第58話 天音の純真
午後六時半 夕食時
春風が管理室に戻ると高二学年長の石原雪乃が何か読書をしていた。
春風は雪乃に「お疲れさま」と声をかけながら、担いできた自転車を下ろして隅にあったスタンドに乗せた。
雪乃はその姿を見て思わず、
「カッコ、いいですね」
とその益荒男ぶりに見惚れ呟いた。
「え? あっ、これね?」
と春風は雪乃の隣に座り、自転車を見ながら語り出した。
「あれはね、ある人から託され、そして、知り合いの好意で蘇ったロードバイクなんだ」
雪乃はよくわからぬまま「ふんふん」と春風を見つめながら聞いていた。
「石原さん、ここからは僕が仕事しますから、どうもありがとう」
「では、失礼します」
雪乃はそう言って、そそくさと去って行った。
夕食の時間になり、寮生の点呼を総長の華宮麗香が始めていた。
「まただわ、もう、神楽紗矢香、七瀬リコ、あの子達は寮の規律をなんだと思ってんのよ!」
紗矢香さん、戻っていないの?
天野さんとこから先に帰っていったはずなのに。
国道134号で事故があった様子はなかったから、どこかに寄り道しているのかな?
「総長の怒りっぷりから、紗矢香が帰ってきたら血の雨が降るかも知れない」と春風は本気で心配していた。
そう思った瞬間、総長から鋭い視線が向けられた。
そして春風の傍まで詰め寄った麗香は「寮長からの厳しい指導を求めます」と、キツめの口調でそう申し立てをしたのだ。
春風は「二人から夕食のキャンセルの話はなかったのですか?」と管理室で日中過ごしていたはずの石原雪乃を見つけ、声をかけた。
「何も連絡は入っていません」
と雪乃は答えた。
「分かりました。見つけたら指導させていただきます」
と食堂内に響き渡る声で、春風はそう答えた。
食事を終え。管理室に戻った春風は、紗矢香に電話をかけた。
しかし、留守番電話に切り替わった。
「もしもし、紗矢香さん? 春風です。今どちらに見えますか? 至急折り返しの電話ください」
とメッセージを残した。
また、寮には門限九時半とする決まりがあり、寮長に許可なく門限を破った場合、罰則があり、これが繰り返し行われた場合には、退寮となることもあるため、春風は紗矢香のために、事情把握をして罰則を受けなくても済む配慮をしようと考えたのだ。
しかし、一向に連絡は入ることなく門限が過ぎて行った。
午後十時半、天音が管理室を覗いた。
「こんばんわ、 春風」
片肘ついてぼんやりしていた春風は、その声に反応し振り返った。
「ああ、天音さん、どうかしましたか?」
「さっき食堂で麗香から、厳しい指導がどうだとか、迫られてたからね、心配になって覗いた訳です」
「それは、ご心配をかけました 」
「どうなの? 戻って来たの?」
「いや、まだですけれど」
「そうね、紗矢香は不良だけど、リコは仕事だから、マネージャーから連絡入ってるんだよね?」
「マネージャー? ないですよ。多分」
「本当に? リコに確認してみようか?」
「繋がってるんですね」
「まあね、これでも先輩だからね」
天音はネコのカバーがついたスマホをGパンポケットから取り出し、電話をかけた。
「……天音先輩、こんな遅くにどうしたんですか?」
「あのね、寮の門限破ってることになってるよ?」
「今もう少しで、寮に着きますけど、なんとかなりませんか? 次に門限破ると退寮になっちゃうかも。連絡するの忘れていてゴメンなさい」
天音は呆れた顔して、春風に聞いてみた。
「七瀬リコなんだけど、門限破りをすると退寮になっちゃうんだって。なんとか見逃せないかな?」
まあ、紗矢香さんもなんとかしなきゃって思っていたから、ある意味そこは平等に振る舞わねばならないかな?
明らかに、これ、寮長失格だわ。
「春風には迷惑がかからないように私が証人になるから、見逃せないかな? お願い!」
「いや……大丈夫です」
見逃しするのに一人も二人も同じこと。
「天音さん、リコちゃんの件なんですけど、寮長としてはどうせ危ない橋を渡るのなら、できれば僕的に公平な対応をしたいのですが、そのことに対する理解が頂けるのなら、甘んじてその工作に協力します」
天音は何か勘ぐるかのように「それは、つまり、紗矢香のこともアリバイ工作したいと言うことなのかしら?」と白々しく春風を問い詰めた。
「そうです、そのとおり」
「それが寮長の公平と言うならば、あまり乗る気はしないけど、紗矢香を助けてあげるわ」
「ありがとうございます」
春風の安堵した表情に、天音は得も言われぬ不安感が押し寄せた。
公平とは言え、わざわざ不良娘まで助けようとするなんて、どう言うつもりなのかしら。
リコは連絡取れた上での見逃しなのに、何も分からない紗矢香まで見逃がせなんて。
まさか……弱みを握られているとか?
「寮長、一つだけ聞いてもいいかしら?」
春風はとぼけるように「ん? なんですか」とまたもや白々しく切り返した。
「率直に言えば、弱み、握られているんですか? それとも、寮長としての公平によるものなんですか?」
春風は「正直言って、神楽さんには借りがあって、何とかしてあげたいんです」
「借りって何か教えて下さい!」
「……あれです」
「えっ、自転車、ですか?」
「そうなんです。彼女には大きな借り、あの自転車の修理代をただ同然になる流れを作ってもらったんです」
「金、と言うこと?」
「いや、そう聞こえるだろうけど、単純にそう割り切れるものではないんです」
「それは、紗矢香のことを気にかけてると言うことなの?」
「……気になってるよ」
「えええ!」と天音の心は、その瞬間に嫉妬として炎上した。
春風は、私に与えられたギフトなんだから。
紗矢香が何をしようとも、離さないわよ。
絶対に!
だけど、紗矢香は春風とどんな形で繋がったと言うの?
確かにあの子は、歓迎会の日に姿を見かけなかったし、昨日も今日も朝から晩まで何してるかまったく掴めない子だけに謎すぎよ。
でも、私のギフトに手を出したら、ただでは済まされないわよ。
見てなさい!
「あの、天音さん、怖い顔しないでください」
「あら、そうかしら? うふふ」
「話戻しますけれど、二人を全力で見逃しますので、天音さんも力貸して下さい」
「いいわよ、協力してあげる。ただし、紗矢香が今どこにいるか確認できればの話だけどね」
「確認できればか……確かにそれでなきゃ公平にはならないよね、分かった」
春風は天音の提案に一理あるあることを認めつつ、一方でわざわざ見逃がすことを前提としたことで、退寮がかかっている訳でもない紗矢香のことも公平に扱いたいと言ってしまった自分に、後悔の念を抱いた。
自転車のことで紗矢香に恩があるなんて天音に話してしまったことは、不作為によるリコの見逃し配慮とは異質な、まさに私利私欲にまみれた職権濫用であることを露呈したようなもの。
それを察した天音が、僕がこだわってエセ公平感を論破しに来たのだと理解できた瞬間、自己矛盾に苛まれた。
そう、春風には天音の真意はそう映っていただろう。
しかし、真意は別である。
春風は気がつくはずがない。
天音が自分のことをギフトだと思っていることを知らないからだ。
これに気がついていたのなら、ある意味不用意な言葉たちを伏せることができたのかも知れなかった。
この顛末は、春風が紗矢香に連絡が取れるのなら、今すぐに確認を取らねば収まりのつかないシチュエーションを作り出した。