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冥婚ドヲリズム  作者: 三石メガネ
11/13

海士坂 司

 「私には、責任があるから」

 きっと眉を釣り上げてコトリが言った。

「司だけに全部を背負わせない。もうさっきみたいに一人で頑張るのはやめて」

「別に、これはタイミング的にこうなっただけで」

「嘘」

 真正面から切り捨てられた。

「投げやりになってるみたいに見える。もう死んでもいいって思ってるみたいに……。そうじゃないなら私にも手伝わせて。腕力はないけど、ひとりよりはマシでしょ?」

 ――ひとりじゃないよ。

 言い返そうとして、やめた。また哀れまれるだけだ。けれど司は確かに聖一の気配を感じていた。そのおかげで今、ここにいる。

 ――生きているときよりもずっと、僕たちは近づいてる。

「……探しに行こう。呪いの出所は、まだ入ったことのない部屋にあるはずだ」

 入ったことのある部屋にあったならば聖一が教えてくれていたはずだ。付け焼刃にしろ、彼には死によって感じる力が備わったのだから。

「これは司が持ってて。私じゃ使いこなせないだろうから」

 スプレー缶の火炎放射器が差し出された。

「じゃあ代わりに」

 血肉と毛髪の絡みついた金槌を差し出す。

「え、遠慮しとく……」

「僕に全部背負わせないって言ったばっかじゃん」

「……うん……」

 顔を歪めて受け取った。お気に入りであろうドレスの裾で、持ち手をごしごしと擦っている。

「部屋を調べにいく前にスマホを回収しようか」

 トラップとして使ったコトリのスマホを本人に返した。今はランプがあるが、予備の光源があって困ることはない。

「それで、どこがまだ調べてない部屋なの?」

「口で説明するのは難しいんだけど」

 ピスガの画面をキャプチャし、ペイントソフトで描画する。

「これが一階で、画面中央奥が暖炉。その奥にあるのが隠し部屋。で、左右に二つずつ部屋があったよね。その部屋の奥がそれぞれ階段になってる」

「うん」

「つまり、隠し部屋をのぞくと一階には四部屋あるんだ。左右の奥の部屋二つは行った。手前二つがまだ行ってない」

「停電前に襲われたとき、私と奈々雄でこの二つの部屋を試したの。どっちも開かなかった」

「もう一度、試しに行ってみよう」

 まずは奈々雄が開けようとした部屋に向かった。玄関から見ると右の方だ。

 ドアノブをまわすが、スカスカと手ごたえがない。

「空回りして、どうしても開けられないの」

「細工されたのかな」

 ポケットからスパナを取り出す。こんなところで役立つとは思わなかった。

「それで開くの?」

「多分ね」

 ドアの隙間に、薄いスパナを下から差し込む。えぐるように手前に引くと、カチンと軽い金属音がした。

「わ、開いた」

 ドアが奥に向かって開く。中はやはり暗い。

 慎重に明かりをかざすコトリの脇をすり抜け、司は部屋に入った。

「外から見たときはここ電気ついてたよね。車から降りたとき」

 壁沿いにある飾り棚に洋食器が並べられていた。観賞用なのか、どれも見られることを意識したディスプレイだ。中央には落ち着いたピンクのラグが敷かれ、一人掛け用の丸テーブルがある。ガラスの花瓶が置かれていたが、生けられた生花はぶらりと身を折るように垂れており、今にも溶けそうな半透明の黄土色に変色していた。

「ここ、奥さんの趣味の部屋だったのかな」

「女性っぽい雰囲気だね」

 裁縫もたしなんでいたのか、壁にはキルトのタペストリーが飾られている。机の下にはカバーを掛けたミシンが置かれていた。右の窓際にはトルソーがあり、作りかけの黒いドレスが着せられている。途中ではあるが見事な腕前だ。察するに、人形の服の大半は彼女の作品ではないかと思われた。

