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冥婚ドヲリズム  作者: 三石メガネ
8/13

海士坂 司

 ――あれ?

 ぎくりとして立ち止まる。頼りない光の輪の端に足が見えた。

 数メートル先、右の壁際に、何者かがじっと佇んでいる。

 ――だ、誰が……。

 一気に緊張が走る。直立したまま微動だにしない。暗闇の中を光で照らしたのだから相手はもう気づいているだろう。それなのに、反応がないのだ。

 ――まさか、黒川先輩が。

 けれど足のサイズがそれほど大きくは見えない。女性だろうか。

 ――コトリ? だとしたら、なんで動かない?

 反射的にアスカの姿を思い出す。もしかして、コトリまで。確かめなければいけないのに、一歩が踏み出せない。身体が強張り、冷や汗がにじむ。

 ――そう何人も、簡単に人が死ぬなんてことは……。

 アスカが死んだのだって信じられないくらいなのだ。司にとって、死はそれほど遠い存在だった。だがそれも、昨日までの話となった。

 司は歯を噛みしめた。ぎこちない足取りで近づいていく。

 次第に、横を向いた人物の立ち姿が浮かび上がる。小柄な男性だ。黒いスラックスに赤茶色のカッターシャツ。張りのない筋張った首。俯いた顔は前髪で隠れている。

「あ……あの」

 話しかけながら近づいていく。やはり反応がない。逃げ出したい気持ちと闘いながら、司は正面に回り込んだ。手を伸ばし、斜め下から照らす。仮面のように白い顔が、濃い陰影とともに晒された。

「あー……」

 腑抜けた声が漏れる。つるりとした肌は作り物だ。赤く塗られた唇も、長いまつ毛に縁どられた伏し目も。とてもリアルに再現されてはいるけれど、これは人間のものではない。

 ――そりゃあ人形師の家だしね。

 へなへなと脱力する。息を忘れるほど緊張していたのが馬鹿のようだ。等身大の人形ならば先ほどの部屋にもあったのに。すっかり気の抜けた司は、膝に手をついて腰を折った。がっくりと頭を下げて細く息を吐く。

 その拍子に、頭が人形にぶつかった。

 あ、と思ったときには遅かった。人形は押され、すぐ後ろの壁にぶつかる。後頭部を打った拍子に、人形の顔から何かが剥がれ落ちた。

 カラン、と甲高い音を立てる。

 それは仮面だった。なんて脆い人形なんだろうと司は思う。適当なマネキンにでも被せてあったのだろうか。こんな女性的な面を男性のマネキンに被せるなんて本当に適当だ。

 ――音、聞かれてないかな。

 慌てて辺りを見回したが大丈夫そうだった。床を見ると仮面が落ちており、裏側が上を向いている。

 皿のような丸みを持つそれは、黒ずんだ汚れがまだらに付着していた。

 ――この汚い汁、なんだろう。

 目を上げる。人形はのけぞるようにして壁にもたれかかっていた。バランスが崩れつつある。ずずず、と後頭部が音を立て、ゆっくりと床に傾いていく。

 肉色の顔が笑っていた。

 人形ではない。それは『人間だったもの』だ。

 額から顎にかけての皮が剥がされている。赤黒い仮面をつけているようにも見えた。開いた口は笑っているようにつり上がっている。眼球はすでに白濁し、瞳は膜が張ったようにぼやけていた。最期にあの目が映したのは、一体どんな光景だったのだろう。

 バランスを失った身体が、加速度的に床に引き寄せられていく。そしてついに横倒しとなった。

 固く湿った音が、雨音に負けない大きさで辺りに響く。

 折れた歯がカラカラと笑うようにはじけ飛んだ。人形のように固い身体は、おそらく死後硬直を起こしているからだ。カッターシャツも元から赤茶色ではなかったのだろう。変色した裾から、ぶよぶよとした赤紫の塊が床に垂れた。

「……う、あ」

 尻もちをついたまま後ずさる。黒川にこの騒ぎを聞かれたかもしれないという危機感は頭から消し飛んでいた。目の前にあるまぎれもない事実に、ただただ圧倒されていた。

 ――また、人が、殺され……。

 限界だった。

 ろうそくの火を吹き消すように理性が飛ぶ。合理的な考えはできなくなっていた。濁った目玉が司を見ている。あらかた歯の折れた口は老婆のようだ。一皮分薄くなった頬の上で、蠅が細かく身体を揺すっている。それが卵を産み付けているのだと理解したとたんキィンと耳鳴りがして、司は耐え切れずに絶叫した――

 はずだった。

 大きな口を開けたまま、叫び声が行き場を失う。死体のように冷たい手が、司の顔半分を抑え込んだ。鼻も口も完全にふさがれている。司は息ができないまま、必死に逃れようと身をくねらせた。

 ――黒川先輩……!

 音を聞きつけてきたのだろう。このまま殺されるのか。手を剥がそうにも敵わない。両手の爪はカリカリと、撫でるように皮膚を滑るのみだ。

 顔が熱くなる。頭がぼうっとする。いくら暴れてもびくともせず、後ろから抱きすくめるように抑えつけられたままだ。

 涙があふれ出す。

 司は死を覚悟した。

「――俺です」

 出し抜けに耳元で囁かれた。若い男だ。黒川にしては声が柔らかい。

「いい加減落ち着きなさい。あと、引っ掻くのやめてくれませんか」

 ――え……?

