海士坂 司
廊下を左に進む。
階段は下りず、右に折れて建物中央へと向かった。
左手にいかめしい扉が現れる。光を当ててもなお闇に溶けそうな濃灰色だ。金のドアノブはめっきが擦り切れて黒ずんでいる。
ノブを握る。
とっさに手を引いた。
金属特有の冷ややかさがあるべきそれは、人肌のように温かった。手が穢れたような強い嫌悪感がある。湧き上がる忌避感情を苛立ちで押さえつけ、扉を押し開けた。
生々しい臭いが司の肌を撫でる。
広い部屋だ。奥まで光が届かない。部屋そのものが幻想のようにおぼろげだ。
足元に引かれているのは赤いロングカーペットだった。それを挟むように足が並んでいる。
順に照らすと、どれも等身大の人形だ。血の通わない肌が陰鬱に光を反射している。男女の人形は左右合わせて六体あり、どれも黒で正装している。向かい合うように中央を見ていた。
――参列者か。
一歩踏み入れる。
背後で扉が軋む音がした。
振り向いた瞬間、鈍い金属音をたてて閉まる。
動揺してはいけないと司は自らに言い聞かせた。相手の思うつぼだ。しかし理性とは裏腹に心音は高まる。どうにも心が定まらず、寄る辺ない。ここにいるのは、黒川のような明瞭な加害者ではないのだ。
――冷静でなければ。
正面に向き直る。そして目を疑った。
全員が、司を見ていた。
ずらりと並ぶ六体のうち、四体には特徴があった。どの人形も顔に生皮をかぶっている。張りを失った肉仮面からはアスカのときと同じ臓物の臭いがした。あるいは腐敗しつつある脂肪細胞の臭いなのかもしれない。
生川をかぶった男の人形は三体あった。光を当てて順繰りに見る。乾きかけてくすんだ肌もあれば、新鮮ながらも穴だらけのものもあった。どちらも探していたものではない。
三体目の人形を見た瞬間、司はすぐに分かった。
「……聖一」
立ち姿はよく似ているけれど、やはり本物とは違った。黒ではなく灰色の髪に、一回り小さな体躯、足もいささか短い。それでもこの肌は聖一だった。司と同じものでできていた、たったひとりの兄弟だ。
いとも容易く涙がこぼれる。心を折るには充分だった。
聖一が何をしたのか。父親譲りの優しさから少女を助けただけの弟が。誘拐事件の罪悪感から心を閉ざし、誰とも交わろうとせずひっそりと暮らしてきた彼が。
ちゃんと話し合えていれば良かったのかもしれない。いっそ責め立てた方が救えたのかも。しかし今さら何を思おうと遅かった。あのとき、田舎道で電波障害が起きたとき、司さえ変な気を利かせずにいればよかったのだ。ここに来ると判断したのも、勝手に車を飛び出してジャマーの圏外に出たのも、全ては司のせいだ。誘拐犯の娘など放っておけばいいと、聖一は忠告してくれていたのに。
――聖一を殺したのは、僕だ。
思慮の浅さが死に追いやった。弟は司を守るために犠牲となった。さっさと司が死んでいれば、聖一は今も生きていたはずなのに。
――だったら、もう死のうか……。
逝ってしまえと心が言った。温く湿った空気が首を撫でる。
全部手放してしまおう。守るべきものはもうないのだから。ここにいる何かに、全てをゆだねよう。
――ピシン!
鋭い音で我に返る。
目の前の人形の首に亀裂が入っていた。傷口からぱらぱらと石粉が零れる。首だけがぐらりと揺れて、司に向かって転げ落ちた。
「わ……!」
思わず抱きとめる。切断面が上を向いた。中は空洞になっているらしい。奥に赤黒い何かが詰められている。
次いで、首なし人形がバランスを失った。繋ぎを失った身体が、銅と両足とに分裂する。そのまま全身は崩壊し、床に叩きつけられて四散した。暴力的な音が鼓膜を殴る。破片が床の上でからからと尾を引いて笑った。肉感的なフォルムのそれは、無機物のような断面をあちこちにのぞかせている。
司は呆然とした。
腕の中には生首が収まっていた。本物の皮膚の奥で、ガラスの眼球がうつろに司を見返している。笑っているようにも見えたし、咎めているようにも見えた。首の切断面からは、とうに酸化した血液がとろとろと垂れる。
ふと気が付いた。あれほど切実だった自殺願望が霧散している。なぜ急に心境が変わったのか理解できない。まだ成すべきことは残っているのに。
前を向く。
部屋の奥に二つの棺が並べ置かれていた。その上には、天蓋のようにオーガンジーのレースが飾り付けられている。棺を囲う形で垂れていた。棺の中は、ここからでは窺えない。
人形の群れのあいだを通り過ぎる。
黒塗りの棺はどちらも花であふれていた。一様に色を失っており、ミイラのように干からびている。
右は空っぽだった。おそらくは司の指定席なのだろう。
左には女性が収まっていた。血まみれの身体の上から、白いウェディングドレスが掛けられている。血を吸った衣装の繊維が、毛細血管のように細く赤く染まっていた。
「紗雪……」
間違いない。この屋敷に来て最初に見たあの死体だ。坂俣アスカと名乗っていた、同じ研究室の仲間だった。
――こいつが元凶か……?
