。
「あっ、歩けますから大丈夫です」と岩下先生が用意してくれた車椅子を断り、僕は自力で歩き出した。
美涼さんに付き添われ、近くにある三浦クリニックで受診し、発熱から脱水が疑われ点滴をしばらく受けることになった。
その点滴の途中、「ごめんね、春風くん」と申し訳なさそうにごめんポーズを何度もしながら、付き添っていた美涼は仕事に戻って行った。
それから二時間が経過し、点滴を終えた僕は「ああ、少し楽になった」と感じる程、熱も下がり、美涼さんからもらった車代でタクシーに乗り、なんとか寮まで戻ってきた。
春風は一人ベッドで横になり、天井を見上げた。
「トントントン」
扉を叩く音に反応し「はい」と返事を一つしたあと、空いた扉の奥から「春風、いるの?」と聞き覚えのある声が聞こえてきた。
僕は「体調悪いし、感染らないよう部屋に入らないで!」と牽制したが、彼女はスルリと枕元を上から覗き込んだ。
紗矢香さん?
長い髪を耳にかけるような仕草一つ、髪が揺れて甘い香りが、僕の嗅覚を麻痺させる。
そして十五センチと離れてい紗矢香の大きな瞳と小さくてうるんとした唇に、思わず息を呑んだ。
紗矢香は「あなたのことが……気になって」
と目を閉じた春風の瞼を撫で、おでこに細い指をそっとあてた。
「あっ、こんなに……」
紗矢香は奥の部屋にある冷凍庫から氷枕を取り出し、近くにたたまれていたタオルを巻いたあと、春風の頭の下に滑り込ませた。
「どう?」
「ありがとう、冷たくて気持ちいい」
紗矢香にそう礼を言ったあと、春風は穏やかな顔つきでしばし眠りについた。
紗矢香は春風の傍に寄り添うように腰を下ろし、夢心地なその素顔をそっと見守っていた。
しばらくして、そっと目を開いたら春風は、紗矢香の視線を感じ、彼女がそばにいたことが分かり大きな安堵に満たされた。
「何かお腹に入れない? 食事を作ってみたけど……どうかな?」
「嬉しいかな?」
「私も嬉しいかな」
互いの言葉や距離感を探り合いながら会話し、ぎこちない雰囲気を醸し出していたその情景に気づくと、ふたりは堪えきれなくなり大笑いを始めた。
「たまご粥作ってみたんだ」と鍋の蓋を開け、湯けむり立つできたてのお粥をレンゲで一かき、春風の前で「フー、フー」と冷ましたあと「あーん」と口元に運んだ。
「どう? 食べれられそう?」
と心配する彼女を見て、
「火傷したって食べるよ」
とハニカミながら答えた。
「どうぞ、あーん」
え、ええ? やばいな、こんなんされたら。
でも……いいかも、憧れてたんだ。
うん、美味しい!
紗矢香さんの献身、もう、死んでもいい!
「どう?」
どうもこうもない! 紗矢香さんが給仕してくれるなら、何杯でも食べられかも?
「……うん、美味しいよ」
紗矢香は「良かった」と笑みを溢した。
そして「粥が……」と汚れた口周りを、彼女は指先で拭き取り、何気に舐めてしまった。
僕の食べ溢し、舐めちゃうの?
まるで母猫が子猫の食べ汚しを舐めるように。
彼女は「どう、したの?」と春風の「ポッ」と火照った顔をじっと見ながら、また、粥を口に運んできた。
熱発最高!
あーこのまま、死ぬのも悪くない。
もっともっと、占有したい!
