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冥婚ドヲリズム  作者: 三石メガネ
12/13

海士坂 司

 廊下を左に進む。

 階段は下りず、右に折れて建物中央へと向かった。

 左手にいかめしい扉が現れる。光を当ててもなお闇に溶けそうな濃灰色だ。金のドアノブはめっきが擦り切れて黒ずんでいる。

 ノブを握る。

 とっさに手を引いた。

 金属特有の冷ややかさがあるべきそれは、人肌のように温かった。手が穢れたような強い嫌悪感がある。湧き上がる忌避感情を苛立ちで押さえつけ、扉を押し開けた。

 生々しい臭いが司の肌を撫でる。

 広い部屋だ。奥まで光が届かない。部屋そのものが幻想のようにおぼろげだ。

 足元に引かれているのは赤いロングカーペットだった。それを挟むように足が並んでいる。

 順に照らすと、どれも等身大の人形だ。血の通わない肌が陰鬱に光を反射している。男女の人形は左右合わせて六体あり、どれも黒で正装している。向かい合うように中央を見ていた。

 ――参列者か。

 一歩踏み入れる。

 背後で扉が軋む音がした。

 振り向いた瞬間、鈍い金属音をたてて閉まる。

 動揺してはいけないと司は自らに言い聞かせた。相手の思うつぼだ。しかし理性とは裏腹に心音は高まる。どうにも心が定まらず、寄る辺ない。ここにいるのは、黒川のような明瞭な加害者ではないのだ。

 ――冷静でなければ。

 正面に向き直る。そして目を疑った。

 全員が、司を見ていた。

 ずらりと並ぶ六体のうち、四体には特徴があった。どの人形も顔に生皮をかぶっている。張りを失った肉仮面からはアスカのときと同じ臓物の臭いがした。あるいは腐敗しつつある脂肪細胞の臭いなのかもしれない。

 生川をかぶった男の人形は三体あった。光を当てて順繰りに見る。乾きかけてくすんだ肌もあれば、新鮮ながらも穴だらけのものもあった。どちらも探していたものではない。

 三体目の人形を見た瞬間、司はすぐに分かった。

「……聖一」

 立ち姿はよく似ているけれど、やはり本物とは違った。黒ではなく灰色の髪に、一回り小さな体躯、足もいささか短い。それでもこの肌は聖一だった。司と同じものでできていた、たったひとりの兄弟だ。

 いとも容易く涙がこぼれる。心を折るには充分だった。

 聖一が何をしたのか。父親譲りの優しさから少女を助けただけの弟が。誘拐事件の罪悪感から心を閉ざし、誰とも交わろうとせずひっそりと暮らしてきた彼が。

 ちゃんと話し合えていれば良かったのかもしれない。いっそ責め立てた方が救えたのかも。しかし今さら何を思おうと遅かった。あのとき、田舎道で電波障害が起きたとき、司さえ変な気を利かせずにいればよかったのだ。ここに来ると判断したのも、勝手に車を飛び出してジャマーの圏外に出たのも、全ては司のせいだ。誘拐犯の娘など放っておけばいいと、聖一は忠告してくれていたのに。

 ――聖一を殺したのは、僕だ。

 思慮の浅さが死に追いやった。弟は司を守るために犠牲となった。さっさと司が死んでいれば、聖一は今も生きていたはずなのに。

 ――だったら、もう死のうか……。

 逝ってしまえと心が言った。温く湿った空気が首を撫でる。

 全部手放してしまおう。守るべきものはもうないのだから。ここにいる何かに、全てをゆだねよう。

 ――ピシン!

 鋭い音で我に返る。

 目の前の人形の首に亀裂が入っていた。傷口からぱらぱらと石粉が零れる。首だけがぐらりと揺れて、司に向かって転げ落ちた。

「わ……!」

 思わず抱きとめる。切断面が上を向いた。中は空洞になっているらしい。奥に赤黒い何かが詰められている。

 次いで、首なし人形がバランスを失った。繋ぎを失った身体が、銅と両足とに分裂する。そのまま全身は崩壊し、床に叩きつけられて四散した。暴力的な音が鼓膜を殴る。破片が床の上でからからと尾を引いて笑った。肉感的なフォルムのそれは、無機物のような断面をあちこちにのぞかせている。

 司は呆然とした。

 腕の中には生首が収まっていた。本物の皮膚の奥で、ガラスの眼球がうつろに司を見返している。笑っているようにも見えたし、咎めているようにも見えた。首の切断面からは、とうに酸化した血液がとろとろと垂れる。

