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冥婚ドヲリズム  作者: 三石メガネ
9/13

海士坂 司

 聖一は消えていた。

 黒川が狂ったように頭を振り始める。口の端から唾液が糸を引いて飛び散った。

 ――聖一はどこに……。

 忽然と消えてしまった。黒川に蹴ったときにはもういなかった。

 黒川はまだ興奮した様子で体を揺すっている。司からは目と鼻の先だ。聖一はいない。身を守る武器もない。持っているのはスマホとジャマーだけ。

 ――だけど、ここから逃げちゃいけない。

 室内のどこかにコトリがいるはずなのだ。もしかして聖一が助けに入ったのかも知れないと考える。しかし、この位置関係ではそれも無理だと思いなおした。

 ――とにかく、助けられるのは僕しかいないんだ。

 司には気持ちだけしかなかった。武器も腕力もない。それならば、相打ち覚悟で先制攻撃した方が良いのか。

 腹を決め、黒川に飛び掛かろうとしたときだった。

「ぐあっ!」

 黒川が短く叫んだ。獣じみた動きで、見る間に左奥の階段を駆け上っていく。

「……な、なんだ?」

 一瞬の出来事だった。何が起こったのか。

 ――まさか、逃げた?

 身体を揺すったり頭を振ったりと、確かに少し前から様子はおかしかった。けれどこの屋敷に来てからの黒川はずっと様子がおかしいとも言える。行動が支離滅裂だから理由などないと言ってしまえばそれまでだが、奈々雄を殺すほどの攻撃性を持ちながら、司を前にすると逃亡した理由は分からない。

「聖一」

 明かりを巡らすも、誰もいない。黒川がランドリールームから出てきたこと、そして司がドアの右手にいたことを考えれば、聖一が行けるのはもうドアの左側しかない。つまり、今先ほど降りてきた階段だ。

 ――聖一が二階に行ったのなら、先に部屋の中にいるコトリと合流しよう。

 先に二階に行くことで黒川をおびき寄せてくれたのかもしれない。だとしたら司の役目は、そのあいだにコトリを助けることだ。 

 素早く室内に戻る。

 狭いランドリースペースの奥にはさらにドアがあった。全体がすりガラスになっていることからして、バスルームらしい。ドアは完全には閉まっておらず、中途半端に開いている。スマホを確認すると、コトリの位置を示す赤いポイントはこの中だった。

「コトリ、いる?」

 暗い浴室に向かって呼びかける。返事がない。

「僕だよ。司」

 言葉を掛けながら近寄るたび、嫌な予感が増した。なぜ返事をしないのだ。

 脳裏に奈々雄の最期がよみがえる。あのドアの向こうにいる彼女は、本当に生きているのか。

「コトリ……」

 開きかけたドアに手を掛ける。

 黒川はいないと分かっているのに開くのをためらった。浴室内は、司の持つ光など貧弱だと感じるほどの圧倒的な闇に占められている。

 もしも今、何かが浴室の壁を這い寄ってきているとしたら。

 排水溝から、音も立てず青黒い手が伸びてきているとしたら。

 ――駄目だ……早くしないと。

 押し寄せる妄想を振り払う。こんなところで不安に潰されてはいけない。

 真っすぐに正面を照らし、司は扉を開けた。

「……コトリ?」

 バスルームは司の家よりも広い。床と壁はタイル張りで、バスタブは陶器製だ。その中、水の溜まっていない排水溝を塞ぐように、黒くて四角いものがある。

「なんでこんなところに……」

 拾い上げる。黒地に青のレース模様が描かれたスマホケースは、間違いなくコトリのものだ。

 周囲を見回す。誰もいない。必死でここまでたどり着いたというのに。

 ――じゃあ、コトリはどこへ?

