泉 鏡花「鷭狩」現代語勝手訳
泉 鏡花「鷭狩」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を付け加えたり、削ったり、また、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで理解し、現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品の勝手訳を行うにあたり、「泉鏡花集成7」(筑摩書房)を底本としました。
全六章 一挙に投稿します。
一
初冬の夜更けである。
加賀・片山津の温泉宿、半月館弓野屋の二階。――二階ではあるが、広い階子段が途中で一段大きくうねってS字形に昇るので、三階ぐらいに高い。その階段すぐにある部屋から扉を開けて、一人旅の、三十ばかりの客が寝衣姿で薄ぼんやりと現れた。
この半ば西洋造りの構えは、日本間が二室で、四角になっている縁が、有名なここの名所である三湖(*1)の中でも雄大な柴山潟を見晴らせるバルコニーとして誂えられている。硝子戸と障子の二重に隔ててはいるけれど、広大な水面からは、霜を置いたような月の冷たさが、自ずと沁み徹って来るようであった。……
今、ふと寝覚めた枕から見ると、電燈は薄暗く、硝子戸を貫いて、障子にその水の影さえ映るほどにも見えた。
「おお、寒い」
頸元から寒くなって起きて出た。が、寝ぬくもりの冷めないうちに、早く厠へと思う急いた気持ちで、せっかちに扉を押した。
押して出ると、不意にすごい音で刎ね返った。ドーンと扉の閉まるのが、広い旅館のがらんとした大天井から地の底まで、思いもよらなかったほどに響いたのである。
一つ、大きな物音のした後は、目の前の階子段も深い穴のように見えて、白い灯も霜を敷いたような床に淋しく映る。木目の節の、点々と黒いのも鼠の足跡かとも思われた。
本当に、この大旅館はがらんとしていた。――宵に受け持ちの女中に聞くと、引き続いて二十日あまりの間、団体観光の客が立て続けに毎日百人近くも混み合ったそうである。そこへ女中がせいぜい四人ぐらいだから、もし昨日にもおいでだと、どんなにお気の毒であったか知れない。すっかり潮が引いたような後で、今日はまた不思議にお客が少なく、此室に貴方と、離室の茶室をお好みの、ご隠居さまご夫婦のお泊まりがあるばかり。いいところで、いい時期においでです――と言った癖に……客が膳の上の猪口をちょっと控えて、それではお前さんたち、さぞ疲れたろう。大掃除の後の骨休め、というところだ。ここはもう構わずに、湯にでも入ったら可いと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、その言葉に乗っかって、「では、有り難くそうさしていただきます」と、何の愛想もなく引き下がった。何だか畳も急に暗くなって、客は胴震いをした後、呆気に取られた。
……思えば、そんなことも頼りなく感じたものであった。……
さて、下りる階子段は、一曲がり曲がる所で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を覗くとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙間というものがないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入っては、そっと爪尖を嘗めるので、変にスリッパが辷りそうで、足許が覚束ない。
彼は壁に掴まった。
掌がその壁の面に触れると、遠くで湯の雫の音がした。
聞き澄ますと、潟の水の、汀の蘆間をひたひたと音訪れる気勢もする。……風は凪いでいるのに、遠くで、あるいは近くで、汽車が谺するように、ゴーと響くのは海鳴りである。
随分遠く来たものだと、しみじみ旅を思いながら、沈んで行くように階段を下り切った。
どこにも客間がない。あっても泊まり客のないことを知った上での長廊下の、底冷えのする板敷きを、影が彷徨うように、我ながら朦朧として辿ると……
「ああ、この音だった」
汀の蘆に波が寄ると思ったけれど、直ぐ近くに聞こえる所に、そうだ洗面所があったのだと思い出した。
機械口が緩んだままで、水が点滴っているらしい。
その袖壁の折門から、何の気なしに中を覗くと、
「あッ」と、思わず声を立てて、ばたばたと後へ退った。
雪のような女が居て、姿見に真っ青な顔が映った。
温泉の宿の真夜中である。
*1 三湖……加賀三湖。石川県小松市、加賀市に点在する、今江潟、木場潟、柴山潟の三つの潟湖。
二
客は自分の他には、離室に老人夫婦が居ると聞いていただけなので、廊下でいきなり女の顔をした白鷺と擦れ違ったように吃驚した。
が、雪のようなのは白い頸だ。……背後向きで姿見に向かっていたのに違いない。燈の消えたその洗面所の周囲が暗いから、肩も腰も見えなかったのだろう。と、幽霊という疑いを消しながらも、やっぱり慄然として立ち淀んだ。
洗面所の壁のその柱へ、袖の陰が薄りと、立縞の縞目が映ると、片頬で白くさし覗いて、
