第106話 抗えないトラウマ
祝勝会開始一時間前の憂鬱
「ヴーヴー、ヴーヴー……」
「入るよ、兄さん」
ガシャガシャ、あれ?
「ねーえ、開けてよ、ねえ、お兄ちゃんってば!」
「どうしたの? 詩織ちゃん?」
「天音さん、兄が翔子さんと喧嘩したみたいで……」
天音は詩織の唇の前に人差し指をかざし「シー」と声をかけたあと、こんなことを話した。
「喧嘩はね、犬も食わないと言ってね、放っておくのが一番なのよ」
天音さん、それは夫婦喧嘩の話では?
「時間が解決してくれる、と言うことですね」
「そうよ、時間が経って、いろいろ振り返ってるうちに、自分のいけなかったところを、案外見つけたりするものよ。そうなりさえすれば、お互いに歩み寄れる何かを見つけられるはずよ」
天音さん、すごーい、大人的思考ね。
私は、まだまだお子さまかしら?
その時であった。
「カチャ」
と扉のロックが解除して、
「あれ、詩織に天音さんまで、どうかしたの?」
と不思議そうな顔して、春風はふたりに問いかけた。
「翔子さんと喧嘩したって……」
「喧嘩? 僕が翔子さんと?」
「兄さん、何を言って」
と詩織が問いかけたその瞬間、天音は、春風があくびを仕掛けた左手に、天然石のブレスレットを嵌めていないことに気づいた。
そして直様、その訳を聞こうとしたのだ。
「春風、ブレスレットはどうしたの?」
と聞かれ、あくびをした口を押さえていた左手を見ながら春風は、
「あれ、どうしたんだっけ?」
と拍子抜けの返事をして見せた。
「ブレスレットって?」
と詩織が問いかけたところに、天音は少しハニカミながら呟いた。
「春風とあたしが横須賀で、互いに交換しあったふたりの絆ブレスレットのことよ」
天音は、自分の左手首に嵌めたものを詩織に見せた。
「お兄ちゃんは、天音さんの彼女になれたのね?」
キャッ、詩織ちゃんたら。
そう、そうなの。
あたしたち。
結ばれる運命なんだよ。
詩織ちゃんも、応援してね。
「彼女……?」
ええっ、あっ、ペアブレスの仕業か?
そうだ、ペアブレスを嵌めていたから、ああなってしまったのか?
なんか分からんが、自分でも行き過ぎたと思えるほど、いつもの冷静さを欠いていたかも……。
それに、天音さんには、このことは話せないや。
「お兄ちゃん、隅に置けないわ。やることやってるんだ、へー」
それ、詩織、やーな誤解だ。
それに天音さんが、妹の前で「絆ブレスレット」なんて言ってること自体、恋人公認を掲げていて、何だか僕の弁解する余地がなくなってるし。
「詩織ちゃん、そろそろ祝勝会の時間だから、あたし準備してくるねっ!」
「はい」
と返事をして、天音が階段を上がって行ったのを見届けた詩織は、
「ねえ! ちょっと、どうなってるのよ!」
「どうなってるとは?」
「紗矢香さんのこと!」
「それを言われると胸が痛い」
「何呑気なこと言ってるの?」
「何って?」
「んっもう! 素人過ぎだよ。本当、言いたくなかったけど、紗矢香さんのことよ」
春風は「バタン」と閉めた扉にもたれかかり、真っ直ぐな詩織の視線を外すかのように、何もない左手首を見ながら、
「……漸くだけどさ、自分の恋愛素人加減に気がついたんだ」
と左手を力一杯握った。
「兄さん?」
「そのことが引き鉄になって、翔子さんと言い合いになった」
と言った時に見せた兄の力ない眼差しは、詩織の奥底にしまい込んだあの日の光景を甦らせた。
それは、春風と詩織が初めて出会ったあの日のこと。
「春風、この人がお前のお母さんになってくれる梶浦苑子さんと、妹になる詩織ちゃんだ」
「可愛いわね、春風くん。私があなたのお母さんになってあげるから、さぁ、こっちにおいで!」
母は父の足にしがみ付く兄さんを無理やり引き寄せて、ハグして見せたんだ。
苦笑うしかなかった母にしてみれば、懐こうとしない兄に対する仕打ちは、あの時、既に始まっていたのかも知れない。
そして、兄さんが母にハグされていた時に見せた、兄さんのあの力ない眼差しを、私は悲しい気持ちで見ていたことを思い出した。
「そうだね、仕方なかったよね」
抗えないトラウマに支配されているかのような兄のその素顔に、詩織は優しく振る舞った。
「……心配かけてごめんな」
「兄さん……」
暫く、ふたりはただ黙って、その場に立ち尽くしていた。