「布とかいっぱい揃ってる」

 縦長の木箱には、傘立てに差した傘のように、ポールに巻かれた布地が所狭しと刺さっていた。その横にある本棚は、どれも洋裁に関する書籍ばかりだ。

「これは……?」

 一冊だけ毛色の違う背表紙があった。読み込まれたような使用感のあるそれを手に取る。

「日記帳?」

「みたいだね」

 パラパラとめくる。日付は所々飛んでいたが、達者な字で人間味のある文章が綴られていた。


**


×月×日

昨日から新しいエプロンを着けてるのに、うちの人はまったく気づかない。

二週間前からせっせと縫ってたのに。

六花ちゃんに縫った白のヘッドドレスはすぐに気付いたのに。

どこに目がついてるのかしら!


×月×日


洗濯物が乾かないので朝からマイセンでハーブティーを飲んだ。

いらいらするから、杏寿ちゃん用のドレスは今日はお休み。

昼からあの人が電話で話してた。また人形の娘さん。

新しい子をお迎えするのかも。

田舎の年寄り連中がうわさするのは確実。

夫が変人なのは分かってますけど。


**


 司がページから目を上げる。

「この『人形の娘さん』って、『人形師の娘』ってことかな?」

「妙法寺紗雪でしょうね」

 続きを読む。

 メモ書きのような平凡な日記は、次第に妙な方向へと進んでいく。


**


×月×日

今度のお迎えが決まったと夫談。

これが最後。

妙法寺峰子が一番大事にしていたらしい人形プラス遺品や写真、もろもろ。

最期の一点まで。

亡くなったお母様のもの全部うちに処分してもらおうってことね。

娘と母親ってこんなものなのね。

やっぱり子供なんか産まなくて正解。

お利口な人形だって手がかかるのに。


×月×日

聖司くん、火事から生還したとは思えないほどに状態がきれい。

煤けたところが茶色っぽく変色していたので、お化粧をしてみようか。

胴体部分もすこし汚れているが、洋服で隠れる。


×月×日

聖司くんかわいいんだけど、、、

最愛の子というだけあって素敵なんだけど、、、

でも、どうしても好きになれない。

ヘッドもボディもかわいいのに何が違うのか。

なんだか気に入らない。


×月×日

聖司くんがいや。目つきが気持ち悪い。

どの部屋にいてもずっと睨まれている気がする。

もうタダでもいいから手放したい。


×月×日

妙法寺峰子の遺品を見た。

夫が見せたがらなかった理由が分かった。

はやく処分しなければ。

あの人形はおかしい。


×月×日

なぜ聖司にこだわるのか。

手放せと言うのに頑として譲らない。

狂いそうだ。


×月×日

狂っていたのは夫


**


 そこで日記は途切れている。

「……聖司っていう人形がカギになってるみたいね」

 コトリの言葉も耳に入らず、司は日記に見入っている。

「どうしたの? この人形、知ってるの?」

「いや……」

 人形ならば知らない。しかし、この名前は昔から知っている。

「そういえば、聖司って聖一君と司を足したみたいな名前だよね。顔も似てるのかな」

「似てるだろうね」

 どういうことだ、と司は思う。なぜこの名前がここに出てくるのか。

「これ……お父さんの名前だ」

「え?」

「海士坂聖司。字も一緒だ。僕たちはそこから一文字ずつ取って名付けられた」

 父と峰子。まさかこの二人が繋がるとは思いもよらなかった。

「そうだとすると、妙法寺峰子はあなたのお父さまが好きだったってことになるのよね」

 コトリが人差し指で文をなぞる。

 ――『妙法寺峰子が一番大事にしていたらしい人形』。『最愛の子』。

 彼女は司たちの父の人形を作って溺愛していた。峰子にとって特別な存在であったことは疑いようもない。

「僕が誘拐されるまではみんなこの村に住んでたし、接点はあっただろうね。父もこの村の出身だから、子供のころから知ってるだろうし」

「母親と娘の男性の趣味って、ここまで似るもんなのね」

「……紗雪は、どうして人形を手放したんだろう」

 父にそっくりの人形ならば、司にも似ているはずだ。それなのに紗雪は売った。偽名に使うほど司を思っているにも関わらず。

「分からない。アスカさん、お金に困ってたわけじゃなさそうだったし」

「そうなんだ?」

「服は全部レストローズで固めてた。ネイル知らないくらいの天然だけど、服にはこだわりがあったみたい。大事なものを売るくらいお金に困ってたら五万超えるコートなんか買わないよ」