 はたと正気を取り戻す。抵抗をやめると、ようやく拘束が解かれた。久しぶりの空気に荒い呼吸を繰り返しながらスマホを拾う。振り返って声の主を照らした。

 聖一だった。

「お前はよくこんな状況で騒げますね」

 眩しそうに目を細める。驚くほど平静だ。

「聖一っ、良かった、無事だったんだ……!」

「とにかくこちらへ。話はそれからにしましょう」

 手を引かれ、死体の前を去る。無事だったのだ。ついさきほどまでは当たり前だった光景に感動すら覚える。よく見知った弟がひどく頼もしい。

 聖一は突き当たるまで直進した。ここにも階段脇と同じ窓がある。その手前左にドアがあった。聖一は立ち止まり、司の顔を見る。

「開けてください」

 言われた通りにドアを開ける。びくびくしながら真っ暗な部屋の中に入った。生臭いにおいが鼻を突く。

「鍵を閉めてください」

 ――ここも鍵がかかるんだ。

 急いで施錠する。鍵と聖一の存在に安堵した。しかしすぐに先ほどの死体を思い出し身震いする。あそこでも人が死んでいたということは、司よりも前に黒川が来ていたということだ。時間が早かったなら鉢合わせしていたかもしれない。運が良かったのだ。司も、そして聖一も。

「ほんとに、無事で良かった……」

 その言葉を無視し、聖一は部屋の奥へと進んでいく。

「よくこの部屋が安全だって分かったね。調べてあったの?」

 スマホのライトをぐるりと回す。十畳ほどだろうか。右には大きめの窓があり、左手奥にはダブルサイズのベッドがあった。ドアのすぐ左にはテレビとテレビ台がある。カーテンなどのファブリックは落ち着きのある色味とデザインで統一されていた。

「誰の部屋かな。紗雪ちゃんにしては地味すぎるから、ご両親?」

 聖一はベッドわきに置かれたチェストの前に立った。

「あの女は母子家庭ですよ」

「そういえばさっき読んだファイルに『人形師は代々未婚の女性じゃないと』みたいなこと書いてあったっけ」

「そんなことより、これをドアの前に運んでください」

 聖一が顎をしゃくってチェストを指す。小ぶりとはいえ一抱えもある。

「え、なんで?」

「いいから動く」

「せめて手伝ってくれない?」

「駄目です」

「えー、なんで……」

 言いかけて思い出す。

 ――そういえば、さっき怪我してた。

 黒川ともみ合った際、少なくとも頬は切られていた。見る限り元気そうだが、大丈夫だろうか。運べないということは、手も切られたのか。

「テレビ台も使いましょう。ほら、さっさと動きなさい」

 司の思いをよそに、聖一は反対側の壁にあるテレビを台から降ろすよう命じた。このテレビ台も一人で引きずって運び、チェストの上に乗せる。簡易的なバリケードが完成した。

 部屋の右手前には作り付けの棚があった。そのわきに置かれた満タンのゴミ箱を見て、ついさっきまで人がいたかのような生活感を感じる。警察には、存在すら否定された家なのに。

 司は部屋の奥へと進んだ。ベッドに近づいたところで、足が止まる。

「聖一……あれって」

 乱れたベッドには、何かがのたうち回ったような血の跡があった。すでに変色し、焦げ茶色になっている。

 司の心が再び重苦しくなった。嫌でも連想せざるを得ない。断末魔の狂騒がまざまざと思い浮かぶ。

 ――ここ、殺害現場なんだ……。

「先ほど廊下にあった死体のものではありませんよ。残念ながら、と言うべきか分かりませんが」

 司の考えを見透かしたように聖一が言った。

「え?」

「この部屋の主のものです。あのベッドの下に押し込められてました」

 なんの話か理解ができなかった。布団はずり落ちかけており、床とベッドの隙間をカーテンのように隠している。小柄な者なら、その奥に潜り込んで隠れられそうだ。

「もしかして……紗雪ちゃんのお母さん? 今も怖くて隠れてるってこと?」

 違うだろうと思いながらも言った。当然のように聖一は首を振る。

「どちらも不正解です。妙法寺峰子とは別の、痩せた中年女性でした。あと、隠れているのではなく『隠されていた』のです」

 生唾を飲む。言葉の真意を問う声が出せない。

 はっきりと認めたくない司に向かって、聖一は駄目押しをする。

「つまり殺されていたということですよ。腐敗具合から言って、ほかの死体よりもかなりの時間が経っているものと思われ――」

「ちょ、ちょっと待ってっ」

 反射的に引きつった笑みを浮かべる。司はそんな自身の反応に戸惑った。なぜこんなときに笑えるのだ。廊下の死体も、死の直前に同じことを思っただろうか。

「なんなのそれ。誰? なんで……それに、聖一」

「何を聞きたいのかわかりませんが、疑問に思うならお前も見たらどうですか」

「聖一はさ……なんで、そんななの」

 口の中は乾ききっているし、指先も痛いほどに冷たい。対して、なぜ弟はこんな態度なのか。

「何に対しての質問でしょう」

「ひ、人が死んでるんだよ。アスカさんも……廊下にも、ベッドの下でだって……なのに」

「それで全部ですか?」

 冷ややかに訊き返す。見定めるように司を見つめたのち、ふと視線が逸れた。

「ならば建設的な話をしましょう。俺の感情表現について話すのはそのあとでもいいはずです」

 聖一が正しいのは分かっていた。司だって二人して絶望したかったわけではない。ただ弟の反応には強い違和感を感じていた。恐怖も動揺もない。生ける人形のように。そして、言葉までも。

 ――聖一は、本当に聖一なんだろうか。

 不安に襲われて弟を見る。けれどその顔を間近で照らす勇気が出なかった。声も姿も言葉遣いも、間違いなく聖一だ。なのに今まで感じていた彼なりの人間らしさが、この館に来てから薄れたような気がする。

 今、司が見つめているのは闇だ。けれど生まれる前から見知った顔がそこにあるはずだ。照らせばわかる。

 司は左手のスマホをかざした。

「近すぎです。もっと離しなさい」

 聖一が眩しそうに顔を背ける。迷惑そうな表情はいつもの彼だ。顔色は優れないが『怪我ひとつ』ない。

 無事な様子に安心するも、いまだ違和感を感じていた。なぜ急に変わったのか。それは何に由来するのか。

「あのさ」

「はい?」

「聖一は、聖一なんだよね……?」

「おかしくなりました?」

 長い指先でこつこつと自分のこめかみをつつく。この言動は実に弟らしい。

「だってさあ。さっきからおかしいことばっかりだったし……」

 言い訳をするように今までの出来事を話す。

 窓ガラスを割ろうとしたときに見た女の顔も、机の下から現れた青黒い手のことも。馬鹿なことをと鼻で笑われるかもと司は思ったが、聖一は真面目な顔で口を挟むことなく聞いてくれた。

