海士坂 司
――停電?
唐突だった。おろおろと動けないでいる司の手首を誰かが掴む。
――聖一……?
手の主はしっかりと司を捕えたまま、屋敷の奥へと強引に引っ張っていく。闇を一直線に迷いなく進んだ。まるで見えているかのような足取りだ。
――真っ暗なのに、どうしてちゃんと進めるんだろう?
とにかく従おう、と司は思った。留まっていては殺される。何が起こっているのかは分からないけれど、とにかくあの場から離れなければいけないのは間違いない。
――コトリと奈々雄、無事に逃げられてるかな……。
しばらく走ったあと、手の主が急に立ち止まった。冷たいドアノブを握らせてきたので、そこがどこかの部屋の前であるということだけは分かる。
――ここって……。
ふいに感じた胸騒ぎは、ドアを開けることで確信に変わった。先ほど嗅いだものと同じ臭いが、再び司の胃を押し上げる。
――アスカさんらしき女の人が死んでた、あの部屋だ。
なぜ、と司は思った。ほかにも部屋はあるのに、どうしてここを選んだのだろう。
――もう一度見るのは辛いけど、僕たちが安全確認できてるのはここしかない。聖一はちゃんと考えて、ここを選んでくれたんだ。
ドアを閉め、ドアノブの周囲を手探りで確認する。残念ながら鍵が付いていなかったため、苦し紛れに背中で押さえつけた。
「……聖一」
ささやいて、見えもしない暗闇を見渡す。先ほどから気配がない。もう手も掴んではいない。
――でも部屋の中に入るまでは掴んでたし、同じ部屋にいるのは間違いない。
こう暗くてはさっぱり分からない。部屋奥には窓があるがカーテンが閉められており、月明かりすら望めなかった。
そう考えたところで、ふと司は思い出す。
――そうだ、スマホ!
細身のパンツのポケットを探る。なんのケースもつけていない黒のスマホを取り出し、ボタンを押した。一瞬で、人工的な白色光が手のひらから広がる。
――……え?
ふと視線を下げる。青白い光に照らされた、スマホを持っている手の手首が赤い。
血の手形だった。
「ひっ……!」
悲鳴が漏れる。血痕が、司の手をいまだ離さないように纏わりついている。
――さっきの、聖一じゃない……!
司は愕然とした。一緒にここまで来たはずなのに、生きた人間の姿などこの部屋にはない。
だとしたら『何』が?
信じられない思いで顔を上げる。変わらずローテーブルで佇むアスカの手は、べったりと血に塗れていた。
――アスカさん……?
思わず息を飲んだ。しかし、司はそうとしか考えられない。
――僕のこと、助けてくれたんだ。
彼女は黒川とは恋人関係ではなかったのかもしれないが、親密だった。そんな同級生にこんな目に遭わされてもなお、後輩を守った。
司はそこまで考えて、生前の彼女を思い出す。奈々雄の語った通りズレたところはあるが、それもひとつの個性だった。困りごとを起こしたのが故意でないことは分かっているし、悪意を誰かに向けたところも見たことはない。
司自身があまり深く悩まないたちなので、アスカに対して悪く思うことはなかった。しっかり者の奈々雄やコトリは分からないが。
――ありがとう。
震える手を合わせ、心で感謝した。鼻の奥がツンとする。
ふいに、かすかな音が聞こえた。
――なんだ?
規則的に響いている。徐々にこの部屋へと近づいてきている。
あれは、足音だ。
――……黒川先輩!
司はアスカとソファのあいだを通り、弾かれたように奥へ逃げる。
――ソファセットとテーブルはラグの上だから、ここなら僕の足音が消せる!
それ以外は廊下やホールと同じ固い床だ。歩けば必ず音は立つだろう。
司はソファの後ろに隠れ、身を固くした。
――大丈夫かな……。
足音はもうすぐやってくる。その二倍の速さで心臓が拍動していた。
――だけど……中に入って丹念に調べられれば、こんなところすぐに見つかる。
もしかして、ここに隠れるのは悪手なのではないか。相手は肉付きも身長も司より上だし、何より武器を持っている。
最悪の事態を想像してしまい、じっとしてはいられずに立ち上がった。
――僕は……どうすればいい?