 コトリの論には頷けた。母を思う気持ちがあったら、服が欲しくとも遺品など売らない。にもかかわらず最愛の人形まですべて手放したのは心理的な理由があるからだ。

「紗雪は、母親が嫌いだった……?」

「遺品を手放すなんてよっぽど割り切ってないと無理よね。嫌いってとこまで行くかは分からないけど」

「だったら五万のコートの出所はどこ?」

 コトリがきょとんとしている。質問の意味が分からないようだ。

「世間知らずのお嬢様が援助なしに生活するのは無理だ。被服費にお金を掛けられるってことは援助を受けてたってことだよ」

「それはやっぱり実家からじゃない? 親が好きじゃなくても仕送りまでは断らないでしょ。親が嫌いならなおさら。離れて生活できなくなっちゃうもん。それに妙法寺家は財産家なんでしょ」

「ってことは、親公認の一人暮らしだった?」

「そうでしょうね」

 思い出す。過去の誘拐事件の動機は、紗雪に親しい友達を作りたかったからではないのか。それほど過保護な母親が、一人娘を県外で一人暮らしさせたりするのか。

 ――それとも、それを許すだけの理由があった?

 県外への進学を望んだのは紗雪なのか。アナグラムを偽名にしたのは、紗雪なのか。

 紗雪が今になって行動を起こしたのは、なぜか。

「この日記の最後って、今から二か月も前なのね。それまでは、どんなに間が空いても一週間くらいなのに」

 コトリが確かめるようにページをめくる。不穏な書き込み以降は、どのページもまっさらなままだ。

「そのあとに死んだからだよ」

「なんで言い切れるわけ?」

「二階の部屋で二人分の死体を見たって言ったよね。そのうち一体は女性で、ベッドの下に押し込められてたんだ。もう一体はヒノノメさんで、廊下に立たされてた。紗雪みたいなドールスタンドを使わないで壁にもたれさせて立たせてたから、全身が死後硬直中だったんだと思う」

 紗雪や奈々雄に至ってはまだ死後硬直が始まってすらいなかった。つまり、殺されたばかりということだ。

「それに比べて、ベッド下の女性は腐ってた。僕は臭いしか嗅いでないけど、かなりの時間が経ってるって、聖一が言ってた」

 コトリの目が泳ぐ。

「……そ、そう」

「つまり、ひとりだけ殺された時間が極端に違うんだ。だからこの日記の日付くらいに……今から大体二か月くらい前に殺されたのかなあって」

「それは、ヒノノメさんに?」

「だと思う」

 ヒノノメは聖司人形を手に入れてからおかしくなった。妻の、人形を処分したいという願いを頑として受け入れなかった。そして、妻に言わせるなら「狂った」。

「奥さん、こっそり人形を処分しようとしたのかもね。それでヒノノメさんに殺された……」

「ヒノノメを狂わせたのはお父さんの人形だったんだ。ってことは、この状況を作り出してる『呪物』は聖司人形だ」

 確信する。これで目標が定まった。

 あとは、どこにあるか探すだけだ。

「一階で入ったことのない部屋はあと一つ。二階でも二部屋しかない。もうすぐで、手が届く」

 恐怖よりも期待が勝っていた。黒川は死に、残るはただの人形だ。もう少しで聖一の仇を討てる。弟の死を、償わせることができる。

 その後この部屋を調べたが、日記以外にめぼしいものはなかった。

 二人はホールに戻ることにした。

 あと三部屋を調べれば、呪いの源に辿り着く。人形の顔も大体予想がつくし、さほど難しくはないだろう。分からなくても聖一が教えてくれるはずだ、と司は思った。

 オイルランプとスマホを手に、ホールの闇をかき分ける。

 雨音は先ほどより弱まっていた。冷たいノイズを踏みしめるように固い足音が響く。低く安定感のある足音が司だ。その後ろから、高く細い足音が追いかける。ホールの中ほどに差し掛かっていた。