「お手洗い?……」
と、ものを忍んだように言った。優しい柔らかな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び慄然として、客は深く息を吸った。……
「どうぞ、こちらへ」
と言った時は――もう怪しいものではなかった――紅鼻緒の草履に、白い爪先も見せながら、廊下を導いてくれるのであろう。小褄を取った手に、黒繻子の襟が緩い。胸が少し開けて、褄を引き揚げたなりに乱れて、こぼれた浅葱が長く絡まった、ぼっとりとした中肉が、帯もないのに嬌娜である。
「いや、知っています」
これで安心して、衝と寄って、斜め向こうに離れる時、今見たのは、この女の魂だったか、と思うほど、姿も艶に判然して、薄化粧した香りさえ薫る。湯上がりの湯の匂いも可懐しいまでに、ほんのりと人肌が空に漂って絡った。
階段を這った薄い霧も、この女の気を分けた幽かな湯の煙であったのだろうと思えば、踏んだのも惜しい気がする。
「何だろう、ここの女中だとは思うが、素晴らしく清艶な婦だ」
手を洗って、ガタン、トンと、土間穿きの庭下駄を引き摺る時、閉めて出た障子が廊下側からすッと開いたので、客はもう一度ハッとした。
と、待っていたのか、その婦がそこに立つ。
「これは恐縮……」
「いいえ」
と、もう縞の小袖をしゃんと端折り、昼夜帯を引掛結びにしていた。見れば、紅い扱帯のどこかが漆の葉のように、紅にちらめくばかりである。もの静かな人柄で、おっとりした顔も下ぶくれで、一重瞼の、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、容子のいい女である。肌が雪のように白い。
「しかし、驚きましたよ。まったくのところ驚きましたよ」
と、懐中に突っ込んできた手巾で手を拭くのを見て、
「あれ、貴方……お手拭いをと思いましたけれど、生憎今持っているのは、先刻お湯へ入りました、私の使ったものですから。――それに濡れてはおりますし……」
「それは……そいつを是非拝借しましょう。貸して下さい」
「でも、貴方」
「いや、それで結構、是非お願いします」
と、女がうっかり手にした濡れ手拭いを、引っ手繰るようにぐいと取った。
「まぁ」
「化けもののすることだと思って下さい。丑三つ時で時刻が時刻だから」
ほぼその人柄も分かったので、遠慮なしに、半ばからかうように、手だけではなく、するすると顔を拭いた。湯の温もりがまだ残る木綿の手拭いは、女の膚に馴れたのか、柔らかに滑らかである。
「あれ、お気味が悪うございましょうのに」
と、釣り込まれたように、片袖を頬に当てて、取り戻そうと差し出す手から、ついと逃れて、後退りした客は、手拭いを人質のように、しっかりと握って、
「気味の悪かったのは、まさに今先刻でしたよ。――この夜更けに、しかも、ここから唐突だろう」
そのまま洗面所に肩を入れて、
「思いも寄らない――それに、あまりにも美しい綺麗な人なんだから」
声が天井へも突き通して、廊下へも響くように思われたので、急にひっそりと声の調子を沈めた。
「本当に肝が潰れたね。今思ってもぞッとする……別嬪なのと、不意討ちで……」
「お巧言ばっかり」
と、少し身を寄せたが、さし俯向く。
「冗談じゃありません。……『お手洗い?……』と言われた時などは、頭から霜を浴びて、潟の底へ引き込まれるかと思ったのさ」
大袈裟には聞こえたが。……
「何とも申し訳ありません。――おかしな時に髪を結ったりなんかしましたものですから。――あの、実は、今し方、遠方のお客様から電報が入りまして、この三時十分に動橋へ着きます汽車で、こちらへおいでになるッてことだものですから、あとは皆年下の女たちが疲れて寝ていますし……私がお世話を申し上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりましたところなんでございますよ」
今は櫛巻が艶々とし、すなおな髪がふっさりとしているので、顔がやつれてさえ見えるほどである。
「女中部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂いただきました後を、お客様のお使いになります所を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。……変化でございますわね――本当に」
と、鬢に手を置いたまま、また俯向く。
「何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で出会すのは、そんなお化けに限るんだけれど、何てたって驚きましたよ――いや、馬鹿々々しいほど驚いたぜ」
言うまでもなく、女中と分かって、ものの言い方も遠慮なく、
「いまだに、胸がどきどきするね」
と、どんな魂胆があってか、そこにあった籐椅子に、ぐったりとなって、肱をもたせ掛ける。
「あなた、お寒くはございませんの」
「今度は赫々と火照るんだがね。――腰が抜けて立てません」
「まぁ……」
三