 明かりもなしにこの屋敷を歩き回れるのか。それよりも、このスマホを手放すという判断をしたのは本当に彼女自身なのか。

 ――もし、これが黒川の罠なら。

 二台のスマホを手にバスルームを出る。焦りながらランドリールームを物色するが、当然のごとくもぬけの殻だった。武器らしきものどころか、洗剤一本すら残っていない。

 ――気が触れたように見えるけど、意外と頭は回ってる。

 さきほど、鍵のかかってないこの部屋のドアを、さも開かないかのように殴りつけていたのを思い出す。

 ――あれが演技だとしたら、殺したコトリからスマホだけを取り上げて浴室内に放り込んでおくことだって考え付くはずだ。

 二人分のスマホを拾ってから足早に部屋を出る。ジャマーを入れた。奥へと進み、黒川や聖一が上ったであろう階段を見上げる。雨の音しか聞こえない。少なくとも、近場で乱闘になってはいないようだ。

 はやる気持ちを抑えて二階に向かう。

 最後の一段を上り終えたとき、屋敷の反対側にあるもう一つの階段を上ったことを思い出した。あのときはもう少し慎重だった。もし今、黒川が階段の上で待ち伏せをしていたら、あっさりとやられただろう。

 ――慎重に動きつつ、できるだけ早く二人と合流しなきゃ。

 相反するような目標を胸に歩き出す。やはり雨のせいで音からの情報には頼りきれないため、スマホの明かりをつけて進むことにした。ジャマーをつけているのでピスガでの居場所探しは不可だが、光が見える範囲でなら司の居場所は見つけられやすく、また司からも周囲の様子がうかがいやすい。諸刃の剣ではあるが、二人と合流するうえでは目立つ方がわずかにメリットは上だと判断してのことだった。

 階段を上がり終えると、右に向かって長い廊下が続いている。左は窓のある壁だ。

 ――やっぱりこの建物、左右対称なんだな。

 頭に思い描く。もう一つの階段から上ったときも全く同じだった。二階の廊下はHの形をしており、それぞれの先端四か所には窓がある。

 廊下を進むと、右の壁にドアがあった。一階に降りる前に通ったときは気づかなかったが、やはりこの先にはもう一部屋あるのだろうか。

 部屋に入るべきかと考えながらドアに近づいていく。低い声が聞こえた。

 中に、誰かがいる。

 抑揚のない声が休みなく響く。誰かと会話をしているわけではなさそうだ。耳を澄ませて近づいていく。ほぼドアに耳をつけるほどの距離になったとき、司はようやく理解した。

 ――お経……?

 ドアの中の人物は、ひたすらに念仏のようなものを唱え続けていた。それが果たして正しい経であるかは司には分からない。呪いの呪文だと言われても頷けるほど、陰鬱で禍々しい響きがあった。

 からからの喉へ向けて唾を飲み込む。

 そのわずかな音で、声が止んだ。

 ――気づかれた……?

 唐突に途絶えた声は二度としなくなった。動けない。呼吸すらためらわせるほどの緊張感だ。早まる心音が気取られてはいないかと不安になる。

 ――誰だろう。

 聖一やコトリではない。声は男のように低いうえ、しわがれていた。

 ここは妙法寺家の家ではなかったのか。この部屋の反対側に位置する場所で見たファイルには「妙法寺家当主は代々未婚の女性であることがしきたり」と書かれていた。だとしたら、今の声の主は紗雪の父ではない。峰子の母親も人形師だったのだろうから、祖父すらもいないはずだ。

 ――この家自体が幻だとしても、この声の主にはモデルがいるはずだ。

 もっとも、聖一は「この家が幻」であることさえも否定していた。そうすると警察に言われた「妙法寺邸は三年前に焼け落ちた」という話と食い違うため、司は賛同できない。「霊によって、能力の種類や高低が存在する」という持論は分からなくもないが。

 紗雪が空間すらも作り出せる稀代の悪霊であるならば、司では太刀打ちできないのかもしれない。それでも無抵抗のまま死を受け入れるのは嫌だった。それが弟や友人にまで及ぶのならなおさらだ。

 汗ばむ手でドアノブをひねる。

 蝶番がか細い悲鳴を上げた。念仏はもう聞こえない。入口に立ったまま、スマホのライトを部屋に巡らせた。

 じゅうたん敷きの部屋は展示室のようだった。

 壁沿いには腰の高さほどの棚があり、その上に人形が腰を掛けた状態で並べられている。部屋の中央には点々とガラスケースが配置されており、司がすっぽりと中に入れるほどの大きさだ。