 唐突に、ひとつの足音が止む。

「……コトリ?」

 振り向いた。ランプを持ったコトリが、歩く途中の姿勢のまま、息を震わせて立ち止まっている。

「あ、あし……足……」

「え?」

「掴まれてる……!」 

 叫びとともにランプが落ちた。火が床をなめ、足元を照らす。

 黒川が、コトリの足に噛みついていた。

 片方の目玉は飛び出し、顎も砕けて異常な角度になっている。口の端が裂け、ちぎれながらも、彼女に食らいついていた。

「しつこいなあ」

 司は大きく反動をつけて蹴り上げる。頭は体液を撒き散らし、上半分だけ吹き飛んだ。

 残った下あごが支えを失い、床へとずり落ちる。割れたランプの火を受けて、じゅうっと音を立てた。断面から粘度の高い血がどろりとあふれ出す。臭い煙が立ち上り、瞬く間に火が消えた。

 完全な暗闇が訪れる。

「大丈夫だった?」

 呼びかけながらポケットに手を入れる。電池の節約のため休ませておいたが、またスマホの世話になるしかない。

「……コトリ?」

 何も見えない。反応がない。しかし黒川は排除したし、無事なはずだ。

 気楽に構えていた司の耳元で、唐突に声がした。

 ――後ろに下がりなさい。

 反射的に後ずさる。直後、吹き降ろすような風が鼻先をかすめた。

 大理石の床が割れる音が響く。

「……!」

 スマホで正面を照らす。金槌を打ち下ろしたコトリが、上半身をゆっくりと起こした。

(ぁけまくも……かしこぉき、木守神社の大前にぃ……」

 首の座らない赤子のように、頭がぐらぐらと不安定だ。もともと大きな目はさらに見開かれ、食虫植物のようなグロテスクさがある。

八十日日やそかびはああああれぇど……今日を生日いくひの、足日たるひと……

選定えらびさだめてぇ……」

 ろれつの回らない口から、一筋の唾液が垂れる。

 それが落ちきるのを見る前に、司は走り出した。

人形ひとかたの……媒妁なかだちりぃぃいいい」

 向かうは階段だ。一階のもう一部屋がまだ調べていないが、停電前にコトリが試して開かなかったと言っていた。これほど開けた場所では、ドアが開かなかった場合に即捕まってしまう。

 ――足なら僕の方が速い。

 暖炉を右に曲がって階段へと向かう。後ろから呪詛のような声が追ってきた。カツカツと響くヒールの足音が近い。普段よりも随分と速かった。

 ――まずい。このまま追いかけっこを続けたら追いつかれる……!

 黒川の様子からして、乗っ取られた人間はリミッターを振り切った力を発揮しているようだ。となれば女であっても侮れない。普段まったく鍛えていない司では、単純な体力勝負に持ち込まれると太刀打ちできない可能性が高い。

 階段を駆け上りながらスマホの明かりを消す。このまままっすぐ進めばまだ入ったことのない部屋だ。調べたいが行き止まりになっている。

 対して、左に曲がればもう一つの階段へと向かうことで逃げ続けることができる。しかし走る時間が長くなることで、先にスタミナ切れになる恐れがある。

 ――行ったことのない部屋は、ドアが開く保証なんてない。だけど調べない限り、呪物は見つけられない。

 頭をフル回転させて答えを出す。

 ――イチかバチか、やるしかない。

 左に折れる廊下を無視し、突っ走った。その先は窓しかない突き当たりだ。この窓もきっと開かないのだろう。割る時間はない。

 人形のコレクションルームの奥隣りとなる部屋のドアが右に見えた。ノブに飛びつく。乱暴にひねり、ドアを押した。

 ――開かない!