「……極めつけは、一一〇番したときだよ」

 妙法寺邸は三年前に焼け落ちたこと。

 そのときに妙法寺峰子が死んだこと。

 この場所が、すでに更地となっていること。

「ああ、俺も電話しましたよ。同じく警官にイタズラを疑われました」

「やっぱり聖一も? 警察の人、さっき同じ電話がかかってきたみたいなこと言ってたんだ」

「俺だけでなく、今までにも何件か立て続けにあったそうです。妙法寺邸跡地で幽霊に襲われた、助けてくれ、って」

「本当に?」

 信じられなかった。ないはずの家に、こうして司たちは囚われている。何度も通報があったということは、それ以前にも同じ状況に陥った人間がいたということだ。廊下とベッドの下にあった死体はそのときの犠牲者なのだろうか。

「そして現場に駆け付けると誰もいない。こんなことが数回あったようで、警察にはバカな学生のあいだで流行ってるイタズラとでも思われてるでしょうね」

 言い終えると、聖一は淡い光の中で気まずそうな顔をした。

「……もうとっくに気付いているでしょうけど」

 そう前置いて白状する。

「ジャマーを隠し持って電波障害を引き起こしたのは俺です。死体発見直後に切って通報しました」

「そのあと、黒川先輩から僕を守るためにまた入れてくれたんだよね。ありがとう」

「……お前にこれを」

 聖一がポケットから出したジャマーを差し出した。形状はスマホだが、側面についているボタンの数が多い。さらに表面は赤黒い液体でべとついていた。

「血……? こんなにたくさん」

「早く仕舞いなさい」

 鬱陶しそうに急かす。誰の血なのかが分からないまま、司はポケットに仕舞った。

「でも僕より聖一が持ってた方が良いんじゃない? 慣れてるだろうし」

「スマホとジャマーはセットで持たないと効果的に使えません。俺は失くしてしまったので」

「え、そうなの?」

 黒川と争ったときに落としたのだろうか。

「あとひとつ懸念があります。今電波は入りますか?」

「え? あ、入らないよ。ジャマー入れてるからでしょ?」

「一瞬だけ切って反応を見てください。ここです」

 言われたとおりにスイッチを切る。しかし、スマホの画面には何の変化もない。

「……どういうこと?」

「見てのとおりです。今現在電波が入らないのはジャマーのせいじゃない」

「え? じゃ、なんの……」

「先ほどお前が通報したとき、途中で会話がおかしくなったそうですね。その時点からもう電波に干渉され始めていたのかも知れません」

 つまり、電話で助けを呼ぶという手段は断たれたということか。

 焦燥に駆られていると、聖一が鋭く言う。

「司、早くジャマーのスイッチを入れてください」

「え、なんで? もう電波は入らないのに」

 意味が分からないままスイッチを入れる司に、聖一が呆れた声で説明する。

「知らずにインストールしたんですか。近距離ならばBluetoothを使うのでピスガにネット接続は必要ありません。つまり、電波が入らないからと言って放っておけば、自分の位置情報を垂れ流すことになります」

「ええっ?」

「ですからまだジャマーは使えますよ。このことに気付いていない、ほかのお友達の身を隠すためにも」

 司はポケット越しにそっとジャマーに触れた。こんなこと、聖一に教えられなければ気付けなかった。もし黒川が気付いていてコトリや奈々雄が気づいていない場合、ジャマーがなければ相当不利になっていただろう。

「それにしても」

 聖一が話題を変える。

「この家自体が存在しないということなどあるのでしょうか」

「うーん。分かんないけど、警察のひとがそう言ってたしなあ」

 司は、ガラス窓を叩くと同時に現れた血しぶきを思い出す。確かに見たと思ったのに、幻のようにすぐに消えた。

「やっぱり、この家も幽霊の作った幻とか?」

 納得いかない声で聖一がうなる。

「死んだ紗雪の霊がこの事態を引き起こしたというのは分かります。怨念が男一人の精神を乗っ取るくらいは、まあ可能だとしましょう」

「僕が幽霊を見たって話、信じてくれるんだ」

「信じますが、この家自体も幻というのはちょっと。そんな大層な力の持ち主ならば呪い殺す方がよほど簡単でしょうし、なぜそんな回りくどいことをするのか分かりません。大体、たかが田舎娘の霊ごときにそこまでの力があるのかどうか」

「田舎娘は関係あるの?」

 なんだか単なる罵倒に聞こえる。

「傑出した能力が出現するときの母数の問題ですよ。死ねば全員が万能の力を得るわけではありません。あの女がそんな怨霊になる逸材かどうか疑わしいですし、もし逸材だったとしたって、力の種類による得手不得手があります。この屋敷も怪現象も黒川の異常も全てが紗雪によるものだなんて、完璧すぎるじゃないですか」

 なるほど、と司はうなずく。能力の種類や高低が存在するのは死んでも同じ、というのが聖一の主張なわけだ。なぜこれほど断定的に言うのかは分からないが。

「でも、完璧すぎる幽霊って可能性もあるんだよね? さっき読んだファイルに書いてあったけど、由緒ある家柄みたいだし」

 現実に、司たちはないはずの家にこうして囚われている。むしろこの状況は、紗雪が絶望的な力を持つ悪霊であることの証左と言えてしまうのではないか。

「あの勘違い女が、そんな有能だというのはねえ……」

 いまだ信じがたい様子で聖一が吐き捨てる。

「勘違い?」

「あのハンカチですよ。十一年前の」

「なんのこと?」

 聖一が驚いたように言葉に詰まる。

「……気づいていたかと思ってました」

 十一年前と言えば誘拐された年だ。

「家族旅行で滋賀に行ったとき、それぞれ柄違いのハンカチをおそろいで買ってもらったのを覚えていますか?」

「あ、思い出した。僕がのぞみで聖一がドクターイエローだったっけ」

 あの頃は二人とも新幹線が好きだった。

「そうです。ただ、それをちゃんと覚えていたのは俺たちだけでした。母さんが洗濯したあとのものを間違えて引き出しに仕舞うのは、当時よくあることでしたよね」

 それがどのような話と繋がるのか司には見えてこない。ただ紗雪の母に誘拐されたとき、しきりにハンカチについて感謝されたことを思い出した。当時八歳だった司にはなんの話だか分からなかったが、妙法寺峰子が母の友人だと名乗ったとき、自分のハンカチをいつの間にか持っていたくらいだから本当の話なのだろうな、と信じるには充分だった。