 ガラスに反射した光に目を細める。久しぶりの強い光だ。その先に目を凝らすと、中の女と目が合った。

「わ……!」

 とっさに口を押さえた。理性では分かっているのに、実際に顔を合わせるとどうしても驚いてしまう。

「に、人形か……」

 今までに作ってきた作品の在庫置き場だろうか。しかし綺麗すぎる。よほど自分の作る人形に愛着があったのだろうか、誰かに見せることを意識しているかのような部屋だ。

 中の人形は端正な顔立ちの成人女性を模していた。等身大サイズだ。口元をわずかに綻ばせ、澄んだ視線を向けている。やや古いデザインではあるが、マーメイドラインのウェディングドレスを着て佇むさまは、なるほど結婚を控えた新婦そのものだ。

 部屋の中央に四つ並んだガラスケースは全てが等身大の人形だった。壁沿いのものは全てそれより小さいサイズだ。

 ――ケース内の人形は、人形婚用?

 小さな人形は完全に趣味で作ったのだろうか。それとも普通に販売するためのものか。コトリは妙法寺峰子を知っていたし、一流の人形作家だと言っていた。村で人形婚用の人形が売れなくても、美術品として外部の人間に売ることで生計を立てていたのかもしれない。

 奥のガラスケースも確認する。三体とも妙齢の人形だった。女性はドレス、男性はスーツを着せられている。暗闇の中で彼らを照らすと、生きているかのような生々しさがあった。長いまつ毛が今にも瞬きをしそうだ。

 ――でも、ここには人形しかいない。

 あの声は何だったのだろう。間違いなくこの部屋からだった。だとしたら、誰が。

 ――早く、ここを出よう……。

 コトリたちがいないのならもう用はない。長居はしたくなかった。先ほどから、神経を逆なでされるような居心地の悪さを感じていた。

 踵を返して早足でドアに向かう。ガラスケースが強張った司の顔を映していた。一番最初に見た女性人形のケースだ。司は目を凝らす。違和感があった。部屋に入って初めて見た時と同じ立ち姿だ。

 人形は司の方を向いていた。

「え……?」

 思わず立ち止まる。後ろ姿でなければいけないはずだ。当然ながら動かせるような誰かはいない。ケース内の物に手を触れず動かすなど、この場にいたとしてもできない。

 慌てて周囲を見回す。先ほどと同じく、無数の人形に取り囲まれている。背後で、ケース越しに男性人形が恨めしそうな目を向けてきた。婚礼用の花婿が、あんな表情で作られるだろうか。

