Q37 お誘い
過度の困惑は人の行動指針を奪い、束縛してしまう。
あれこれ考えを巡らしてみるものの、いつまでも宙に舞う紙切れを掴められないようなもどかしさ、
落ち着かない、あるいは冷静な思考が組み立てられない状態が続くと、しだいに空腹などどうでもよくなってくるから不思議だ。
久形はラーメン屋「徹丸」の手前でずっと雪で立ち往生している電車のように立ち尽くしていた。
――どうすればいい。
殺す?
しとねさんを?
どうして?
《サキヤミ地区》のエリアマスターってやつになったから?
確かにプモとかいう兎も言っていたが、それでもわけがわからない。
それよりもまずは知らせることだ。
あの子が言ってたことが本当だったらえらいことになる。
ただ知らせるにも連絡先がわからない。当然ながら店のキャストとのプライベートなやりとりは断固禁止されている。
モンシェールクレアに電話してみるか‥‥いや、そんなことをすればしとねさんはお店に在籍できなくなってしまうだろう。それにすぐ警察にも通報されてしまう恐れがある。そうなれば瞬く間に大騒ぎになって、俺は二度と彼女には会えなくなってしまう。
そんな結末は許されないし、耐えられない。
加えて、冷矢笥ゆあと名乗ったあの女が、冗談かあるいは単なる脅しだけという線も捨てられない。
‥‥とはいえ、あの雰囲気からはそのような甘い考えは排除したほうが良さそうだ。
だが何か手立てを考えないと彼女の命が。
しかし、誰を頼っていいか――。
そんな矢先だった。
携帯が振動したので慌て気味に確認すると、ショートメールが来ていた。
送信者を見て久形は目を疑った。
相手は松苗夏音。
真宵あめと同じくレアキャストの一人で、しとねが入店する前から在籍している。
実は彼自身も何度か彼女にお世話になっている。
最近ではしとね一辺倒になっているが。
むろん、連絡先を交換していたわけではなかった。
それはご法度なので。
メールは彼女の仕事用アドレスから来ていた。
常連さんにはこっそり名刺の裏に記載して渡しているらしい。
個人的な内容の応対はせず、ただ客からのリクエストや予約キャンセルなどの相談のみ受け付けている感じだった。
なので彼女から直接メールが来ることはないはずだが――。
そしてメールの内容に彼はさらに驚くことになる。
《久形さん、御無沙汰しています。本当にごめんなさい。こちらから連絡をするのはいけないことなんですけど‥‥ちょっとお話しないといけないことがあって。お時間、今日あります?ってか、まだ崎邪見温泉付近にいたらご連絡ください。ふふ、ごめんなさい、今日来てるの知っててメールしてまーすW 私も今日出勤なので‥‥早めにもう上がってるので私はいつでもOKです。それでは》
混乱の上書きとはまさにこのことだろう。
ただ後者でやってきたものはある種の高揚感を与えてくれるもので、彼の正常な精神状態はもはや崩壊していた。
――考えるだけ無駄だな、これは。
久形は頭を搔きむしりながらメールを素早く返信した。
松苗夏音との待ち合わせ場所は何と《三つ葉のクローバー 珈琲館》だった。
些か面を食らったものの、よくよく考えてみればこの辺りで落ち着ける場所など、クローバーか駅前にある可もなく不可もないカフェくらいだろう。
*ちなみにカフェの名前は「ボンジュール」というめでたい名前だ。
それに、クローバーとは久形にとっても好都合だった。
なぜなら約一か月前のあの日、店には結局入れずじまいになってしまったからだ。
あの出来事があったせいで。
コーヒーも試せるし、まさか店外でキャストと会えるとは思わなかった。しかしやはりしとねのことが頭からこびりついて離れなかったが、どうすることもできないので、彼は取り急ぎの要件を済ませるべく、クローバーの扉を開いた。
すでに松苗夏音は店内の一番奥に着席しており、久形を確認すると顔をくしゃっとさせて満面の笑みで手を振った。
久形は何やらデートのような雰囲気だなあと少し緊張し始めた。
彼女はベージュ色のサマーニットを着ていて、細身な体のラインをあえて隠すような着こなしで、ふっくらとした柔らかさを感じることができた。