紗矢香と二人っきりのこの時間。
「春風くん、もう少し横になっていて」
紗矢香はそう言い残して、部屋を出て行った。
春風は幸せを感じたまま、再び横たわった。
紗矢香が部屋を出たあと、階段を登って行く姿を、春風の病気早退を聞きつけて昼休憩に寮に戻った五十嵐天音は目撃していた。
「紗矢香? どう言うこと? 何してるの?」
天音は全身の毛が逆立つくらい嫌な予感がして、管理人室へ飛び込んだ。
「春風? 大丈夫?」とベッドに近づき、眠っていた春風を確認した。
側のテーブルに乗った鍋で作ったお粥の残りを見つけた天音には、この部屋で起こった出来事を推測するには充分な痕跡であった。
「あの子、春風のなんなのよ!」
そう思ったら、燃え上がる嫉妬心と独占欲の業火に天音は包まれた。
天音は管理室の外側通路の壁にもたれかかり、紗矢香が戻るのを待った。
そこに妹の詩織と天野雫が寮に見舞いのためか寮に戻ってきた。
物音に気付き玄関まで歩み寄った天音は「あら、詩織ちゃんに雫ちゃん、二人ともお兄ちゃんの見舞いね」と声をかけ、春風の様子を伝えた。
二人は管理室に入って行った。
春風がお粥を食べた形跡を見て、二人は天音が食事の用意をしたものと感激し、詩織は「天音さんてスタイル良くて美人で、その上、病気になった人のために尽くすことも厭わない女性、これって簡単にできることではないわ。天音さんが私のお姉様だったらいいのになぁ」と呟いた。
「兄さん、大丈夫?」
と声をかけた瞬間に目を開いた春風は、傍にきた二人に「見舞いに来てくれたのか? 心配かけてすまなかったな」と横になったまま礼を伝えた。
「私たち学校に戻るね」
「ああ、雫ちゃんもありがとう」
「お大事にして下さい」
そう話したあと、部屋を出た二人は、天音に「兄さんのためにありがとうございます。天音さんが本当のお姉さんならいいのにな」と言い残しながら、二人は学校へ戻っていった。
ええ? 私が春風の看病してるって思われた?
そして、理想的なお姉さんか……。
これはいわゆる「棚からぼた餅」ってことよね。
詩織ちゃんに「私のお姉様だったら……」って言わせたわ。
「キャー、やったね」
あれ?
あれれ?
私って、周りに認められたい恋愛してる訳じゃないのに、詩織ちゃんがあゝ言ってくれると悪い気がしない、いや、とっても嬉しいなんて、恋愛ゲームのはずが、どうかしてるわ。
でも、この気持ち、しばらく忘れていた喜びの気持ち。
紗矢香が階段から降りて来た。
「天音……さん」
「寮長の看病してくれたのは、あなたね?」
紗矢香は手にしていたタオルを「ぎゅっ」と握りしめて「そうですが」と天音に答えた。
「神楽さん、あなたも知っているとおり、私は三年であなたは二年なの、分かるわよね? 私のギフトに近づくことはヤメて欲しいの」
紗矢香は顔つきが変わり「看病をすることが、いけないことなのかしら?」と天音の睨みつけた視線を逸らすことなく受け止めた。
「この寮では三年が絶対なの。あなたは黙って従っていればそれでいいの。そして、私のギフトを横取りしたら許さないからね」
「私……自分の想いを誰かの指図で曲げたりしない! 仮にあなたが彼を自分の獲物だと主張しようとも、絶対に、絶対に譲ったりはしない」
「まあ、なんて言う図々しい子なのかしら。自分の立場をわきまえなさい!」
天音の終始一貫した物言いに、紗矢香は更に反発するだけでなく、天音の心理を嘲笑うかのように踏み込んでいた。
「悲しい人ね……天音さん。恋愛のリングで覆面をいいことに反則するレスラー、そしてレフリーまで買収して、ジャッジすら不純なものにしてしまう悪党ぶり」
「何ですって!」
「そもそもあなたは、私の敵ではない。同じリングに上がってすらいないから。だからあなたにつべこべ言われる道理はないわ」
「そうね、しきたりを押しつけた私がどうかしていたわ。けどね、あなたこそ寮生活において反則を続ける悪党よ。あなたみたいな不良娘には絶対に負けないから!」
春風を巡るヤジり合いで、目を覚ましたのは紗矢香であった。
これまで春風の気持ちを知って思わせぶりな態度を取りながらも、ドライに振る舞ってきたつもりの紗矢香であったが、本当は好きになっていた自分自身に気づいてしまったのであった。
「私は勝ち負けなんて知らないわ! 放っておいて下さい!」
「いや、私はあなたには負けないから、春風を振り向かせてみせるわ!」
春風を巡る恋愛バトルは、こんなところから始まりを迎えた。