壱
私、神谷 真由美は困っていた。
それは家のキッチンに居たと思ったら気が付けば大理石で造られているように壮麗な見知らぬ神殿らしき場所の祭壇に居た事では無いし、その祭壇の前にまるで司祭のようなシンプルな白い衣服で統一された人々がズラリとこちらを拝んでいることでも無ければ、その先頭にいる一段豪華な白い衣装のお爺さんが「天つ国より遣われし聖なる乙女よ!地上の穢れをその御力でどうぞお清めくださいませぇぇえ!!」という魂の叫びを上げていることでも無い。
手に持ったまま一緒にここへ来てしまったと思われる、つい先程まで使っていた筈のそれに思わず目を落とす。自分自身でも眉が下がっている事に気が付いていた。
私の視線の先に気が付いたのか「おぉ偉大なる聖女よ!その麗しき司教杖で我らをお導きくださいぃぃい!」とまたお爺さんが叫ぶ。そろそろ本格的に魂も飛び出さないかと的外れな心配が胸を過ぎる。しかし、そんな事よりも今は重大な懸念事項がある。
それは”聖なる乙女”とか”聖女”とかお爺さんが叫んでいるが自分が既に結婚をして初夜も済ませていることでは無いし、穢れなどというよく分からない物を祓う力なんて知らないごく普通(?)の日本人という事でも無ければ、これは司教杖なんてそんな大層な物ではなく普通の調理器具だという事でも無い。
「天より出でし聖女様!どうか、どうか我らにその清きお言葉をぉぉお!」
そう言って深く頭を垂れたお爺さんの姿に、私は眉が下がったまま先程からずっと気になっている事を小さく呟く。
それほどに私、神谷 真由美は非常に困っていた。
「……どうしよう、味噌汁が火に掛かったままだわ……」
突然すぎる召喚に対応出来ず、朝ご飯用の鍋を火に掛かけたままだと言う事に。
私は困り果てて思わず手に持つお玉をじっと見つめたのだった。
寝室の三倍はあろう広い室内に案内された私は、細かい細工がされた職人技が光る美しい天井をぼんやりと眺めていた。一つウン十万はくだらなさそうな座り心地が良いソファのこれまた触り心地が良いシートを手遊びで撫でながら、はてさてどうした事だろうかと頭を悩ませる。
遂に「貴重な司教杖に傷汚れがついてはいけまけんゆえ、こちらはお預かりいたしますぅぅうう!」と半分魂が飛んでいるようなお爺さんにお玉さえも取られてしまった私は、火はお義母さんが消してくれたかしらと心配で落ち着きなくソワソワとしてしまう。
なぜ私がこんなにも異世界で冷静なのかと言うと、代々そういう家系に嫁いだからだ。
義祖父は時空間迷子
義祖母は九尾狐
義父は勇者召喚
義母は未来人
夫は前世魔王
因みに前世魔王な夫を討伐したのは元勇者だったお義父さんという因果関係があったり、九尾狐なお義祖母さんを研究するために未来からお義母さんがやって来たという繋がりがあったりする。
面白かったわよ、縁側で狐姿で日向ぼっこしている若きお義祖母さんの所へ突如現れた謎な未来人(お義母さん)に一目惚れしたお義父さんが突撃するという話。
慌てて逃げる狐な嫁をよく分からない機械片手に追いかける不審人物を追いかける目がハートになった息子をオロオロと狼狽えつつ何も出来ない旦那というなにそれカオス?な話は、お義祖父さんがお義祖母さんに叱られる時に「あの時もそなたはーー!」とよく出てくるネタである。何度聴いても面白い。
因みに今はお義祖母さんとお義母さんの仲は良好。よく買い物も一緒に行くし、狐姿の彼女のブラッシング担当は専らお義母さんだ。目をトロンとさせたお義祖母さんは文字通りその顔を蕩けさせてその身を預けていた。その姿を見た小動物大好き系魔王である夫もブラシ片手に近づいたが、動物を恐れさせる魔王オーラが強くお義祖母さんに威嚇されて寂しげに膝を抱えていた。人型姿なら良いらしいけど狐姿はモロに魔王オーラが刺さるからお義祖母さん曰く嫌らしい。
私?私は狐姿のお義祖母さんを膝に乗せる事が出来ますが何か?まったりと縁側でお義母さんと話している私達の膝の上に狐のお義祖母さんが寝転んでいる写真が食卓に飾ってあるぐらいだ。……そういえばいつの間に撮ったんだろう、帰ったら聞いてみよう。
はぁ、と大きなため息を付いたその時、勢いよく扉が開いた。やっと誰か来たのかと視線をそちらに向けて、私は思わず目を見開く。
真っ黒な短髪にギロリと睨む鋭い紅瞳、程よく日に焼けた肌にゆったりとした服の上からも分かる筋肉。頭二つ分ぐらい背の高い彼と目が合ったと思ったらそのまま何も言わずにズンズンとこちらに歩み寄ってくる。まるでひとつの街でも滅ぼしてきたかのような鬼気迫る勢いですぐ側までやって来た彼は、そのままバシりと唐突に私の頭を軽く叩いた。思わず「いたっ」と声を上げ、叩かれた場所を片手で抑えながら上目遣いで睨みつける。
この絢爛豪華な空間とは異なりTシャツジーパン姿という異質な出で立ちで現れた、眼光鋭いこの男。
「お前な!異世界に召喚される時は事前に言ってからにしろとあれほど言っただろうが!」
「そんな事言ったっていきなりは不可抗力でしょうが!」
何を隠そう、前世魔王な私の夫である。