Q27 月の知らせ②
しとねは大声で叫んで、喚いて、泣きじゃくりたかった。
けれどそれをしたところで、目の前で息絶えていく久形を救うことはできないことくらいわかっているので、寸前のところでしゃっくりをかろうじて抑え込むように胸と口を震わせながら、何か処置はできないものかと必死に模索していた。
彼女には医療を目指すものとしての心構えと資質はすでに備わっていたし、瞬時に状況を把握する聡明さも持っていた。
それに彼女は優しすぎた。
まだ久形とは数回しか会っていないし、店内だけの付き合いで、むろんプライベートでのかかわりは皆無だった。
ところが久形との記憶はなぜかいつでも鮮明に残っていた。
体の相性が良いとか、何回も足を運んでくれる上客だからという枠組みを超えて、恋愛感情まではいかないが友達や家庭しか味わえない居心地の良さや安心を感じられたからかもしれない。
そんな客は久形以外いなかったし、しとねにとっても初めて経験で、彼が来てくれるのをどこかで楽しみにしていた。
普通の一見さんならここまで相手のことに親身にならないだろう。
むしろ、自分の命を最優先にして里崎の様子を注視するに違いなかった。
彼女はひたすら久形の現状把握に努めていた。
自分はどうなっても構わないという感情は、単なる嬢と客という関係性を大きく逸脱していることに彼女自体もあまり気付いていなかった。
それほど助けたいという気持ちが大きかったのだろう。
しかしながら久形の傷はひどい有様で、どこから手をつけていいかもはやわからない状況だった。
しとねは我をも忘れてリュックからタオルを2枚取り出し、久形の出血箇所を可能な限り体中を使って覆いかぶさるように抑え込んだが、すぐにタオルは真っ赤に染め上がり、しとねの服も同様に染め上がっていく。
だが彼女は怯まない。
がっちりと久形を抱きかかえるように止血に勤めながら、何度も何度も耳元で「大丈夫、大丈夫だから」と訴えるように声をかける。
一方でプモはどうしてこんな状況になってしまったのか、理解に苦しんでいた。
まずは自分の想定の甘さを悔いた。
思った以上に里崎の実力は本物だったということと、しとねの力の解放に時間がかかり過ぎてしまったということだ。
そして想定外な人物の登場。
しとねの勤め先の客のようだが、どうしてこの場に来れたのか、どうして彼はこのタイミングでしとねを助けられたのか。
「どうして」が止まらないプモは叫びそうになったが、ふとさっき見た不思議な光景が脳裏によぎり、平静を取り戻した。
あれは満月だった。
幻想でもなく本当に巨大な満月が薄っすらと不気味に輝いていた。
それが現れた直後にこの男が飛び込んできた。
これを偶然では決して片付けてはいけないだろう。
最初はしとねの解放したQubかと思ったが、彼女は水のQubだったので、その考えもすぐに消去したのだが。
――とはいえ、しとねの命を守ってくれたことと、相手の二発目を出させたことが大きかった。
プモは里崎を一瞥する。
五体の愉快な鬼たちは消え失せており、里崎は片膝をついてプモと同様、ぜえぜえと息をするので精一杯の様子だった。
どうやら向こうも限界に近づいたようだ。
まだ勝機はある。
しかし、当のしとねが介抱で身動きが取れないのは痛い。
プモ自身が里崎を仕留めようとすると、残り僅かなQubの使用回数から考えても困難な状況だった。
やはり当初の目的からしても彼女に目覚めてもらわないと勝ちの目が出てこない。
プモは血だらけになった男を見やる。
《助けてくれた手前、こんなことは言いたくないけれどぉ、もう助からないわ、この出血量だと。見殺しなんてあたしだって気に食わないけど、このままだと全滅しちゃうわねえ》
心配している矢先に、さすが相手はエリアマスター、というか人を嫌な気分にさせるクズ野郎だった。
無理やりにでも笑みを作り、Qubの形を作り始める。
「‥‥まさかのまさかだな。一体全体、そいつは誰なんだ?誰かが侵入すればエリアマスターの《特権》で何かしら感知できるはずなんだが、そいつの存在は飛び出してくるまでわからなかった‥‥。まあもう虫の息だしな。どうでもいいことだ。で、兎よぉ、隠さなくてもわかるよな、俺ももう《β版》は使えない。けどなあ、今のお前らを仕留めるには《α版》で十分だってことだ」
里崎がやせ我慢をしているのは明白だったが、発言している内容は事実だったので、余計にプモは腸が煮えくり返る思いだった。
「本当に、人の気持ちを逆撫でするのが上手いやつねえ。はてさてどうしよっか……」
絶体絶命は変わりない。
プモは最後までしとねを守ることに全神経を注ごうと心に決めた。
いや、それしかもう勝機がなかったのだ。
その頃久形は何光年も離れたかのような遠い意識の下、とても冷たくて無機質な金属にでも触れているような心地になっていた。
閉じていた目をゆっくりと開く。
久形の額が月の表面に接していた。
全貌なんてこの距離ではわかるはずもないのだが、どうしてか彼は月の巨大さと特異性を把握できた。
月はまじまじと見れば見るほど神秘的で、SFに登場する真ん丸な宇宙船にも似ていた。
うつ伏せになって額をつけているわけではなかった。
月と対等に直立した体勢で、彼は額と表面をつき合わせていたのだった。
それからまたあの声が優しくもおどろおどろしく響き渡る。
《ようやくかしら。力の解放を求めましたね。さあ、あなたはこれで戦えるし、守ることができる。さあ行きなさい。守り切りなさい、大切な人を》
陰鬱で荒れ果てた印刷工場の空間に、不釣り合いすぎる月の光が突如として射し込み、血の海に沈んだ久形柊斗を照らした。
みるみるうちに彼の血は蒸発していき、無数の痛ましい刺し傷は初めからなかったかのように元通りになっていった。
やがて久形は目を覚ました。
「‥‥え、えっえっえ~。久形、さん?」
「‥‥ども、プライベートで会うとは、ね、あめさん」
「いやいや、これ、どう見てもプライベートではないでしょ、もう」
「ですなあ、はは」
二人は力なく笑って、笑って、やがてツボに嵌ったかのように大笑いした。
プモと里崎はぽかんとして、もはや何が何やらわけわからーん、という感じで目を点にして開いた口が塞がらなかった。
ややして笑いが収まったところで、久形はゆっくりと起き上がり、しとねの肩に手を置いた。
「あめさん、何がどうなってるやら、わかんないけど、とにかく守るんで。だから、あいつをやっつけて。いけるよ、あめさんだもん」
しとねは静かに頷き、にんまりと微笑んだ。