覗き込む。おぞましくはあるが、それ以上の何かは感じない。司には、魂の抜けた空っぽの器にしか思えなかった。
――それじゃ、聖司人形?
この部屋に父の姿を模した人形があるのか。バージンロードを挟む五体の人形のうちどれかがそうなのか?
そこまで考えたとき、司はふと思った。なぜ聖司人形なのか。狙われているのは司自身なのに。司の父のことなど、紗雪にとって重要だとは思えないのに。
今までに知り得た事実を掘り起こす。見落としていたものを拾い上げる。もしかしたら大きな思い違いをしていたのかもしれない。
――「妙法寺家当主は代々未婚の女性でなければならない」のだとしたら。
ファイルに書かれていたことを思い出す。
――紗雪の父親は、誰なんだ?
無視できない仮説が頭に浮かぶ。それはほぼ確信と言ってよかった。
――「妙齢になった妙法寺家当主は村の男から一人を指名し、跡継ぎを産むために種を貰う」……。
右の棺の横に立って部屋を見渡す。聖司人形はどこにあるのか。
もとは何の部屋だったのか分からないが、がらんどうだ。家具も雑貨もゴミすらもない。白い壁の四角い箱に、参列者と棺がひっそり並べられているだけだ。生き物の息使いを感じない。部屋そのものが死んでいる。
何かが落ちる音がした。
振り向く。何か小さなものが床を跳ねたような。しかし光の輪には何も見当たらない。司以外、動くものはない。
問いかけるように腕の中の首を見る。ほのかな体温を感じた。ずっと抱いていたせいだろうか、それとも。
確かめようと両手で優しく頬を挟む。指の股のあいだを、皮から染み出た体液が伝っていく。人形の顔の上で、聖一が静かに乾きつつあった。血に塗れた唇のあいだから、人形の白い歯がのぞいている。どれも犬歯のように尖っていた。
――歯なんて見えてたっけ……?
顔を近づける。
鼻の先で、口がぱっかりと開いた。
「な……」
とっさに顔をそむけた。本能が捨てろと警告する。
――だけど……
放る寸前、怯む。
――聖一を見離すのか?
一瞬の迷いが隙を産んだ。
のこぎりのような歯が腕に食らいつく。
「つっ!」
強烈な痛みと痺れだ。灰色の髪を鷲掴みにする。どうにか引きはがそうとするも、尋常な力ではない。
司はよろめき、数歩下がった。そこに何があるかなど覚えていない。
足を取られたと思ったときにはもう遅かった。
死者の寝床が口を開けている。仰向けに倒れ込み、後頭部をしたたか打った。枯れた花が耳元でざわめく。老婆の歓喜の声にも聞こえた。
「くそ!」
左腕を振り上げ、縁に叩きつける。生首の顔を覆っていた皮が、力尽きたように司の胸元に落ちた。人形の相貌があらわになる。
司は声を失った。
よく知った顔が、いまだ噛みつきながらにたにたと笑っている。
――聖司人形!
