Q68 なんてタイミングなんだ!
冷矢笥のあが入院している病室を出た淡口は、海星会病院の東棟を改めて見渡した。
水を打つような静けさが絶え間なく続いているような空間。
人が生きていることを認識できる息づかいや囁く声、身体を動かす際に聞こえる微かな物音。
それらはこの病棟には存在しなかった。
ただひたすら自分の乾いた革靴の音が研ぎ澄まされた耳の奥で空虚で寂しく響くだけだった。
淡口は珍しく疲れていた。
朝一から飛行機で氷芴沢に来てから捜査で動きっぱなしだったせいか、やけに頭と瞼が重く、曇天のようなどんよりとした痛みも膨らんでいた。
馬鹿だけど、行動力と頑丈さ、至って健康なのが彼の売りなのだが、意外と急に体調が悪くなったりすることもある。だがそこは持ち前の根性で毎日を乗り切っている。
しかしながらそんな彼でもこの東棟の空間には精神的に参ったようだった。一番の原因は実家で寝たきりの父親の存在が色濃く想起されてしまうのが原因だった。
いつかはこのような病院に世話になるのかもなあ。
淡口は鈍痛が走る瞼を指で押さえて深く息を吐いた。
――早く煙草が吸いたいね。
彼は切り替えるために早々に東棟を後にするべく、西棟へと繋がる一本の渡り廊下へと向かった。
渡り廊下の両側にある窓ガラスからは、薄っすらと曇り空の隙間から射し込んでくる夕日が廊下全体をぼんやりと光環のような光の円盤を所々に浮かび上がらせていた。
――こんなところで意識が飛んでもしたりしたら、どこかわけのわからない場所へでも連れ去られてしまいそうだなと彼は少しだけ気味悪がった。
早く出よう。
そう思った矢先だった。
前から一人、ガタイの良い男が歩いてきたのは。
淡口の並外れた肌感覚が激しく波打つ。
彼はできる限り自然体を取り繕うことに終始務めるようにした。
男は漆黒のスーツ姿にサングラス姿。
今から東棟に行くような人間では決していない人種だ。断定してもいいだろう。
淡口はなるべく目を合わさずに男とすれ違った。
そこからすぐさま振り返り、相手の右腕を捕らえて背中に回し廊下に頭を押しつけようとした――が、それはできずに終わった。
相手のほうが一枚上手だったというべきか、あるいは俺の反応が鈍っていたからか。
今度はもう相手に聞こえるようあからさまに悪態をついた。
ややあってからゆっくりと両手を上げた。背中に押し当てられた銃口の感触に対して苦虫を嚙み潰したような顔で我慢するしかなかった。
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氷芴湖の氷上を大震動が襲う中、その衝撃が亀裂となり岩盤のように分厚かった氷の湖を切り裂いていく。
その衝撃の威力はそのままあじろのほうへ一直線に向かっていった。
「あじ姉、危ないわ!」
わぱが迫ってくる亀裂と衝撃波を避けながら叫んだ。
「ああ?何よそれ、ちっ!」
あじろは慌ててドロリーネとブエブの攻撃を解除して自らの回避に努めた。じゃみ~とどーぽっぽもジャンプをしてかろうじて避けることができた。
冷矢笥ゆあはそれを確認してから《雪見六歌仙》を解き、そのまま精魂尽きる感じで蹲りながらその場に倒れてしまった。
「ゆあちゃん!」
しとねはゆあの細い肩を抱くように持ち上げて呼吸を確認した。微かにまだ意識はあるのを確認すると彼女はすぐさま状況の把握に集中した。
エリアハンターたちも困惑の色を隠せないでいたし、何よりもこの一連の振動はどこからやってきたのか。
答えはポッツンドームの入り口にあった。
しとねは思わず大声で名前を呼びそうになったが、再確認するべくもう一度これでもかというくらいに目を細めた。
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「にしても、どうして相手に気づかれちゃうようなことをするのかな?百舌子ちゃん?」
「あ?とりあえず一発ビビらせてなんぼじゃね?それに、今から全部殺すんだから、どうでもいいでしょ。つうか百舌子じゃねえし」
「はいはい。もう、本当にがさつだこと。全部は殺しちゃ駄目だって言ってるでしょ?冷矢笥ゆあは無事に回収すること。ちゃんと人の話は聞かないと」
「あ~もうわかってるって。小うるさいねえ相変わらず。‥‥んで、あの手を振っている奴はどうするんだよ?お前のお気に入りじゃなかったっけ?」
「あ、本当だ!きゃ~しとねちゃん、‥‥さすがね。ここまでしっかり生き抜いて。百舌子ちゃん、彼女のことちゃんと守ってあげてね。久形さんとプモは‥‥なんかやばそうだけど」
「っておい、お前は戦わないのかよ!」
「当然でしょ。身体が資本なんだから。もし傷でもついちゃったら大切なお客様とむふむふできなくなっちゃうじゃない」
「あのね、表に戻りゃ全部帳消しになるだろうが」
「気持ちの問題よ。ほら、百舌子ちゃん、時間ないんだから」
「だから百舌子じゃねえ!‥‥ったく、報酬よこせよちゃんと。あ~寒いし、ちゃっちゃと終わらすか」
「はいはい。行ってらっしゃい」
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――やっぱそうだ、あれは麗しきパイセンじゃないか!
しとねは視覚的に確信を得ると、思わず湧き上がってくる感情の塊を抑え切れずに、待ち焦がれていた恋人が現れたかのように、激しく手を振った。
なんてタイミングなんだ!
パイセンはヒーローなのかしら‥‥それにしてもあの恰好、私と同じダビコス?あと、隣におられる方は誰かしら、なかなかもってパイセンとはまた違った魅力をお持ちのようだけど――。
松苗夏音はしとねたちと同じくダビィコスチュームを着ていた。
細身のラインと胸の形がありありと見てわかるようにぴったりとしたサイズ感で、コスチュームの色はダークグリーンとブラウンが織り交ぜたようなトーンで統一されていた。
ただ隣にいる女性はダビコスを身に着けてはいなかった。代わりに氷雪の世界では決してお目にかかれない、黒の革ジャンにタイトなジーンズ姿、そしてレトロな丸眼鏡をかけた身なりだった。ある意味では、あじろたちよりも異彩を放っていた。
何より驚くべき点は、右手に背丈には決して見合わないほどの巨大な金槌のようなものが握られていたことだ。
金槌の形はほぼ真四角で、表面は大理石みたいな素材で覆われており、さらには複雑な配線やギア、センサーのようなものがいくつも埋め込まれてあり、所々で銀色の光が明滅を繰り返している。
ただ、単純にしとねは思う。
《あの人もモンシェールに所属すれば売れっ子だわ》と。
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「うっ」
「どしたの?百舌子ちゃん」
「いや、なんか背中にむず痒いほどだが、寒気みたいなものが」
「へえ、百舌子ちゃんでも風邪引いちゃうんだ」
「どういう意味だ。てか風邪なんて引くか!‥‥はあ、さてと、やるか」
百舌可奈子は握っていた重量感抜群の金槌を、いとも容易くペン回しをするかのように片手で回した。
「キュービックストーンで最強を誇る《ミョルニールハンマー》。全員、ぺしゃりんこだ」
この場にいる者たちは遠目でもすみやかに察知することができた。
百舌可奈子の顔に恐るべき狂気と殺気が宿るのが。