「お澄さん……私は見事に強請ったね。――強請ったというより、強請だよ。いや、こんな時間だから強盗の所業です。しかし有難い」
と、枕だけ刎ねた寝床の前で、盆の上ではあるけれど、その女中――お澄――に酌をしてもらって、こともあろうか、嬉々としている。
客は手を引いてくれなくては、腰が抜けて二階へは上がれないと、冗談を真顔で迫ると、ちょっと微笑みながら、それでも心から気の毒そうに、否とも言わず、肩を並べて階子段を上がって行けば、一曲がり蜿る所の寂しい白い燈に、顔がまた白く、褄が青く映った。客は、こんな機会があるなんて、人間、一生の旅行のうち、何度もあるものではない。辻堂の中で三三九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は宵の膳の三本目の銚子が、給仕に遁げられたので、一人では詰まらないから、寝しなに呷ろうと思っていたのだが、そうすることもなく、ぐっすり寝込んでしまったため、そのまま袋戸棚の上に忍ばせてあることを思い出した……で、また実際、その通りに言った。――お澄が念のためにと、時間を訊いた時、懐中時計は二時半に少し間があった。
「では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言っておかねばならないことがありますから」と、軽く柔らかにすり抜けて、扉の口から引き返す。……客と接する時に、草履を穿かない素足の音は、水のように階段の中途でもう消える。……宵に鯊を釣り落とした苦い経験のある客である。今度は鱸を水際で遁がしたような思いであった。まるでその影を追うように、障子を開けて硝子戸越しに湖を覗いた。
連なり亘る山々が薄墨の影に消えそうになりながら、霧の中にぼんやりとその縁を繞らす。湖は一面の大いなる銀盤である。その磨かれた白銀には布目ほどの浪もない。目の下の汀の枯蘆のそこかしこに霜が降り、それが天に浮かぶ月に咲いた青い珊瑚珠のように見える。その中を、瑪瑙の架け橋に似て、長く水面を遥かに渡るのは、別館の長廊下である。棟に欄干を繞らせた月の色と、露の光を受けるための台のような建物が、中空にも立てば、水にも映り、そこに閉ざした雨戸々々が透き通っている。淡く黄を帯びているのは人も居ない部屋から燈火が洩れるのであろう。
鐘の音も聞こえない。
潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か雁か、鷿鷉か、ふとそれが月影に浮かぶお澄の、眉の下の黒子に似ていた。
冷える、冷たい……女に遁げられた男はすぐにブルッと身体を震わせるほど寒くなった。一人で、蟻が冬籠もりに貯えたような例のその一銚子。――誰に習って、いつ覚えたやりくりなのか、小皿の下物に紙を蔽って、煽られて散らないようにと杉箸を重しに置いたのを取り出して、自棄になって茶碗で呷ったところへ、
――あの、足音は――お澄が来た。
「何もございませんけれど」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬け。
「山家ですわね」と胡桃の砂糖煮。台十能(*1)に火を持って来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上がり口の傍に水屋のような三畳があって、瓶掛(*2)、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取り分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏がその隣座敷。
――「旦那様の前ですけど、この二室がとって置きの上等」で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。――
「まぁお一杯……お銚子が冷めますから、ここでお燗を。ぶしつけですけれど、この部屋までは遠うございますので、おかわりの分も」と銚子を二本。行き届いた粋な取りなしで、午前二時の小酒盛り。北の海の海鳴りが鐘を撞いたように凍るような音を立てた時、名高い安宅の関は、この辺りから海上三里にあって、そこで弁慶がどうした(*3)とか、石川県能美郡片山津の、直侍(*4)はこんな風なのかと、思いを馳せながら、客は広袖の襟を撫でて、胡座でどっしりと構えたものであった。
「だけど……お澄さん、あともう十五分か、二十分で隣座敷へ行ってしまわれるんだと思うと、情けない気がするね」
「いいえ。――まぁ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります」
「何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの」
「まぁ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、たまたまの段取りで私が承りましただけですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟に水鳥を撃ちに」