「……サダメ……ヨリ……ミタチ」

 まただ。抑揚のない呪文が、部屋の隅からにじみ出るように聞こえてくる。

「トツギ……イヤワザ……オコナワントス」

 声が揺らいでいる。老人の声から女の声へ。女の声から幼女の声へ。

 その主が老いた女性ではないかと思いついた途端、粘ついた、老婆がへつらうような声が背後からした。

「――地獄デ 私ト 添い遂ゲマショウ――」

 総毛立った。

 バランスを崩し、壁際の棚にぶつかる。大きな音を立てて人形が落ちた。床に仰向けに転がった人形は、首をねじって司を見上げている。

「ひっ……!」

 前に転んだ。痛みは感じない。司は顔を上げた。どこを見ても、おびただしい人形の群れだ。

 全ての目が司を見ている。

「うわああああっ!」

 落としたスマホが転がった。数歩先で天井を照らしている。

 パリパリという音とともに、光の粒が落ちるのが見えた。右上で透明な破片が零れ落ちている。ガラスケースだ。内側から、何かが殻を破ろうとしている。

 光は真上のみを照らしているためにケース内は見えない。見えないが、ガラス片はとめどなく零れ落ち続け、それは孵化しようとしている。

 ――何が。

 司は動けなかった。四つん這いでいるのもやっとだ。手を伸ばしてスマホを拾うことよりも、アレのそばに手を伸ばすことの恐怖の方が勝った。

 乾いた音が止む。

 代わりに聞こえたのは、ガラスを踏む音だった。ごく低い位置で空気が動く。

 何かが、司のすぐわきに立った。床についた手の、ほんの十数センチ先だ。

 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ……。

 黒い塊が佇んでいる。分かっているのに視線を上げることができない。情けないとさえ思わなかった。圧倒的な恐怖が、司を赤子同然にしていた。

 どん、と床が鳴る。

 ボールのようなものが目の前に落ちた。重たげなそれが転がって、司の視界にねじ込んでくる。ごろりとこちらを向いたのは、頭だ。

 女の頭が、未練ありげに司を見上げている。

「ひゃあっ!」

 仰向けにひっくり返った。長い黒髪が纏わりついたそれは、人間のものではない。あのガラスケース内の人形のものだ。けれど司にとっては奈々雄の亡骸より恐ろしい。彼はもう、二度と動かないのだから。

 黒い革靴が生首を踏み潰した。

 いきなり現れた足に、またしても司は縮み上がる。

 呆れたようなため息が上から聞こえた。

「情けない」

「え……あ、あ、せ」

 聖一だった。

 革靴の下の頭部はもう動かない。最初に見た柔らかな表情に戻っていた。踏まれたままなのが不憫になるほどだ。

「こんな低級なものに驚いてあげているなんて」

「ふ、普通に声かけてよ……」

 ようやく司の体の力が抜けた。抜けたまま戻れなくなりそうだった。

「死者が多いんですよ。その分向こう側には人手が多い。だけど、全員が有能というわけではありませんから」

「え? え?」

「少なくとも四人は殺されてるでしょう?」

 脳みそがのろのろと動き出す。アスカと奈々雄、そして身元不明の死体が二体。確かにこの屋敷では、四人の命が奪われていた。

「人が恨みや未練などの負の感情を残して死んだ場合、この世に留まって悪さをすることが多いんです。場所や人に憑いたりで、憑依対象からあまり離れることはできませんが。霊によっても能力に差がありますから、大して力のない霊は、こんな風にモノに憑依するか、上位の者に取り込まれて利用されるのがオチでしょう。悪霊としては、利用できる者の数は多いに越したことはない。だから殺すんです」

