陸
何処までも続くと思われる、深い深い木々が覆い隠す静かな森の中。少し前までは居たのであろう、獣が踏み固めた道無き道を3人の人影が歩く。
神官服を纏っているまだ幼さが少し残る少年を先頭に、白い簡易的な装飾ながらも光沢が美しいワンピース姿の妙齢の女性、そのすぐ後ろにはこの辺りでは珍しい意匠の服を着た精悍な男性が辺りを物珍しそうに見ながらついて行っていた。
山歩きにしては荷物を持たないその異様な集団は荒い息を繰り返しながらも、しかしただひたすら真っ直ぐにその細い道を目的地を目指して歩いていた。
ーーと、かっこよくモノローグをつけてはみたが、私はもう限界だった。
「……ねぇ、まだ歩くの……?」
「もう、少しですっ!」
少し疲れを滲ませながらも元気よくそう言った少年神官の言葉に、それもう3回目……と思いつつも私はそう告げるのを自重した。なんか、こんな小さな子が頑張ってるんだから大人な私が文句を言うと負けな気がするからだ。
「この先にあるのは最大の大きさになる瘴気口です」と少年神官が告げたのは多分今から何時間か前。
彼がそう言って指し示した先にあったのは、明らかに馬車が通れない鬱蒼とした木々が生い茂る山。愕然と見上げるその雲よりも高そうな目の前の巨峰に、「は?これ登るの……?」「……マジかよ……」と私は夫と共に半ば呆然と突っ立ってしまったのは仕方が無い。
「霊峰セリッド・ピクです。神の力をも及ばない、別名”静かなる山”……ここには、魔物も湧き出ません」
「ハイキング気分で行きましょう!」と少し引き攣った笑顔で少年神官が言うのに、なんと返事をしたのか全く覚えていない。ただこれはハイキングなんて可愛らしいものじゃなくて、エベレスト登山だと思う。ちょっとそこまで自然を感じにではなく、ちょっとそこまで命のありがたさを感じに行こうなんだよなぁ……
致し方がなく麓にある村にしぶしぶ馬車を残し、そうして登り始めた天まで届く山。霊峰と言われる所以か人が通るような道など無い。遠くの方で獣や鳥の鳴く声は聞こえてくるが、警戒して出ては来ずひたすらに視界に映るのは木々ばかりだ。
魔物が出てこないというのは助かる。こんな木々が密集したところで夫が魔法なんかバカスカ打ったりしたら山火事やら土砂崩れになるのは目に見えている。
ゼィゼィハァハァと荒い息を吐く私や少年神官とは異なり、夫は半ば涼しい顔で辺りを散策しながら歩く姿が果てしなく恨めしい……さっさと頂上まで登って私達を転移して連れて行ってくれればいいのに、「場所が分からんと座標が分からん。かといってお前を1人残して行くとどんな厄介事を連れ込んでくるか……」とジト目でこちらを見つつ抜かしてた。私は子供かよ。
整わない何度目かの深い息を吐いた時、やっと少年神官が「見えて、きました……!」と息も絶え絶えに告げた。パッと薄暗い森の中から抜ければ、そこは太陽も燦々と降り注ぐ山半ば。上を見上げれば、まだまだ遥か天高く木々が続いておりこれで山頂が目的地ですなんて言われた日には一体何週間掛かるのか想像しただけで帰りたくなる。
視線を正面に戻せば、何度か見たようなぽっかりと口を開けるデカい穴。黒い靄はゆったりと出てはいるが、今までと違いそれはすぐさま空気の中に消えていき、辺り一面暗く沈んでいる……なんてことにはなっていない。流石に霊峰というだけのことはあるのか、神聖な澄み切った空気が薄れずそこにあった。
少年神官がいつもは気がついたら装着している大神官印の口布もいまは装備しておらず、それだけこの地が特殊だというのが分かる。
さっさと終わらせて休憩しようか、疲れた身体に鞭打ちながらも大穴のすぐ側に立ったその時。「ーー真由美っ!!」と珍しく緊迫したように私を呼ぶ夫の声が聞こえた。
「んん?」と後から思えば我ながら間抜けすぎる声を上げながら、無警戒にも私はくるりと背後に居るであろう夫を振り向いた。
なぜかこちらに手を伸ばしながら駆けてこようとする夫の手が私に触れるよりも速く、私の体は背後に居た”何か”に勢いよく引っ張られた。
「ーーえ、」
穴に向かって傾いていく体。思わず私も伸ばした手は、しかし夫の手を掠りそのまま離れていってしまった。
見えない何かによって私の体は深い深い暗闇の中へと真っ逆さまに落ちていったのだった。
ぴちょん……ぴちょん……と何処からか水が一滴づつ漏れ出る音が聞こえる。またお義祖父さんがしっかりと蛇口を締めて居なかったのか?お義母さんに怒られるぞと思いつつもゆっくりと寝返りを打とうとして下が異様に固いのに気がつく。あれ?私飲みすぎてリビングの床で寝ちゃったのかな?
そこまで思ってーー今は異世界旅行中でかつ得体の知れない何かに穴に引きずり込まれた事を思い出した。
パチリと目を開ければ、ゴロゴロとした岩肌が視界に飛び込んできた。硬い床で寝た時特有の節々が痛くなる身体を、顔を若干歪めながらも起こして辺りをぐるりと見回す。どうやら洞窟で気を失っていたようだ。
落ちてきたであろう上を見上げてみても、なぜかそこには穴なんてなく自身の2倍はあろう場所に岩の天井があるだけだ。
「やば、また異世界転移しちゃったパターンかこれ?」
夫に怒られる……そのうち首輪でも本気で付けられるんじゃないか……と大きくため息を付いて、よっこいしょと立ち上がる。少し広めの空間のそこは、明かりというものが岩の合間に自生している苔がほのかに光っているぐらいで、外に繋がる出口というものは見当たらない。魔法という便利な技術もない私はどうしたものかと近場の岩に腰掛けた。
迷子の基本は動かない。そのうち夫が見つけてくれるだろう、それまでのんびりと待っていようか。
……とはいっても暇だ、あるのは岩と光る苔ぐらいか。他に時間を潰せそうなものはーー
「あれ?おかしいなぁ……こっちだと思ったんだけど……そもそも僕はいつの間に洞窟に入ったんだ?」
ーー居た。
キョロキョロと不思議そうに辺りを見回すその見知った人物を発見して、私は人知れずゆるりと口角を上げたのだった。