 一階の時と同じくドアノブが空回りした。後ろの足音が徐々に大きくなる。今からではスパナで開ける時間などない。

 ――どうしたら……!

 光が急速に迫ってきた。眩しくてコトリの全体が視認できない。もちろんそれを見越してやっているのだろう。

 ベルトに挟んだスプレー缶に手を伸ばしかける。コトリのライトは目の前だ。火炎放射器で対抗するならば今しかない。

 司は火炎放射器から手を離した。

 覚悟を決めて仁王立ちする。光の輪の奥で金槌が大きく振りかぶられる。

 振り下ろされる寸前、斜め後ろに飛びのく。

 コトリも想定内だったようだ。鉄の塊が空を切り、懐深くまで切り込んでくる。

 司は状態を反らし、体重のかかっていない方の足で上段蹴りを放った。狙うはがら空きの胴だ。

「くっ……!」

 避け切れない金槌が太ももを打った。肉の中でみしりと嫌な音を立てる。

 同時に、コトリの左腹にも司の蹴りが入った。しかし後方によろめいたものの踏み留まる。

 ――次の一手が来る前に攻撃しなくては。

 素早く反対の足で蹴ろうと体重移動をした。その瞬間、殴られた部位に電撃が走るように痛む。

「う……」

 コトリが再度金槌を振りかぶる。

 痛みをこらえ、反対の足で蹴りを放つ。

「ぐがっ!」

 今度は正面に入った。しかし手ごたえが弱い。

 ――これじゃ転倒させられない……!

 上手く転べば隙ができたのに。その間に逃げる算段を整えられたのに。

 唇を噛んだ。後ろも左右も壁だ。足が痛い。こんな状態で逃げられるのか。

 死の不安がちらついた瞬間、意外なことが起きた。

 コトリの上半身がぐらつく。

 そのままバランスを崩し、仰向けに転んだ。

 ――わざとか?

 そう疑うほど不自然だ。たいした蹴りではなかった。

 しかし、疑念は抱きつつも即座に手は動いていた。左手でドアノブを掴み、右手でポケットのスパナを出す。コトリの脇を走って逃げるよりも部屋に入ることを選んだ。廊下は大した広さがないので足でも掴まれたら危ないし、この部屋に呪いの源がないかを確認する必要があるからだ。

 金属音とともに扉が開く。

 素早く身を滑り込ませた。背中で押すようにドアを閉める。すぐに、激しい打撃音が扉を揺らした。

 ――間一髪だ!

 安堵のため息を吐く。そしてすぐに感謝した。助かったのは偶然ではない。二度目ともなれば、いくら鈍い司でも気づく。

 今回コトリが転んだことも。バスルームの前で黒川と対峙したとき、いきなり相手が逃げ出したのも。

 ――聖一が助けてくれた。

 黒川やコトリの中に、霊的なものが入り込んでいるのだとしたら。黒川が使えなくなったとたんにコトリが突然の凶行に走ったことも理解できるし、逆に、別の霊的存在によって干渉され得ることも分かる。

 思い起こせば、バスルームのドアの前で黒川と対峙したときに黒川の様子がおかしかった。突然頭を振り乱したあとに、なぜか背を向けて二階へと逃げたのだ。

 ――そして聖一は、その直前から姿を消していた。

 あれは黒川の内部に干渉していたからではないか。そして今も、コトリに同様のことを行った。ずっと相手に憑いて無力化しないのは、それが不可能だからだろう。事実、聖一は言っていた。自分の力が「付け焼刃」であり、未練を残して死んだ者は「物や人に憑き、憑依対象からあまり離れることはできない」と。