 ふと気が付いた。あれほど切実だった自殺願望が霧散している。なぜ急に心境が変わったのか理解できない。まだ成すべきことは残っているのに。

 前を向く。

 部屋の奥に二つの棺が並べ置かれていた。その上には、天蓋のようにオーガンジーのレースが飾り付けられている。棺を囲う形で垂れていた。棺の中は、ここからでは窺えない。

 人形の群れのあいだを通り過ぎる。

 黒塗りの棺はどちらも花であふれていた。一様に色を失っており、ミイラのように干からびている。

 右は空っぽだった。おそらくは司の指定席なのだろう。

 左には女性が収まっていた。血まみれの身体の上から、白いウェディングドレスが掛けられている。血を吸った衣装の繊維が、毛細血管のように細く赤く染まっていた。

「紗雪……」

 間違いない。この屋敷に来て最初に見たあの死体だ。坂俣アスカと名乗っていた、同じ研究室の仲間だった。

 ――こいつが元凶か……?

 覗き込む。おぞましくはあるが、それ以上の何かは感じない。司には、魂の抜けた空っぽの器にしか思えなかった。

 ――それじゃ、聖司人形?

 この部屋に父の姿を模した人形があるのか。バージンロードを挟む五体の人形のうちどれかがそうなのか?

 そこまで考えたとき、司はふと思った。なぜ聖司人形なのか。狙われているのは司自身なのに。司の父のことなど、紗雪にとって重要だとは思えないのに。

 今までに知り得た事実を掘り起こす。見落としていたものを拾い上げる。もしかしたら大きな思い違いをしていたのかもしれない。

 ――「妙法寺家当主は代々未婚の女性でなければならない」のだとしたら。

 ファイルに書かれていたことを思い出す。

 ――紗雪の父親は、誰なんだ?

 無視できない仮説が頭に浮かぶ。それはほぼ確信と言ってよかった。

 ――「妙齢になった妙法寺家当主は村の男から一人を指名し、跡継ぎを産むために種を貰う」……。

 右の棺の横に立って部屋を見渡す。聖司人形はどこにあるのか。

 もとは何の部屋だったのか分からないが、がらんどうだ。家具も雑貨もゴミすらもない。白い壁の四角い箱に、参列者と棺がひっそり並べられているだけだ。生き物の息使いを感じない。部屋そのものが死んでいる。

 何かが落ちる音がした。

 振り向く。何か小さなものが床を跳ねたような。しかし光の輪には何も見当たらない。司以外、動くものはない。

 問いかけるように腕の中の首を見る。ほのかな体温を感じた。ずっと抱いていたせいだろうか、それとも。

 確かめようと両手で優しく頬を挟む。指の股のあいだを、皮から染み出た体液が伝っていく。人形の顔の上で、聖一が静かに乾きつつあった。血に塗れた唇のあいだから、人形の白い歯がのぞいている。どれも犬歯のように尖っていた。

 ――歯なんて見えてたっけ……?

 顔を近づける。

 鼻の先で、口がぱっかりと開いた。

「な……」

 とっさに顔をそむけた。本能が捨てろと警告する。

 ――だけど……

 放る寸前、怯む。

 ――聖一を見離すのか?

 一瞬の迷いが隙を産んだ。

 のこぎりのような歯が腕に食らいつく。

「つっ!」

 強烈な痛みと痺れだ。灰色の髪を鷲掴みにする。どうにか引きはがそうとするも、尋常な力ではない。

 司はよろめき、数歩下がった。そこに何があるかなど覚えていない。

 足を取られたと思ったときにはもう遅かった。

 死者の寝床が口を開けている。仰向けに倒れ込み、後頭部をしたたか打った。枯れた花が耳元でざわめく。老婆の歓喜の声にも聞こえた。

「くそ!」

 左腕を振り上げ、へりに叩きつける。生首の顔を覆っていた皮が、力尽きたように司の胸元に落ちた。人形の相貌があらわになる。

 司は声を失った。

 よく知った顔が、いまだ噛みつきながらにたにたと笑っている。

 ――聖司人形!

