Q13 起動
悲鳴を上げるよりも前に、しとねは猫のような俊敏さで後方に飛び跳ねて、距離を十分に保つようにした。
男はそれを見て「ほう」と感心したような素振りをしたが、すぐに無表情に戻り口元を歪めた。
しとねは思う。
《何で何もしてないのに、こんなにも殺意を向けられなきゃいけないの、ぷんぷん丸だ!》
男の目は相変わらず異様なまでに見開いていて充血していたが、ややあってふっと強張りを緩めてにやりとした。
「お譲ちゃん、なかなかやるなあ。つうか、まだ学生さんか?にしては、妙な色気もありそうだなあ、うん?」
《うわあ、嫌な展開ぷんぷん丸だ、やばいよ、これ》
しとねの両手はわなわなとしており、手汗も背筋からの寒気も最高潮に達していた。
「そんなに怖がんなよ。つうか、別に俺はまだお譲ちゃんには何もしてないよな。しかも、お前は俺をつけてきただろ?ここで二つの疑問が浮かぶよなあ」
しとねはからからになってしまった喉奥を飲み込む。
ああ、クローバーのコーヒーを下さい!と無理やり余裕ぶってみるがダメだった。
恐怖が最高潮に達して彼女は涙目になりつつあった。
「一つはどうして俺のあとをつけてきたか?それともう一つは‥‥どうして俺のことがそんなにも怖いと思うのかだ」
そう言うと男の表情は一変した。
敵意剥き出しで、いつでも殺してやると言わんばかりの形相だった。
思わずしとねは声を張り上げそうになってその場にへたり込んでしまいそうになったが、かろうじて学生時代、陸上で鍛えた足腰のおかげで踏ん張ることができた。
《想像以上なんですけど!あーやっぱり邪な好奇心に従ったらダメだよねー》
後悔するしとねをよそに、男はじわじわと距離を詰めてきた。
しとねは猛スピードのバックステップで路地裏の最果て、恨めしい行き止まりのブロック塀に背中を預けた。
ムシムシしているのにひんやりとした壁の冷たさが改めて今の状況が現実なんだということを思い知らせてくれる。
「あの、ごめんなさい。あなたを尾行とかするつもりは一切なくて。人がこっちに行くのが見えて、何かお店とかあるのかなって‥‥ほら、私この辺りに詳しくなくて。さっきもクローバーっていう喫茶店見つけてコーヒー飲んでたの。んで、まだ他にもないかなって。それだけです。怖がっているのは、そらそうでしょ?だってさっきの曲がり角を曲った途端、あなたがいなくなっていて、急に私の後ろに立っているんだから」
「ふうん、なるほど。もっともらしい理由が言える余裕もまだあるみたいだな。説明はついてるように聞こえはいいがなあ、お譲ちゃん、あんたの怖がり方は異様なんだよ。俺の異様さに気づいているからなんだろ?今しがたの反応じゃないねえ。もっと前から、俺を見かけた時から、お前は俺のことを意識していたということになる。そうだろ?」
《こいつ、何?いつものヤバい人たちとはちょっと違うよ。私にそういった特異な体質があることも見抜いてる‥‥?》
しとねは声を出さずに我慢していた。
相手を必要以上に刺激してはいけないと思っていたが、ついには「きゃっ」と叫んでしまった。
男がズボンのポケットからナイフを取り出したからだ。
「お譲ちゃん、あんたは危険だ。悪いが、生かしておけないなあ。俺の計画に差し支えがありそうだ。俺もあんたと同じく、勘は鋭い方なんでね」
「いやいや、ちょっと。意味わかんないんだけど。何もしてないのよ、私」
「ああ、何もしてない。だから悪いって言ってるじゃないか」
「なお意味分かんないよ、誰か、助けて」
こういうピンチの時、一般人のもとに駆けつけてくれるヒーローなんかは存在しないんだ。だからこんな猟奇的な事件が起きちゃうんだよ。
世の中に存在するあらゆる架空のヒーロー漫画、アニメ、映画などを思い起こしても、助けてくれそうな方はいなかった。みんな悪を相手に忙しそうだった。
しとねは完全に涙目になっていた。
その時だった、彼女の元に届いたのはヒーローでなく、元彼でもなく、最も聞きたくない声だった。
《しとねちゃん、しとねちゃん。ほら言ったじゃないの。さっさとお願い事をやらないから》
「‥‥うわ、タニー?こんな時に何よ。というかどこ?」
男はきょとんとして動きを止めた。
「あん?タニー?なんじゃそりゃ」
「タニー、今無理だから、というか助けてよ!」
《助けるのは無理~でも選択肢はあげられるかなあ》
「人でなし!くそド変態おやじ!尿漏れ!」
「あ?おい誰と会話してるんだ?お譲ちゃん、お前今の状況わかってるのか?」
「え、いやその、ごめんなさい、ちょっとタニーが‥‥はは」
《しとねちゃん変わらずしどいわ、んで、どうするの?早くしないと殺されちゃうよ。選択肢、聞くでしょ?》
「もう、わかったから、どうしたらいいの!」
《私のお願い事、聞いてくれたら》
「うわ、もう最悪。そう言うと思ったわ。‥‥はあ、わかったから、聞くから」
男は舌打ちしてナイフをしとねに向けて近づいてくる。
《さすが、そうじゃなきゃねえ。しとねちゃん、この前渡した物持ってきているでしょ》
「え、ああ、あのゲーム機みたいなやつ?」
しとねはそれを今日リュックの中に(リュックはしとねのお気に入りで、ペンギンのポーチがついている)念のため、読まないかもしれない文庫本のような位置づけで入れておいた。
休憩時間の合間にちょっと見てみようかなあと考えていたからだ。
すっかり美味しいコーヒーのおかげで存在すら忘れていた。
《それを起動するの。それしかあなたが助かる道はない》
意味がわかんない。
しとねはもうやけくそになって背負っていたリュックを下ろし、中からゲーム機を取り出した。
ゲーム機は見るからに変わったデザインだった。特に小型のハンドバッグのような持ち手があって、それは折り畳めるような仕様になっている。
「これを起動、起動ってどこよボタン!」
「おい!お前がどうしてそれを持ってるんだ‥‥。くそ、やっぱり俺の勘は正しかったんだ。殺してやる」
「えええ、もうなんなのよ~」
《左の人差し指を画面にタッチ!》
人生で最後だと思った。
タニーの指示に従うのは。
しとねの左の指先が画面にタッチした瞬間、淡いピンク色の眩しい光が彼女を包んだ。
「きゃあああ」
しとねは目を瞑ってゲーム機を離した。
その光は彼女をこの世界から消していく。
「くそ、行かせねえ」
男は走り同じくその光に飛び込んだ。
光がやんだ。
路地裏の行き止まりには普段流れている静けさが戻った。
しとねと男の姿はすっかりその場から消え失せてしまった。