「当時、妙法寺紗雪はいじめを受けていました。教室の前で転ばされたところに出くわしたことがあります」

 罪を告白するように聖一は言った。

「紗雪にハンカチを貸したのは、俺です」

 ――だから、僕は誘拐されたのか。

 妙法寺母子に気に入られたからだというのは何となく分かったが、その理由についてはずっと知らなかった。事件後はとにかく両親がピリピリとして、妙法寺家に関することなど聞ける空気ではなかった。

「両親には言えませんでした。でも間違えられるのはよくあることだったので、司は気づいていたかと……俺が叱られないよう黙っていたのだと」

 聖一も落ち込んだように塞いでいたのは、家庭内の空気が悪いせいだと思った。とにかく自分だけは明るく努めねばと、幼かった彼は何も起こらなかったかのように振る舞い続けた。

「十一年前、誘拐されるべきは俺でした」

 けれど話すべきだったのだ。家族全員で誘拐事件に蓋をしたことが、かえって幼い聖一の心を苛んだ。言い出せなかったことが重荷となって、弟は心を閉ざしていった。

「誘拐も、今のこの事態も。本来、司にとっては何の関係もない出来事です」

「そんな……」

「勘違いから来た出来事でも、あの女は司を気に入ってしまった。だとすればこれは俺のせいです。友人の言葉に耳を貸さずあの女に関わったり、司のハンカチと気付かず学校に持って行ったりしたのは俺ですから」

「違う」

 即座に否定する。そんなものは到底落ち度とはいえない。

「ここに来るって決めたのは僕だし、紗雪ちゃんを助けたのは絶対に間違ってない。父さんがいつも言ってたじゃないか、困ってる人がいたら助けろって。女の子は弱いから、男が守ってあげるんだよって……」

「しかし――」

「もし僕が女の子を助けたり聖一のハンカチを気づかずに使ったりしたとして、聖一は僕のことを責めた?」

 司はその答えが分かっていた。聖一は責めない。こじつけて自分の責任にしてしまうことはあるかもしれないが。

「どうしようもないことだってあるよ。誰のせいでもない。だから今は前だけ向いとこう?」

 力強く笑いかける。同じ部屋には死体があるし、ほかにも怖いことはたくさんあったけれど。ここで笑うのは自分の義務なのだと司は思った。

「……そういうことにしておきましょう」

 ついと聖一が顔をそむけ、ドアの方を向いた。表情は見えないが、幾分声が柔らかくなっている。

「まずは使えそうなものを探しましょうか。終わったらジャマーを切って、ピスガで辺りの様子を調べてからここを出ましょう」

「だね。多分黒川先輩はまだスマホを持ってると思う。一階で僕のいる部屋に入ってきたとき、落ちてたスマホを回収してたから」

「部屋の左半分、ベッドのある側はもう俺が調べたので、右を調べてください」

 右奥の壁は大きな窓になっていた。淡いボタニカル柄のカーテンが引かれている。ドアの横になる右手前の壁には作り付けの棚があった。大小様々なサイズの木目調の扉が取り付けられている。

「タオルとかは残ってるけど……なんでこんなにスカスカなんだろ」

 中身はほとんど空だった。全体的に汚れていたり、隅に絆創膏のごみが張り付いていたりと、何かが入っていた形跡だけが残されている。

「胃腸薬に白髪染めにティッシュに……この大量の冊子は電化製品の説明書ですか」

「武器になるものは置いときたくなかったのかな。せめてハサミくらいあったら良いのに」

「大きい窓も近くにあることですし、投げ捨てたのかも知れません」

 司は窓の取っ手に手をかけてみる。やはり、押しても引いても動かない。

「じゃあいくらこの部屋を探しても無駄ってこと?」

「俺が紗雪でも、敵に利用されそうなものはあらかじめ排除しておくでしょうね」

 そりゃそうか、と司は肩を落とした。脱出ゲームのようにはいかない。

「それじゃもうこの部屋に用はない、よね」

「ですね。ジャマーを切ってピスガをチェックしましょう。ここを出るのはそれからです」

「わかった」

 コトリや奈々雄は無事だろうか、と司は思う。心配ではあるけれど、ようやく希望が見えてきた。一人の力は限られているが、男二人なら望みはある。相棒が聖一ならばなおさらだ。

 ――みんなで生きて帰るんだ。

 決心して、ジャマーをポケットから取り出そうとしたときだった。

 慌ただしい足音がした。

「な、なに……」

 ドォン、と激しくドアが鳴る。誰かが力いっぱい叩いたようだ。

「わ……!」

「うううううううううううううう」

 くぐもった唸り声をあげ、ドアが激しく殴打される。鳴り止まない二つの狂気が重なって、豪雨の音さえ掻き消える。

「な、なに――」

「静かに」

 聖一が耳に口を寄せ、小声で告げる。

「拳では突破できません。それより、気配を悟られないようにしなさい」

 ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン!

  チェストとテレビ台のバリケードを隔てて、ドアは今も鳴り続けている。がちゃがちゃとノブがひねられ、ノブごとドアを揺すられて、また殴打だ。そのあいだじゅう男の唸りは途切れることがない。

 ――ど、ど、どうしよう……!