「ああ、銃猟に――鴫かい、鴨かい」
「はぁ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに鷭をお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、百二三十も取れましてね。それを猟袋に一杯詰め込んで、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽の上がりません、まだ霜の融けない夜が白み始める頃が一番よく取れますって、それで、今時分お着きになります」
「どこから来るんだね、遠方ッて」
「名古屋の方でございますの。お供の人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる中に、馴染みの船頭が参りますと、小船二艘でお出かけなさるんでございますわ」
「それは……対手は大紳士だ」と、客は溜息をつきながら怯えたように言った。
「ええ、何ですか、貸座敷のご主人なんでございます」
「貸座敷?――女郎屋の亭主かい。お供はきっと幇間だな」
「あ、当たりました、旦那」
と言ったが、軽く膝で手を拍って、
「ほんに、こんなところで辻占が当たるなんて猟のお客様はお喜びでございましょう」
「お喜びかね。ふぅ、なるほど――あぁ大した勢いだね。おぉ、この静寂な霜の湖を船で乱して、谺が白山へドーンと響くと、寝温くまった目を覚まして、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に鏤めようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりと咥えられ、水しぶきの中、船へ落とされると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな」
お澄は白い指を扱きながら、何となく聞いていたが、ふっと客の顔を見た。
「――お澄さん、私は折り入って姐さんに一つお願いがある」
客はお澄に向かい、膝をしっかりと組み直して、そう言ったのである。
*1 台十能……熾した炭を運ぶためなどに用い、畳に置けるよう木製の台座がついたもの。
*2 瓶掛……鉄瓶を掛けるための小型の火鉢。
*3 弁慶がどうした……歌舞伎の「勧進帳」のこと。
*4 直侍……歌舞伎「天衣紛上野初花」に登場する博奕打ちの片岡直次郎のこと。
四
彼は稲田雪次郎と言う――宿帳にも記しているが、更めて名を言った。画家である。何度も生死の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――
「姐さんは知っているか?」
「ええ、この辺でも評判でございます」――その上野の美術展覧会に入選した。
構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――
「鷭は一生を通じての私の恩人なんです。生命の親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一族が、夫も妻も娘も悴も、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲を食らって、一時に、百二三十もが袋に七つも詰め込まれるなんて、とてもやりきれない。――深更に無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っているところへ、こんな馬鹿な、無法な、非常識な、お願いと言っちゃぁないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭撃ちを止めさせてはもらえないだろうか。……男伊達なら、あの木曽川の、で、止めてみる(*1)と言ったって、水の流れは止められるものではない。が、女の力だ。あなたの情だ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこがご婦人の力です。もちろん、まるきり、その人たちに止めさせることの出来ないことは、解っている。けれど、それが無理だとしても、手筈を違えるなり、段取りに支障を入れるなり、せめて時間でも遅れさせて、鷭が明らかに夢から覚めて、水鳥らしく自衛の守備が整うようにして、一羽でも、獲物の方が少なく、鳥の助かる方が多いようにしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟川で以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちが居て、……今まですらりと立って遊んでいたのが、弾丸の響きと一緒に姿が横に消えると、颯と血が流れたという……話を聞いたことがあって、その一羽は、私には他人の鷺でも、お澄さんのような女が殺されでもしたように、慄然として震え上がった。――だというのに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強請ったような考えではありません。真人間が、真面目に師の前、両親の前、神仏の前で頼むのと同じ心で言うんです。私は孤児だが、かつて『大成すれば、東京へ迎えます』と言ううちに、両親は亡くなりました。その親たちの位牌を……上野で展覧会の最中という今、故郷の寺の位牌堂から移してきたのが、あの大きな革鞄の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添えください」と言った。