黒川がついに部屋の前に到着した。足音が止み、一瞬の静寂が訪れる。
司は『賭け』に出た。
ドアノブをひねる低い金属音が響く。
革靴が床を鳴らす。今までは外だけで響いていた音が、ついに部屋の空気を震わせた。
音の主はゆっくりと右方向に歩き始める。数秒ののちに立ち止まり、また歩き始めた。今度は方向は変わらないが、一歩ごとに音の距離感が変わった。
――壁沿いに歩いてるんだ。
おそらく壁に当たるまで進むことで、部屋をぐるりと一周するつもりなのだろう。それだけ時間をかけて調べる気でいるということだ。
――どうか気づきませんように……。
祈りながら耳を澄ませる。このままなら通り過ぎる。通り過ぎてくれなければ後がない。
――どうか……。
死の臭いを嗅ぎながら、心の中で命乞いを繰り返す。まだ死にたくない。しかも、こんな惨い殺され方なんて。
音が、司の背後でぴたりと止まった。
――な、なんで……?
ガンッ、とひときわ大きな音が響く。すぐ近くだった。心臓が大きくはねる。
司が最初に隠れた、あのソファを蹴り上げたのだ。
――よ、良かった……。
蹴ったのが故意か偶然かは分からないが、あのままでいたら今ごろは気づかれていただろう。蹴られ、察知されて、そのまま刺されていた。しかしまだ安心はできない。
すすす、すすすすす。
今度は布をこするような音がした。ソファやラグを撫でているらしい。
嫌な仮説が司の脳裏をよぎる。
――黒川先輩、この部屋の家具の配置を覚えてるのかもしれない……。
だとしたら彼は思いつく限りの『人が隠れられる場所』を調べるだろう。司の隠れている『ここ』でさえも。
――どうしよう……!
司の頭に、四つん這いの黒川の姿が浮かぶ。血まみれのラグに顔を押し付け、ローテーブルの下を探っている。何も潜んでいないことが分かると、今度は蛇のように鎌首をもたげて、テーブルの上を調べる……。
ぺたん。ぺたん。
確かめるような音が近づいてくる。左端からじわじわと、迫ってくる。口の中がからからになり、叫び出しそうになるのを我慢しながら、司は『ここ』に立ち続けた。
そして、ついに。
黒川の手が、司の左足に触れた。
――……!
必死で悲鳴を飲み込む。かかとの上のアキレス腱付近を、粘つく手が掴んだ。右足にも同じように触れる。しっかりと、値踏みするように。
――頼む……成功してくれ……!
黒川は淡々と確認するのみだった。司の存在に気付く様子はない。しっかりと掴まれているにもかかわらず。
司は今、アスカの真後ろにいた。
ぎりぎりにまで近づき、張り付くようにして立っている。すっかり慣れたはずの鼻が、再びおぞましい死臭を感じ取っていた。脱いだ靴下と靴を両手に持ち、パンツの裾を捲り上げてある。アスカが死後間もないことと、足の一部しか触られなかったこと、司が細身だったことが幸いした。
――また、アスカさんに助けてもらった。
まだ終わってはいないものの、司は胸をなでおろした。黒川はそのままテーブル周辺を調べ終え、見当違いの壁際へと移動している。
再び司へと近づき、テーブル前方を何やら調べていたが、それもしばらくのことだった。同じようにラグの上を撫でたあと、すぐに立ち上がってほかの場所へと移る。
部屋を一周し終えた黒川の足音は、再びドアの前へと戻った。かすかに金属のきしむ音がして、ドアを開けたであろうことが分かる。
――やっと……出て行ってくれる。
足音が廊下へと出た。大勝利だ。
今度こそ安心できると司が思った矢先、あることに気が付く。
――先輩が、動かない。
ドアも開け放されたまま、閉められる気配がなかった。黒川は立ち止まっている。まだ、この部屋を許す気はないらしい。
――あ……!
