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Qub  作者: ソノ
《ナカセエリア》編
76/80

Q75 ライバル店

 十月も中頃に差しかかった空はからりと晴れ渡っており、刷毛で薄く伸ばしたような繊維状の先端が曲がったすじ雲が所々で描かれたようにあって、より空の存在を高く感じられた。

 近年では短くなってしまった秋を実感する中、逆に今年は酷暑が長かったせいもあり、人々はみるみるうちになくなっていってしまう今という時間をありがたく過ごしていた。


 一方で垂水寝たるみねしとねは珍しくもやもやとしたものを頭の中で処理し切れないでいた。

 湿度八十%越えの中、突如としてわいてくる夏のカリフラワーに似た積乱雲が一時的な局地的雷雨を引き起こし、すぐさまやんだと思ったら地面から耐えられないようなむわっとした空気が立ち昇り、再び湿気地獄へと舞い戻る。


 そんな鬱屈のような繰り返しにしとねは苛まれており、正直来年に控えている資格テストに向けてもほとんど集中できていなかった。

 加えてモンシェールクレアをしばらく封印してしまったため、彼女のむふむふ欲求がピークに達してしまっていることも相まって、ストレスがたまったもんじゃないほど膨れ上がっていたのだ。


 しとねは深くため息をついて思う。

 《らしくないよねえ》と。

 《ゆあちゃんとのあちゃんのことがやっぱり頭から離れないし、どうでもいいけどプモ、いや、タニーの奴も全く姿を見せないし――あいつめ、監視者か変質者か知らないけどさ、責任感がないよね、本当に!》。


 そんな絶不調なしとねだったが、今日は《洋食屋Sono》で一か月ぶりのランチだった。

 案の定、オーダーしたハンバーグ&コロッケを食べ始めると頭に飽和したイライラモヤモヤな靄はすっかり消え失せていった。


 《くわあ~さっすがのレベルだわあ。美味美味~今日は忘れてもいいよね、もろもろ厄介事を》。



 あっという間に平らげたしとねは「ごちそうさまでした」と深々とマスターである米澤律夫とその妻、和子に頭を下げた。


 「おやおや嬢ちゃん、どうしたんだい今日は。店に入るなり珍しくげんなり疲れた感じだったし、今はえらく元気になったようだしな」

 マスター律夫は椅子に座ってちょうど正午のニュースを観ているところだった。紙煙草を吹かしてしとねのほうをぼんやりと眺めている。


 「そりゃそうだよ、私だって悩める女性なんですよ。でもマスターの料理で幸せパワー頂戴しちゃったから、今日だけはのほほんと暮らせるかなあ」


 「へえ、嬢ちゃんが悩むなんてよっぽどじゃないか。宇宙人が目の前に現れたとしても平然と飯食ってそうだからな」


 「確かに、しとねちゃん、びくともしない感じよね」


 「まっ、和子さんまで‥‥ううぅ、失礼しちゃうわ。ぷんぷん丸が久しぶりに出てきちゃうんだからね。そう見えていても結構悩んでいるんだから。はあ~また憂鬱になってきちゃった。おかわりしよっかな」


 「はっは、そんな状態で食べられるんなら大丈夫だな」


 「ふーんだ、よし、じゃカツカレーね。あと食後にアイスコーヒー、よろしく」


 「はいよ」


 それからややあってSonoのカツカレーが着丼する。深さがある楕円形の独特な皿に盛られたカレーライスとカリッカリに揚げられたカツの上には自慢のデミグラスソースがかかってある。