 脳にまで拳を叩きこまれている気分だった。今にもドアが外れそうで、気が気でない。思考はまとまらず、落ち着くこともできず、視線をあちこちに走らせては、焦りばかりが募る。

 それでも司は本能的に、命の危機とは別種の胸騒ぎを感じていた。対して弟は、何かを見定めるように落ち着き払っている。

 ――なんだろう、この感じ……。

 正体不明の不安にますます焦る。

「聖一――」

 ダァン!

 ひときわ激しい音が響く。骨が砕けんばかりの一撃だ。

 聖一の手が後ろから伸び、司の口を封じた。もう一つの手は拘束具のように司の両腕と胴を押さえる。

 ――な、何で?

 問おうにも声が出せない。突然のことに驚き身じろぎするが、固い腕は頑として司を離さなかった。

 混乱する司の前で、再びドアが激しく揺さぶられている。男の唸りはいよいよ極まり、声が裏返ったように高く哮った。そこにあるのは狂気というより悲愴感だ。

 ――……まさか。

 司は飛び出そうとした。

 聖一の足を踏みつけ、みぞおちに肘鉄を入れる。今すぐドアを開けたかったが、聖一の力には敵わなかった。どれだけ引きはがそうとしてもびくともしない。息ひとつ乱れさせず、恐るべき力で司を抑えつける。

 室外で、ひときわ大きな咆哮が上がった。

 長い。とてもとても長かった。精神を削るような絶叫が、尾を引きながら弱く細っていく。

 嫌な予感が現実味を帯びた。

 しかし司は何もできない。後ろから拘束され、声も出せないまま立っているだけだ。

「……司、もう……」

 耳元で低められた声が囁く。その沈痛な響きに、司はとうとう確信した。

 ――聖一は知ってたんだ。

 何が起こっているのかを正確に理解していた。おそらく、司よりも先に。

 ――あれは…………、奈々雄だった。

 ドアの向こうは不気味に静まり返っている。思い出したかのように、雨の音が屋敷を満たす。かすかな足音はすぐに聞こえなくなった。スマホをいつの間にか落としたので、一メートル先すら見えない。

 司は、あのドアの向こうにはどんな光景が広がっているかを悟ってしまった。

 ――奈々雄は黒川先輩から逃げてたんだ。

 おそらく喋ることができないまでに痛めつけられていたのだろう。顔の皮を剥がされかけていたのかもしれない。鬼気迫る唸り声からは、男だということは分かっても、すぐに奈々雄を想像することができなかった。

 傷を負いながらも逃げた彼は、行き止まりとなった廊下で必死に活路を求めたに違いない。

 ――ここが、唯一の逃げ道だったのに。

 気付けなかった。黒川を恐れるあまり、それが助けを求める声だとは分からなかったのだ。

 そして殺された。

 ドア一枚を隔てた向こう側で、先ほどまで言葉を交わしていた友人が、断末魔の叫びをあげて死んでいった。

 ――僕たちは、見殺しにした。

 すうっと身体から力が抜ける。緩んだ聖一の手をすり抜け、床にへたり込んだ。認めたくなかった。けれど、それ以外の納得できる答えが思い浮かばない。

 死の臭いに満ちた空気を吸い込む。

「……どうして」

 ようやくそれだけを絞り出した。ふらつく足で立ち上がり、背後に立つ聖一と相対する。雷光で浮かび上がった弟の顔から感情を読むことはできなかった。

「どうして……!」

 胸倉を掴む。けれど手に力が入らず、縋りついているようにしか見えなかった。実際、縋りついていたのだろう。司はその答えを、教えられるまでもなく分かっていた。

 ――ドアを開けたら、ただじゃ済まなかった。

 三対一だからと言って有利だとは限らない。瀕死の奈々雄が戦力になるとは考えづらいため、戦うのは司と聖一ということになる。位置関係としては味方である奈々雄を挟む形だ。肉の盾として使われる可能性もある以上、戦いづらさはこの上ないだろう。そして聖一は、おそらく重いものが持てない程度には負傷している。さきほどバリケードを作るとき、司一人に任せたからだ。

 そんな状況で、武器を持ち体格にも恵まれた黒川を打ち倒すことなどできるのか。

 ――さっきだって、聖一は真っ先に僕たちを逃がそうとした。

 一度黒川と相対した彼ならば、誰よりも敵の戦闘能力を実感しているのだろう。さきほど黒川と初対面したとき負傷してもいた。その聖一が直接対決を避けるという判断を下したのだ。

 ――勝算がなかったからこそ、聖一は苦渋の決断をした。

 見込みがあれば戦っていたはずなのだ。現に、嫌っていたはずの兄と会って間もない二人を、体を張って守ったのだから。

「ふっ……う……」

 食いしばった歯から嗚咽が漏れる。あまりにも情けなく、申し訳なかった。司に力と勇気があれば――少なくとも聖一くらい戦えたならば。結果は違っていた、かもしれない。

「責めないのですか」

 静かな声が問う。

「構いませんよ。間違いなく、俺は分かっていて見殺しにしましたから」

 だけど、と司は心の中で反駁する。

 ――その判断をさせたのは、僕の『弱さ』だ。

「……どうせお前は自分のせいだと思ってるのでしょう。けど、なんでも自分に原因があると思うのは美徳ではありません。それは傲慢です」

 胸倉を掴んでいた手がずるりと垂れる。自失する司の肩を押し返して、聖一はため息をついた。

「お前のそういうところ、大嫌いですよ」

 ぼんやりと聖一を見る。腹は立たなかった。これは弟なりの慰めだ。

「……それは、似てるから?」

 皮肉ではなく、純粋に思ったままを口にする。

「聖一だって言ってた。こうなったのは自分のせいだって」

 言葉に詰まったようだ。暗くてどんな表情かは伺えないが。

「ねえ。……僕は、もう逃げないよ」

 鼻をすすり、歯を食いしばる。

「コトリを助けなきゃいけないし、どうして奈々雄がこんな目に遭ったのかも知りたい。何かと戦わなきゃいけないなら、僕が戦う」

 同じ遺伝子なのだ、と司は自分に言い聞かせた。頑張れば弟と同じ働きができるはずだし、是が非でもそうしなければいけない。

「だから……もう二度と、見捨てさせないで」

「……あのとき居場所を気取られていれば、俺まで危険でした。お前は自己満足のために俺を巻き込むつもりですか?」

「今度は僕を囮にしてその隙に逃げれば良いよ。それか僕がコトリを助けに行くあいだはここで待っててくれてもいい」

「……お前は」

 語尾がかすれた。聖一が苛立っているのが分かる。

「随分破滅的な性格だったんですね。それとも正義のヒーロー気取りですか」

「ここでコトリまで切り捨てたら、多分僕は死ぬよ」

「馬鹿らしい」

「コトリだけじゃない。聖一に何かあっても、僕は正気じゃいられなくなると思う。僕は弱いから、これ以上何かあれば心がやられちゃうんだよ。だからこれは自分のためなんだ」