塗りつぶしたような暗闇の中で、ぽうっと小さな光が灯った。つい先ほど司が見たものと同じ、人工的な白色光だ。
――スマホだ……。
テーブル前方を調べていたのはこのためだったのだ。最初にこの部屋に来たとき、二人分のスマホが置かれているのを聖一が見つけていた。黒川もそれを知っていて、暗闇の中であの場所を調べたのだ。
光る液晶画面を見つめたまま動く様子がない。あの光を用いて室内を再探索する気かと司は思ったが、すぐに間違いに気づいた。
彼は、もっと確実な手を行使しようとしている。
――……『ピスガ』!
さあっと血の気が引いていく。どんなに上手く隠れても、あれを使ってしまえば一発だ。同じマップにさえいれば、いつでも位置情報を送受信できてしまう。
司のスマホはパンツのポケットに入れたままだ。両手に靴を持っているので、電源を落とすこともできない。今さらスマホや靴をどこかに放り投げたところで、その音で気づかれてしまうだろう。
――せっかくやり過ごせたと思ったのに。
ぎゅっと目を閉じる。歯がカチカチと音を立てかけたので、思い切り食いしばった。あの液晶画面には、司の位置を示す赤いポイントが血の染みのように表示されていることだろう。
――……終わった。
司は聖一のような戦い方などできない。今までやろうと思ったこともない。ましてや相手は黒川だ。まともに組み合って敵う相手ではない。
――どうか、ほかの三人だけは助かりますように。
あの二人は、無事に窓から逃げられただろうか。聖一は、置いていかれることなく車に乗れただろうか。
ぐるぐると考えていると再び黒川が動き始めた。ドアがきしみ、そして、空気を震わせるほど乱暴に閉まる。
足音が一段小さく聞こえる。
ドア一枚を隔てた廊下の向こうへとフェードアウトしていった。
――…………あれ?
そろそろと目を開ける。スマホの光も、黒川の気配もない。音は廊下を左方向に進んでいた。おそらくホールへと戻ったのだ。
――助かった、のか?
信じられなかった。どうしてあの状況で、黒川はあきらめたのだろう。
「……あ」
ひとつの予想にかすかな声が漏れた。司は急いでテーブルから降り、しゃがみこんでスマホを取り出す。
司の考えを裏付けるように、ホーム画面には『圏外』の文字が記されていた。ピスガを起動するが、司のポイント以外は表示されない。位置情報測定はオフラインで使用できるが、他者の位置情報を得るにはオンラインでなければいけないのだ。
――良かった……!
心から安堵した。恐怖は一掃され、喜びすら感じる。
自分の身が守れたからではない。
――聖一、ちゃんと生きてる。
これが偶然ではないことを司は分かっていた。
――最初から、ここに来ることに乗り気じゃなかったからな。
こんなことができるのは彼しかいない。事実、この屋敷に到着する前にもやっていたのだから。
――あの電波障害は、聖一がやってたんだ。
この屋敷に来る途中で呼び止めたおじいさんは『ここでもちゃんと携帯電話は使える』と証言した。にもかかわらず、彼が見せてきた携帯電話の画面には『圏外』と表示されていた。つまり、あのときだけ電波障害が起こっていたのだ。
司はその範囲を調べるため、車を降りて離れた。しばらく道を行ったところで電波は回復した。
このことから、あの電波障害はコトリの車を中心に起こっていたことになる。四人が乗っていた車にこそ電波障害の原因があったのだ。
カーナビが途中まで使えたことから、最初からなんらかの装置が取り付けられていたとは考えにくい。初めから電波障害が起きていたら、地図を用意するなどほかに何らかの対策を立てられていただろう。
