Q34 もやもや
結果的に久形柊斗は一か月ぶりのモンシェールクレアで何もしないまま店を出ることとなった。
送迎車の中で彼は悶々とした気分をどこにぶつければいいのかと逡巡していた。
せっかく百分も予約したのに――。
まあけど、沢山喋ることができたのは嬉しかった‥‥けど、やっぱり不完全燃焼だなあ、はあ、仕方ないけど。
お相手はもちろん《真宵あめ嬢》こと、垂水寝しとねだった。
時間の許す限り、彼女とのむふむふな時間を過ごす予定だったが、いざ待合室で彼女と対面すると、そういった気持ちよりも遥かにあの極限状態を共にした時の話をしたい欲求が勝り、部屋に入ってからもずっとその話で盛り上がってしまったのだ。
まるで何十年ぶりかに再会した旧友と飲み明かすような感覚に近かったかもしれない。
気がつけば、終了十分前を知らせるチャイムが部屋全体に響き渡って、久形としとねは「しまった!」と同時に声を上げた。
そして二人とも泣く泣く「嘘だ~」「嫌だ~」と叫びながら身支度をして部屋を出ることになってしまった。
以前渡しそびれたお土産の「眠たげなペンギンをデザインしたポーチ」と、ハンドブレンダーを何とか渡すことができ、彼女は飛びっきり喜んでくれたのはせめてもの救いだった。
待合室に戻ってきた二人は意気消沈していたが、お別れをする際、しとねはそっと久形の顔を包むように手を当てて微笑んだ。
「ごめんなさい、久形さん。私がもっと時間を見ておけば‥‥本当に残念だけどまた今度来てもらえたら!今度は再来週の日曜日、出勤予定なので」
「あ、本当?やった。よし、じゃあまた争奪戦、頑張って電話するから」
そうは言うものの、レア出勤な彼女の予約を勝ち取るのは容易ではないので、久形はやはりナイーブになった。
そんな彼を見かねたのかどうかはわからないが、しとねは久形の頬にキスをした。
「また待ってます。私、このお店であんなにお話したの初めてです。ああいうことがあったからっていうのもあるけど、それでも百分ずっと喋ってるなんて‥‥あり得ないですよね。ふふ、だからとっても楽しかったです」
真宵あめというキャスト(しとね)は無邪気に手を振りながら久形のもとを離れていった。
崎邪見温泉駅前まで送ってもらった久形は車を降りて、しばらく最後に交わしたしとねとの時間を噛み締めるように目を閉じた。
しとねの声や匂いが鮮明に蘇ってはあっさりと消えていくのはとても切なかったが、彼女との思い出がアップデートされたような気がして嬉しくもあった。
ともあれまだ時間は早く、小腹が空いた久形は駅前にあるラーメン屋「徹丸」に行こうと決めた。そこの名物ではないのだがスパイシーカレーヌードルというものが最高にうまかった。看板メニューである担々麺はそれほどなのだが――。
駅前のロータリーには相変わらずこれから姫遊びに臨もうとする輩たちがたむろしている。
昔、中学校のトイレで先生に見つからないように煙草をふかしている生徒たちの姿とダブって見える。それほど後ろめたさが滲み出ていた。別に悪いことをしているわけではないのに。
ラーメン「徹丸」は古くからこの地で営業している店で、根強いファンが多いことでも有名だ。店内はもうかなり老朽化が進んでおり、床なども長年つぎ足された油でつるつるしている。
革靴だとカーリングのような勢いで滑ってしまうかもしれない。
従って若い女性などはほとんど縁がないようなお店であることは常連であればだれもが周知している。
だからこそ久形は目を疑った。
店から出てきたのは一人の若い女性で、そのいでたちや雰囲気に彼は思わず息をのんだ。
秋桜のように濃い紫色と深い藍染のような蒼に染まった髪に、肌は透明感があるほど色白で瞳はぱっちりとしているものの、少し気怠い感じで目を細めているのが妙に色っぽかった。
身に着けている水色のワンピースはとても涼しげで彼女の存在に似合っていた。
身長は低いほうでかなりの細身だったし、存在自体が今にも消え去ってしまいそうなほどの儚さを持っている女性だった。
徹丸のカウンターで一人ラーメンをすすっている光景を到底想像できないほどの美しさがあり、久形はしばし見惚れてしまった。
ややあって、今どれだけ俺は情けない顔をしていたのだろうと後悔し、彼は顔を赤らめた。
なぜならその女性は彼をじっと見つめていて、薄っすらと笑みを浮かべていたからだ。
彼はどぎまぎしてこの場をどう取り繕っていいかわからなくなった。
だがよくよく考えてみれば赤の他人に対して何も慌てる必要はないのだが、突如として現れた美女があからさまにこちらをずっと見つめているものだから、やはり体中の火照りが止まらず汗が噴き出てくる。
そのまま視線を外さずにゆっくりと久形に向かって歩いてくる。
《平常心を装わないと。怪しまれるぞ、俺!》
俺はただそこのラーメン屋に入りたいだけなんだから。
だが言葉とは裏腹に彼の足は硬直したままだった。
そうこうしているうちに彼女は久形の横まで足音も立てずにやってきた。
立ち止まり彼の耳元に顔を近づけた。
久形はその場で飛び跳ねそうになった。
「変質者、痴漢!」などと罵倒され、あわや通報までされるのではないかと危惧したが、それはどうやら無さそうな雰囲気で杞憂に終わった。
が、久形は別の問題で呼吸が荒くなっていた。
初対面の美女が自分のすぐ横に立ち、上目遣いでじっと見つめてくるのだからたまらなく焦るではないか。けれどもそこに他意やあざとさは一切含んでおらず、ひたすら顔を上に向けるのが面倒臭そうに映った。
横目で彼女の様子を窺うが、やはり直視できないほどの色気と可愛らしさが心臓を貫いてくるので、すぐに顔を逸らしてしまう。
絶対俺なんかに好意なんてあるわけない。
けど、なぜこんなにも俺に近づいてくるのか?
もう少しで俺の耳にこの子の唇が触れてしまうほどの至近距離だぞ?
彼はしどろもどろになっていた。
「ねえ、一つ訊いていいかしら」
耳元に直接彼女の吐息とちょっとだけ鼻にかかる声が届く。
それと相まって彼女の靡いた髪が頬に触れて昇天しそうになったが、次の言葉で久形の興奮度は一気に冷め切ることになる。
「あなたがここのエリアマスターなの?」