 髪は現在の父と同じ色だが、顔立ちは若い。三十手前くらいだろうか。あちこちに乾いた肉片がこびりついている。光が当たってないにもかかわらず、見開かれた目の虹彩まで見えた。蒼い灯を内に抱いているかのようだ。

 再び棺の縁に叩きつける。顔にぱらぱらと細かな破片が降る。

 背筋を何かが這う感覚がした。虫だ。耳の後ろを幾百もの足がかすめる。死に花の中で、無数の虫がうごめいている。

 痛みが熱と鼓動にすり替わっていく。腕そのものが命になったようだ。魂は脈打ちながら、体温ごと流れ出ていく。

 熱い、熱い、熱い。


 司は炎を見ていた。


 三年前の火事だ。闇を照らす大きなかがり火が火の粉を噴き上げている。火の手の届いていないアトリエの隅で『女』はうずくまっていた。逃げることもせず、守るように人形を抱いている。炎が回らなくとも、じきに一酸化炭素中毒で死ぬだろう。生への執着などとうに捨てていることは、その目の昏さで分かる。『女』が執着しているのはただひとり、少女のころから愛していたひとだ。しきたりのせいで結ばれないのならと、しきたりを利用して種を貰った。

 その半年後、彼は既婚者となった。

 因習は家ごと焼き払おう。それでも、失った時代は還らない。彼と恋をして家庭を築くことなど不可能だ。切れた赤い糸を引きずったまま、たった一人で枯れていく。

 愛した人の偽物に頬を寄せる。右手に持っていたナイフを自らの顔に当てた。えらに先端を入れる。皮膚の裂ける音がして、痛みが電気のように身体を巡った。ここで引き抜いてはいけないと、躊躇せず頬まで挿入する。左手で頬を掴み、押し上げるようにして一気に削ぎ切った。目の前でちかちかと火花が散る。

 痛みで手が止まる前に、今度は胸を突き刺した。心臓を取り出すことはできなくても、心臓から流れ出る血全てで彼を満たすことならできる。心臓にまで達したのか、おびただしい血が噴き出した。命の奔流が聖司へと繋がっていく。

 次第に身体感覚が曖昧になってきた。火事で熱いのか、痛みが熱を伴っているのかが分からない。

 熱い、熱い、熱い。

 これは終わりではない。始まりだ。海士坂は海士坂へ、妙法寺は妙法寺へ。伴侶を得る前にやり遂げなければ。どんなことをしてでも。

 今度こそ、幸せになるために。


 司は喘ぐように息を吸った。

 よどんだ空気が口腔を滑り落ちる。喉から肺へと侵していく。

「誰が……、お前なんかと」

 かすれた声を上げると、胸が潰されるように痛んだ。思わず呻く。

 生首を睨むと、父の顔ではなくなっていた。爛れた顔の女が長い髪を振り乱し、腕にしゃぶりついている。

 熱く疼く司の手を、誰かが握った。持ち上げる力の残っていない腕を大きく振りかぶらせる。

 右腕が高らかに掲げ挙げられた。

 棺に頭部を激突させる。熟れすぎた柿の潰れる音がした。それでも女は黄ばんだ歯をむき出して、いびつな頭で笑っている。左腕の感覚がなくなってきた。

 司は右手でベルトの内側を探った。

 挟んでおいたスプレー缶を取り出す。くくり付けたライターを付けた。頼りない橙の光が灯る。

「腕だけはくれてやる」

 棺の内壁にスプレーの上部を押し付ける。霧状の石油が噴き出して、小さな火を飲み込んだ。

 灼熱の業火が闇を照らす。

「ひとりで地獄に落ちろ!」

 腕ごと峰子の首を燃やす。激しい痛みに歯を食いしばる。潰れかけの頭はとろりと蕩け、眼球が急速に膨れ上がった。卵ほどの大きさになったそれが、湿気た音を立ててはじける。裂け目からあふれたのは羽虫の群れだ。しかし次の瞬間には焼け、縮れて、黒い粉となる。

 ――アアアアアアアアアアアア。

 女の声がまとわりつく。司は腹部を押さえて起き上がり、炎の瘤を内壁に打ち付ける。ついに頭は叩き落された。万力のようだった口がうつろに開いている。なめらかだった肌は爛れ、赤黒く粟立っていた。

 枯れた花が煙を吹き、鮮やかな光を纏う。

 整わない呼吸のまま、対の棺桶に横たわる女を見やる。母の人生をなぞり、因果な恋をし、自分を侵食されながらも、母の手を振りほどけずにいた彼女。顔も心臓も奪われた紗雪に、本当の生はあったのだろうか。

「……そんな」

 ふたつの棺に愕然とする。

 どんなことをしてでもと峰子は言った。幸せのために、司が伴侶を得る前に式を挙げるのだと。司は既婚者である父の代わりに選ばれ、この棺に収まるはずだった。峰子が愛した男の面影を残す息子を、父親と同一視した。

 だとしたら紗雪は。これが人形婚ならば、彼女の役割は何だったのか。

「こんなことのために……」

 あまりの非道さに目がくらむ。

 指すところはひとつしかない。


「……紗雪ちゃんは、お前の人形じゃない!」


 新婦の棺が、諦めたように燃え始めた。


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