 背後で、司の身体が揺れるほどに連打された。扉は頑丈そうだが所詮は木製だ。近いうちに突破される恐れもある。安心してばかりはいられない。

 ――ドアが壊れる前になんとかしなきゃ。

 すっくと立ちあがる。スマホの電池残量は三十パーセントを切っていた。有効に使わねばならない。

 辺りを照らした。

 もとは夫の寝室だったのだろう。妻が死んでいた部屋よりも大きいベッドが左手にあった。大きなソファや収納棚、デスクなどで、妻の部屋よりも手狭に見える。

 それだけならば一般的な部屋だ。しかし司は明かりをつけた瞬間、部屋全体が放つ異様な雰囲気を感じた。

 壁一面がゴミで埋め尽くされている。

「なに……?」

 コピー用紙、衣服、菓子の包み紙、写真など、様々な種類のものがピン止めされていた。まるで鱗だ。

「……? なんでこんな」

 手近なものから見ていく。T市万葉中学校という学校の卒業アルバムのコピーだ。様々な行事のときの個別写真と集合写真とが切り抜かれている。一ページ丸ごとではなく、何カ所か切り取られていた。

 生ぬるい既視感が胃の奥を撫でる。

 制服を着て笑っているのは、四年前の司だ。

 見回せば、どの写真にも司が映っている。むしろ何カ所か切り抜かれているのは彼が映っていないからだ。

 その隣に貼られているのは文集のコピーだ。転校先の小学校で書いた『将来の夢』についてのものだった。消防士になって困った人を助けたい、と拙い字で書かれている。

 つい最近、大学入学時のものもあった。通学中の後ろ姿を隠し撮りしたようだ。何も気づかないまま、道端で無防備にあくびをしている。連写したようで、似たような写真が十四枚みっちりと並んでいた。

 写真やコピー物ではないものもある。

 見覚えのあるボーダーの半そでシャツは、首回りが伸びていた。それもご丁寧に壁にピン止めされている。見栄えが悪くなったからと捨てたのはいつだっただろうか。

 それだけではない。

 使用済みの紙マスクや、まとめて捨てた学校のプリント類。踵の破れた靴下。履き心地が悪かったボクサーパンツ。記憶に残っていない丸められたティッシュ。

 全身から、血の気が引いた。

 動悸を感じながらドアを振り返る。もう殴る音はせず、不気味なまでに静まり返っていた。

 司は想像する。コトリは――コトリの中の『それ』は、ドアにぴったりと耳をつけているのではないか。コレクションにどんな反応を示すのか知りたくてたまらない。モノ経由でしか味わうことのできなかった司を、音で貪ろうとしている。

 しゃがみ込み、頭を抱えた。

 あごに力を入れ唸り声をかみ殺す。震える両手で頭を抱える。いろいろなものがこみ上げていた。怒りも恐怖も屈辱も、得体の知れない気持ち悪さも。今にも大声で叫びだしそうだが、『それ』にとってはご褒美にしかならないことは分かっている。

 だから必死で激情を堪え、心の中で唱えた。

 ――考えろ考えろ考えろ。

 状況を好転させる方法を。コトリを傷つけずに無力化する方法を。

 まずは現状を把握するために、考えを整理していく。

 おそらくここはヒノノメの部屋だ。彼は紗雪から聖司人形を買い取ったあと豹変した。妻を殺し、今日この日のために周到な計画を練って準備をしたはずだ。とすれば、この部屋は今日に至るまでのヒノノメの心理状態を反映しているのではないか。

 改めて部屋を見渡す。

 この企てが司に対する執着から生まれたものであることに間違いはない。元凶が紗雪であり、死後は霊的に強い存在になれると自負しているならば、ヒノノメや黒川に自分を殺させることも可能だ。その後に司を殺すことで自分のフィールドに持ち込み、人形婚を挙げて、完全に自分のものにする。