顔色が白蝋のようになって、伏目で聞き入っていたお澄の長い睫毛が瞬けば、それと同時に、床に置いた大革鞄が揺れて、熊が動くように見えたのである。
「あら! 私……」
この、もの淑なお澄が、慌ただしく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段を踏み立てて、こんな夜分をも憚らない音が静寂間に湧き上がった。
「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう」
と、下から上へ投げ掛けるように肩へ浴びせたのは、旦那に続いた例の幇間だと思われる。白い呼吸もほッほッと、手に取れるくらいの、寒そうな声をしながら、いい加減なことを言う。
「や、お澄――ここか、座敷は」
扉を開けた出会頭に、自分のために髪を結って化粧したお澄の姿を見て、女郎屋の亭主は満足げな鼻声を出した。爺やがその傍に、そして供が続いて突っ立っている。が、気早に頸から先へ突っ込む目に、何と、閨の枕に小酒盛り、媚薬を彷彿とさせた道具が並んで、生白けた雪次郎が、縞の広袖で、微酔いで、夜具に凭れていたではないか。
実際の肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉が立っているようなお澄は、呼吸もどす黒くなるような、相撲取りほど肥った紳士の、猟虎襟の大外套の厚い煙に包まれた。
「いつもの上段の室でございますことよ」
と、さすが、客商売、すかさず機嫌を取って、隣の扉へ導くと、紳士の開閉の乱暴さ、ドンドシン……と、続けさまに扉が鳴った。
*1 男伊達なら、あの木曽川の、で、止めてみる……木曽節の歌詞の一部。
「男ナーなかのりさん 男伊達ならナンチャラホイ あの木曽川のヨイヨイヨイ 流れナーなかのりさん 流れくる水ナンチャラホイ 止めてみよヨイヨイヨイ」
五
「旦那は――ははぁ、奥方様と、なるほど。……それからご入浴という、まずもってのご段取り。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそれくらいなことは心得ておりますんで。……しかし御接吻ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れた所からいらっしゃるで、まずご入浴をされませんと、奥方の方でご承知をなさいますまい。はははは、ご遠慮なくお先へ。……で、その上でゆっくりと」
階子段で足踏みをして、
「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜の鷭だよ、トンと打つけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏だ、水鶏だ、トントントトン」と下りていく。
あとは、しばらく隣座敷に、火鉢もないのかと思われるくらいに寂寞とした。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
「黙れ!」
と、梁から天井へ、筒抜けに、ドス声で、
「分かった! そうか。三晩続けて、俺が鷭撃ちに行って怪我をした夢を見たか。そうか、分かった。夢がどうした。そんなことは何でもないわ。――だがな、俺が汝等の手で面へ溝泥を塗られたのは夢じゃないぞ。この赫と開けた大きな目を見ろい。――よくも、汝、溝泥を塗りおったな。
――聞こえるか、聞こえるか。普通なら、隣の野郎には聞こえまいが、このくらいの大声だ。おのれの耳を打抜いたろう。土手っ腹へ響いたろう」
「響いたがどうしたい」と、雪次郎は鸚鵡返しで、夜具に凭れて、両の肩を聳やかした。そして身構えた。
が、そのまま何もなくバッタリ止んだ。――と、時にピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭打つ音が響く。チンチンチンチンと、微かに鉄瓶の湯が沸るような音が交じる。が、それでもないと、湯気の気配さえも、血汐が噴くようで、凄まじい。