 努めて冷静に宣言する。二人での行動の方が安全には違いない。それを単独行動させてくれというのだから、身勝手なのは自覚していた。

 身をかがめ、手探りで落としていたスマホを見つけ出した。これからはまた一人だ、と自分に言い聞かせながら立ち上がる。恐怖で足がすくみそうになるが、生存者がひとりいると分かっているだけでも先ほどとは違った。

 ――まずは、部屋を出る前に確認しないと。

 ジャマーを取り出す。まずはこれを切って、ピスガで位置確認をしなければ。

 光にかざしてどのボタンを押せばいいか迷っていると、ぶっきらぼうに聖一が言った。

「……一番上のボタン」

「あ、これ?」

「オフにすれば相手にも位置がばれます。あの男がピスガを見ていればの話ですが」

「そうだね、手早く確認しないと。このあともリアルタイムで確認するために歩きながら使ったりするだろうし、慣れるまでは大変そうだなあ」

「二人で分担すれば大丈夫でしょう」

 思わず聖一を照らした。しれっとした横顔のまま目を合わせてこない。

「迅速に動けるよう、まずはバリケードを取っ払いましょう」

「一緒に来てくれるの?」

「バリケードを取っ払いましょう」

「ついでに運ぶの手伝ってくれたりとかも?」

「しません」

 即答だった。

 結局また司ひとりで扉の前の家具を動かした。元の位置まで運ぶのは大変なので、ドアを開けられるように脇に引きずって移動させるだけにしておく。

「動かしてるあいだに考えたんだけど」

 額の汗を手の甲で拭う。

「スマホの『位置情報・GPS』ってやつをオフにすれば、ほかのメンバーの位置を知りつつ自分位置データを隠せるんじゃない?」

「それができるならストーカーは大喜びでしょうね。残念ながらピスガは、相互で位置情報を伝えあわなければいけない仕様です。自分の位置情報を隠しつつ相手の場所を知る、ということはできません。スマホの電源を完全に落とさない限り、相互に位置情報を確認できてしまうのです」

「うーん、そっか」

 司はポケットからスマホとジャマーを取り出した。

「それでは始めましょう。まずはジャマーを切って」

 言われた通りにすると、たちまち液晶画面が反応した。灰色のマップに、ばらばらと赤いポイントが現れたのだ。

「あ……!」

 司の顔が引きつった。二階のフロアマップ、画面中央よりやや下に、ポイントが二つ固まっている。

「お前と奈々雄君のものでしょう。名前も書いてあります」

 そうならばいい。しかし、司は恐ろしい想像をした。

「……そう見せかけてるだけだとしたら? 奈々雄のスマホを盗って、自分のスマホは離れた場所に置いてさ。そしたら僕たちにはもう、黒川先輩と奈々雄の区別がつかない」

「ふむ」

 聖一が感心したように声を上げ、横からジャマーのスイッチを再びオンにしてきた。

「考えても答えは出ないでしょう。籠城する気がない以上、直接確認するほかありません」

 ドアを見る。ついに、外に出るのだ。

「だとすれば俺の役割はひとつです。このドアは内開きなので、司はドアの陰に隠れつつドアを開けてください」

「えっ?」

「俺は正面に立ちます」

 司は言葉を失った。つまり、もし黒川が突撃してきたらそれを受け止めるということだ。

「いまだ黒川が張り付いているなら、俺たちの存在を確信しているということです。ドアの後ろに隠れつつ開くということも想定しているでしょう。ならば、守るより攻めた方が良い」

「ちょ、ちょっと待って」

 慌てて声を上げる。

「勝算はあるの? 刃物を持ってるんだよ?」

「勝てはせずとも時間を稼げます」

「何言ってるんだよ!」

 部屋の外には聞こえないよう気を付けながらも、声を荒げてしまう。

「負けるって分かってるからさっきは奈々雄を見殺しにしたんだよね? 先輩と戦ったら負けるんだよね! だったら、死ぬようなもんじゃないか!」

「違います」

 あっさりと聖一が返す。

「俺は死にませんよ。命をかけてもいい。それよりもしドアの向こうにいるのが黒川だった場合、飛び込んできた一瞬の隙をついて部屋を出てください。あとはピスガでコトリさんを探せば、すぐに助けられるでしょう」

