その御令息にはかつて婚約者がいた。
ハッピーエンドではないお話を書いてみたくて挑戦しました。第2弾。
以前投稿した『その御令嬢には婚約者がいなかった。』の別視点です。
前作をお読みいただいてからの方が楽しんでいただけるかと思います!
↓前作はこちら↓ (シリーズからも飛べます)
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公爵家の御令息であるリオンには、かつて婚約者がいた。
正確に言うと、彼には「婚約者がいた」という記憶があった。
――常に彼に寄り添ってくれて、お互いに尊重し合えるような素敵な婚約者が――。
実際には彼に婚約者などいない。だが、ふとした瞬間に婚約者の彼女のことがフラッシュバックする。
顔も、声も名前さえもわからない婚約者。その記憶なんてあるはずもないものを追い求めてしまうのは、自分の頭がおかしいのだ。こんなことはもう考えないようにしようと何度も思った。
その度に、彼の意に反して「何かが足りない」と彼の心臓が訴えかける。その何かが婚約者であろうことは想像に難くなかった。
時が経ち、彼は15歳になった。友人達と共に王立学園に入学し、それなりに充実した日々を過ごした。
元々感情の起伏が少ないこともあり、親しくない生徒達からは「氷のような冷たい目をしている」との評価を受けたが彼は気にしなかった。
彼は自覚していたのだ。自分にとって大切なものが欠けていることで、感情の回路が繋がっていないことを。
だから何と言われても仕方ないと彼は諦めていた。
――彼の人生が180度変わったのは、ある変哲もない日だった――。
以前から、編入生が来るという噂は耳にしていた。一般市民として暮らしていた、とある男爵家の庶子が御令嬢として男爵家に迎え入れられた。そしてある程度の教育を受けてから編入することになったと。
やや不安げな足取りで、しかし背筋はきちんと伸ばして校門をくぐる御令嬢を見た時、彼女が例の編入生なのだとすぐにわかった。
彼女は何の前振りもなく、ふと此方の方を見た。お互いの目が合い、彼女はニコリと微笑みを向けた。
――その瞬間、彼の世界には色がついた――。
彼女はアンと名乗った。ちょうど校舎が分からずに困っていたアンは目が合った彼に話しかけてきた。
ちょうど、その時その場には2人しかいなかった。
「本当は、御令息の方に話しかけるのはあんまり良くないって教わったんですけど……周りに誰もいらっしゃらなくて」と申し訳なさそうに告げるアンに彼は優しげに答えた。
「道に迷っている編入生を放っておくことのほうが問題だよ。それに僕には婚約者がいない。だから君の心配しているようなことにはならないよ」
アンはしっかり令嬢教育を受けたのだろう。特に婚約者のいる男性に近づくことによる危険性を十分に理解していた。貴族の常識は、市井で暮らしていた人からすれば受け入れ難いだろうに。
「まぁ、そうなのですね。少し安心しました」
とは言いつつも彼女はきちんと適正な距離を保つ。
そんなアンに好感を持ちつつも、距離を縮めたいという好奇心が抑えられなかった。
「僕はリオンというんだ。友達になってくれないかい?」
「光栄ですわ」
それから2人の距離は徐々に近づいた。
「アン嬢」「リオン様」
彼が冷たい目をしていると評価する人はいなくなった。
「アン」「リオン」
2人は友人以上の関係だと噂されるようになった。
実際その通りだった。彼はアンに自分の想いを伝え、アンはそれを受け入れた。お互いの両親にも将来を考えていることを伝えていた。
アンは身分こそ男爵令嬢であるが、その教養や姿勢は歴とした淑女であった。編入当初は若干自信がなさげだった立ち振る舞いに関しても、どんどん上達し今や高位貴族の御令嬢にも引けを取らないほどである。
だからこそ、彼の両親もアンに対しては身辺調査だけを入念に行い、後は何も言わなかった。
いつしか彼は婚約者に関する記憶を思い出さなくなっていた。あんなに記憶に取り憑かれていたのに、そのことを不思議に思うことすらなかった。
月日は経ち、卒業の季節が近付いてきた。
彼らは学園での多くの時間を共に過ごした。
だからこそ、彼が
「アン、卒業パーティーに僕のパートナーとして参加してくれないか」
と言った時も、誰も疑問に思わなかった。
「リオン……。えぇ、喜んで」
卒業パーティにパートナーとして参加するというのは実質上の婚約発表と同義である。