雪次郎はハッと立って、座敷の中を四、五回廻った。――衝とバルコニーへ出る。この片隅に二枚続きの硝子を嵌めた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方見知ったところでは、すぐその向こうが、同じここよりは広いバルコニーで、座敷の障子が二、三枚覗かれるはずだ。――と思う。……そのまま忍び寄って、密とその幕を引きなぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込みになっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の顔色は、あの、姿見に映った時と同じく、真っ青であろう。真うつむけに轢き倒された背には、手が腕の付け根まで露呈に白く捻じ上げられ、半身の光沢のある真綿のような脚は、ふっくりとしたふくら脛から踵にかけて、畳を裂くように、二条引き伸ばされている。――ずり落ちた帯の結び目を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗り掛かり、陰気に重く光らせた革帯を締めたまま、女郎屋の亭主は外套も脱がず、鉄の火箸で、溜め打ちにピシャリと打ち、ピシリと当てる。八寸釘を横に打つような、このおぞましい仕打ちに、引き攣った肌には青い筋が蜿っているにもかかわらず、紫色にのたうちながらも、お澄は声も立てず、呼吸さえしない。
「ええ! 図太ぇ阿魔だ」
と、その鉄火箸を、今まさに突き刺しそうに逆に取った。
この時、階段の下から足音が来なかったら、雪次郎は硝子を破って、血だらけになって飛び込んだだろう。
これほどまでの苦痛を堪えた。――後でお澄の片頬には畳の目が鑢のようについていた。横顔で突っ伏して、歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目には、あぶら汗にへばりついて、鬢の後れ毛が彫り込んだようになっていた。その髪の一条を、雪次郎が引いて取った時、「あ痛ッ!」と声を上げたくらいであるから。……
これほどまでの苦痛を何知らぬ顔で堪えた。――幇間が帰って来てからは、それまでの仕打ちについては、何事もなかったかのように振る舞ったのである。
銃猟家の命令でお澄は茶漬けの膳を調えに立った。
扉から雪次郎が密と覗くと、階段の中ほどで、肱を突っ張って、帯の下の腰を圧え、片手をぐったりと壁にして立ち、倒れそうに俯向いた姿を見た。が、気勢を察したのか、急に真っ青な顔を雪次郎に向けると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
隣室では、少時賤しげに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしていやがる。――遅いなぁ」
二度まで爺やが出て来て、催促をされた後、やっとお澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょっと休みましたものですから」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関の山でげすぜ、旦那」
と、幇間が茶漬けを啜る音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那」
「出掛けるのに、くそ忌々しいことがあるんだ。どうだかなぁ。いっそのこと止めて、一つ新地で飲んだろうかと思うんだ」
六
「貴方、ちょっと……お話がございます」
――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭が来るのが、また遅かった。――
「へい、旦那、ご機嫌よう」と三人ばかり座敷へ出ると、……
「遅いじゃねぇか」と、そのご機嫌が大不機嫌。
「先刻お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方はご飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで」――「撃つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか」と、銃猟家が怒り苛立って立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面がほんのりと青ずんでいた。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
早いもので、湖に、小さい黒い点が二つほど、霧を曳いて動いた。船である。
睡眠は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿かれ、鷭よ。
雪次郎は、しかし青い顔をして、バルコニーに湖に向かい、肩を固くして立っていた。
お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が強張ったのである。
「貴方、ちょっと……お話がございます」
お澄が静かにそう言うと、からからと釣りを手繰って、バルコニーの硝子戸に、青い幕を深く蔽った。
閨の障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない」
雪次郎はどうと身体を伏せて、手を支いた。
