Q29 リターン
「ひゃっほー、ブラボー、ブラジャー。しとねちゃん、ナイスゥ~よ~。さすがはあたしが見込んだ女ね!」
プモが軽快にぴょんぴょん跳ねて自分のほうに近づいてくるのを見て、ああ、やっぱし兎だったんだとしとねは鼻で笑った。
ぬんさんといえば、大きな大きなあくびをして、「じゃあね~」と消えていった。
しとねは思う。
《ぬんさんのぬいぐるみが欲しいわ》と。
「本当にお下品な兎ちゃんだこと」としとねは肩をすくめた。
「あらあ、あなたには言われたくないわねえ」
「む、何だとぉ~‥‥あれ、力が‥‥あらら、お腹が減りすぎちゃったみたい」
しとねにとってQubの《β版》の使用はまだ体への負担が大きかった。
それに加えて里崎を倒した安堵感が一気に彼女の緊張を解いて、疲労がどっと押し寄せたのだった。
支える力がなくなった彼女は両膝をついて「とほほ、お腹減った~」と叫んだ。
「あめさん、大丈夫?」
久形がまん丸い眼鏡を抑えながら慌てた様子で近づいてきた。
「あれ、そういえばあなた、この子のこと、あめって呼んでるけど、どうしてなの?」プモは少ししてやったりの表情で訊いた。
「あ、こらあ、もう‥‥まあこれだけ双方で別々の名前を呼ばれてちゃ隠せないよね。久形さん、私の本名なの、しとねって。あとプモもね、あめっていうのは、ここのお店でのキャスト名なの。OKですか?」
「あ、そうなんですか。いや、さっきからその名前が飛び交っていたから、そうなのかなあって。なんか、すいません‥‥というか、兎が喋ってる、よね?」と久形はやや照れた様子で、プラス驚いた様子でぎこちなく頭を搔いた。
「今更?けど、目まぐるしいシーンの連続だったものねえ。ああ、なーるほどねえ。そっかそっか、じゃあグッドタイミングじゃない、彼がしとねちゃんの大切なお客様なんでしょう?ふふふ、話が早いわねえ。色々と打ち明けられるチャンスねえ。ほら、もうこんな状況になっちゃったんだから、包み隠さずの心構えがお互い大事になってくるじゃない?」
「あのね、それとプライベートは別なの。あーあ、本名は明かしちゃダメなルールなんだよねえ、お店的に。まあ当然なんだけど。ま、いっか。久形さんなら、いいような気がするし。それに、命の恩人だもんね」としとねは微笑んだ。
久形はその笑顔で幾度となく、辟易とした変化のない毎日に希望を見い出せたし、たまらんほどうきうきできるのだ。
しかも今は初プライベートで会話をしているこのシチュエーションに、久形は非現実的な興奮と恥ずかしさが両方舞い込んできて、店内で会話している時みたいに対等な応対ができずにいた。
しどろもどろな久形をよそに、しとねは大声を上げた。
「あ!そうだそうだ、あの人、オニさんナイフやろう、死んでないよね」
しとねは慌ててよろめきながらも仰向けに倒れた里崎の元に駆け寄った。
里崎は先ほどの水蒸気爆発で黒焦げ気味になっているものの、かろうじて息はしていたので彼女は大いに胸を撫で下ろした。
「はあ、よかったよ~。いくら悪人だからって人殺しになっちゃうのはご勘弁だわ。そんなのもろみに顔向けできないじゃない」
「しとねちゃんったら、甘ちゃんねえ。らしいけどねえ」プモはやれやれとかぶりを振った。
「らしいもくそもないでしょうに。嫌に決まってるじゃん、人殺しなんてさ。けど、これどうすんの?」
「それは表の世界に連れ戻さないとねえ。んで、殺人罪でちゃんと法で裁いてもらわないと」
「そうね‥‥けど、どうやって帰るの!」
「それは、このお兄さんに聞いてみたらいいんじゃない?」
「‥‥へ?」
久形は二人の視線がどぎつかったので、たじろいで腰が抜けてしまった。
それから三人はこうなった経緯を互いに説明し合った。
ダビィのことや、Qubについて、あるいはどうしてしとねが里崎に狙われてしまったのか。
それらを聞いた上で久形はやはり理解が到底追いつかなく困惑していたが、自分で見たこと、それに自分自身もQubという力が使えたこと――それらを踏まえるとしだいに彼の中で冷静な判断ができるようになった。
そして自らがこの世界にやってきた理由もしとねたちに話した。
「なるほどねえ~いやいや、それはすんごい偶然だわあ。まあしとねちゃんと久形くんだっけ?あなたが同じ日にお店で会う予定だったにしろよ。まさかしとねちゃんを見かけて追いかけるなんてねえ。けど、そのおかげであたしたちは助かったんだけど。それに、ダビィも持ってきてくれてるし」プモはそう言って拍手をした。
「そうだね。俺も未だに夢の中にいるんじゃないかって思ってるけど、このダビィっていう端末機がある以上、現実なんだなって思う。Qub?っていうその、変な力も俺の手から出たしね」
「おお、そうだね。久形さん、それも気になってたの。私はプモからやり方を教えてもらったけど、どうしてあなたがそれを知ってたのかって‥‥」しとねは首を何回も横に振って訊いた。
プモも何度も頷いて久形の解答を待ち侘びているようだった。
「‥‥いや、そのう、俺もよくわからなくて。気がついたら使ってた、みたいな感じで‥‥。あ、でも声がしたんだ。そう、声」
「声?」
プモは顔をしかめて訊き直す。
「うん。誰だか知らないけど、優しくて安心できて、けれど怖い声。その声が聞いてきたんだ、《力の解放》を求めますか?って」
「え、何それ、やめてよう久形さん。怖いっす!」
「あ、ごめんごめん、あめ‥‥あ、しとねさん‥‥って呼んでいいんだっけ?」
「ふふ、いいですよ。その代わり、お店では絶対NGですからね」
「承知しました」
久形は内心でガッツポーズをしていた。
《やった、本名をさり気なく言えた。嬉しい》
そんな二人のやりとりをよそに、プモの表情は険しかった。
《何やらややこしくなってきたかもしれない。ただ確証はないし。だからといってやはり月のQubともなれば話は別なのだが、しかし――》
「プモ、どしたの。そんなしわくちゃな顔しちゃって」
「え、ううん、何でもないわよぉ。それより、さっさと向こうの世界に戻りましょ。この男も連れてね。久形さん、その端末機をもらうわ」
「あ、うん、どうぞ」
「ようし、じゃあみんな手を繋いでね。久形さんはその男に触れておいてねえ。今からダビィを起動させてみんな同時にリターンします!」
しとねと久形は手を繋いだ。
久形は妙に緊張したが、平静を装いしゃがんで里崎の体に手を当てた。
しとねも前屈みになってプモの手を握る。
「準備できたわねえ。じゃ、帰るわよ」
プモは丸い指でダビィの画面右上にある「R」マークを長押しした。
するとこの世界に誘われた際と同じ光がしとねたちを包み込み、やがて姿も消え失せたのだった。