 ――「大して力のない霊は、上位の者に取り込まれて利用されるのがオチでしょう」。 

 聖一の言葉を思い出す。つまりそれは司の未来予想図でもあるのだ。ここで死ねば紗雪に取り込まれる。死後という終わりさえ奪われた世界で。

 ――死んでたまるか。

 これ以上は思い通りにはさせない。必ず生きてたどり着き、聖一に手を出したことを後悔させてやるのだ。

 ――だけど、コトリを傷つけるわけにはいかない。

 彼女を殺すのは黒川よりも簡単だろう。しかしそれは駄目だ。どうにかして自由だけを奪いたい。

 ――そのために使える「何か」を探さなきゃ。

 この部屋に来たときのことを思い起こす。ドアノブが壊されていた。つまり誰かが入ることを想定していない部屋なのだ。ほかの場所とは違い、何か役立つものが可能性がある。

 ゴミの鱗以外に目を向けた。

 左手のベッドは荒れていた。シーツはくしゃくしゃで薄汚い染みが付いている。正面は窓があり、左奥の壁際には、テレビがベッドから見やすい向きに置かれていた。テレビとベッドとの間には、ソファが置かれている。

 右手前の壁際に置かれているのは収納棚だ。全てのセクションにドアが取り付けられ、中身が見えないようになっている。下半分のドアを開けると、カップラーメンや菓子、割りばし、缶ビールがぎっしりと詰まっていた。家と人形には金をかけても、食費にはかけないタイプのようだ。

 唐突にドアがとどろく。

 棚を探っている指が跳ねた。司はそんな自分に舌打ちをする。泣き喚く声が聞こえず期待外れだったのか、コトリが再び金槌で連打し始めたらしい。

 ――このままじゃ、蝶番が壊れる。

 打撃音には金属的な響きがあった。金具を壊されれば分厚い扉もただの板だ。

 ――早く準備を整えなきゃ。

 棚の上のドアを開ける。クローゼットだ。ハンガーに吊り下げられた男物の服に、両腕を突っ込んで引っ掻き回す。服以外にはベルトとネクタイがあった。

 ――これは使えるかもしれない。

 手に取ってベッドに走る。布団と毛布を引きずり下ろした。約二メートルほどドアから離れた正面に毛布を敷く。布団はさらにドアから離して敷いた。ドアと毛布と布団を一直線に並べたことになる。ネクタイはポケットに詰め、ベルトは布団のさらに奥に置く。

 ガキン、と嫌な音がした。連打されていたドアが傾いている。

 ――早くしないと……!

 急いで缶ビールを二本取る。壁に駆け寄り、無造作にシャツと写真を画鋲ごと引きはがした。ドアは司の心臓とリンクしたかのように強烈に脈打っている。画鋲を抜き取り、缶ビールの上面に力いっぱい突き刺した。

「くっ、固い……」

 缶に刺さっていかない。司はもうひとつの缶を金槌代わりに、力いっぱい叩いた。ちょうど六発打ち付けたところで無事刺さる。今度は二つの缶を逆にして、二本ともに画鋲を突き刺した。

 上の蝶番がはじけ飛ぶ。あとひとつで完全突破だ。

 布団の手前、ベルトが置かれた位置に行く。スマホをドアに向けた状態に保てるよう窓枠に立てかけた。光量は最大だ。

 両手に先ほどのビールを持ち必死に振る。泡が立てば立つほどいい。額にうっすら汗がにじんでいた。まるで子供のイタズラみたいだと司は思う。こんなことに命運を託さなければならないのだから、苦笑いするしかない。

 ガチン!

 蝶番はその役割を終えた。ドアが自由になる。

 とどめの蹴りを食らわされ、長方形の大板は司に向かって倒れてきた。

 突風が前髪を跳ね上げ、額があらわになる。

 ぽっかりと開いた大穴から女が飛び出した。一足飛びに司を狙う。理性を失ったがゆえの瞬発力か。しかし、いくら取り付かれていても着地なしには進めない。

 コトリの右足が着地する。毛布の上だ。

 体勢を整える暇を与えず、力いっぱい毛布を引いた。

 コトリがぐらりと揺れる。勢いに乗った身体がバランスを失う。しかしそれだけだ。廊下のときと同じく、驚くべき身体能力で立て直す。

 ――踏み留まった!