この日以降、彼らは婚約者として認識されるようになった。
――そして迎えた卒業パーティ当日――。
アンの手を引いて歩く彼の表情は幸せそのもので。生徒たちの祝福を受けながらダンスホールへと進んでいく。
ダンスを踊っている間、アンとの出会いから今までの出来事が走馬灯のように浮かび上がる。思い返せば思い返すほど幸せな記憶ばかりで、かつて「氷のような冷たい目」だと言われた彼はどこにもいなかった。
アンと見つめ合い、息を合わせてダンスをする。誰が見ても幸せな光景だろう。
ダンスが終わり、ホールを後にする。
その時、彼の脳内にこんな声が聞こえた。
――とぅるーえんど。げぇむくりあ。――と。
「え……?」
彼は困惑した。聞いたこともない単語が脳内で再生される。
「……!?」
その瞬間、彼は膨大な記憶の奔流に飲み込まれた。
「……さま、リオン様……!」
「えっ……」
「良かった、ぼーっとしてらっしゃったから体調でも悪いのかと思いましたのよ」
目の前にいたのは幼い美少女。
そこには、かつて彼が追い求めていた記憶の中の婚約者がいた。
「ハンネ……?」
自然と名前を呼んでいた。彼女は侯爵家の御令嬢で、つい先日婚約したばかりだ。
ずっと追い求めていた婚約者の存在に心が言うことを聞かない。気付けば目頭が熱くなり、涙が溢れていた。
「リオン様?」
「ハンネ……ハンネ……」
そして彼は自身の婚約者を抱きしめていた。動揺した彼女が何事かと問いかけてきたが、その問いに答えることはできなかった。
彼が口を開く前に景色が変わり、別の記憶が流れ込んできたからだ。
彼の横にはハンネがいて、先程よりもかなり成長していた。おそらく学園にいるのだろう。お互いに制服を着用していた。
「リオン、次のお茶会はいつにしましょうか」
「そうだなぁ、来週はどう? うちのシェフが新作のスイーツを作ってさ。美味しいからハンネにも食べて欲しいんだ」
「ぜひ。楽しみだわ」
今ならわかる。彼がいるはずもない婚約者の記憶を追い求めていた理由が。こんなにも幸せな時間が欠けていて、どうして正気で生きられるだろうか。
気が緩んだ束の間、また景色は変化した。
彼が次に見たのは、悲しげな婚約者の表情。
「リオン様……あの、私」
「これ以上僕に近付かないでくれ!」
何よりも大切なはずの婚約者を怒鳴りつける彼自身が信じられない。どうしてこんなことを……と彼は困惑した。
その後すぐに景色が変わり、彼は記憶に呑まれる前にいたのと同じ、卒業パーティーの会場にいた。
「ハンネ。君との婚約は破棄する。君のような人と婚約なんてできない」
彼は、自分が何を言っているのかわからなかった。
「アンををいじめた」
「アンの大切にしていた母の形見を壊した」
「アンを階段から突き落とした」
有り得ないような発言を繰り返す彼に、彼自身吐き気がした。ハンネがそんなことするはずもないこと、彼自身が1番よくわかっているのに。彼の口はただ台本にある台詞を読み上げる機械のようだった。
「私はそのようなこと……!」
懸命に否定するハンネに対して彼が告げたのは、婚約者としても人間としても最低の発言ばかり。
「君のような人が婚約者だったなんて恥ずかしい!」
「なんて浅ましいんだ!」
「もういい。2度と僕の前に現れないでくれ」
彼は気が狂いそうだった。一刻も早く、この偽物の世界から抜け出したかった。彼の大切なものを傷付ける世界など、壊れて仕舞えばいい。何より、ハンネを傷付けている自分自身が許せなかった。
彼の想いを表すかのように世界は徐々にその輪郭を無くし、次に気が付いた時には現実の卒業パーティーの会場にいた。
「リオン……大丈夫?」
そう問いかけてきたのはアン。心なしか顔色が悪いように見える。
「さっきから話しかけても全く返事をしないし、心配した……」
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
平静を装って会話を続けるが、彼は内心それどころではなかった。
記憶の最後に見た、婚約者の悲しい顔が頭から離れないのだ。
彼は働かない頭を駆使して、記憶の中のハンネと同じ人物を探そうとした。彼女は現実には彼の婚約者ではない。彼女が本当に存在するのかも朧げだった。
果たして彼女はすぐ近くにいた。彼女は横に男性を伴っている。
顔を見て、彼はすぐに思い出した。彼女の隣にいるのは彼女の兄だということを。そして、彼女には隣国に留学中の婚約者がいるのだということを。