「私は懺悔をする。皆嘘だ。――画工は画工で、上野の美術展覧会に出したは出したが、本当のところは落選したんだ。自棄まぎれに飛び出したんで、両親には勘当はされても、位牌に顔向けできるような男じゃない。――その大革鞄も借り物です。樊噲の盾(*1)だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし破りも裂きも出来ないので、その中に叩き込んである。鷭を画いたのは事実です。女郎屋の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中に開けさせた上に、お澄さんほどの女に髪を結わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供を連れ、船を漕がせて、湖の鷭を狙い撃ちに撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等の言うことそのままに、三頭と言うのも癪に障った。何しろ、私の画が突っぱねられたように口惜しかった。嫉妬だ、嫉みだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。今は、宿賃があるだけだ。ここの勘定に心配はないが、その他は何もない。――無論、私が志を得たら……」
「貴方」
と、お澄はきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥ずかしいことですが、親兄弟を養いますために、私は以前から、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私などは山の鳥です、野の薊です。路傍の塵なんです。見返りもなさいますまい。
――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしましたことです。私は女が一生に一度と思うことをしました。貴方、私にご褒美を下さいまし」
「その、その、そのことだよ……実は」
「いいえ、他のものは要りません。ただ一品」
「ただ一品?」
「貴方の小指を切って下さい」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし」
少なからず不良っぽさのあると思われる若者が、わなわなと震えながら、
「親が、両親があるんだよ」
「私にもございますわ」
お澄は凜として言った。
雪次郎は拳をぐいと握り、お澄を屹と見て、
「お澄さん、剃刀を持っているか」
「はい」
「いや、――食い切ってくれ、その皓歯で。……潔くあなたに上げます」
やがて、唇に含まれた時は、却って稚児が乳を吸うような思いがしたが、後の疼痛は鋭かった。
彼は大きな夜具を頭から引っ被った。
「看病をいたしますよ」
お澄は、その白い胸を伝った幾筋もの血で、長襦袢から下じめまでを真紅に浸ませたまま…………繻子の帯をするすると解いた。
*1 樊噲の盾……前漢の高祖劉邦の臣下。劉邦が項羽に殺されそうになった時、盾でもって衛兵を押しのけ闖入し、劉邦を助ける。興味のある方は「鴻門の会」で検索して下さい。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました
原文の最後の一行は
「お澄は、胸白く、下じめの他に血が浸む。……繻子の帯がするすると鳴った」
です。
雪次郎の小指を噛み切った後のお澄の描写ですが、細かい部分が省略されており、どのように補えばいいのか色々と考えました。(もちろん、補わずにそのまま味わうということもありなのですが)
私自身、この文章は、お澄の雪のような白い胸元に男の小指を食いちぎった血が流れ、それが長襦袢から下じめまで伝っているシーンで、それそのものは外側から見えないが、ただ繻子の帯を解くと、長襦袢も下じめも血で染まっているのだと、鏡花は表現したかったのかなと考え、この勝手訳としました。
ただ、この部分について、ある人とメールのやり取りをしていたのですが、
『私はむしろ小指を食いちぎるという行為は、ある程度狂気じみた気持ちになっていると思いますので、きっちりと着物を着ているというよりは、かなり乱れていたのではないかと思いました。着物ってちょっとしたことで、前がはだけたり襟が緩んだりして、所作が難しいです。なので、ちょっと色っぽく着物が乱れて、長襦袢や下じめもあらわになっていたのかもしれないと思いました。それで胸元から長襦袢、下じめ、あるいは他の肌まで血が滴っていたかもしれません。帯は形が崩れても、しっかりと結んでいるので、緩むことは少ないかもしれません』という見方でした。
指を食いちぎった時には、すでに着物が乱れて、すでに胸元から長襦袢、そして下じめまで露わになっていたかも、という解釈。
なるほど。ただ、着物は乱れていても、繻子の帯だけはまだ解けず、男の蒲団に入る時、あらためて帯を解いて……ということですね。
読者の皆さまはどんな風に受け取られるでしょうか?
どちらにしても、この一文で、凄絶、かつ艶っぽさを表現できる鏡花の文章の見事さに、ただただ感心するしかありません。