 頭を突き出して突進する様は獣だ。鉤爪のように怒らせた手指が、まっすぐ司へと伸ばされる。

 その間一メートルだ。たった一歩で決着してしまう。

 反射的に身を引いた。ビール缶を構え、爪の先で突き刺さった画鋲を外す。

 細い穴から勢いよくビールが噴き出した。

「ぐっ!」

 即席の目つぶしが顔面にヒットした。コトリは顔を背けて腕で拭う。炭酸は目に染みるだろうし、痛みを無視できたとしても、視界は極端に悪くなる。

 脇に用意してあった布団をかぶせた。あのコトリから猿のような悲鳴が上がる。布団越しに押さえつけ、両手両足を無力化する。

 そのまま布団で包み込むようにひっくり返す。布団から出ていた首が激しく振られるも、身体の抵抗は弱まった。聖一が協力してくれているのか。

 奇声を上げる口にネクタイを丸めて突っ込む。舌を噛ませないためだ。コトリの命を盾にされてはたまらない。

 次いで、圧し掛かったままコトリの上で方向転換した。足の方を向き、床に置いてあった三本のベルトを拾う。一本はそのままふくらはぎ辺りにくぐらせ、布団ごと締めあげた。尻の下では、司を振り落とそうと必死にもがいている。あと少しだ。

 残り二本のベルトを留め具部分を使って連結させ、今度は胴の下にくぐらせる。足と同様に胴を縛ることができた。

 ――これでもう大丈夫だ。

 そう思った矢先、コトリから力が抜けた。せわしなく立てていた喚き声も止み、ぐったりと首を垂らす。

 ――どうしたんだ?

 立ち上がり、距離を取ったまま考える。近づくべきか。しかし急に襲ってくるかもしれない。そうなったところでもう危険性はないが。

 ――罠か? それとも窒息?

 無我夢中でここまでやった。口に詰めたネクタイが喉を塞いでしまったのだろうか。コトリの細い喉に空気が通る充分な隙間が開いている保証はない。ここで彼女まで失うことだけは嫌だった。

 ――猿ぐつわだけ外した方が……?

 思案している間に、コトリが静かに口を開けた。ストライプ柄のネクタイがゆっくりと舌で押し出される。濃いピンクの唇から、透明な糸を引いて零れた。

「……なんで」

 力なく咽る。司は視線を向けたまま、窓枠に置いたスマホを取った。

「なんでこんなことするの?」

 ライトの中の彼女は怯えていた。恋人に裏切られたような、哀しい目で見上げてくる。

「司、やめて。なんでも言うこと聞くから」

 本当にコトリか。見分ける手立てはないのか。もしかして、とんでもないことをしてしまっているのではないか。

「お願い、殺さないで……」

 頬が赤い。恐怖に細められた目から光の粒が流れ落ちた。

「……コトリ。正直に答えてほしいんだけど」

 近づき、横たわる身体を跨ぐ。ゆっくり顔を近づけていく。

「僕のこと好き?」

「好きよ」

 即答し、媚びるように目を細める。

「本当なの……だから司、お願い」

 落ちていたネクタイを再び口に突っ込む。今度は吐き出されないよう、自分のネクタイを外して口に噛ませ、後頭部で縛った。

「本物のコトリなら罵倒してるとこだよ」

 女の顔が歪んだ。今まで泣いていたとは思えない愉悦に満ちた表情だ。理性的な彼女とはかけ離れた、下品で邪悪な笑みだった。

 司は確信する。『この女』こそが災いの源だ。

 ――「今度こそ幸せになるの」。

 とっさに振り向く。誰もいない。廊下へと続く四角い穴が、うつろに口を開けているだけだ。

 立ち上がり、ドアのあった場所へと向かう。部屋を出る直前に振り向いたが、そのときにはもうコトリは静かになっていた。ぐったりと頭を床に預け、身じろぎひとつしない。

「……必ず迎えに来るから」

 言い残して部屋を出る。

 目指す場所は決まっていた。


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