彼女と会うのは本当に久しぶりで、一年半ぶりくらいだった。
しとねに出会う前は何度か松苗夏音嬢にお世話になっていた。
だから今回出会うのは気まずさというか、若干の裏切ってしまったかのような罪悪感を隠せないでいた。
ただ言い訳をするといきなり切り替えたというわけではない。
松苗は突然長期で店を休むことがあったのだ。
随分と彼女にぞっこんだったので、悶々とした気持ちをどう処理していいかという苦悶な日々を過ごした経緯があり、その時期に新人キャストとして入店した真宵あめ嬢にチェンジした、というのが彼の心の言い訳であった。
「久形さん、お久しぶりです!せっかくのお楽しみタイムの後に呼び出しちゃって。えへへ、こっちにいるの調べちゃってごめんなさい」
両手を合わせて謝る彼女は、目をつむって屈託のない笑みを浮かべている。
誠実で真面目で、こういったお茶目なところに久形はハマってしまったのだ。
しかも中身は全くの別物で、スイッチがオンになれば百八十度乱れて豹変するのは言葉で表現するのは憚られるほど圧巻である。
久形は彼女との記憶を思い出し、こっぱずかしさと興奮、そして後ろめたさが一気に押し寄せ、いたたまれなくなった。
「久形さん、とりあえずコーヒーでいいですか?」
「え、はい」
慌てて彼はぎこちなく答えた。
「いらっしゃいませ」
静かに店のマスターが声をかける。
「水出しのアイスコーヒー二つください」
「かしこまりました」
松苗の注文に、実直で真面目そうなマスターは軽く会釈をし、すぐさまコーヒを注いでくれた。
「ここのコーヒー美味しいんですよ」
「あ、やっぱり。いや、その、自分もこの店に来たいと思ってたので。良かったです」
「さっすがですね、グルメ!良いカンしてますね‥‥あれ、どうかしました?」
「いやあ、そのう久しぶりで、なんかごめんなさいっていうか」
「ああ、そのことね。全然気にしないでください。私のほうこそ長期で休んじゃってごめんなさい。そりゃ別の女の子に入っちゃうと思うし‥‥私が男だったら絶対そうなってると思います。お互い、欲深いですもんね、ふふ」
「いやあ、そうですね、その辺は似たものどうしだと思います、はは」
「ですよね、えへへ、さすがです。けどお、たまには夏音のお相手もしてくれると嬉しいかな」
そう言って肘をついて笑う彼女の表情には嫌味は一切感じられず、あくまでも非はそちらには無いということを柔らかに伝えてくれている気がして、余計に久形は申し訳なく思って、顔面が熱くなるのを隠せずにいたし、背中には冷や汗が垂れ流しの状態だった。
営業トークのようなリップサービスで安易に答えるのも失礼だと思い、久形は一旦落ち着くために、アイスコーヒーを口に含む。
すっきりとしていて、酸味と苦みは押さえつつもちゃんと感じられ、何より雑味のないコクと深みが脳と喉奥を幸せにしてくれる。
シロップも自家製で、少し入れるとさらにコーヒーの旨味がしっかりと味わえて最高だった。
やはり俺の見立ては間違っていなかったようだ。
素敵なコーヒーは人をリフレッシュさせてくれる。
久形は一息ついてようやくまともに松苗の顔を見ることができた矢先だった。
「けど、仕方ないです。だって、あめちゃん、可愛いもん」
久形は思わずコーヒーを彼女に吹きかけそうになり、寸前で何とか踏み止まり激しく咽てしまった。
「あらら、大丈夫ですか?美味しいですよね、ここのコーヒー」
「‥‥はい、かなり。えっと‥‥その‥‥」
もはや口ごもるしかなかった久形を見て、松苗はけたけたと笑った。
「もう、そういう意味じゃないですからね!純粋にあめちゃんは可愛いし、素敵な子だなあって思っただけです。嫌味じゃないですよ、決して。実はね、今日初めて喋ったんです、あめちゃんと」
「ああ、そうだったんですね」
「うん、でその時思ったの。この子はめちゃくちゃ素敵って。そりゃ久形さんに取られちゃうなって」
悪気が無い分、余計に久形は思い上がりだとはわかっていても、罪悪感に後ろ髪を引かれる想いだった。
「でね、ここからが久形さんにお願いなんです。そんなあめちゃんを助けてあげてほしいんです」
久形はもう一度激しく咳き込んでしまうのだった。