「悪霊……紗雪ちゃんが?」

「状況的にはそうでしょうけど、勘違い田舎娘にしては予想外に手ごわい感じです」

 まだ言うか。

 よほど気に食わないのだなと思いながら、司は転がっていたスマホを拾う。まだ鼓動は少し早いが、随分と落ちつけた。

「聖一って霊感あったんだ?」

 ふと疑問が口をついた。双子なのに、司にはないからだ。

「期待しないでください、付け焼刃です。それよりコトリさんは?」

「え? あ、そうだった!」

 すっかり説明を忘れていた。先ほどのことを簡潔に話すと、驚く様子もなく聖一が返す。

「それではもう望み薄ですね」

「いや、まだ分からないってば」

 聖一がわざとらしく嘆息する。往生際が悪いとでも思っているのか。

「そういえば、さっきはどこ行ってたんだよもう。心配してたのに」

「黒川のことが気になったので」

「ほんとに?」

 黒川を追いかけたということだろうか。それにしては、黒川よりも先に聖一の方が姿を消していたので辻褄が合わない。

 それを追求しようか迷っているうちに、聖一は言葉を続けた。

「あの男は手駒です。ただの依り代であって本体ではない。目指すべきは、この状況を作り出した元凶を探し出すことです」

「どうして黒川先輩は依り代になったんだろうね」

「手近にいたからじゃないですか。呪いのそばにいて、心の隙間さえあれば、結構あっさりと入られるものです」

「じゃあその呪いの元凶って何? 人形とか?」

 辺りを見回す。これが何かの呪いなのだとしたら、このうちのどれかが呪われているのだろうか。しかし聖一はきっぱりと言い切った。

「この部屋からはさっきの霊以外の気配は感じません。人形だとしても、どこか別のところにあるものでしょう。そして多分、黒川がそれを守っている」

「先輩は今どこ? 聖一は途中まで追いかけてたんだよね?」

「それが……見失いました」

 聖一が視線を斜め下に逸らした。

「しかし、ピスガがあるので居場所を突き止めるのは問題ないでしょう」

「そんなことないよ。先輩は今二台のスマホを持ってる。もしかしたら奈々雄のも持ってっちゃってて三台になってるかも」

 一階ではそれで失敗したのだ。からくり人形によって動いているスマホを黒川自身だと誤認し、危うく後ろからやられるところだった。

「しかし、そう考えるならコトリさんはまだ無事なのではないですか? 俺が黒川なら、わざわざ死体からスマホを抜き取って別の部屋に持ち運んだりはしません。死体とスマホをセットで置いておいて、それを司に見せた方が、より効果的に隙を作れるでしょう」

 確かにそうだ。

 黒川は発狂したような状態にもかかわらず、からくり人形で司たちを欺いた。それなりに頭が回るのだ。もしすでにコトリを殺しているとすれば、これほど司たちの心を乱せるものはない。しかし実際にはバスルームに彼女の死体はなかった。

「先輩は、まだコトリを見つけてないんだ」

 思わず目を輝かせた司に対し、聖一は付け加える。

「むしろこの作戦を最初に考え付いたのは彼女の方かもしれません。停電後にスマホをあの部屋に仕込み、自分は違う場所に隠れる……。いろいろと使えるスマホを手放すのには相当の勇気がいりますが、確かにメリットもあります。英断かどうかは分かりませんが、随分と大胆ですね」

 今までの動きが見えてきた。

 停電後、司はアスカの死体がある部屋に隠れ、それを黒川が追ってきた。部屋中を調べても見つけられなかった黒川は、来た道を戻り、今度はバスルームへと向かう。その時点で、すでにコトリはバスルームにスマホを置き終えていたはずだ。事前にチェックしたピスガのポイントの位置を覚えていたために、ピスガが使えずとも向かえたのだろう。

 司が二階に上がり、最初に入った部屋で一一〇番通報をしていたときには、電波が入るようになっていた。もし黒川がこまめにスマホをチェックしていたなら、この時点で司たちの居場所を全て把握できたのだろう。そして、奈々雄に狙いを定めた……。

 殺害後、黒川は次の獲物を探したはずだ。しかしその時点でジャマーは司の手に渡り、スイッチが入れられていた。黒川は、先ほどピスガの画面にポイントされていたところに向かう。司は通報した部屋から移動していたため、もし黒川が向かっていたとしたら空振りに終わっていただろう。一方でコトリのスマホはバスルームに残されたままだ。黒川は彼女のスマホだけを見つけ、またしても獲物を捕まえ損ねた。そこで考える。自分が騙された方法で、今度は司たちを騙せないか、と。

「コトリは、僕たちのことを待ってるんだと思う」

「もし生きてるならそうでしょうね」

「そうじゃなくてさ。ただ電源を切るだけじゃなくてスマホ自体を手放したのには目的があったからだよ」

 聖一がついと片眉を上げる。

「ピスガがジャマーで使えなくなるってことをコトリは知らなかった。だから、黒川先輩も僕たちも、停電後はピスガを使って居場所を探り当ててくるって予想したんだと思う。先輩はコトリを殺すために、僕たちはコトリと合流するために」