髪は現在の父と同じ色だが、顔立ちは若い。三十手前くらいだろうか。あちこちに乾いた肉片がこびりついている。光が当たってないにもかかわらず、見開かれた目の虹彩まで見えた。蒼い灯を内に抱いているかのようだ。
再び棺の縁に叩きつける。顔にぱらぱらと細かな破片が降る。
背筋を何かが這う感覚がした。虫だ。耳の後ろを幾百もの足がかすめる。死に花の中で、無数の虫がうごめいている。
痛みが熱と鼓動にすり替わっていく。腕そのものが命になったようだ。魂は脈打ちながら、体温ごと流れ出ていく。
熱い、熱い、熱い。
司は炎を見ていた。
三年前の火事だ。闇を照らす大きなかがり火が火の粉を噴き上げている。火の手の届いていないアトリエの隅で『女』はうずくまっていた。逃げることもせず、守るように人形を抱いている。炎が回らなくとも、じきに一酸化炭素中毒で死ぬだろう。生への執着などとうに捨てていることは、その目の昏さで分かる。『女』が執着しているのはただひとり、少女のころから愛していた男だ。しきたりのせいで結ばれないのならと、しきたりを利用して種を貰った。
その半年後、彼は既婚者となった。
因習は家ごと焼き払おう。それでも、失った時代は還らない。彼と恋をして家庭を築くことなど不可能だ。切れた赤い糸を引きずったまま、たった一人で枯れていく。
愛した人の偽物に頬を寄せる。右手に持っていたナイフを自らの顔に当てた。えらに先端を入れる。皮膚の裂ける音がして、痛みが電気のように身体を巡った。ここで引き抜いてはいけないと、躊躇せず頬まで挿入する。左手で頬を掴み、押し上げるようにして一気に削ぎ切った。目の前でちかちかと火花が散る。
痛みで手が止まる前に、今度は胸を突き刺した。心臓を取り出すことはできなくても、心臓から流れ出る血全てで彼を満たすことならできる。心臓にまで達したのか、おびただしい血が噴き出した。命の奔流が聖司へと繋がっていく。
次第に身体感覚が曖昧になってきた。火事で熱いのか、痛みが熱を伴っているのかが分からない。
熱い、熱い、熱い。
これは終わりではない。始まりだ。海士坂は海士坂へ、妙法寺は妙法寺へ。伴侶を得る前にやり遂げなければ。どんなことをしてでも。
今度こそ、幸せになるために。
司は喘ぐように息を吸った。
よどんだ空気が口腔を滑り落ちる。喉から肺へと侵していく。
「誰が……、お前なんかと」
かすれた声を上げると、胸が潰されるように痛んだ。思わず呻く。
生首を睨むと、父の顔ではなくなっていた。爛れた顔の女が長い髪を振り乱し、腕にしゃぶりついている。
熱く疼く司の手を、誰かが握った。持ち上げる力の残っていない腕を大きく振りかぶらせる。
右腕が高らかに掲げ挙げられた。
棺に頭部を激突させる。熟れすぎた柿の潰れる音がした。それでも女は黄ばんだ歯をむき出して、いびつな頭で笑っている。左腕の感覚がなくなってきた。
司は右手でベルトの内側を探った。
挟んでおいたスプレー缶を取り出す。くくり付けたライターを付けた。頼りない橙の光が灯る。
「腕だけはくれてやる」
棺の内壁にスプレーの上部を押し付ける。霧状の石油が噴き出して、小さな火を飲み込んだ。
灼熱の業火が闇を照らす。
「ひとりで地獄に落ちろ!」
腕ごと峰子の首を燃やす。激しい痛みに歯を食いしばる。潰れかけの頭はとろりと蕩け、眼球が急速に膨れ上がった。卵ほどの大きさになったそれが、湿気た音を立ててはじける。裂け目からあふれたのは羽虫の群れだ。しかし次の瞬間には焼け、縮れて、黒い粉となる。
――アアアアアアアアアアアア。
女の声がまとわりつく。司は腹部を押さえて起き上がり、炎の瘤を内壁に打ち付ける。ついに頭は叩き落された。万力のようだった口がうつろに開いている。なめらかだった肌は爛れ、赤黒く粟立っていた。
枯れた花が煙を吹き、鮮やかな光を纏う。
整わない呼吸のまま、対の棺桶に横たわる女を見やる。母の人生をなぞり、因果な恋をし、自分を侵食されながらも、母の手を振りほどけずにいた彼女。顔も心臓も奪われた紗雪に、本当の生はあったのだろうか。
「……そんな」
ふたつの棺に愕然とする。
どんなことをしてでもと峰子は言った。幸せのために、司が伴侶を得る前に式を挙げるのだと。司は既婚者である父の代わりに選ばれ、この棺に収まるはずだった。峰子が愛した男の面影を残す息子を、父親と同一視した。
だとしたら紗雪は。これが人形婚ならば、彼女の役割は何だったのか。
「こんなことのために……」
あまりの非道さに目がくらむ。
指すところはひとつしかない。
「……紗雪ちゃんは、お前の人形じゃない!」
新婦の棺が、諦めたように燃え始めた。