 司はまだ受け入れられないでいた。全否定してはいるが、そこには根拠も理論もない。

「二人で頑張ろうよ。ね?」

「足手まといだと言ってるんです。分かりませんか」

「ドアに隠れて奇襲すれば、またさっきみたいに成功するかもしれないじゃないか」

「こうして言い合っているうちに黒川は彼女のもとに向かっているかもしれませんよ。また友達が殺されても良いのですか? 敵は黒川だけではないかもしれないのに」

「でも――」

 聖一が鋭い目つきで睨む。

「黙れ」

 静かな声で威圧され、司は口をつぐんだ。

「……では、開けてください」

 とぼとぼとドアノブを握る。裏に隠れながら、ゆっくりと回した。

 ――会話は雨音で聞こえていないはずだ。聞こえてたって、ドアが邪魔で襲えないだろうけど。

 問題は聖一だ。本当に一対一で大丈夫なのだろうか。

 ――敵は黒川先輩だけじゃない、なんてことあるのかな。

 もしドアの向こうに敵がいたら。殺されそうな目の前の弟を、どうしたら助けられるだろう。助けたら助けたで、あとでたっぷり怒られるだろうけれど。

 悶々としながらも、ドアを引き開けた。

 蝶番の隙間から廊下側を照らす。部屋の中で聖一が数歩下がった。無音だ。黒川が襲い掛かってくる様子はない。

 ――重い……。

 一方で、向こう側からドアを押される感覚があった。ドアを支えていた手を離すと、一気にドアが開く。

 何かが、音を立てて倒れ込んだ。

 嫌な想像が膨れる。あの音の正体が何かを知っている。けれどせめて、それがぴくりとでも動いてくれたらと願った。

 聖一の足音が廊下に出る。周囲を調べているようだが、弟以外にはなんの気配もない。

「……聖一」

 小さな声で呼びかけるが、返事はない。

 そろそろとドアの後ろから出る。ちょうど聖一がポケットからハンカチを取り出したところだった。

「被せるまでそこで待っていなさい」

 司は無視して進んだ。直視しなければならないと思った。自分が生き残るための代償が、一体なんであったのかを。

 足元を照らし、歩み寄る。

「まだですよ」

 ハンカチを被せる直前、司は見た。

 仰向けに寝かされた彼の顔は、誰なのか分からないほどに損壊していた。口裂け女のように頬が切られているのは、おそらくここに逃げてくる前にやられた傷だろう。やはり皮膚を剥がされ、赤とピンクの肉が露出した上から、さらに無数の刺し痕があった。目玉が両方とも陥没している。腕や手も血まみれで、上半身が奇妙にねじれていた。手首で光るカフリンクスには、間違いなく見覚えがある。

 胃袋の中がせり上がってきた。

「……まだだと言ったのに」

 奈々雄の顔にハンカチが被せられた。司は口を押えてうずくまる。押し寄せる胃液の波を何度も飲み下した。そのたびに、締め付けるような頭痛に襲われる。

「死者に義理立てするくらいなら、その力を生者のために使うべきです」

 言わんとすることは分かっている。しかし、司はほかに贖罪の方法が分からない。思考が鈍っている。脳も内臓も、見えない手で引っ掻き回されたような気分だ。

「布団でも被せてやったらどうですか。ベッドにあったでしょう。少しは安らげるかもしれません」

 顔を上げた途端にまた奈々雄の姿が見えた。言われるがままにベッドへ行き、布団を取ってくる。そんなわずかなことで、少し冷静になれた気がした。

 布団をかぶせる前に、奈々雄の両脇に手を入れた。聖一は何も言わない。死体の上半身を持ち上げて部屋の中に入れた。太ってはいないのに、とにかく重い。上半身を室内に入れるだけで精一杯だ。なんだかそれが無性に悲しくて、司は声を殺して泣いた。血染みのできたハンカチが、司の涙を吸っていく。

「もう良いでしょう」

 聖一が静かに告げて、司は布団をかぶせた。弔うのも泣くのも、今すべきでないことは分かっている。本意ではない聖一まで巻き込んでの二人行動であればなおさらだ。

「……うん」

「さっさと行きましょう。さっきのピスガでは、二階にしかポイントはありませんでした。一階の様子を見ることはできますか」

「え……あ、多分……」

 慌ててジャマーを取り出し、スイッチをオフにする。ピスガを見ると三つの点がこの部屋に集中していた。

 試しにスワイプしてみる。切り替わった画面は依然として灰色のままだったが、違う場所に切り替わったようだ。画面左には『下の階』と書かれている。

「圧力センサーがちゃんと仕事をしているようですね。……そして、ここ」

 弟の指が赤い点を示す。

「動かないポイントがあります。それに比べてこれは」

「うろうろしてる……何か探してるみたいに」

 動かないポイントの上にはコトリの名が記されているが、マップ情報が入っていないのでどこにいるのかが分かりづらい。電話かラインで直接聞けたらと司は思うが、すぐに着信音が鳴ることの危険性を感じ思い直した。

「僕たちのいる二階のマップを垂直方向に動かしただけだとすれば、コトリは僕たちと対極の位置ってことになるね……」

 少しずつ頭が回ってくる。玄関から向かって見ると、司たちのいる部屋は二階の右下だ。対して、動かないポインタは一階の左上。つまり最も遠い位置ということになる。

「黒川先輩は……今、コトリを狙ってる!」

「鍵のかかる部屋に逃げられて、破る方法を模索しているのかも知れません」

 自然と足が早まる。雨が弱まらないうちに階段を駆け下りた。ピスガでは依然、黒川を示す赤いポイントが、檻の中の虎のように右往左往している。

「すぐに一階に降りよう!」

「この屋敷の大きさからして、もう一つ階段がある可能性が高いです。向こう側にも階段がないか調べましょう」

 聖一は司が上ってきた階段とは反対側の方向を指した。つまり、二階の左上だ。コトリたちがいる場所の真上ということになる。

「ホールや廊下を長々と突っ走って襲撃しても意表を突けません。もし向こう側にも階段があるなら、こちらの方が相手に気付かれず近くまで行けるでしょう」

 折り返し階段ということもあり、たしかに一階廊下からは見えづらい形状だ。

 二人は部屋を出ると、廊下を中ほどにまで戻った。

 青黒い手を見た部屋の手前にまで戻る。廊下が二手に分かれている場所だ。まっすぐ行けば司が上ってきた階段へと続く。左側へはまだ行ったことがないが、あの広いホールの真上に位置することは間違いない。

