Q26 月の知らせ
五色に怪しく光るナイフを間一髪で防いだのはプモのQubだった。
今までで最大の轟音を立てた風の防壁は、まさに竜巻と言って過言ではないほどのうねりと風力が兼ね備えられていた。
風の威力は周囲の印刷機や雑多に置かれてあったパレットや用紙なども吹き飛ばすほどのもので、しとねは目を開けていられなかった。
プモは間一髪しとねの前に立ち入って、まん丸な手のひらを開いて里崎の《千本オニナイフ》を防いでいた。
《うねり》と《停滞》を状態化させた風の壁はナイフの雨をことごとくはじき落していく。
しかし徐々に先程と同じく黒いナイフに侵入されてしまい、加えて他の四色のナイフも威力が遥かに上がっていて、表面の壁もどんどんと削られていた。
「むうううん、あんまり調子に、乗ってっと、ぶち殺すわよぉ‥‥むうううう」
プモはさらに両手を里崎のほうに伸ばし、前歯を下唇に押し当てて食いしばった。
凄まじい風とナイフの応酬は互角だった。
オニの力を宿したナイフが千本投げ切られるとほぼ同じくして、プモの風も粉々に崩れ去った。
しとねはこの時初めて本気で焦りを感じ、死というものが身近に迫っているんだと完全に理解した。
生意気で、喋り方も気に食わなかったプモだったが、どこかしとねはこのダビィの世界に入ってから信頼はしていた。それはやはりプモが圧倒的にこの世界のことを知っていて、実力も疑う余地がなかったからに違いなかった。
けれども目の前にいるプモは息切れMAXで、前屈みになって倒れ込みそうになるのを必死に両腕で支えているような状態だった。額には大量の汗が滲んでいる。
かたや里崎を見ると、プモと同様に肩で息をしている。
だが、背後に整列している鬼たちはまだ消えていなかった。
里崎はしばし息を整えて、歯茎が見えるほどの不気味な笑みを浮かべた。
「まさかなあ。《α(アルファ)版》のQubだけで俺の切り札を防ぎ切るとは思ってなかった。やっぱり俺の予感が正しいってわけだ。お前たちは危険だ。ここで確実に殺す。小賢しい兎もどうやら限界のようだしな。おい、俺はまだまだいけるぜ」
里崎は汗ばんだ長髪を額から真上へかき上げ、再び《β(ベータ)版》を発動させる。
それに伴い、鬼たちは握っている金棒を一斉に天に突き上げた。
里崎の眼光にも赤々しさがさらに増していく。
「‥‥プモ、大丈夫じゃないと思うけど‥‥どうしよう、また投げてくるよ、ナイフ‥‥」
すっかりしとねは怯えていた。
「‥‥どうしようもくそも、ないわねえ。悪いけど、あたしも限界よぉ。だから言ってるじゃない、早く解放しないとダメって」
ああ、もう終わりなのね、今度こそ――。
しとねは覚悟を決めて目を閉じた。
「痛みはないさ、死ぬのは一瞬だからな、安心しな‥‥いけ、《千本オニナイフ》」
二度目のナイフの雨がしとねたちに放たれる――。
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久形はおそるおそるモンシェールクレアの内部に侵入していた。
いつもそわそわしながら前払いのために並ぶ受付部屋には誰もいない。
その奥には非日常の楽しみがふんだんに味わえる待合室があるのだが――。
彼はその奥に進めずにいた。
これ以上は行ってはいけない、嫌で気味が悪い感覚がびんびん感じ取れたし、何よりも今自分が置かれている状況がほとんど理解できずににいたからに他ならない。
不安というよりかは、実体のないものをどうすれば掴めるかという解決策のない自問自答が頭の中をぐるぐると回っていて、冷静な判断ができずにいたのだ。
しかしながら久形はすぐさま選択を求められることになる。
まず最初に耳に届いたのはさっき外からでも聞こえてきた騒がしい音の応酬だった。
それは近づきたくない部屋から起こっているようだ。
あと、人が会話しているのも聞こえたが、騒音でよく聞き取れなかった。
同時に被せるようにして、また頭の中で声がした。
《力の解放を求めますか》
ふいに体中が沸騰しそうなほど熱くなり始めた。
ついで頭が割れそうなほどの痛みが彼を襲った。
息ができないようになり、彼は打ち上げられた魚のように地面をのたうち回った。
やがて脳裏に浮かぶ人物に彼は息を呑んだ。
「そんな‥‥あめさん?」
久形は人生で初めて無我夢中の境地になったと刹那思った。
そこからは字のごとく記憶がない――。
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――しとねは今日ほど濃密な一日を過ごしたことはないと思っていた。
そりゃあ、モンシェールクレアでの時間もそれに近いのかもしれないが、あれは脳がトロトロになるのに対して、これはドラマチックな大長編アニメ映画の主役になったかのような気分で、台本も渡されず、ただただ次の展開が読めないままアドリブでここまでやってきた感じだったので、脳が爆発しそうなほどの情報量を処理するのに大変だった。
その上で、もう命と引き換えに長かった一日も終わるんだと思った矢先、またしても状況を咀嚼できないことが目の前で起こった。
里崎が渾身の二発目を放ったが、それらはしとねたちには届かなかった。
しとねははっきりとそれを捉えた。
突然男性が飛び込んできた。
そして一瞬、満月のようなものが眼前を覆った。
ついで男性はしとねたちを庇うかのように両手を広げて背中でナイフの弾幕を全て受け切ったのだ。
男性はその場に倒れた。
体中からゆっくりとどろりとした血が、小さな海を作り始める。
何で、何でよ。どうして、どうしてよ‥‥。
その男性はしとねがよく知る人物。
今日会ってむふむふする予定だった上客、久形柊斗だった。
久形は他人の血を見た時に貧血を起こすタイプだったが、今は違った。
本当に血が足りなくなっていく感覚を遠退いていく意識の中で認識していた。
真っ白な世界に誘われる前に、久形は横目で彼女の顔を一瞥した。
なぜこうなったのか考えるのも面倒臭かったが、彼女のためになれたのではないかと、それだけは何となくわかったような気がした。
意識を失くしたはずなのに、またあの声が聞こえてくる――。
《力の解放を求めるのですね》
優しくもあって安らぎのある声――だったのに、今この時聞こえたのは怖い声だった。
聞いたことなんてあるはずもないが、久形は思った。
悪魔の声みたい‥‥だと。