 しとねはそれを無我夢中で食らいつき、幸せの絶頂だといった恍惚の眼差しを終始絶やさなかった。


 食べ終わるのを見計らったかのように和子さんがそっとアイスコーヒーを置いてくれるのはさすがだとしとねはおしぼりで口をふきふきしながら感心した。


 「二度目のごちそうさまでした。ふぃ~大満足だぜ。やっぱ最高に美味しい。感謝感謝だわ~」と言って、アイスコーヒータイムに入った。


 「そりゃよかった」と律夫は一つ頷いて今度は新聞を読み始める。


 そういえばとしとねは思う。

 「ねえねえ、そういえばだけど。最近、娘さん見ないよね。ほら、半年前くらい?はよくお昼の時間帯手伝いに来てたなあって」


 「ああ、あきみか。あいつはなんかやりたいことがあるって。パン屋だったかな、確か。今は普喜野生市ふきのいきしで移動販売をしているはずだよ」


 「ええ、そうなんだ。すごぉい。うん?でもそれじゃこのお店は継がないってこと?」


 「まあそうなるかな」


 「ええ~それは悲しいよ~。パンもいいけどさ、やっぱりこのお店の洋食を続けてほしいもんだわ。マスターはいいの?」


 「うーん、まあなあ。継いでくれるならそりゃありがたいけど。でも本人が一番やりたいことをするのが一番だとは思うしな。難しいところだな」


 「まあそうだけどさ‥‥けど食べられなくなるの嫌だな。マスターも、和子さんもいつまでできるかわからないって言ってるよねいつも」


 「そうねえ、続けられるところまではがんばりたいけど」と和子さんが遠慮がちに言うのを見て「だよねえ」としとねはしみじみ思う。


 「――けど、パンも食べてみたいな。普喜野生ふきのいきかあ、そこまで遠くないし、一度行ってみようかな――あ、メールだ‥‥げっ」


 メールの主はモンシェールクレアの支配者、田原からだった。


 内容はこうだった。

 《関係者各位、ご苦労様です。田原です。ご存じの方も多いかと思いますが、もう一度意識づけの観点から連絡します。

 現在モンシェールクレアの売り上げが非常に落ち込んでおります。原因に挙げられるのは最大のライバル店である「クラブ・ダリ」の存在です。先月からニューフェイスとして入店した黒木まやというキャストがかなり話題となっていることもあり、客の流れが完全に遠退いているのは事実です。

 ただしこれを一過性のものと短絡的に捉えてはいけません。モンシェールクレアのキャストとして皆さんはもっと危機感を持ってください。いかに顧客満足度を上げられるか、一人の女性として、一つ上の大人を目指して日々邁進してください。

 勤務態度やアンケート結果などをより一層評価基準としていきます。モンシェールに所属するに値するかどうかも含めてこれから再度検討していきます。よってこれからの成績しだいでは別店への移動、もしくは退店などもあり得ることを十分ご承知おきください。もちろん活躍目覚ましいキャストにはそれ相応の対価になるようにキャストランクをグレードアップさせていただきますので。皆様のご活躍を心から応援しております》。


 しとねは思う。

 《やばいじゃん!》と。

 《えらいこっちゃだわ。このままだとクビになっちゃうかもなあ、自己都合による長期休みは店の規定上認められているとはいえ、この田原さまからの通達はそんなものは状況しだいでどうにでもなる、と忠告してるんだろうな――うん?》


 田原からのメールには《クラブ・ダリ》の注目キャスト、黒木まやのプロフィールページへ飛ぶURLが貼られていた。クリックすると今話題のキャストの宣材写真と詳細なプロフィールが現れる。


 しとねの思考が停止される。

 《えっ、これって――》。


 髪型はボブ気味で艶やかな黒がとても印象的だった。写真は横顔からのアングルしかなく、はっきりとはわからないものの非常に端整な顔立ちでどこか中性的な魅力も兼ね備えているハイブリッドなキャストだということが一目でわかった。

 スタイルもややスレンダーよりなのだが、計り知れない色気を隠し持った柔肌ともちっとした胸が男どもを魅了してやまないのだろう。


 しとねは思う。

 《あのがさつなお姉さんに見せてやりたいものだわ》。


 けど――。

 しとねは口に溜まっていた唾を飲み込んで、米澤夫婦を一瞥した。


 「マスター、和子さん、ごめんちょっと用ができたから帰るね。おあいそお願い」

 そう言ってしとねは慌て気味に代金を支払って店を出た。


 どういうことなんだろう。

 しとねは目をぱちぱちさせながら店の壁に背を預けた。


 確信は持てないけれど、黒木まやは恐らく米澤夫婦の娘、あきみに間違いないだろう。彼女の記憶の中で完全にあきみと黒木まやが一致した。いつもランチ時間に店を手伝いしていたのでよく覚えているからしとねには自信があった。


 しかし――化粧だけであんなに変わるものだろうか、ううむ、ずるいなあ、あきみさん‥‥じゃなかった。今はそれどころじゃないよね、色々と。


 しとねは田原からの忠告メールを片隅に置きつつも、興味はすっかり《クラブ・ダリ》のトップキャストに移っていた。

 とはいえライバル店に一キャストが来訪するのは非常識にも程があるし、そんなことをしてしまえばそれこそ田原からの戦力外通告を受けてしまうことになるだろう。


 だからしとねはもう決めていた。

 普喜野生市へレッツゴーだね、と。

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