全てを思い出して、彼は絶望した。幼い頃に追い求めていた婚約者には2度と手が届かないと気付いたからだ。
そして、隣にアンという婚約者がいるのにも関わらず、記憶の中の婚約者に縛られている彼自身にも嫌気がさした。
ここは現実であって、今存在する事実のみが本当のことなのだ。なのに、心が追いつかない。
わからない。なぜ彼に婚約者の記憶だけがあったのか。
わからない。なぜ記憶の中の彼は婚約者を蔑ろにしたのか。
わからない。そもそも彼の記憶は何なのか。
何もかもがわからない。そもそもここが現実なのかもわからない。
ただただ、怖い。
立っている場所がぐらぐらして、彼という人間の根幹から存在が曖昧になっていく。
「リオン!しっかりして!」
彼を現実に引き戻したのは隣にいたアンの声だった。アンは心配そうに彼を見つめている。
「さっきから顔色が悪いし、変よ。今日はもう帰った方がいいんじゃないかしら」
アンも青ざめた表情をして、なお彼を心配してくれていた。
「そうだね……。アンこそ、顔色が悪い。今日はもう帰ろう」
「私もパーティで緊張して疲れちゃったみたい。そうしましょ」
こうして彼とアンは早々にパーティから引き上げることになった。
帰宅して、彼は自室で紙とペンを持って情報を整理し始めた。
――――――――――――――――――――
・記憶の中の婚約者 ハンネ=欠けていたもの?
・婚約破棄←何故?
・「アンをいじめた」?
・記憶の中でのアンとの関係性
・現実の婚約者 アン
・欠けていたものだと思った
・満たされた
・氷のような表情と言われなくなった
・……
――――――――――――――――――――
半ば殴り書きのようにメモをして、それでも頭の混乱が止まらない。
アンに出会って、彼の世界は色付いた。彼に足りない何かはアンという婚約者の存在だと信じていたのだ。
だが、記憶の世界での婚約者はハンネだった。ハンネと過ごした記憶を垣間見て、彼の心は揺らいだ。
思えば、アンとの出会いもおかしかったのだ。
偶然、アンが初めて登校するところに遭遇し、
偶然、その場に誰もいなかった。
出会った瞬間に世界が色付くなんて大げさ過ぎて物語なのではないかと思ってしまう。
まるで、この世界が神様か何かによって意図された箱庭のようだ。
それなら……こんな世界なんて……。
ドス黒い感情に呑み込まれそうになり、彼はメモをぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
今更考えたって仕方がない。存在しないはずの記憶を辿っても何も得られない。
確かなことは、彼の婚約者がアンだということだけ。
アンと婚約したいと思ったのも、大切にしたいと思ったのも現実では全部彼の本心のはずだ。
だったらアンを一生大切にすることが最重要事項だろう。
アンが彼という人格を見捨てないでくれたら、の話だが。
記憶の中の彼も間違いなく彼自身で、知ってしまった以上切り離すことは不可能だ。
先程執事が届けてくれた手紙を再び読む。差出人はアン。
手紙には、体調を心配していることと明日お見舞いに行きたい旨が書かれていた。
さらには、「何か悩んでいることがあるなら話して。全て教えてくれなくてもいい。リオンにどんな悩みがあるとしてもちゃんと聴くから。私達、パートナーでしょう?」との文言まであった。
見透かされている、彼はそう思った。仮にもかれこれ2年以上はずっと一緒にいたのだ。ただでさえ勘の良いアンが彼の変化に気付かないはずがない。悩みの原因があのパーティー会場にあったことすらもお見通しなのだろう。
記憶の中の婚約者の話をするなんて馬鹿げている。ましてや目の前にいる現実の婚約者に向かって話すような内容ではない。
ただ……何も言わずに隠しているのは、彼のことを親身になって考えてくれているアンに対して不誠実だ。
アンに気狂いだと思われるかもしれない。それだけならまだしも、打ち明けたことによってアンも悩ませてしまうかもしれない。
彼女の人生を狂わせてしまうくらいなら、2人の関係性を見直す覚悟も彼はできていた。
全ては明日次第だ。
彼は突如現れた記憶に翻弄されながらも、前に進むために明日へと思いを馳せた。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
余裕があればアン視点も書きたいな、なんて思っております( ̄▽ ̄)