「敵も味方ももぬけの殻のバスルームに向かう、と」

「そう。先輩との接触を避けて僕たちとだけ合流するために、コトリはスマホを手放したんだ。つまり」

 弟の訝しげな目を真っすぐに見据える。

「コトリは、バスルームに向かう人が誰かを観察できる場所にいる」

「馬鹿な」

 聖一が即座に否定した。

「この暗闇ですよ。どこにいたってそんなことできません」

「僕たちだってそうだよ。暗闇の中を明かりもつけず歩き回るなんてできない。周りから見つからないように気を付けながらも、足元くらいは照らすんじゃないかな」

「……なるほど」

「コトリは服装にはこだわりがあるみたいだし、僕たちの靴やスーツの特徴を覚えてるかもしれないね。足音でもある程度予測できそうだし」

「スマホの電源を切ったまま持ち歩かなかったのはなぜでしょうか」

「確実に僕たちと合流するためだと思う。コトリのスマホはいわゆる誘蛾灯の役割を果たしてるんだ」

「皆をあの場所におびき寄せる、と」

「車のキーを持ってるのはコトリだけだ。だから責任を感じてた。自分だけが先に逃げださないように、みんなと合流して車に乗せてあげられるようにって」

 彼女の性格を思い出す。頑張り屋で責任感が強い、しっかり者だ。

「聖一。本当に玄関のドアは開かないんだね?」

「まだ疑ってたんですか。逃げ道はちゃんと封じられてますよ、俺の力でも無理でした」

「もしそのことを知らなかったら、やっぱり一度は玄関のドアを開けようとしてみるよね」

「でしょうね」

「だとしたら、玄関も見張っておこうと思うだろうな。うーん。玄関も、バスルームに向かう人の姿も見張れる場所……」

 口元に手を当てて考える。

「……あ!」

 二人の声は同時だった。



***



 一時的にジャマーをオフにし、黒川が二階の反対側にいることを確認した。青黒い手が出てきたあの部屋だ。

 再度ジャマーを入れて迅速に階段を降りる。少し前に上ってきたばかりの階段だ。

 ――さっきも僕たちはここを降りた。そしてバスルームに向かった。なのにコトリは、僕たちの前には現れなかった。

 それはなぜか。思いつく理由はひとつだけだ。

 ――僕たちに気づかなかったんだ。

 司たちはこの階段から降り、バスルームに向かって、黒川と揉み合いになった。おそらくコトリはこの騒ぎで初めて司たちの存在に気付いたはずだ。しかし交戦中では、とても出ていけるはずがない。そして戦いが終わると、司たちはすぐに二階に戻ってしまった。コトリは出られずじまいだ。

 ――バスルームも玄関も見張ることができるけど、あのときの僕たちには気づけない場所……。

 この屋敷に初めて足を踏み入れたときのことを思い出す。

 テニスができそうなだだっ広いホール。

 正面奥にある、作り付けの暖炉。

 暖炉を挟むように廊下が奥の方へと続いている。

 奈々雄が最初に開けようとしたドアは開かなかった。

 たとえホールに面する部屋に隠れたとしても、玄関を見張るためにはドアを少し開けなければいけない。もし薄く開いたドアの隙間が黒川に見つかったら怪しまれる。

 ――だとすればもう、あそこしかない。

 しかし司は解せないでいた。かなり危ない隠れ場所だ。コトリには司の思いつかないような勝算があったのか。それとも、意を決して危ない橋を渡ったのか。

 思案している間にホールに戻ってきた。ジャマーは作動させたままなので司たちの居場所は黒川に見つかってはいない。しかし、今でも彼が二階をさまよっている保証もない。

 ――できるだけ早く合流しなきゃ。

 焦る司の横に聖一が並んだ。足取りに迷いはない。向かう先は同じだ。その事実がとても心強い。

 同時に立ち止まった。

「着いた」

 二人は、暖炉の前にいた。

「……コトリ、いる?」

 声を潜めて呼びかける。

 レンガでアーチ状に囲まれた炉は、四つん這いにならなければ入れない程度の大きさだ。黒くぽっかりと開いた口に、扉や柵は設置されていない。小さな少年少女の人形が相変わらず上に置かれていた。

 闇の中を照らす。

 大きな潤んだ目がきらめいた。

「司っ……!」

「やった……コトリがいた!」

 胸の奥が熱くなる。生きていた。暗闇の中で彼女は必死に生き抜いてくれた。

「来て」

 コトリは司の手を握り、思い切り引っ張った。突然だったので前のめりにバランスを崩す。額が暖炉にぶつかった。

「鈍い音がしましたね」

「痛っ、ちょ……なに」

 コトリは全く気にしない様子でグイグイと引っ張り続ける。ついに司はすっぽりと暖炉の中に入った。


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