第34話 ライメイ650
「バイクに乗るの初めてだよね?」
「ええ、人生で初めて乗せてもらいます」
「じぁあ、一つだけ話しておくね」
「はい、お願いします」
「大事なのは体重移動よ!」
「体重移動ね」
「うん。曲がる時は必ず曲がりたい方向に体重を移動させてね」
「了解、自転車と同じだね」
紗矢香はメットを被り、左手でクラッチを切り、左足でギアを入れ、右手でスロットルを回し、バイクはゆっくりと動き出した。
道路侵入につき一旦停止した後、右折し、国道一三四号を小田原方面に向けて二人を乗せたバイクは走り出した。
——紗矢香の愛車は、北米逆輸入スーパースポーツタイプのライメイ650CCをベースに、レーシングチームが軽量化やボアアップによりサーキット仕様にフルカスタムされたレーサーバイクを、敢えて公道仕様に再チューンされた公道最強ストリートバイクであった。
紗矢香がこのバイクと出会った理由は、彼女の父親がバイクレーシングチームのメカニックであったからであり、彼女自身も幼い頃からポケバイで練習を積んでいての今なのであった——
なんて走りなんだ! バイクのことは良く知らないけれど、彼女の身体を通して伝わってくるフィーリングから、おおよそのことは分かる。
こんな鬼加速で身体の力み一つ見当たらないなんて、考えられない次元のフィーリングだよ、まったく。
もちろん、こいつの性能は並じゃないだろうが、これだけのハイパフォーマンスを可能にしているのは、それだけじゃない。
ロードに乗っている僕には分かるよ。
ただ乗り込んできただけじゃなく、バイクの性能を熟知し、それを手足の如く操る技術とセンスが抜けているのだろう。
もし僕が、紗矢香さんだったら、こんな気持ちいいライディングができるだろうか?
気流の向こうに映る磯波のざわつきを追い越して、彼女と僕を地平線のその先へとバイクは運んでいく。
鵠沼から辻堂を一息で走り抜け、二人はトラスコ湘南大橋を超えたところまでやってきた。
そこで紗矢香は、平塚市内に進路を変えた。
ここはどの辺りだろうか?
平塚市内だとは思うが。
紗矢香は目的地であろう店舗の近くまで来て、バイクを路側帯に寄せ停止し、ハザードを焚いた。
ここは?
紗矢香はヘルメットを両手で外したあと、手櫛で髪を梳かし「そう、お花屋さんよ」と呟いた。
僕は彼女の肩に手をかけ、ステップバーに乗せた左足に体重をかけながらバイクを降りた。
ビルの一階に売り場を持つ花屋を見ながら「本当だ」と相槌を打った。
「早乙女くんに選んでもらおうかな?」
紗矢香は僕を連れて店に入った」
「こんにちは!」
と紗矢香は店の中で、どこということなく声をかけた。
「紗矢香ちゃんじゃない?」
と驚いたように声をかけてきた。
「しばらく振りね。元気にしてた」
「はい」
と答えながら、紗矢香は近くの花をチラッとみていた。
「こちらは?」
「えっ、ああ、早乙女くんです」
「早乙女春風です。初めまして」
とペタンとメット跡がついた髪を触りながら挨拶をしたあと、店の奥の方に瓶詰めされた贈答品を指差し「あれ、綺麗ですね」と話した。
三人は僕が見つけた瓶詰のコーナーへと歩み寄った。
「とても綺麗な色合いですね」
「ありがとうございます。これはハーバリウムって言うんですよ」
店員は二人によく見てもらえるよう箱に入っていた色合いの違うハーバリウムを並べた。
「これは素敵ですね。まるでインテリアのようだわ」
「そうなんです。生花とは違うけれども、長く鑑賞できるから、贈答に限らず自宅用としても人気のある商品なんですよ」
紗矢香は、店員からハーバリウムの中の花たちが、特殊な液体に生花を浸して作られたプリザーブドフラワーであることを知り驚いた。
また、瓶の中に入っている花たちは、オイルに付けられた、いわゆる、植物標本であることを理解したのだ。
紗矢香は「このピンク系と紫系の二本いただけますか?」とお願いした。
僕は、ふと頭をよぎったことがあり、それを聞いてみたのだった。「ねえ? 聞いてもいいかな?」
紗矢香 ライメイは市販車よ!
春風 それを言うなら、手に入らない市販車では?
紗矢香 私、バイク乗りの役どころなの?
春風 そうじゃないよ。それはまたのお楽しみ!
次回「隠された過去」
紗矢香 お楽しみにね!