 その左側へと続く廊下を足早に進む。途中、右にドアがあった。左側にドアのないただの壁が続くのは、そこがホールの吹き抜けに当たるからだろう。

 素通りして突き当たりまで進むと、左右に廊下が分かれていた。二つの階段が左右対称に位置すると考えるなら、ここは右だ。

 二階の廊下はちょうど、Hの形になっているらしい。

「あった!」

 聖一が降りようとする。慌てて、司はささやきかけた。

「待って。先に反対側の階段から一階に降りて、玄関が開いてるかどうかを確認した方が良いと思う」

「なぜです」

 なぜか不機嫌そうに振り返る。

「もし玄関から出られるなら、コトリを助けたあと一気に走って三人で脱出できる。車の鍵もコトリが持ってるし、速攻で片が付くよ」

「玄関は開きません。行く必要はないです」

「試したの?」

「はい」

「一人では無理でも、二人なら開くってことはないかな」

「ありません」

 けんもほろろに言い切られる。なぜだろう。あの玄関戸にも不気味な力が働いているということか。

 けれど司は、その言葉を鵜呑みにはできないでいた。再会してから聖一に看過しがたい違和感を感じている。

 ――どうして急に、僕にまで敬語で話すようになったんだろう。

 まるで人が変わったようだ。だからこそ、もしこれが聖一の嘘だったらと考えてしまう。

「開かなくても、調べてみると何かわかることがあるかもしれないよ」

 絞った明かりの中、聖一は鬱陶しそうに目を細める。

「ありませんよ」

「ひとりで行くし、すぐに終わるから」

「絶対に駄目です」

 聖一が突っぱねた途端、大きな音がした。

 階段の下だ。まさに、コトリと黒川がいるであろう場所からだ。固い木材を打ち付けるような音が、二度三度と響く。

「早くお友達を助けたいんでしょう? 手遅れになりますよ」

 聖一は何かを隠しているかもしれない。けれど、迷ってる暇もない。

 こんな雨音でもはっきりと聞こえるくらいだから、よほど強く叩きつけているのだろう。まずはコトリを助けないと、本当に手遅れになってしまう。

 二人は赤いじゅうたんの敷かれた階段に足を乗せた。音は全くしない。細心の注意を払い、足元をごく弱い明かりで照らしながら降りていく。

 折り返し階段の踊り場についた。これより先に進めば向こうから見えてしまうため、スマホの明かりを消す。

 ――黒川先輩が何かに操られてああなったんだとしたら……

 ふと、背後に控えている弟の気配を感じながら思う。

 ――聖一も、誰かに操られたりするんだろうか。

 身体で画面を覆うようにしてピスガを確認し、まだ黒川が部屋の前にいることを確認した。

 殴打の音が、ふいに途絶える。

「二人で一気に攻めましょう」

「どうやって?」

「全力で黒川のもとまで走るので、並走してください。武器がない以上二人で戦うほかありません。俺も協力しますが、司がメインです。その手で息の根を止めてください」

「僕が、先輩を……」

「殺すんです。早くしなければあのドアが耐えられない。きっちりとどめを刺してください」

「……そんな」

 ピスガを見る。ゆっくりと黒川のポイントが動き始めた。部屋の内側に向かってだ。

 ――ドアを突破した……!

「行きますよ!」

 聖一に続き、司は階段を跳ね降りた。四段飛ばしだ。

 マックスにした明かりをかざして着地する。弟の居場所を確認する余裕もない。目の前のドアが開いている。この中に二人がいるのだ。

 ――早く止めないと、コトリが……!

 背中に飛び蹴りする勢いで駆け込む。目の前に大きな男の背が現れる――

 はずだった。

「え……?」

 いない。黒川の姿がない。暗い部屋のすぐそこで、狐火のようなスマホの光が奥へと進んでいく。何か動くものに乗せられて、黒川のスマホだけが低い位置を移動していた。

 背中に衝撃が走る。

 司は前方に蹴り飛ばされた。床を滑るように倒れる。

「痛っ……!」

 幸い床にはマットが敷いてあった。奥に細長い手狭な部屋だ。

 顔を上げると、右は洗面台、左には洗濯機があった。ランドリースペースだ。その奥へと、スマートフォンを乗せた小さな人形が歩いていく。

 ――からくり人形!

 寝たまま右に回転した。直後に包丁が降ってくる。マットを貫通し、刃は耳障りな音を立てた。

 ――黒川先輩……!

 下から見上げる彼はにやついていた。扉の裏に隠れていたのだろう。動く人形に自分のスマホを持たせるというお粗末な罠に、司たちが掛かったのを喜んでいるのか。

 黒川が倒れたままの司を跨いだ。覆いかぶさるように、再び包丁を振り下ろす。

 ――刺される!

 両足首が思い切り引っ張られた。聖一だ。悪ふざけのように、黒川の股のあいだを司の身体が滑る。直後、頭部があった場所に包丁が振り下ろされた。空ぶった刃が耳障りな悲鳴を上げる。

「このっ!」

 スマホの角を、真上にある急所に叩きつける。男なら誰しも悶絶するだろうと思われた。しかし黒川は、悲鳴を上げるでもなく包丁を振り下ろしたまま固まった。

 聖一がさらに司の足を引く。黒川の下から脱出できた瞬間、ぐぐ、といううめき声がした。

 ぐおおおおえええええ。

 黒川が吐いた。びちゃびちゃと汚らしい音がする。そして振り返った。吐瀉物を垂れ流しながら、大きく包丁を振りかぶる。

 二人はとっさに飛びのいた。司の持つ携帯の光が定まらない。部屋の壁を跳ねまわり、また黒川を照らす。そのときには、刃物が目の前の空を横に裂いていた。

「うううううう!」

 黒川が突進する。スマホの明かりを消すのと同時に、廊下へ退避した。ドアの左右にそれぞれ身をひそめる。ホールへと続く右側には司、階段へと通じる左は聖一だ。黒川は一人しか狙えない。狙われなかったもう一人は、黒川を後ろから攻撃できる。 

「があああああ!」

 雄たけびとともに空気が動いた。ドアから黒川の気配が飛び出す。

 どちらに向かったのかを確認するより前に、司は目の前を蹴った。ローキックだ。

 足首に固い衝撃が走る。

 床に倒れ込む音がした。ちょうど聖一のいる方向だ。状況を確認するため明かりをつける。

 ――聖一、巻き添え食ったんじゃ……。

 転倒からワンテンポ遅れて黒川は照らされた。すでに体勢を立て直し、前かがみに走り出そうとしている。


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