――コトリは運転してたし、そんなことをする余裕があるようには見えなかった。
奈々雄か、聖一か。けれどその後の態度からするに、やはり聖一で間違いはないと司は思う。彼は助手席だったから、何かをひそかに操作したとしても後部座席からは見えづらい。
――多分、聖一はここにもジャマーを持ち込んでる。
最近のジャマー、つまり電波妨害機は、スマホを模した形のものがあるという。その適用範囲は機種によってさまざまだが、道中でのことから推察するに半径十メートル前後と言ったところだろうか。屋敷の中心に立てば、家ごとすっぽりと圏内に収めることができる。
――きっと『ピスガ』で見てたんだ。
走り出したポイントがあの部屋に隠れ、動かなくなった。聖一のスマホに黒川やほかのメンバーの電話番号は入っていないから、黒川が司に迫っているところまでは分からなかっただろう。しかしとっさの判断で、隠れている司を『もっと隠すため』にジャマーを使ってくれた。
――だとしたら、聖一はまだ館の中にいる。
口ではあれほど冷たくしながらも、玄関から逃げることなくここに残っている。おそらくは司のために。
――とにかく合流しよう。コトリと奈々雄の無事も確認しなきゃ。
いつの間にか震えは収まっていた。靴を履き終え、すっくと立ちあがる。
いざ部屋を出ようとしたとき、空の割れるような音がとどろいた。
「わ……!」
あまりの驚きに情けない声が漏れる。屋根を鞭で叩くような音とともに、カーテンの向こうが明滅した。雲が低いうなり声をあげ、腹の底に響くような振動が屋敷を揺らす。雨は途端に激しくなり、ノイズとともに窓ガラスを殴った。
――ただの雷か……。
司は窓に近づいた。そっとカーテンを開けると、闇に浮かぶように暗灰色の雲が見える。観音開きの窓の鍵を外し、両手で押した。
開かない。
さらに力をこめる。やはり駄目だ。
――どうなってるんだ?
ただのガラスのはずなのに音すら立てない。これではいざというときの逃げ道にならない。横にスライドさせるのかとも思ったが、やはり違った。焦りながら、再度全力で窓を押す。
ぱしゃん、と水風船の弾ける音がした。
――え?
唐突に目の前で何かが飛び散った。頬や手が何かで濡れたようだ。ぬるぬるとする指先を見る。
雷光の中で、司の指先は毒々しい赤色に明滅した。
――こ、これ……血?
全く痛みはない。司のものではないのだ。窓ガラスは恨めしそうにどろりとした血を流している。割れるどころか、ヒビすら入っていないのに。
――なんで……いったい誰の。
そのとき、窓ガラスに何かが映っていることに気が付いた。暗い中、雷に合わせて何かがチカチカと浮かび上がる。司は目を凝らした。
それは人の顔だった。
乱れた黒髪の女だ。蒼白の顔に、眼窩と口が黒々とした穴となって開いている。その穴全てから黒い液体が流れていた。
ちょうど窓の血の跡が、その顔に重なって見える。まるで司に殺されたとでも言いたげな表情だ。
「ひっ……!」
反射的に飛びのく。後ろを振り返るが、何もいない。震える手でスマホの光をかざしてみる。もげ落ちそうなほど首を傾げた遺体が、薄ぼんやりと浮かび上がった。再び震え始めた手首を見る。先ほどついていた血の手跡が、嘘のように消えていた。
「そ、そんな」
――だけどさっき、確かに……。
司はそう思ったとたん、急に居ても立ってもいられなくなった。
部屋の中は濃い闇が溜まっている。目には見えない何かが腐臭を伴って、すぐ近くでとぐろを巻いている。
――も、もう嫌だ……。
どこでも良いから逃げたかった。とにかくここにはいたくない。
壁のふちを伝い、遠回りをするようにドアへと向かう。しばらくはここにいた方が安全なのに、本能がどうしようもなく恐れていた。アスカは被害者だ、しかも助けてさえもらったんだとは分かっている。しかし、今は理性より本能が勝っていた。
ドアの前までたどり着く。依然として強い雨が降っていた。ドアを開ける音ならば掻き消してくれるだろう。しかしそれはまた、黒川の足音ですら掻き消されるということだ。
――この向こうにいたら、どうしよう。
『ピスガ』は使えないままだ。彼が今どこにいるかを知るすべはない。立ち去ったと見せかけて、雨音に乗じてこっそりとドアの前までやってくることもできる。
そこまで考えて、司は首を振った。
――そんなまどろっこしいことをするくらいなら、スマホの明かりを頼りにもう一度部屋を調べればよかっただけだ。
そうせずに立ち去ったということは、この部屋に見切りをつけたということだ。つまり彼は、今ごろほかのところを調べまわっている。司はそう信じ、ドアノブに手を掛けた。
ゆっくりとドアを開ける。
何もいない。恐る恐るスマホの光をかざしたが、一メートル先を照らすのがやっとだ。ないよりはましだと考えて左右に伸びる廊下を照らす。どちら側にも、誰もいない。
――この先どうしよう……。
左に行けばホール、玄関へと通じる。黒川もそちらへ向かった。
右へ進めば数メートルで突き当たりだ。円形の窓があり、その右手には階段がある。
さすがに黒川の後を追う勇気はない。司は右に進み、窓を調べた。はめ殺しだ。開かない窓は逃げ道として使えない。
コトリたちが今ごろ窓から逃げ出せていればいいのだが、それも望み薄だと思われた。何せ雨が強まったのはつい先ほどの話だ。それまでに窓を割ろうとすれば黒川に音で感付かれるし、もしそれが奈々雄なら、車のキーを持たないまま外に出ることになる。コトリと合流しない限り、車は使えない。
それに、さきほど司自身が試して駄目だった。実はあの窓は開放できるように見せかけたはめ殺しで、割ろうと思えば割れたのだろうか。しかし、そのあと起こったあの現象を思い出すとそうではない気がする。
――みんなどこにいるんだろう。
相変わらず電波障害は続いている。ただGPSなしでも『ピスガ』によって自分の位置だけは分かるので、灰色のマップに一つだけポイントが表示されていた。スマホ内にある地磁気センサーや移動量センサーなども併用しているために、GPSなしでもおおよその位置は測定可能らしい。
司はピスガの設定を画面固定表示に変えた。灰色のバックグラウンドに自分の中で屋敷の間取りを思い描く。まだ分からない場所は多いが、進むにつれて自分の位置が格段に確認しやすくなるはずだ。
――僕が部屋に逃げ入ってから黒川先輩が来るまで、誰もこの部屋の前を通らなかった。ってことは、誰も二階に行ってないはず。
そこまで考えて、司は思い直す。
――いや……それは階段が一つしかなかったらの話だ。もしこの屋敷に階段が二つあれば、その前提は崩れる。
これほど大きな屋敷ならば二か所に階段が設置されていても何の不思議もない。だとしたら、このまま二階に上がって黒川と鉢合わせする可能性も充分にあるということだ。
――けど、聖一たちと合流できる可能性も出てくるんだ。
階段がこの一か所だけならば、二階には聖一たちも黒川もいないということになる。
階段が一つか、二つか。それによって展開は大きく変わる。それを知るためには、実際に進んでみるしかない。
――よし、行こう……!
司は腹に力を入れた。頼りない明かりはほんの少し先までしか照らさない。それでも進まなければ、希望はどんどんすり減っていく。
――黒川先輩より早く、三人と合流するんだ。
照らしつつ、階段を見上げていく。十段ほど登った先には小さな踊り場があり、今度は逆方向に階段が伸びていた。いわゆる折り返し階段だ。二階の階段口に何が待ち受けているのか分からないのが不安をあおる。
赤いじゅうたん敷きの階段に、そっと足を乗せる。その柔らかさに雨音が相まって、司の足音は完全に消えていた。
――だけど、念を入れるに越したことはない。
上からの攻撃に備え、司は遠回りをするように壁沿いを進んだ。スマホの明かりを消し、手すりを伝って上っていく。万が一黒川が待ち受けていたとしても、攻撃ミスをする確率を上げるためだ。それは同時に、敵の懐に目を瞑ったまま飛び込んでいくという可能性も孕んでいる。
司の足が、最後の一段を上り終えた。
――良かった、待ち伏せされてなかった……。
長く細いため息を吐いた。二階に人の気配は感じられない。もっとも、雨のせいで音からの情報にはあまり頼れそうにはなかった。
もし階段が二つあるならば、司が使用しなかった方の階段に張り込んで獲物を待つのも一つの手だ。二階に至る道が限られている以上、獲物のかかる確率は高い。アスカの死体があった部屋から玄関ホールへと移動したのだから、もし屋敷にもう一つの階段があるとするなら、動線的にはそちらから二階へと上ってくるだろう。
――なんにせよ、黒川先輩は誰かを殺すことに躊躇いがなくなってる。
信じたくはなかったが、司はもう諦めていた。彼はアスカの殺害されていた部屋にスマホが二つ置いてあることを知っていたのだ。
――黒川先輩は、アスカさんを殺したんだ……。
それどころか『ピスガ』を使った司たちをあの部屋に誘導するために自身のスマホを置いたとさえ考えられる。そうすればそのあいだに退路である玄関を塞げるからだ。
――要するに、僕たちに罠を仕掛けたってことだ。
そこから見えてくるのは、明らかな殺意だ。司たちを逃がすつもりはない。
――どうしてこんなこと……。
物静かで控えめな先輩だった。好意があったのだろう、たびたびアスカが問題を起こしたときには手助けをしていた。もし今回も彼女が「私も結婚式に行こうと思ってるの」と言い出したら、真面目な顔で頷いたのち車を出すくらいはするだろう。アスカは悪気なくそういうことを言うタイプだし、悪気なく司への連絡を忘れるタイプだ。黒川も、まさかアポなしでアスカがそんなことを言いだしたとは予想できなかったのではないか。
――だとしても、殺すなんてあり得ない。
今までの黒川ならば、このアスカのずさんな計画が露呈したところで、せいぜいため息を漏らす程度だったはずだ。神妙な顔で俯きこそすれ、暴力的になるなど考えられない。
――何かにとり憑かれたみたいだった……。
そう考えて、身震いする。こんな闇夜の洋館では洒落にならない。今も、どこから何が飛び出てくるか気が気ではなかった。たとえ幽霊を信じない者だったとしても、この状況に一人放置されれば、本能的な恐怖を覚えないわけにはいかないだろう。
階段のすぐ右手は壁で、一階と同じく窓がある。こちらは開けられるタイプだった。ただ開けたところで下がどうなっているか分からないため、脱出の際にはそれなりの覚悟や準備が必要になる。
試しに開けようと力を入れてみた。
「やっぱり駄目か……」
司はすぐに諦めた。大きな音がたっては困るし、開かないことは一階で証明済みだ。ガラスを叩いたときに見たおぞましい光景が関係しているのかもしれない。
右の窓に続き、目の前も壁で行き止まりだった。左手にのみ長い廊下が伸びている。スマホの光では突き当たりまで見通すことはできない。
そろそろと廊下を進んでいく。すぐに、左の壁にドアが見えた。
――入ろうか、やめようか。
耳をそっと押し当てる。中からは何も聞こえない。
今この瞬間、ドア一枚を隔てて、黒川も耳を当てていたら。想像して戦慄し、心が乱れる。
――だけど、皆が隠れてるかもしれないし……。
司は先ほどの自分を思い出した。あの場所にじっと隠れていれば、進展がない代わりに恐怖も最小限に抑えられた。もし誰かが恐怖で動けなくなっていたなら、たとえ自分であっても安心するに違いないと司は思う。
――黒川先輩なら、じっと待つより動き回って探すはずだ。
再び耳を当てて静かなことを確認し、明かりを消してからゆっくりとドアノブを握る。内開きのドアを押し開ける音は、強い雨のおかげで心配ない。